妹:意外な職業

 勢いで買ってしまったから、やっぱり心配になって、夕食後に部屋で試着してみた。大きな鏡は洗面所だけど、出て行ってお兄ちゃんに見られるのもなんだか悔しいので、窓に映るシルエットだけでチェックする。

 うん。大丈夫。大丈夫、だった。

 料理をしっかり食べてもイケることが分かってほっとする。


 あの人に会った後のお兄ちゃんは、なんだかちょっと雰囲気が柔らかかった。「行け」と言われた時はぴりぴりしてた気がするんだけど、何を話したんだろう……

 やっぱり、知り合いに会うとどこかがざわつくのかな。「同僚」って言ってたけど、多分、もう少し親しかったんじゃないかと思う。もう会う気はなさそうだったけど、場合によっては会ってもらった方が色々取り戻せたりするんじゃないかなぁ。

 連絡交換したりなんか……してないか。してないよね。誰かと交流を持てるほど、回復してないんだから。


 お兄ちゃんにつままれた方の頬を自分で軽くつまんでみる。

 あの時、お兄ちゃんが手を離す時、指先でそっと撫でられた気がするのは、気のせいだったのかな。会話の方に気を取られてしまったからうっかり流してたけど、お兄ちゃんから触れてくること自体、稀なことだ。こないだの“よしよし”でちょっと慣れたのかな?

 このドレスワンピを選んでくれたのだって、いつもなら「どっちでもいい」とか言うのに。


 ……その後はいつものお兄ちゃんだったけどね。支払いが鮮やかなところまで!

 働き始めてからは自分で払うからいいって言ってるのに。一緒に行くといつの間にか払われてる。財布を取り出せないあたしがトロいんだろうか。


 コンコンと音がして、肩を跳ね上げる。


「ともき、風呂空いた」

「は、はあい」


 そのドアが開いたら、お兄ちゃんはこの姿を見て「似合う」と言ってくれるだろうか。ちょっと微笑んでくれたりしないだろうか。

 お兄ちゃんはドアを開けないし、褒めてくれもしない。でも、今日の一件は“もしかしたら”の種をあたしに撒いた。

 “もしかしたら”“いつか”。

 でもきっとそんないつかは来ない。お兄ちゃんが積極的に取り戻そうとしないのを、あたしは知ってる。期待なんか、しちゃダメだ。

 何だかちょっと落ち込んで、あたしはその種に土を被せて見えないように埋め込んだ。

 

 

  * * *

 

 

 月が替わって、仕事のメンバーも数人入れ替わった。会社での噂話も下火になり、新人さんのフレッシュな声と少しの緊張感がフロアの中に充満していた。

 お兄ちゃんは三日にいっぺんくらい帰ってこない勤務になって、その代わり三日にいっぺんくらい休みで家にいる。呼び出せば迎えに来てくれるから、便利になったような気がしないでもない。

 軽く残業を終えて、今日はどうしようかなとスマホを取り出しながらビルを出たら、すっと誰かが近寄ってきた。思わず警戒して足を速める。

 

「こんばんは」


 男の人の声に顔を上げると、にっこり笑顔があたしを覗き込んでいた。


「朋生さん、だよね?」

「どちらさま、でしょう?」

「あれ。覚えてない? ほら、スーツ売り場で」


 ナンパみたいな文句だったけど、その言葉で思い出した。天パ風のゆるくウェーブした髪。

 思い出したら、別の意味で緊張する。


「……兄の……」

「そそ、元、同僚。そのくらいは聞いてる?」


 確かにそう言ってたから、とりあえず頷く。


「ちょっと、お話聞きたいなー、なんて」

「話せることはありませんよ」

「そう言わずに。ご飯、奢るよ?」

「今日は兄のご飯用意してないので帰らないと」

「子供じゃないんだから、自分で食べるだろ?」

「食べないです」

「ん?」

「兄、ひとりだと何にも食べないんです」


 うっかり溜息まで漏らしたから、その人もそれがただの口実じゃないって解ったみたい。


「……一食抜いても大丈夫だろうけど……そうか。そんな面倒な感じになってんのか」


 独り言のように呟いた声は、先程までのナンパ声と違ってちゃんとお兄ちゃんを心配する声だった。そっと顔を窺うと、視線に気づいてまた笑顔に戻る。


「じゃ、コーヒー一杯だけ。なるべく人の多いところにするから、付き合ってくれないかなぁ」


 行ってもいいかなとも思ったけど、自分の信用度は低めなので断ることにする。


「話せることはないですって。しつこいと警察呼びますよ」

「おっ」


 スマホのロックを解除すると、なんだか嬉しそうな声がした。はったりだって馬鹿にしてるんだろうか。


「いいねいいね。防犯対策大事だからね。でも、呼ばなくてもいいよ。ほら」


 ダウンの内ポケットから黒っぽい手帳を出すと、パカリと上下に開いて見せる。思わず足を止めてそれを凝視したあたしに、その人はにやりと笑った。


「お巡りさん、ここにいるからね」


 呆然としている間に、背中を押されて路駐してある車の助手席に押し込められた。まずいとかなんとか思う余裕も無くて――というか、多分、好奇心に負けて――あたしはコーヒーショップへと連行されたのだった。




 なんだかやけっぱちでラテのトールを頼んで、半分ほど飲んだところでようやく落ち着いた。

 初めて間近で見た警察手帳の写真には、目の前の人物が制服を着て写っている。立体的な金色の桜の代紋にちょっと気後れしちゃうけど、こんなにじっくり見る機会なんてもうないだろうから、舐めるように見つめてしまう。


「ニセモノじゃないから」


 笑って、その人は名刺を差し出した。犬なんだか狸なんだか分からないような、青い前髪の謎の生物が敬礼している。

 釧路港町警察署刑事第二課……警部補 “高山たかやま 浩二こうじ


「心配だったら問い合わせていいよ。って、いうか、その反応だと本当に何にも知らないんだね」


 ぐるぐると警察手帳についている紐を巻きつけて、内ポケットに仕舞い込むのを目で追ってしまう。

 同僚ってことは、お兄ちゃんもそうだったということで……悪い奴じゃないというのは、そういうことだったんだろう。じゃあ、厄介っていうのは……?


「あたしの会社……なんで……」

「え? やだな。偶然だよ。偶然見かけてね」


 にこりと笑う目元は笑ってない。絶対、待ってた。あんなとこ、路駐してるなんてどんな偶然?


「大空って頑固だろ? くそ真面目っていうか。……それがしばらく失踪してて、戻ってきたと思ったら年頃のお嬢さん引き取ったなんて、気にするなっていうのが無理じゃない?」


 あたしは大げさに溜息を吐いてみせてから、病院で目覚めた時にお兄ちゃんに聞いた話をすることにした。お兄ちゃんが話すとしても、きっとそれだろうと思ったから。


「あるとき目覚めたら病院で、お兄ちゃんがいたんです。何にも思い出せなくて、あたし達は家族でお兄ちゃんに会いに来て、帰る途中で乗ってた車が事故に遭って、両親は助からなかったけど、あたしは一命を取り留めて数ヶ月眠ってたんだって聞いて。お兄ちゃんがお兄ちゃんだとずっと思ってました」


 驚いた顔はすぐに冷静さを取り戻して、その瞳は真偽を確かめようと細められる。


「その事故に、大空が関わっていたり……」

「ないと思います。お兄ちゃんは助けてくれただけ。赤の他人じゃ、色々都合が悪かったんじゃないですか? 記憶が戻った時に一度離れようとされたんですけど、ひとりでご飯食べない人、放っておけなくて。無理矢理傍に残ったんです」

「君の方が……? ん、と。ごめん。男女の関係とか……」

「ないですよ。全然」


 じっと見つめられた後、「そう」と呟いて、高山さんは自分のコーヒーに視線を落として何か考えているようだった。

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