天使のたまご

ラブテスター

天使のたまご

『これは天使の卵です。1週間以内に他の誰かにこの卵を転送しないと、あなたは不幸になります。』




 ——ネットの友人で、無職引きこもり仲間でもあったレオン君が死んだ。

 自殺かとおそれたが、そうではなかった。

 一人暮らしのところを病気か事故で急死し、

 その遺体が腐敗臭で見つかったという、

 いわゆる、孤独死だ。

 

 レオン君からは、もう何ヶ月も音信が途絶えていた。

 ——ツイッターも含めて。

 

 

 一度だけ行ったことのある住所を再訪し、ゴミ部屋となっていたレオン君の賃貸の片付けを手伝った。そこで、奇妙な文言の印字されたピンク色の紙を見つけた。

 また、私の手伝いの申し出を心よく受けてくれた大家の老人から、ニュースでは知ることの出来なかったレオン君の最期についての話を聞くことができた。

 レオン君は密室で死んでいた。

 

 遺体発見時、レオン君は——おそらくはかれ自身の手で、可能な限りほぼ完全に――あらゆる隙間が内側からふさがれた、密閉された部屋の中で死んでいた。

 

 

 ***

 

 

 【レオン】部屋に天使がいる

 【忍者キッド】何だ?? 彼女か!? ギルティーーーー!!!!!!!!!!

 

 レオン君の最後のツイートには、今も私のリプライが寒々しくぶら下がっている。

 

 その部屋の実際の有様は、荒れ果てて汚れ、天使がいるどころではなかった。

 しかもその一角には、どれほどの期間ため込んだものか、口を縛ったコンビニのレジ袋やペットボトルにいっぱいの——糞尿、が大小さまざまにおびただしい量並べられていた。

 私は汚物の後始末を率先して行った。その横で、大家の老人が、部屋を文字通りの密室としている偏執的な目張り——ガムテープ、溶けたティッシュ、そして大半を占める、からからに乾いた米粒の塊を、すべての隙間からがし掻き出すために格闘していた。

 

 そして後日、私の自宅に宅配物が届いた。アマゾンかと思って受け取った。

 開けてみると全く違った。箱の中からはたっぷりのおがくずと、その中に埋められたピンク色の卵がひとつ出てきた。それと、見覚えのある一枚のピンク色の紙が。

『これは天使の卵です。1週間以内に他の誰かにこの卵を転送しないと、あなたは不幸になります。』



***



「キッドさんは、自分が結婚とかすると思いますか」


 かつてレオン君にそう聞かれた私は、得意の敬礼と猪木の顔マネで答えてレオン君の手刀を鳩尾みぞおちに受けた。もう何年も前の話だ。

 もう一人のオタク仲間であった、キューポラ君の結婚式の帰りだった。

 私たちよりひと回りは年下だった彼は、アニメもゲームもたしなみはするが、それより古い邦画が好きという変わり者だった。ただ私は、同じ限界オタクなのに結婚相手が見つかるほど自分と変わりがある人間とは思っていなかったため、随分驚いた。

 

 私は思い出す。その結婚式の引き出物に、桜貝のような淡いピンク色の皿があった。

 私は手の中を見る。その皿のような可愛らしいピンク色を、謎の卵はしていた。

 鶏卵よりいくらか大きいそれに耳を寄せると、ほのかに温かい気がした。また、中からオルゴールが奏でる澄んだ音に似た響きが、ときたま聞こえた。

 ——一週間以内にという期限は、私の中で、他の先延ばしにしている公共的な手続きと、それらを優先せねばという焦燥感にまれてすぐに溶けていった。

 

 そしてある朝、私はオルゴールの音楽で目覚め、翼ある少年が中空で微笑むのを見る。



***



 目覚めると、パソコンの前の卵が消えていた。部屋じゅうに桜が散ったように破片が飛びちっていた。夢現ゆめうつつに、何かの破裂音に似た、沢山の鐘が一斉に打ち鳴らされるような音を聞いていた。私を見下ろして、心をとろかすような慈愛のまなざしを見せる、最もかぐわしい頃あいの桃のように色づき瑞々みずみずしい、まさしく紅顔の美少年が、天井ちかくに浮いていた。

 てんし——と私がうめくように声を漏らすと、浮遊するかれはほころばせた唇のさらに暗い奥を見せて、全身の骨に快楽が共鳴するようなオルゴールの爪弾つまびきを響かせた。そのしびれに体を震わし、私はつい、自分の目覚めの屹立きつりつを両の手で抑えた。

 私の意識はかれに奪われていた。かれから目を離すことができなかった。私は不躾ぶしつけな、不敬な欲望と視線でかれをめ回した。その目が一点で止まる。かれのまるい下腹部。そのかげりには、私の知る、男性のあの器官が春に芽吹く青いつぼみのように付いていた。

 見た途端、脊髄に電流が走った。私はそれの存在を奇跡のように、救済のように感じた。だって、「あれなら私にも分かる」。私は、落下するように自分の体がかれへと引かれゆき、また浅ましく自分の手が伸ばされるのを、他人ごとのように見ていた。

 

 ——しかし、水に浮いた風船のようにかれの体は私の腕から逃げた。

 

 私は虫のようにあがいて繰り返しかれに挑みかかったが、同じだった。かれの体は生きた幻のように、何度でも、何度でも私の手をすり抜けた。

 

 

***



 私は部屋の目張りを始めていた。

 天使はまだ私の部屋の上空を舞っている。

 最初私は何日も何日も、一日中、一晩中天使を追いかけては、力尽きるとそのたび気絶するようにその場に倒れて眠っていた。

 あるとき意識を取り戻すと、天使が、すきま風の抜けるガラス戸の端に吸いつきその体を風にはためかせていた。私は絶叫して両手をふり回し、天使を窓際から追い払った。

 どんなに追い詰めてもどんなに小さな隙からでもつるりと逃げてゆく天使が、知らぬ間に外にすべり出てしまう妄想に私はおびえた。全ての隙間をふさいで安心したかった。

 

 低いところには、濡らしたティッシュをつめ込んだ。炊いた米は粘るから高いところにも向いたが、水分量が多くて乾くと縮むので、程ほどのところでもう一度押し込んでやる必要があった。正月に食べ切れず冷凍していた餅もでて使った。

 

 もうかなり外出していなかった。一度コンビニに行くためドアを開けたときに、天使が空気の流れに誘われて私の顔の真っ向まで飛んできて、私は歓喜と恐慌がないぜになった悲鳴で近所から通報された。それからは、ドア自体をガムテープで固めてしまった。

 

 自分が尋常でない状態にあると分かっていた。精神も肉体も、疲労し消耗していた。

 それでも出るものは出るので、ユニットバスの便器で茫洋と排泄していた。力なく尻を拭き、後ろ手で水を流してふと顔を上げると、また天使の顔が目前に迫っていた。

 水流の陰圧に引かれて天使が吸い込まれようとしているのだった。私は泣き叫びながら自分の排泄物がうず巻く濁流の中へ体を上半身ごと突っ込み、排水口に頭をねじ込んで水流を、天使が流れ込むのをはばんだ。

 結局、便器には、タオルや衣類をつめ込んで蓋をビニール紐で縛りつけた。便器が使えなくなったので、私は、コンビニや本屋のレジ袋、そして捨てそびれていたペットボトルに排便するようになった。

 

 天使を追いかける日々は、飛ぶように過ぎていった。いつか日々が過ぎる感覚も無くなった。光が入らず空気もよどんだ部屋で、孤独や、苦痛という感覚すら失われていった。

 

 熟れきった果実のような、大輪の花に顔をうずめたような濃くあでやかな芳香が、部屋に満ちていた。たぶん幻覚、幻臭だった。今この部屋には、私のため込んでいる糞便、さらにそれが腐敗した、おぞましいにおいが充満しているはずだった。

 

 私は、あのピンク色の紙に預言された言葉がどのように現実となるのか、いまや肌で感じていた。いや、私はきっともう、その現実のただ中にいるのだった。

 

 

***

 

 

 美しいものが好きだった。

 そういったものがこの世のどこかにきっとあると思っていた。ずっと、いつまでも求め続けることで、ひとしずくそれに触れることができると信じた。そのためには、他には何もいらなかった。純粋でないなら欲しくなかった。

 そういう話を何度もした。色々なことを、色々なかたちで話したけれど、思えば結局は皆そういう話だった。とても楽しかったが、私たちにはそれしかないのに、いつか体が、心が衰えて、自分が求めることを、待つことすら止めてしまうことを恐れた。

 そうなる前に、あれが訪れた。色あせ始めていた世界に、閉じかけていた憧れに、また血が通い始めた。夢中で何かを追いかけることは、確かに、私のよろこびだった。

 

 私は転がり仰向あおむいて、暗い天井に手を伸ばす。美しいものに、手はやはり届きそうで届かない。私は虚空に声をかける。レオン君。喉は震えたはずだが、声が形になったかが分からなかった。もう耳が聞こえていないのかも知れなかった。

 私は穏やかに思う。レオン君、私は、きみが、不幸と絶望のどん底で悲しみに暮れて死を迎えたのではないかと——そればかりが気がかりで、心配で、怖かった。

 でも、違った。本当によかった。きみは、

 

 

 

 こんなにも、幸せだったんだな。

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