だから俺は働かない

 死ぬのは嫌だ。けど、長生きすることに興味はない、と壁に背中をつけ、床上で両膝を抱えた姿勢で博史は考える。


 年老いて、何もかもを他人に頼るようになったら、それは人生の潮時、幕引き、退場に備える合図だ。本当の意味で人生を楽しめるのは、自分の意思で身体を動かせているうちだけ。やりたいことができる時間は限られている。なのに、やりたくもないことをやるのは馬鹿げている。


 貴重なものを無駄にしているという意味では、金をドブに捨てているのと変わらない。有限なのだから、自分の望むように使うべきだ。


 だから俺は働かない。


 己が支払う体力や時間という代償に対し、業務から受ける精神的、肉体的な苦痛と得られる利益を天秤にかけた場合、自分にとってはどちらのほうがより重要で価値が高いのか。


 どこの誰とも知れない人間と何時間も一緒にいるだけでも苦痛だというのに、その他人と一つ所に留まって毎日同じような作業を繰り返すなど、とても正気を保てる自信がない。精神をむしばむ合法的な拷問にすら思える。


 みんながそうしているから自分も周りと足並みを揃えなきゃいけない。一度でも足を踏み外して地に落ちれば、落伍者の烙印を押されてもう二度と這い上がることは叶わない。かといって、労働に従事しない者は、社会不適合者として蔑まれ白い目で見られる。


 働いても働かなくても辛いのなら、いっそ初めから働かないほうがいい。


 金持ちになって裕福な暮らしがしたいとか、立身出世して地位や名誉を手に入れたいとか、豪華な家や高価な車を買って自己満足に浸りたいとか、スタイルのいい美しくて優しい女性と結婚して家庭を持ちたいとか、そういった王道とも呼べる、誰もが憧れるようなテンプレ人生には興味がない。


 そんな固定イベントだらけの、古臭いRPGみたいな決まりきった人生など、今どき誰がプレイしたがるものか。


 人生は生涯でたった一度しか遊べない壮大なゲームだ。すでにあるルールや攻略法は先発のプレイヤーたちが敷いたもの。本来は従う必要なんてないし、攻略法に関しては往々にして参考にすらならない。なぜなら、プレイヤー全員にそれぞれ違ったエンディングが用意されており、過去の攻略法が今も正しいとは限らないからだ。


 ルールに従って愚直にプレイするだけだと、このゲームはクソゲーになりかねない。頭をまわし、チートやレアアイテムを上手く使い、受けるダメージを極力抑え、時代の流れに合わせて戦略を変えながら攻略するのがコツだ。


 親というリミット付きのレアアイテムは使えるだけ使う。労働しなくとも生活できるよう、アイテムの効果が有効なうちに不労所得の基盤を作る。


 金と時間の無駄だと気づき、大学は三年前に辞めた。念のためなどと、自分の攻略法がうまくいかなかったときの、いわば保険のような感覚で弱気に進学を選んだのがよくなかった。


 それでも、高校時代から地道に取り組んでいたネットビジネスが、最近になってようやく利益を生み出しはじめた。安定した収入が得られるようになれば、人生において生涯つきまとう、労働という最も厄介なイベントと収入という悩みを纏めて始末できたことになる。


 これでクソゲー回避はほぼ完了。あとは長い長い人生を好きなように楽しめばいい。だから、ウェブ小説なんてものは、俺にとってはただの暇潰しの一つでしかない。


 暇だから書いてみた。そしたらランキング上位に入って書籍化の打診が来た。それで来てみたら監禁されてデスゲームに強制参加させられた。何これ、おもしれー。そう思っていたら他の参加者が死にまくり。しかも判定結果で最下位。ヤベェ、次は俺が死ぬかも、が現在の心境。


 暇潰しで書いた小説が死を招こうとは誰が想像しえよう。風が吹いても桶屋が儲からないパターンだ。


「椅子に座れないんじゃ書けないっつーの! どうせ新しいの頼んでも、アレがシュバッて出るんでしょ? 鉄のベルトみたいなやつ。あんなの出ると思ったら座れないって! てか、刺さったらどうすんだよ。あー、立ったままだとキー打つのダルいんだよなぁ」


 スマホで書くという選択肢はない。文章を打つときに画面半分がキーボードで隠れてしまい、前の段落との繋がりが見えづらいうえ、操作性も悪くてまるで執筆が捗らないのだ。


「あ、そっか。ねぇねぇ、ワイヤレスキーボードある? あと、スッゲーふかふかのクッションとめっちゃデカイソファも。でもそれだと、ノーパソのほうが楽かなぁ? じゃあ、とりまそれ全部」


 注文の品が現れるのを待ちながら唸り声を上げていた博史は、「残り二十八万字強を二十九日と」と呟くと、右手の壁のモニター上部に表示された『16:47:17』という数字を見やり、「約十七時間以内に書き上げなきゃならないのか」と続けた。


 そもそも、椅子に座ろうが床に寝そべろうが関係ない。どちらにせよ罰は下る。それは判定結果が出た少しあとに、酸らしき液体を浴びて死んだトテチテという女性で証明された。が、心理的な抵抗が強いせいで、特に椅子には座る気になれないでいる。


 加えて、トテチテが死んだおかげで疑問も生まれた。現在モニター内で施術を受けている女性は誰なのか、という疑問だ。


 発表された結果から画面内の男女は、自分と同率最下位の皇とトテチテだと思っていた。だが違った。


 となると、参加者のうち女性と思われるのは『くれない朱音あかね』のみだが、トテチテのように性別不明な執筆名を与えられた者もいるため、名前からの判断に百パーセント頼ることはできない。それに、紅朱音はランキングで暫定ざんてい一位の人物だ。一位が罰を受けるなど理屈に合わない。


「はぁ……マジ、イミフー」


 博史が嘆息を漏らしたところで、向かい側の壁に大型の冷蔵庫を横倒しにしたほどの空間が開き、厚みのあるクッション付きの白いソファがり出してきた。ノートパソコンとキーボードがのっているのも見える。


 隠しルールに記載のあった、制限時間内に更新すべき文字数、つまり二十四時間以内のノルマである一万字はすでに達成して投稿済みだ。残りの執筆を急ぐ必要はない。知りたいのはポイントの獲得方法である。そういえば、判定結果に何か書かれていたが、寝起きだったせいもあってよく覚えていない。


 壁で背中を支えながらのろのろと立ち上がり、ふらつく足取りでソファへ向かっていた博史は、唐突な尿意に襲われて「ちょ、あのさー。トイレ行きたいんだけどー」と声を上げた。何杯もコーヒーを飲んだせいか。


 ひょっとするとドアが開くかも、と博史は淡い望みを持って立ち止まり、左の壁に見えるノブのないドアを見つめた。が、いくら待っても解錠の音はしない。


「ト、イ、レ! トイレに行きたいんだってば。ねぇ、聞いてる? まさか、ここでそのまま」


 何かの稼働音らしきものが聴こえ、言葉を切って背後を振り返る。左斜め後方の角の床が四角く畳一畳分ほど開いている。見ていると、そこから大きな物体が迫り上がってきた。


「あれ? 今さ……てか、え? さっきもそうだったような……んー。マジか」


 天井まで伸びた巨大な角柱状の物体へと近づき、ドアを手前に引いてなかを覗いてみると、蓋の閉まった洋式便器が見えた。一般的な家庭用の水洗トイレのようだがタンクが見当たらない。おそらく仮設トイレと同じく、便器の真下に便槽があるタイプなのだろう。


「動いちゃうんじゃ配管はムリだもんなー」


 用を足してトイレから出た博史が後ろ手にドアを閉めるなり、再び大きな稼働音が背後で鳴りだした。振り返ると早くもトイレが床へと沈みはじめている。


「ウェットティッシュちょーだい」


 お爺ちゃんに案内されてこの部屋へ来るとき、エレベーターで下の階へと降りた感覚があった。どのくらい降りたかはわからない。数階分だった気もするし、長い一階分を錯覚しただけかもしれない。


 ともかく、床の下にも空間があり、少なくともそこはこの部屋と同等の高さがあることだけは間違いなさそうだ。


 天井から降ってきたウェットティッシュの容器を拾い、数枚抜き出して両手を拭っていた博史は、トイレが完全に床下へと消えたあと、数十センチメートルほどの隙間が見えてから床材が閉じることに気がついた。


 さっきもそうだ。壁が開いてからソファが出てくるまでに、数秒の余裕と身を滑り込ませられそうな隙間があった。あの隙間から脱出してはどうか。たしか、ルールにも隠しルールにも『退室禁止』はない。


 馬鹿みたいだ。時間を操作するようなチート野郎相手に、真面目に作品を書いていた自分が、である。やはり、ルールに従って愚直にプレイするだけではダメだ。もうこんなショーになど付き合っていられるか。やりたいことができる時間は有限なのだ。


「あー、あのさー。もう一回トイレ」

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