尾羽

 ノーアは自分がこれ程獰猛な気分になれるとは思っていなかった。おれはぼんやりした怠け者、他人からもそう言われていたし自分でもそう思っていた。然るに、今のおれはなんだ? 肉体だけでなく精神も燃え盛っているような感覚。激情を脳髄の何処かが傍観する。レアを死なせてなるものか、。おれはこんなにも傲慢だったろうか? 火の粉を散らしながら疾走する彼をを阻む者はない。もともと人通りの少ない日中であり、一人か二人はノーアの姿を見ると悲鳴を上げて逃げて行く。もしあの中の誰かと今のおれがぶつかったらどうなるだろう。それを実験している暇はない。

 豆粒程の人影がノーアの視界でぐんぐん大きくなり、白い翼を持つ人間として立ちはだかった。ノーアはその人物の顔に違和感を覚えた。使はレアを除いて見た事がない。生体管理官セージュファムラボラスは生来のものらしい陰鬱な表情でノーアを見た。

「あー、やっぱり来たか。そりゃそうだよねえ。厄介事は得意じゃないってのに。えーと、初めまして、ノーア君。私は生体管理局の長にして唯一の職員・ラボラスだ。君の目的は分かってる、」ノーアは最後の一言に苛立ちを感じた。やはりあいつが一枚噛んでいる。何処まで見抜いている?

「だから、まあその、押し問答は無しにしよう。しかしね、私も立場ってものがある。部外者の侵入を見逃すわけにはいかない」

「部外者じゃあない」ノーアは歯を食いしばったまま言い返した。「ここに用がある」

「だぁから、そういうのは無しにしようって。人の話は最後まで聞きなさいって、監督官せんせいに教えてもらったでしょ? 当たり前のように来てるけど、ここ最高機密の施設なんだよ? こっちにも大義名分があんの。だからさ、ここは一つ、力比べをしよう。私と君とで」

 ラボラスが気怠い仕草で片手を挙げた。そこに赤銅色の可視化されたエーテルが集中し、瞬きの間に術式が編まれる。

 ノーアは突然全身が硬直するのを感じた。拘束の術式とは違う、まるで自分の体の形と大きさぴったりに作られた透明な容器に押し込められたような感覚。

「それは拒絶ルジュテの術式。範囲は君に合わせてある。音も光も通すけど、君の周りのエーテルその他を遮断させてもらった。そこから脱出出来たら君の勝ち、出られないまま窒息して倒れたりしたら私の勝ち。まあエルフの処分は私の領分じゃないから、適当に引き渡してバイバイアデュー、って所かな」

 ノーアは相対するラボラスの腕を睨んだ。そこに火が灯るのも束の間、赤銅色の術式が炎を取り囲むとあっという間に鎮火した。

「違うんだよなあ。君がやるべきは私を燃やす事じゃなくて、その檻から出る事。悪いけどこんなので怯まないよ。私はアンドレアあいつほど多芸じゃないけど、これは護身術みたいなものだから」

「なあ」

「うん?」

「さっき、誰に引き渡すって?」

「そりゃあやっぱり監督官でしょ。ここの管轄はアンドレアだから、あいつに」

 断末魔の絶叫めいた破砕音を立てて術式が弾け飛んだ。ノーアのがいや増したのだ。ラボラスの呆れた顔に飛沫のような術式の破片が降り注いだ。

「いやいや、結構気合入れて作ってあったんだよ? 普通はそんな、出力上げただけで壊れないよ。どんだけ出鱈目な火力をしてんのよ。もっとこう、力を一点集中させるとかさあ」

「御託はいい。あんたが言った事だ。レアは何処にいる」拒絶から一転して周囲のエーテルを取り込みながら炎は勢いを増す。さながら炎の巨人といった具合だ。

「あー、はいはい。分かった分かりました。降参。あれ壊されたら次なんかないよ。レアちゃんはここの真ん中らへん。速く行きなよ、あの悪食が今頃骨の髄まで腹に収めてるかもしれないし」

 ノーアは爆発的な跳躍で示された高さに移動し、体当たりの要領で壁をぶち破って突入した。ラボラスがそれを見送った。陰鬱な表情はさらに暗さを増した。

「はあ、壁だって金がかかるのに。修理費、出るかねえ。あの世間知らずのリアになんて説明したらいいかな……」





 炎の勢いに比例してノーアの感覚も鋭敏になり、最早第六感の領域にまで達していた。直線の廊下、一番奥の右手の部屋――人がいる。ラボラスは自分を唯一の職員と言っていた、部外者の立ち入りは禁止だとも、ならばここにいるのは。

 押し開けようとした扉は高温で溶解し彼を阻む事は出来なかった。

 屈みこんでいる背中があった。それはゆっくりと立ち上がりこちらを向いた。

 にこにこと、心底楽しそうに笑う監督官アンドレア。しかし何処かがおかしい。一体何が――と視線を巡らせて、その背後に目が止まった。

やあハロー恋に悩む若者よユンガー・ヴェルターまた会えて嬉しいですイッヒ・フロイエ・ミッヒ・ドゥ・ヴィーダー・ツー・ゼーエン私の言う事が分かりますか?フェアシュテースト・ドゥ・ミッヒ 私は地族語エーアトシュプラッヒェも貴方より得意だと自負していますよ。ただ漫然と使うのではなく、理論立ててローギッシュ学んだのですから」

「そんな事はどうでもいい。レアは」

「心配しなくてもここにいますが」アンドレアが少し体を横にずらすと倒れ伏すレアらしき姿があった。

 どす黒く粘っこい液体がその髪を、服を、肌を汚していた。翼は惨憺たる有様で、羽根がほとんど抜け落ちて生白い皮膚の色が露わになっている。

「ほら、ノーアが来ましたよ。ご挨拶しなくては」アンドレアが悪戯っぽく笑いながら俯せだったレアの顔をノーアに向けさせた。

 白濁した両目と瞼の間から全身を汚すどす黒い液体がとめどなく溢れていた。痙攣にも似た震えが滴る黒をあちこちに飛ばしていた。

「いたい……いたい……いたいよう」幼い子供のような語調はその場の誰にも向けられた言葉ではなかった。しかしそれは間違いなくノーアの胸を抉った。

 レアの名を呼びながら前に踏み出そうとする彼の前にアンドレアが立ち塞がった。

「どけ。丸焼きにするぞ」

「おやおや」道化の冗句ジョークを聞いたように天使アポートルはくすくす笑った。「貴方は随分とせっかちだ。

「……は?」何故、ここで両親が出て来るのか。

どうしてヴァルム、って顔をしている貴方に教えてあげましょう。。二人は中央セントラルの出身だったのです。教えてもらいませんでしたか?」

 母の言葉が耳朶に蘇る。それと同時に様々な要素が繋がりを持ち始める。両親がどれ程処罰されても禁術の研究をやめられなかったのは、彼らが突然いなくなったのは、あの本は何処から現れたものだったのか――

「――全部、あんたが仕組んだ事だったのか?」ノーアは一瞬怒りさえ忘れた。

「さて、何の事やら。今はその問答をするために貴方を呼んだのではありません。貴方には証人として立ち会ってもらいたかっただけですよ」アンドレアは何処までも涼しい顔だ。腰から伸びる器官が扇形に展開する。それはだった。緑色の扇の中にが開いていた。異形の天使は壁に凭れて足を投げ出したレアに向き直った。

「さあ、私の質問に答えなさい。レア、書記官ルフルの成り損ない。貴女に自壊ブリゼ=トワの術式を打ち込んだのは貴女の本体とも言うべき存在。貴女には未来はない、捨てられた人形。貴女を襲う痛みはやがて安らかな死を齎すでしょう。それでもその痛みに抗い、死にたくないと、生きたいと願いますか? もしそうなら――自分が何者か知りたいと叫べShout it "I wanna know who I am"!」

「わ――わたし、わたしは――」焦点を結ばぬ目が忙しなく揺れる。がくがくと震える痩身は喋るだけでも一苦労である事は明白だった。

「わたしは、死ぬ――のが怖い、いやだ、生きたい、! わたしは自分が何者なのかwho I am知りたい!」

 ノーアは呆気に取られた。レアがこれ程感情的な声を上げるのを初めて聞いた。

 アンドレアが破顔した。両の手を打ち鳴らしてレアを称えた。

よろしいビアン・ジュエ。ならばそれに応えてあげましょう」掲げた片手に葡萄色の鋭角が編まれる。ノーアが止めに入るよりも早くその剣はレアに振り下ろされた。

 レアの墨のような涙が途切れた。ふうっと一度息を吐くとレアは目を閉じ、全身が弛緩した。

 ノーアが慌てて彼女を抱き起すのを、アンドレアは目を細めて眺めていた。

「ご心配なく、打ち消しアンニュラシオンの術式を施しただけです。死にはしません。」孔雀は溶けた出口を優雅に指した。

「連れて行って良いですよ。諸々のについては、また今度ゆっくり話して差し上げましょう」

 ノーアはどうにかレアを抱き上げ、運ぼうとして――意識がぷつりと途切れた。





 ラボラスが火の気配が消えたのを感知して後を追うと、床に倒れた二人の傍で狂った笑い声を上げるアンドレアがいた。

「壁の修理費さあ、あんたからも頼んどいてよ。これじゃ機密も何もあったもんじゃない」あと扉の分も、と彼女はいつも通りの気怠い調子で言った。四六時中笑っていられる目の前の同胞が少し羨ましく思えた。ほんの少しだけ。

「まさしく倒れたんですよ! 事さえ知らないこの子供は! 傑作ですよ、この為だけでもこの子を生かしておいた価値があるというもの!」アンドレアはノーアを指差した。

「こんなに楽しい見世物を見せてくれたお礼に、彼らを安全な所へ運んでやりましょう! 姿を知ってもなお彼女を愛していると言えるか楽しみですね、ええ心から!」

「一人で盛り上がるのはあんたの悪い癖だ。修理費、忘れないでよ」アンドレアの笑い声が響いて頭が痛む。ラボラスは内心羨ましいと思った事を取り消した。

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