保安要員

 エリヤは飛翔機管理の仕事に当たっていた。小振りなハンマーで術式の搭載されている箱を軽く叩く。何かしら異常があると音は耳障りなものになる。そうしたら斜め掛けのカバンから使用禁止Utilisation interditeの札を取り出して掲げておく。自分で修理出来ればもう少し効率が良くなりそうなものだとエリヤは思う。獣人ヴェアヴォルフ――天族語ラングドセレストではルーガルーと呼ばれる彼ら――は細かい作業に不適であり、そもそも術式についての知識はそれ自体が機密情報閲覧資格セキュリティクリアランス違反になる。それでもかような仕事があるのは彼らの耳や鼻のためだった。エルフアールヴよりも高い探知能力は天族セレスティア達にも勝る。そもそも公用の飛翔機は膨大な数があるのだ。一台につき四つの箱、それら全てを調べて回るだけでも一日がかりの仕事になる。それにしてもなあ。もうちょっと冴えたやり方がありそうなものだが、俺には思いつかないのだ。エリヤはそれが歯がゆかった。

 不意に彼の聴覚と嗅覚が自分以外の人間を捉えた。入り口、汗と荒い吐息、緊張状態。自分に用があるのだろう。エリヤは滑るように車体の群れから飛び出した。

「エリヤ! 技師の息子エリヤエリヤ・アンジェニウルゾーンはいるか!」

「ここに」相手は竜人メリュジーヌの男。よく知った顔だ。「ですか」

「他の用で呼んだ事があるか? 早く来い。現場検証だ」

 エリヤはカバンを下ろした。彼の仕事はもう一つあった。保安要員だ。






 保安要員は、普段はそれぞれ他の仕事を持っている。という題目スローガンのために保安専門の職員は存在しない事になっていた。その割に平和維持軍という軍隊はそれなりの規模で在るのだが誰もそれを指摘しなかった。にはこちらの理屈は通じないのです、とは各地の訓導セニャールが皆一様に悲しげに眉根を寄せて言う言葉。

 警備や警邏もいるが、彼らではなくエリヤのような者が呼ばれる時は決まっている。

 既に起こってしまった事件に対してだ。





 その部屋は入り口が開け放たれているのですぐに分かった。死臭、そして濃厚な血の匂い。エリヤはかつて天使アポートルが住んでいたという一室に踏み入った。

 吐き気がするほどの生臭い匂いに思わず鼻を覆いたくなる。死体は運び去られていたが実に夥しい血が一面に広がり、乾いていた。始め彼は壁の血を飛沫しぶきと思ったが違った。のたうつ蛇を思わせる雑な書体で何事か書いてあった。

 『Shout it I wanna know who I am』

「何だ、これは……」血文字に指で触れる。乾燥しているため手が汚れる事はなかった。代わりとして壁に舌を這わせる。血に含まれる成分から読み取れるのはそれが被害者の死後に書かれたものという事くらいだった。激烈な恐怖と困惑が広がる。それらが解消されぬまま殺されたのだ。

 遅れて竜人の男――保安班長リヴァーンが入って来る。「どうだ、何か分かったか」

「これは何と書いてあるんです」エリヤは壁の血文字を指した。

「お前が知ってはいけないものだ」班長に睨まれてもエリヤは怯まない。とっくに慣れたものだからだ。

「意味くらいなら構わないのでは?」

「――『自分が何者か知りたいと叫べ』。とっくに使われなくなった言語の知識がおれにあって良かったな、ええ?」

「ありがとうございます。血は一種類、被害者ガイシャのものだけです。恐らく犯人ホシは不意打ちで相手の体を動けなくし、意図的に出血の多くなる部位を狙って攻撃したと思われます。そして、出血多量で死んだ被害者の血を使って壁にアレを書いた……と思います」

「犯人の目的は」

「はい?」

「何のためにお前を呼んだと思ってるんだ。そんな推理は阿呆イディオでも出来る。汗やら揮発した成分からその人間の精神状態を割り出せと言っとるんだ」

 知るかそんなのダー・フラークスト・ドゥ・ミッヒ・ツーフィール、と返したくなった。「それなら玄関を閉めておくべきでしたね。外気と混ざってもう分からなくなっています」怒りはどう見ても目の前の男から発揮されている。

「もういい、帰れ。いつも通り、事件ヤマの事は誰にも言うなよ」

「はい。失礼します」班長の右の拳が震えていた。エリヤは言うが早いか部屋から出た。帰途――この場合はさっきまで点検業務にあたっていた車庫へ――についてエリヤはため息を吐いた。証拠を保全するという観点から見れば現場の保存状態は最悪だった。獣人じぶんたちの嗅覚や味覚について他種族の理解は圧倒的に足りていない。しかしそれも仕方ない事なのかもしれない。あの班長だって本来は新兵を鍛え上げて前線へ送るのが本業だ。エリヤはこの件について考えるのをやめた。

 道すがら、ふと壁にあった言葉を思い出した。「自分が何者か知りたいと叫べ――」それを書いた者は何を思っていたのだろうか。死語で書いたのならそれなりの知識階級の仕業しわざだろう。エリヤは車庫に戻ってからもずっとその言葉の真意を考えていた。単語がばらばらになるまで舌の上で転がし続けた。

 自分が、何者か。

 答えは見つからなかった。

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