第47話 天使と悪魔の前夜

 真栄城夏希は生徒会の仕事を終え、夕方にたった一人で帰宅した。

 さほど広いとは言えない一軒家で、両親と弟が帰りを待っていることは日常どおりだが、彼女自身はいつもとは様子が違い、それが弟にも伝わった。


 風呂を上がった後、姉はいつも弟にドライヤーをかけることが日課だった。リビングでソファに座りながら、チラチラと彼は姉の様子を伺う。


「ねえお姉ちゃん。今日何かあったの?」


「え? ううん。特に何もないわよ」


 普段ならこの後夏希は流暢に語り出すものだが、特に続く言葉はない。裕は少しだけ顔を傾け、


「ホント? もしかしてアキお兄ちゃんと何かあったのかなって思った」


 背後で甲高い音がした。驚いて振り向くと、慌てた様子の姉がドライヤーを拾い上げ、また何事もなかったように髪を乾かそうとする。手元が狂い、ドライヤーを落としてしまったらしい。


「どうしてー? 特に何もないわよ。いつもどおりどん臭い感じだったから、いくつか注意くらいはしたかもしれないわね」


「そ、そうなんだー。なんか、美鈴ちゃんみたいにソワソワしてたから、きっとお兄ちゃんのことで何かったのかなって思ったの」


「え……裕君。美鈴ちゃんって誰なの!? 初めて聞く名前だわ」


「わああ!? 近所のお友達だよ。六年生のお姉ちゃん! 最近彼氏ができたんだって」


「小学生で彼氏や彼女を作るなんて、イケナイ子だわ。裕君は作っちゃダメよ。いいわね?」


「は、はーい……。でもね、美鈴ちゃん凄いんだよ。とっても変わったやり方で、その人とお付き合いできるようになったんだって」


「あらあら。一体どんなことをしたのかしら。考えただけで頭が痛くなりそうだわ」


 呆れたように夏希は言い放ったが、本当に興味がないわけではないのだと裕は思った。だから話を続けてみることにする。


「あのね! その方法っていうのがね、」


 姉は最初穏やかな目で弟の話を聞いていたが、やがてその眼差しは真剣なものに変わっていた。




 学園の天使が住んでいる家は四階建てマンションの最上階であり、地区内では特に見晴らしが良い。しかしそんな景色など気にもならない彼女は、自室でベッドの上にうつ伏せになっていた。ドアをノックする音とともに、静かに扉が開かれる。


 学園の天使が大人になったような、おしとやかな女性が顔を出した。彼女は春華よりひと周り近く年上の姉であり、職場の同僚とつい先日婚約したばかりだった。


「春ちゃん。そろそろ夕ご飯できるよ。どうしたの?」


 いつもニコニコ楽しそうにしている妹に元気がないことは、目に見えて明らかだった。姉は妹が落ち込んでいる姿が心配でならない。


「……ううん。何でもないよ」


「嘘。春ちゃん、学校で何か嫌なことでもあったんじゃないの」


「え。別に」


 春華は少しだけベッドから体を起こし、瞼をゴシゴシと擦る。姉は部屋の中に入ると、近くにある勉強机の椅子に座り、彼女を覗き込むように見つめている。


「お姉ちゃんで良かったら相談にのるよ。もしかして学校で虐められたりしたの?」


「ううん、違うよ」


 姉は少しだけ心の中でほっとした。


「じゃあ勉強が大変とか?」


「勉強は楽ー」


 もう一度春華はベッドに突っ伏した。苦笑いを浮かべつつ、姉は質問を続ける。


「じゃあお友達関係かな?」


「……ちょっと違うかも」


「解った! 好きな男の子のことで悩んでるのね!」


「ふぇ!? え、えええ」


 突然ベッドから跳ね起きた学園の天使は目を白黒させている。姉は口元を手で抑えつつ笑い出した。


「うふふふ! 春ちゃんってば本当に解りやすいよね。っていうか、最初からそっちの悩みとは思ってたんだけど」


「じゃ、じゃあ最初からそう聞いてよー。お姉ちゃんはいつも意地悪なんだから」


 少しだけムスッとした妹の言葉に、姉はまだ笑いがおさまらなかったが、どうにか落ち着いて、


「ふふ! ごめんごめん。ついからかってみたくなっちゃって。春ちゃんが男の子のことで悩むなんて珍しいね。っていうか、もしかして初めてじゃない?」


「ん。多分そうかも。初めて好きになっちゃった。でも……」


「でも?」


「その人のことを、他にも好きな人がいるみたいなの」


「ふぅーん。ライバルがいるわけね」


「でも、友達だし」


 少しだけ姉は口を開いて驚いた様子を見せる。妹はベッドの上で女の子座りになり、まだ俯いていた。


「あらー。けっこう複雑な感じなんだ。ライバルはお友達だった。でも、春ちゃんはその人とお付き合いしたいと思ってるのよね?」


 妹は何も言わず黙っていたが、やがて小さく首を縦に振る。またクスクス笑いながらも、姉は何とか力になりたいと思い椅子から立ち上がると、優しく茶色い髪を撫で始めた。


「友人間で好きな人が同じだったっていう話は、本当によくあることなのよ。だから気にしなくていいわ。別に奪うわけじゃないだから。まだ、その人は誰のものでもないの」


「……ん」


 まだ妹は悩んでいるようだった。


「でもね、お姉ちゃん。私、どうやって告白したらいいのか解んない。遠回しには言ってみたんだけど、彼には伝わらなくて」


「ふーん。相当鈍い感じの子なのね。じゃあストレートに当たって砕けるしかないんじゃない?」


「えええ。本当に砕けちゃったらどうするの?」


「その時はその時よ。どうしようもないことはあるの。例えば受験勉強だったり、資格試験とかって、やればやった分だけ合格する可能性が高くなるわけじゃない? でも恋愛は別よ。どうしたって振り向いてもらえないことはある。元々理不尽な世界なのよ。だから、パッと当たって、ダメならスパッと次に行くくらいの気持ちじゃないとダメ」


「そ、そんなにすぐ切り替えられるわけないじゃん!」


「春ちゃんもいつか解るよ。じゃあ特別に、お姉ちゃんが告白に使った切り札を教えてあげよっか?」


 その一言に、妹は驚いてベッドから降りた。両手を胸のあたりに当て、明らかにエネルギーが湧いているようだ。


「な、なになに!? 切り札って?」


「うふふ! そうねえ……言ってみれば、今では誰もやらない古風なアプローチよ」


「な、なんかロマンを感じますっ」


 あどけない妹の言葉に、姉はまたしても吹き出してしまう。次の日、海原春華は早速実践することにした。真栄城夏希も同じように、すぐに行動に出た。


 天使と悪魔は、一人の少年に最後の選択を迫ろうとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る