兄:兄の立場

 いつもと同じ時間に変わらず動き出す気配を感じて、自分も身を起こす。静かにだったけど、かなり不満に思ってるんだろうってことは感じていたから、普通に始まる朝に妙な不安が湧いてくる。

 キッチンに立つ朋生は表情も無く、朝食と弁当を一緒に作っている。目元が腫れぼったいのは、アルコールのせいか、それとも……

 洗面所に向かってすれ違いざまに声をかけると、「おはよう」と平坦な挨拶が返ってきた。


 もうすっかり怒ってないんだろうか。そんな訳はない。泣くほど心を乱したのなら、今無理をして平静を装っているということだ。

 顔を洗っているうちに妹じゃなかった頃の朋生を思い出す。こんな風に想いを閉じ込めて自分を誤魔化すのが上手かった。それはすぐにエスカレートして、心の一部を失くすことに繋がった。


 ――同じことになったら


 折角ここまで回復したのに。俺の立ち回りが悪いせいでまたそんなことになって、朋生を失くすようなことになったら……

 いつまでも息を詰めていることに気が付いて、棚からタオルを取り出し、冷たい水に浸しながら呼吸を戻す。

 何が一番不満なのか分からないから、正面からは謝れなかった。

 後ろから冷えたタオルで朋生の目を覆い、胸に抱え込む。いつも上手く伝えられないから、距離を詰めてみた。

 こうやって朋生に触れ慣れていくのはいけないような気がするのに、これは仕方ないとどこかで言い訳をする自分がいる。いつも何かが足りないのは、分かってはいるんだ。


「――――――心を閉じないでくれ」


 俺が言えた義理じゃないのかもしれない。

 でも、無理をしてまで俺の世話を焼くことはない。ストライキしたっていい。隠し事するなって責めたっていい。

 そうしてくれていいのに、朋生は弁当を作りたいなんて言う。朝食を用意するのも当たり前みたいな顔をする。俺の為じゃなく、自分の為でもあるからというように。

 ああ。少し解った。朋生は兄妹も“ごっこ”じゃないんだ。そんなことにもちゃんと本気で向き合おうとしてる。“ごっこ”しか出来ない俺とは違う。それなら……軽々しく誘った俺を、もっと怒ってもいいんだ。



 * * *



 テーブルの上に置きっ放しにして、バタバタと支度をしている朋生のスマホが震えた。無料通話できるアプリのデフォルトで設定されている音楽が流れてくる。


「ともき、電話――」


 朝っぱらから珍しいなと持ち上げた画面に『高山』と出ていて、うっかり切断してしまうところだった。スマホは苦手だったから、分かりやすいようにと同じ機種を使っているので、自分にかかってきたように錯覚してしまう。


「誰?」


 洗面台の方から声が飛んでくる。


「……高山」


 一拍の間があって、迷う気配は急かせるかのような音楽にすぐに決断へと変わった。


「出て」

「……は?」

「お兄の知り合いでしょ。今、手が離せない」


 嫌がらせの一種だろうかと勘繰りつつも、手の中で震え続ける端末を渋々タップして耳に当てる。


「……はい」

『―――っ』


 さすがの高山も第一声に詰まっていた。外なんだろう、横断歩道の鳥の声のようなピヨピヨいう音を拾っている。


『……大空? スマホの監視もしてるのか?』

「馬鹿言うな。ともきがちょっと手が離せないって言うから……要件は?」

『なんだよ。やりづれぇな。今晩空いてる? って話だよ』

「空いてない」

『お前じゃねーよ!』


 聞えよがしに息を吐き出して、洗面所を覗き込む。口紅を引こうとしている朋生と鏡越しに目が合った。


「今晩空いてるかって」


 ちょっと考えて、すぐに鏡の中に視線が戻っていく。少し開いた唇の曲線に合わせて筆が走り、派手すぎない赤の色が乗る。


「お兄泊まりだよね? 空いてる」

「……だそうだ」

『良かった。場所は後で送っとく……って伝えておいてくれ』

「ああ……高山」

『……ん?』

「歩きスマホはやめましょうってポスター、知ってるか?」

『うるせぇよ! リアルに忙しいんだよ! ちゃんと伝えろよ? 『お兄ちゃん』』


 猫なで声を残して、通話は切られてしまった。このまま朋生と高山がいい関係になって結婚なんてことになったら、俺は一つ年上のアイツに「お義兄にいさん」なんて呼ばれるのか。怖気おぞけが走って舌打ちしてしまう。

 いや、そんなことになったらもう縁はない。黙っていなくなればいい。


「お兄? なんだって?」


 小さなポーチに手早く道具を纏めながら朋生が聞く。


「……後で場所送っとくそうだ」

「了解。わ。ぎりぎりだね。先出てて」


 すれ違いざまにスマホを受け取って時間を確認すると、自分の上着より先に俺の上着を投げてよこす。

 さっきまで腫れぼったかった瞼はもうそれほど目立たない。冷やしたのが効いたのか、いつもより念入りな化粧のお陰か。朋生おんなの方がおとこより隠す手立てを色々知っているのかもしれない。鮮やか過ぎるのも、考えものだけど。




 いつもの場所で朋生を降ろす。

 余計なお世話だとは思いつつ、言わずにはいられない。


「あんまり、飲むな」

「わかってるよ」


 顔を顰めつつ、軽く手を振って小走りで道路を渡って行く。

 二日酔いだとも言ってたし、昨日の今日だ。それで朋生が馬鹿な飲み方をするとは思わない。相手も高山だし、心配なんていらないんだろうけど、今夜は何かあったって駆けつけてやれない。それが、少しだけもどかしかった。

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