第十話『Lock, Stock and Barell(一切合財)』①

 それは夕方……。

 傾いた日差しが倭帝国の大都市を黄金色に染め上げた頃。

 クルーニー財団が運営する都内の総合両院別棟も、その巨大で長い影を地上に落としていた。

 陽の光はなお一層、金盞花が揺れる空中庭園を紅く輝かせていた。そして、その陽を背に真琴はゆっくりと歩を進めていた。

 真琴の歩みに合わせて、その日の役割を終えようとする金盞花が風に揺れている。

 真琴の視線の先には庭園の瀟洒なベンチに腰掛け、本を読むニーナ・クルーニの姿が在った。

 ニーナは本へ視線を落としているが、ピンクのドレスに縫い込まれた『眼』は真琴の一挙手一投足に反応し、キョロキョロと蠢いている。

 そして、ニーナの横ではアスタロト・アルビジオスが直立不動で日傘を差している。


 パタン。


 本を閉じると、ニーナは真琴を見た。


「覚悟を決めたようね、真琴ちゃん♪」

「……」


 真琴は無言で頷いた。

 『どんな事をしても雅を助ける』と心に誓ったのだ。

 今はもう、迷いは無い。

 真琴はニーナの元へと歩を進めた。


「そうだよね!! やっぱりお友達同士は助け合わないとね!!」


 喜色満面のニーナは立ち上がり、真琴を抱き寄せた。

 真琴は一瞬、下唇を噛んだ後、ニーナに聞いた。


「契約って……」

「簡単よ、『ニーナ・クルーニーに永遠の忠誠と貢献を誓う』と言って、わたしの血を啜れば契約成立よ♪」


 ニーナは自身の右手の親指をガリッと、噛んだ。

 ポタポタと鮮血が滴り落ち、空中庭園のコンクリートの床に赤い斑点が出来た。


「さあ、啜って♪」


 真琴はニーナの前にその両膝を着いた。


「わたしは……ニーナ・クルーニーに……永遠の忠誠と貢献を誓う……」


 言い終えると、真琴は目の前にかざされたニーナの手に口を近づけた。

 ニーナの親指からはじわじわと紅い血が染み出ている。

 真琴はニーナの親指に唇を近づけると、その血を吸った。


「もっと、強く吸って♪」


 ニーナは恍惚とした表情で真琴を見下ろしている。

 やがて……。


「もういいわ♪」


 満足そうに頷くと、ニーナは真琴の両頬に手を添えた。


「これで、あなたは立派なわたしのお友達よ♪」


 言葉とともにニーナはそのショッキングピンクで縁取られた唇を真琴に重ねた。

 真琴はされるがまま、ニーナの全てを受け入れようとしていた。それが、藤乃院雅を救う唯一の方法だと信じているからだ。

 儀式の一部始終をアスタロトは沈黙とともに整然と見つめていた。


×   ×   ×


「ニーナ……雅の事なんだけど……」


 儀式が終わると、真琴はニーナの袖を引いた。


「雅の……雅の手術はいつ……」

「雅? ああ……真琴ちゃんのお友達ね」


 ニーナは真琴の耳元へと口を寄せた。


「雅ちゃんなら、ちゃんと生きているわ。カプセルの中でね♪」

「え!!?? 救ってくれるんじゃ!!??」

「わたしの『後天性魔触症』から生き残るのよ? 十分に救っているじゃない♪」

「で、でも……」


 真琴は諏訪彩女の様にカプセルに収納され、薬品の液体に浸かる雅を想像した。

 心が死んで肉体が生き続ける。それは果たして『生きている』と言えるのだろうか?


「わたしみたいに……手術はしてくれないの?」

「するわけ無いじゃん♪ 真琴はお友達だけど、雅ちゃんはわたしのお友達でも、なんでもないもの♪」

「そんな……」


 真琴は愕然としてその場に立ち尽くした。

 考えてみれば、セーレはニーナの事を『奸智に長けた魔女』と言っていた。

 四百歳を超える『背眼の魔女』にとって、十七歳の少女を手玉に取るなど、容易い事だろう。

 雅は自身の浅慮を呪った。

 雅は諏訪彩女の様に、心を殺されたまま、カプセルの中で生き続ける。

 そして、真琴は雅の傍らで、ただ待ち続けるのだ……『雅の死』を。

 アスタロトが『彩女の死』を待つ様に……。

 真琴は生きていても、二度と言葉を交わす事の無い雅を想って涙した。

 真琴の双眸から溢れ出た感情は、頬を伝い、床へと落ちた。

 その時。

 ズシ……ン。と、足下から鈍い衝撃音がしたかと思うと、ビルが小刻みに揺れた。

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