◆2◆ その腕をとって

「き、来た!」


 閉店作業を済ませ、例の田中さんの注文品を作っていた時のことだ。


 あんなことがあった後だ、もしかしたらこの注文だってキャンセルになるかもしれないが、それでも作り始めてしまったのである。もしもの時は店に並べれば良いわけだし、それに、「それはそれ、これはこれ」ということで受け取りにくるかもしれない。


 ぶるりとスマホが震え、弾かれるようにフットペダルから足を離す。


『いま駅に着いた。いまから行くね』


 なんと!

 もう駅に着いてるなんて!!


「む、迎えに行かなくちゃ!!」


 と、慌てて僕は店を飛び出した。

 何かもう今日はとにかく一分一秒でも早くマリーさんに会いたかったのだ。



 駅までの道のりをもどかしく思いながら走る。こういう時、本当に軽くだけれども、たまに身体を動かしていて良かったと思う。昔から父に何度も言われたのである。


「良いか、然太郎。いざという時に愛する者を守れない男は男じゃない。いざという時に動けるように、身体は日頃から動かしておけ」と。


 だから父はいまでもジョギングをしたり、家で出来る簡単なトレーニングをしている。いっそジムにでも通えば良いじゃないかと言ったこともあるのだが、


「そんなところに通ったら、ミヤコとの時間がなくなっちゃうじゃないか!」


 と一蹴されて終わった。

 まぁ、母はちょっとうざったそうにしてたけど。でも、何だかんだいってあの2人は仲が良い。

 

 ああ、いたいたマリーさん。

 いまなら父が母のことを『女神』だとか『スウィートハート』などと呼ぶ気持ちがわかる。うん、マリーさんは僕の女神だ。ああ早く、あの小さな身体をぎゅっと抱き締めたい……いや、でもマリーさんはあんまりそういうのを好まないみたいなんだよなぁ。


「――うん?」


 ぴたりと足が止まる。


 マリーさんが、男の人と話してる。

 何かちょっとシュッとしたスーツ姿の男性だ。くそう、恰好良いぞ。僕、スーツなんて着ないからなぁ。と、抹茶色のエプロンに視線を落とす。しまった、このままで来ちゃったのか。恰好悪いな、僕。


 しかし、誰なんだろう。

 知り合いかな? いや、もしかしてナンパ!?

 マリーさんはされたことなんてない、なんて言ってたけど、今日がその時だったんだ! ああだから言わんこっちゃない! 僕が助けないと!


 あっ、あいつ、マリーさんに触ってる! 何ていうことだ、僕のマリーさんだぞ。

 あと数メートルだ。待っててマリーさん。


「――僕の恋人に触らないでください!」


 本当はもっと情熱的に救い出したかったけれど、何せ僕は全力疾走した後で、この台詞を何とか噛まずに言えただけでも奇跡だったのである。

 

 マリーさんのことを『矢作やはぎちゃん』と呼んでいることから、恐らくは知り合いであろうことが予想されたがそんなことはどうでも良い。恰好良くはなかったかもしれないが、マリーさんを奪還することは出来た。ミッションコンプリートだ。こういう時に英語が出てくるのは確実に父親の影響と思われる。


 一刻も早く店へ――と、歩いていると、「ぜ~ん~た~ろ~おぉぉ」というマリーさんの声が聞こえてきた。


「ちょ、ちょっと、然太郎、歩きづらい」

「え、ああ、ごめん」


 立ち止まると、マリーさんは、「ちょっと一旦良い?」と言って、僕の手を解き、ふぅぅ、と大きく息を吐いている。


「ちょっと余裕がなくなっちゃって、ごめんね、マリーさん」

「良いよ、もう。でも、助かった。まさか来てくれるとは思わなかったけど」

「早くマリーさんに会いたくて。その……僕、変なメッセージ送っちゃったから、マリーさんに嫌われちゃったのかと思って……」

「嫌いになるわけないじゃん。ほんとごめん、ちょっと朝からごたごたしてて返事出来なかった。でも、違うよ? 別に然太郎のこと嫌いになったとかそんなんじゃないから」

「ほんと?!」

「ほんとだよ。嫌いになる理由がないじゃん」

「よ、良かったぁぁぁぁぁ」


 かくん、と膝の力が抜ける。


「ちょ、ちょっと然太郎?」

「ごめん、ほんと情けないやつで。さっきだって本当はもっとスマートに……。ああ、くそぉ、何で全然恰好良くないんだ、僕は」


 こんな道端でしゃがみ込んで、僕は何をやっているんだ。

 ああ、マリーさんが呆れたような顔をしている。こんな顔をしているマリーさんも可愛く見えてしまうのは、これが惚れた弱みってやつなんだろう。


「大丈夫? 立てる?」


 こんな情けない僕にもマリーさんは優しい。

 それで僕はますます好きになるけど、マリーさんの方はどうだろう。ただでさえ年下で頼りないと思われているかもしれないのに。


 差し伸べられた手を取って、よいしょ、と立ち上がる。さっきまで見上げていたマリーさんの顔が、いつものように僕の顔の下になる。


「あの、あのね、マリーさん。ええと、その、今夜会いたかったのは、ポスターのお礼にね、ご飯でも一緒にどうかなって、それだけでね」


 何やら不思議そうな顔で、マリーさんが僕を見つめている。無垢な子どものような目だと思う。こんなこと、大人の女性に言うことじゃないのはわかってるけど。


「マリーさん明日休みだから、ちょっとくらい遅くなっても良いかなって思って、ただ、それだけだったん、だけ、どおおお?」


 息が詰まる。

 心臓が、破裂しそうなほどに強く脈打つ。


 マリーさんが、僕に抱き着いているのだ。

 マリーさんから。

 マリーさんから、僕に。


 知らなかった、人間って、結構簡単に死にそうになるんだな。

 まさかこんな緩い拘束で、こんなにも息が苦しくなることがあるなんて。


「あの、マリーさん?」

「何よ」

「ボディタッチが過ぎるって、昨日……」

「うっさい」


 きゅ、とその拘束が強くなる。お返しだとばかりにその小さな身体を包むように抱き締め返すと――、


「いや、それはボディタッチが過ぎる」

「え、嘘」


 

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