願うだけで叶うほど夢は甘いものではない
椅子に仰向けに横たわった優香は、荒い息を吐きながら後頭部を持ち上げると、Tシャツを半分ほど剥ぎ取られて露出した、左右の乳房の下部にあたる、縫合が終わったばかりの生々しい傷痕を睨みつけた。
どれほどの時間が経ったのだろう。長かった、ように感じた。だが、耐えた。術中に意識は失っていない。まだ局所麻酔が効いているのか、痛みをあまり感じない代わりに、己の身体ではないような不快感がある。全身がだるい。
唐突に吐き気を感じた優香は、やっとの思いで身を左へ捻ると床へ向かって嘔吐した。手術中、痛みは感じないくせに、患部に物が当たる奇妙な感触が伝わってくるのだけは我慢ならなかった。あんな体験は二度とゴメンだ。
頭を持ち上げ、離れた場所にあるモニター上の残り時間を確認すると、『14:42:05』とある。手術開始から約三時間が経ったといったところか。タイムリミットが表示された右隣の壁には『340』と緑色の数字も見える。
やられた。まさか、ポイントだと思っていた『1660』が、おかめ面の言う負債だとは考えもしなかった。しかし、これで確証を得られた。実際に獲得したポイントは緑で表示された数字のほうだけで、赤は負債として減点されるのだ、と優香は背凭れに再び上半身を横たえて目を閉じた。
【紅 朱音】
・文章作法に則っていない 370
・規定文字数未到達 300
・程度の低い表現 400
・重複表現 480
四つの判定内容のうち、ルールに抵触したと思われるのは『規定文字数未到達』のみ。他の三つが違反であるとは隠しルールにも書かれていなかった。それなのに纏めて減点されたのだ。なぜか?
あり得る筋書きとしては、後からルールが新しく追加されたか、まだ公開されていないルールがあるか、もしくは読者からの反応が影響を与えているか、あたりだろう。
読者からの否定的な反応。例えば、投稿サイトへ投げられた感想だ。最初に入った『10』ポイントは『文章がゴミ。読むに耐えない』という中傷で獲得したし、残り五件の感想の内容も似たり寄ったりだった。
これらを踏まえると、『文章作法に則っていない』『程度の低い表現』『重複表現』という判定内容は、読者からの報告によって
つまり、マイナスのポイントが入る仕組みには、主催者側の定めたルールに違反する以外に、作品に対する読者の反応が大きく関係している可能性があるということだ。
そもそも、文章作法がどうとか表現がなんだとか、結局そんなものは読み手の好みではないか。創作に作法などという堅っ苦しいものを持ち込まないでもらいたい。それに、程度の低い表現というのも気に食わない。どこの誰が何様のつもりで、どの立場から言っているのだ。表現に高いも低いもあるものか。
などと
大きく息を吸ったところで肋骨に違和感を覚えた優香は、目を開けて縫合痕へと視線を落とし、ゆるゆると右手を伸ばして右側の傷口に触れた。へこんでいるのはわかるが、感触は指のほうにしかない。
ポイントの罠は見抜けなかった。だが、アンケートに対しての考察は間違っていなかったらしい。馬鹿正直に『価値が高いと思う順』で番号を振っていたら、今頃は大変なことになっていただろう。
肋骨なら問題はない。むしろ、ウエストを細くするため、とくに第六と第七肋骨は美容整形で切除してしまう者もいるほどだ。考え方を変えれば、タダで整形手術を受けられて儲けたともいえる。
どちらかといえば、手術痕が消えるかどうかのほうが大きな問題だ。いつか男性とそういった事態に陥った場合、こんな傷のある身体を晒すのは忍びない。まぁ、当面のところ予定はないのだが。
そんなことより、と身体を起こそうとした優香は、眩暈を感じて再び頭を椅子の背凭れへと落として目を閉じた。思っている以上に体力を消耗しているらしい。だからといって、いつまでも寝ているわけにはいかない。
優香は鼓動が落ち着いてから目を開き、ぬるっとした動きで上半身を椅子の上に起こした。首を捻って左手の壁にかかった二つのモニターのうち、執筆画面が映った左側のものを見やり、続けて右側の何も映っていない黒い画面をぼんやりと眺める。
施術を受けているあいだ、そこには女性が映っていた。彼女は濃硫酸らしきものを浴びて顔を溶かされ、白い煙を上げながらしばらく床をのたうちまわり、やがて動かなくなると画面が暗転して消えた。おそらく死んだのだろう。
彼女を死に導いたのは盗作という不正行為だ。トラウマものの断末魔の叫びを聴かされたり、ネット上のグロ動画にも劣らない、残虐な殺人の様子を観せられたりしたにも関わらず、彼女はなぜそのような軽率な行動に出てしまったのか。ひょっとすると何か特別な策を講じており、容易にはバレない自信でもあったのかもしれない。
考えてみれば、連中から提示されたルールには抜けがある。たとえば、四つのルールのうちの『不正禁止』だが、何をもって不正とするかの定義も基準も明確にされてはいない。極端な話、主催者側の匙加減ひとつで、何でも不正とみなすことが可能というわけだ。
それから、隠しルールの『宣伝は自由』というのも、自作品の良い部分を伝える使い方だけでなく、捉えようによっては競合他者の作品を
自分のマイナスポイントは、他の参加者から故意に与えられたのではないのか、と。
無名作家の公開したばかりの作品に、否定的な内容とはいえ、たった数時間のうちに六件もの感想が書かれるのは異常だ。経験上ありえない。SNSに大量に宣伝を流しはしたが、そこからの流入はほぼ皆無である。投稿サイトの話題にも上がっていなければ、誰かがブログや動画で紹介してくれたのでもない。
ならば、六件の感想はどこから飛んできたのだ。アナリティクスを導入しておかなかったのは迂闊だった。たとえ使っても詳細までわからないのは知っている。だが、範囲を絞れるというだけでも大きい。
では仮に、他の参加者が誹謗中傷の感想を送ってきたのだとして、彼らはどうやって私『紅朱音』が、同じショーに出演しているウェブ小説家だと知り得たのだろうか。
視線を落とし、スマホを取り出そうとデニムのポケットへと手を這わす。どちらの前ポケットにも膨らみがない。左を向き、目を細めてトレース台の上を見る。あった。ヘッドフォンのコードが繋がったままだ。
椅子の下を覗き込み、意味もなく己の吐瀉物を確認した優香は、顔を上げてトレース台との距離を目測した。四メートル、いや五メートル近いだろうか。どういうわけか、手術前、椅子が勝手に部屋の中央まで移動したのだ。おかげで、スマホとのあいだに永遠とも思えるほどの隔たりができてしまった。
優香は溜めた息を口から吐き出した後、全身の倦怠感を覚えて今度は鼻息を強く吹き出し、ひとまず椅子から降りようと、身体を右へと向けて床に足をついた。ノブのない白いドアが正面奥に見える。あれさえ潜らなければ、こんな目には遭わなかったのだ。
そうではない。
書籍化の相談などという、ありがちな餌にほいほい飛びついた自分が馬鹿だったのだ。素人が勢いで書いただけの、趣味の領域を出ないインスタントな物語が、
響きは甘美だが、願うだけで叶うほど夢は甘いものではない。
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