成長する影

 気づくと、いる。時間も場所も関係ない。朝でも夜でも。家で食事をしているときだろうが、学校で授業を受けているときだろうが。あれが他人に見えていないのも、人々の反応でわかる。


 はじめは目に入ったゴミか、もしくは光の残像かと思った。黒い点のようなものが、たまに視界の端に点滅する、ように見える。と思っていたのが小学校五年のときまで。


 クラスの末永すえながれんと殴り合いの喧嘩をした日の放課後、黒い点が人の形に変わった。顔面を殴られて、目がおかしくなったに違いない。とは思ったが、視力が落ちたわけじゃなし、あまり気にせず放っておいた。


 喧嘩をした日、ベッドで横になっているうち、末永のことを思い出してイライラが募ってきた。背後から蹴った、などと言いがかりをつけて殴ってきた、末永が確実に悪い。俺はやっていないのだから、非は完全に向こうにある。だから殴り返したまでだ。


 階下から夕食の声が掛かり、ベッドから起き上がって気がついた。目の中にあった人型が、部屋にいることに。手のひらほどの大きさだった。すぐ母親に知らせ、翌日眼科へ行って検査を受けると、診断は飛蚊症ひぶんしょうではないか、ということだった。


 同日、午後から学校に行くと、末永がまたおかしなことを言ってきた。


「もう勝負はついただろ! 嫌がらせすんなよ!」


 意味がわからなかった。俺は何もしていない。また言いがかりだ。頭にきたけど、教室だったから抑えて、「テキトーなこと言ってんじゃねぇよ」って言い返しただけにしておいた。


 末永が行方不明になった、と担任の宇都宮うつのみやに聞かされたのは、さらに翌日の朝のホームルームでのこと。でも俺はあまり驚かなかった。家を出る前、黒い人型が、膝ぐらいの高さに大きく成長していたのを見かけて、俺にはなんとなく、末永がどこへ消えたのかがわかっていたから。


「先生、菊地きくちくんが怪しいと思います」


 訊かれてもいないのに、挙手して勝手に立ち上がって意見を述べたのは、クラス委員の川本かわもと良子りょうこ。何かにつけて出しゃばってくる、あらゆる要素が真面目で構成された、いわゆる大義名分を盾にするうざったい女子だった。


「川本、根拠や証拠もないのに、他人を疑うのはよしなさい。人として恥ずべきことだぞ」


 宇都宮がたしなめたのを「根拠ならあります!」と川本が反論し、俺を指差しながら「一昨日、菊地くんが末永くんを殴っているのを見ました!」と告発した。


「そうなのか、菊地」


「先生、論点がズレてませんか? 俺が末永を殴ったかどうかと、末永が行方不明になったこととの関連性の話なんてしてませんよね? 末永が行方不明になった話ですよね? だいたい、小五の俺に何かできると思いますか? それに川本さん程度が気づけることなら、警察はとっくに気づいて調べてると思いますけど」


 普段は無口の俺が長口上をぶったもんだから、川本も宇都宮も、クラス全員が驚いていた。


「わかったから、菊地もその辺にしておけ。川本も座りなさい」


 川本は勉強ができるが、頭の使い方が悪い。物事の表面しか見ていない。だから、俺が末永を殴ったのを見ただけで、俺のことが怪しいなどと言いだすのだ。どうせ向こうが先に手を出したことも知らないのだろう。もしかしたら、あいつに気があったのかもしれない。


「ともかく、まだ詳しいことはわかっていないので、憶測や勝手な想像で妙な噂話を広めないこと。いいか、川本」 


 宇都宮に指摘され、川本が恥ずかしそうに下を向いたのには溜飲が下がった。自分は常に正しい、他人よりも優れている、などと傲慢な考えを持った人間の裏をかき、そんな連中の鼻を明かすのは心地がいい。


「それから、菊地は放課後、ちょっと職員室まで来い。いいな」


 放課後、宇都宮がしたのは説教ではなく、川本の言葉の事実確認だった。俺は信じてはもらえないかもしれないが、と前置きを入れて事実を話した。


「わかった。だが、状況を見ていない先生が、どちらか一方が正しく、もう一方がそうでない、と判断することはできない。誤解してほしくないが、先生は菊地が嘘をついていると言っているのではないからな」


 家に帰ると、奴と喧嘩をしたことを知らない母親が、「末永くん、心配ね」と声を掛けてきた。連絡網がまわったらしい。警察が訪ねてきたのは、その後すぐだ。スーツを着た刑事風の中年男性と若い制服警官の二人連れ。母親はすぐに末永のことだと気づいたようだった。


 刑事ドラマのような事情聴取ではなく、終始なごやかムードで母親とは世間話をし、俺には学校は好きかとか得意な教科はとか、おもに刑事風の男性が他愛もない質問をしてきた。末永との喧嘩の件は一度も出てこなかった。


 十分ほど話して「では我々はそろそろ」と刑事風の男性が立ち上がろうとし、思い出したように「あ、そうそう」と言ってもう一度腰を落ち着け、奇妙なことを言いはじめた。


「つかぬことをお訊きしますが、こちらで中型犬か大型犬を飼われてますか?」


 父親が嫌うのでうちではペットの類は飼っていない。大きさや種族に関係なく、一律禁止となっている。母親は「いえ、うちは主人が動物嫌いで、何も飼ってはいませんけど」と不思議そうに答えていた。


「そうですか。いえね、末永蓮くんの行方がわからなくなった日、つまり昨日の午後十一時半頃ですが、こちらのお宅に動物のようなものが入っていくのを見た、という方がいらっしゃるんですよ」


「あら、野良犬かしら? 嫌ねぇ。庭の扉、閉め忘れたのかしら?」


「まぁ、お宅のまわりは街灯もなくて暗いですし、お心当たりがないのであれば、目撃者の見間違いということも十分に考えられるんですが」


「うちでは全員寝てる時間ですからねぇ。とくに大きな物音も聴こえませんでしたし……でも刑事さん、その動物、ですか? それと末永さんとこのお子さんの行方がわからなくなったのと、どういった関係が」


「これは、失礼しました。ええ、それがですね。その動物、末永さん宅周辺でも目撃されているんですよ。昨日、一昨日と二日つづけて。まぁ、先ほどは中型犬、大型犬と表現しましたが、正確には人の形をしていたというんですよ」


「え? じゃあ、うちと末永さんとこに、泥棒が下見に来たということですか?」


 小五の俺にも母親が見当違いなことを言ったのがわかった。そうじゃない。それなら警察は初めから、まわりくどく動物とは言わずに、泥棒や空き巣などと表現するはずだ。


「いえ、そうではなくてですね。端的にいいますと、人の形で動物のように四足歩行していた、ということなんですが。あとそれと、報告された大きさが、目撃された初日と二日目とで倍ほども違うんですよ。それも初日の奴の大きさは」


 そこで制服警官に袖を引っ張られ、刑事が言葉を切った。最前から居間を彷徨うろついている黒い人型に、ついに彼らが気づいたのかと思い、俺は




「疲れた。コーヒー飲みたい。深煎りのマンデリン。砂糖もミルクもナシでちょうだい」


 膝を折ってオフィスチェアに足をのせた多田ただ博史ひろしは、キーボードがのったテーブルを押して、くるくると回転しながら天井へ向かって言った。


 なんだか稚拙な執筆名もらっちゃったな、と画面左上の『屍蝋しろう 兇夜キョウヤ/ホラー』という文字列が、視界の右から左へ何度も流れていくのを目で追いながら、博史は大きく長い溜め息をついた。


「それにしても白いなぁ。壁も床も天井も。モニターも椅子もキーボードも。白が好きなのかな」と誰にともなく呟く。キーボードの右隣にマグカップが現れ、椅子の回転を止めて「コーヒーは、白くないや」と覗き込んで確認する。


「動画の人、もうどっちも動いてないなぁ」モニターの左隅に、和泉と櫻庭だった残骸が映っている。分割された画面右に映る和泉は、腰から下の下半身が消え失せており、画面左の櫻庭の身体では、股から鳩尾みぞおちの辺りまで斬り込んだ鋸が、未だ進行をやめずにゆっくりと動いている。


「そりゃ、身体が半分になったら、死ぬよね? てか、もう動画いいよ。飽きた。動いてないし。鋸は動いてるけど。なんで消せないわけ? 動画、消えろ! やっぱ消えねぇし。邪魔だなぁ。視界にチラチラ入って集中できないんだよなぁ」


 不満はまだある。


「あのさー、部屋明るすぎて落ち着かないからさー、もっと暗くしてくんない? こんなんじゃさー、最高傑作なんて書けるわけないじゃーん。ちょっとー、おかめの人ー」


 作品を書籍化するという口実で呼び出され、ショーと称するデスゲームに参加させられたのは別に構わない。毎日退屈してたし、むしろ面白いじゃないか。この状況で軽率な行動をとるなんて、死んだ二人は馬鹿だ。こういうとき、ドラマや映画で生き残るのがどんな人間か、小説家なら知ってて当然だろ。


 ライトの照度が徐々に落ちてきたのに気づいた博史は、「そうそう、もうちょっと暗くー」と言い、「あ、あとさー。ケーキ! てか、ミルフィーユ食べたいなー」と弾むような調子で言った。

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