第5話 「どうせ私は0人」

快楽から、はなれて気づく。


わりきっていたつもりだったのに

それでもそれなりに酔っていた自分。


お互いの気持ちのはいった不倫や

タイミングがあってしまった、流れ。

男側から見た浮気とちがい

一定数いるといると思われる藤沢のようなエロ男爵も

さも遊びなれているように見せかけることに長けていただけだった。


「快楽」のなくなった藤沢からのメールに違和感をおぼえる自分。

元々メールセンスがないことは知っていた。

特に下ネタ系の話は最高に気持ちが悪い。

快楽でかき消されていた部分がどんどんピックアップされてゆく。



「お互いさま」

私のような女とのひとときは、そういうことでいいだろうと思う。


けれど自身を卑下しながら

わずかな心の救いを求めている女にとっては”マモノ”にもなりうる。


「人間」って人になれたりマモノになれたりするのではないか。

人のあいだ。


人間の「ゲン」ってなんだろう

そんなくだらないことに思いをはせたり

全国のエロ男爵に身をゆだねている女の心情を

本人たちに伝えてみたらどうなるんだろうなんてことをちょっと考えた。


ネット環境を手に入れた私はフィクションを交えながら

「不倫で悩んでいる女の気持ち」をエロ男爵に向けてブログ発信をはじめる。


結果、人って自分の都合のいいところしか受け取らないものだ。

そういう印象だった。


一応、むくわれない恋に悩んでいる女の設定をえがいて

好きな男がいるという体で発信していても

コメント欄では紳士的なコメントをつけながら

メッセージでは「おまえは藤沢かよ!」そう言いたくなる男が集うだけで

誰も傷ついた心を見ようとはしない。

屍をねらうハイエナにたとえればハイエナに失礼なほどだ。


心のすきま。

よわった心の気配を嗅ぎつけ、ずかずかとつけこんでくるものは

カルト宗教やネットワークビジネスだけではないということを知った。

私利私欲のため傷ついた心を狙うことに

罪悪感もなにも感じないにんげんがこの世にはたくさんいるようだった。


その中には本当に心をなぐさめたい人がいたのか。


当時の歪んだ認知を持った私でも

それはわかりやすくゼロに等しかった。


表ではいいお父さん風のさわやかブログを書いていたり

今でいう成功した起業家のアドバイス的なブログを書いている人。

そういう既婚者からのメッセージを読むだけでも

今までに同じようなことを何度も繰り返してきていることは

想像しなくても手にとるようにたやすかったからだ。



こんな私でも私なりに一生懸命生きてきたつもりだった

それでも藤沢と同じ人種だったとも痛感した。


エロ男爵たちからの一見、親切めいたメッセージを見るたびに

自分がバカにされているような感覚にあらためて陥る。



「どうせ、私は一人」

お得意のこういう感情がおしよせる。

ボーダーな人に思ったことはないとは言わせない。


さらに追い打ちをかけてみる。こう思っているかぎり

「どうせわたしは0人」

正しくはこうだ。


自己の存在を否定し続けているのだから。


私が勝手に思っている「見捨てられ不安」の本当の意味。

自分が自身をずっと見捨ててきたからだ、と考えている。


自身の長所は上げられないのに悪いところはいつまでも上げられる。

そこがボーダーの才能と辛さのひとつ。

観察力と洞察力が人一倍ないとボーダーになるのは無理だ。


それを自己否定の道具に使うから自分がざくざくと切り刻まれる。


さんざん自分観察、他人観察を物心がついた頃から無意識のうちにしてきた。


多くのボーダーにどこかエスパー的な要素を見る理由は

本来、感性分野の人だからだと思う。


見た目上、その傾向が強い人は、ただでさえ人よりできないことが多い。


いわゆる普通の一日を過ごすことさえ難しい。


だから自分が人よりできない。と思い込むし周りもそう思う。

かと言えばへんなところで人一倍いろんなことに気づいてしまう。

ボーダーはそこに苦しむ。


いろんな人に共感しながら、いろんな人からバラバラの評価。

それにいちいち心を沿わせて大混乱を起こす。



その場その場の空気に自分を合わせていればいいのだろうか?


こんな私でも誰かの役に立てたらうれしい。


でも、誰かイジメられてる人がいたら反感を買っても言ってしまう。

それで自分がイジメの対象になったこともあったっけ。


「やったらできるんだからガンバレ」

「やればできる子」

「口だけ達者なんだから」


など「できない」に焦点をあてたジミな刷り込みも入ったりする。


他人のことばかり気にかけて自分はあと回しでさえでない。

これは「他人の目を気にする」という普通の人の感覚とはきっと違う。


誰かが困っているところを見ると自分が辛い。

きれいごとではなく、それを引き受けて自分が辛い目にあった方が楽。

その誰かが笑ってくれると自分もホッとする。


こんなことを誰にも知られずに、こっそりと何千何万回とくりかえしながら

自分を見失ってボーダーが出来上がるような気がする。


「目の前の人に合わせる」


子どもらしくないと言われ続けていた幼少期。

そういう思いを受け続けて


私が初めて決意、行動したのは小学一年生のときだった。


遅いヤンキーデビューのように

「子供らしさ」を演じはじめたのは忘れられない記憶として

今も残っている。




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境界のまにまにゆられて 渡利ちさ @chisa0401

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