妹:出会いはショッピングで

 あたしはお兄ちゃんの本名を知らない。苗字は“大空”だって分かってるけど。

 記憶を失くしてる間も、思い出してからも「おにぃ」って呼んでるから困りはしないんだけど、もやっとした感覚は常にある。お兄ちゃんはあたしのこと呼び捨てにするのにさ!

 戸籍見たんだろうって? 抄本にはあたしの記録しかないからね。もちろん、お兄ちゃんが取って来てくれたんだよ。その戸籍だって死んだ人の養子にはなれないはずなのに、何か都合よくされてるらしい。


 郵便物にしても、この住所うちにお兄ちゃん宛てのものは一切届かない。あたしと暮らすための引越しだなんだで借りた私設私書箱を、そのまま使ってるんだって。電気やガスや水道はあたしの名前で契約したらしく、検針票にはあたしの名前が印刷されている。料金はお兄ちゃんの口座から引き落とされてるんだけどね。

 ここまで徹底されると無理に聞き出すのも悪いかなって思い始めちゃって、いつかぽろっと分かるのを待っている。別に“権左衛門”でも笑わないよ?

 ……すみません。嘘をつきました。権左衛門だったら、きっとちょっと笑っちゃう。


 運転席のお兄ちゃんをこっそり見ながら、心の中で「ごん兄」って呼んでみたらうっかり吹き出した。一瞬だけ怪訝そうな視線が飛んでくる。名前どうのじゃなくて、見た目とのギャップが可笑しい。きっと“リヒャルト”とか“ドフトエフスキー”とかも似合わない。「ドフ兄」で呼吸困難に陥って、お兄ちゃんの呆れた溜息が聞こえてきた。

 駄目だ。変なツボに入った。

 

 大型ショッピングモールはもう目の前。市内にこの手の店は二店舗しかないから、いつも混んでいる。知り合いに会う確率も高めで、車を止めるなりお兄ちゃんは慣れた手つきでサングラスをかけた。

 以前よりかける頻度は下がったものの、人の多いところでは相変わらず。片方の瞳が緑がかっているから、それを隠すようにかけているのだと思う。どっちが目立つかといえば、どっちも変わらない気がするけどね。いつも黒っぽい服装なのとちょっと近寄りがたい雰囲気は、怪しい人に見えなくもないから。


 これで警備会社に勤めてるんだよ? 護る方、というより盗む方な感じ。金髪に近かった髪が伸びてだいぶ黒っぽくなったから、これでも怪しさは半減してるはずだけど。

 笑い疲れて大きく息を吐き出して、トレードマークの黒のロングコートをひらめかせて先に行くお兄ちゃんの後を追う。今日はお兄ちゃんのスーツも見立てるんだ。はぐれないようにしないと!



 * * *



「これは?」

「いいんじゃないか」

「もう! せめて見て言ってよ!」

「何でもいいし、適当に選べばいい」

「サイズとかわかんないよ。AとかBとかYとか……」


 お兄ちゃんはざっとハンガーの表示を眺めて、“A7”のやつを手に取った。


「それ? わかった。まって。それは却下。こっちので、そのサイズ……」


 チャコールグレーのスリーピースを選んで試着室に押し込む。

 お兄ちゃんは眉を顰めてたけど、黙ってカーテンを引いた。その間にあたしはネクタイとチーフを選びに行く。どちらも明るいシルバーで纏めるのだ。当日は前髪もちゃんとセットしたらきっとカッコイイ。

 にまにましながらカーテンが開くのを待って、店員さんを呼んだ。


「裾上げ、お願いします」


 似合うよ、とか褒めてみてもお兄ちゃんには響かない。でも、いつか響くかもしれないし、素直な感想は大事だ。特に反応も無く、黙ってズボンの裾にまち針を打たれているお兄ちゃんの視線が、ふとあたしを通り越した。


「…………大空……?」


 男の人の声に、振り返る。知らない人。天パかな?ってくらいのウェーブのある髪に一見優しそうな顔。

 その人もお兄ちゃんを見てて、あたしの知り合いじゃないことは明白だった。お兄ちゃんを確認してみたけど、表情に変化はない。


「そう、だよな? その瞳、間違いない。お前、戻って……」


 その人はふらふらと寄ってきて、お兄ちゃんを覗き込んだ。今、サングラスはあたしの手の中にある。


「……ともき。自分の買い物に行っていいぞ。追いかける」

「え。でも」

「あ。すまん。え? 彼、女?」


 ようやく気付いたというように、あたしとお兄ちゃんを交互に見ながら、その人は社交的な笑顔を作った。


「初めまして。えーと……」

「ともき。行け」

「ともきさんっていうの? 大空とはどこで?」


 鋭い舌打ちに、あたしははっとしてその人に頭を下げた。聞かれたく、ないんだ。足早にその場を後にする。

 今までお兄ちゃんの知り合いに会ったことなんてなかったから、なんだかドキドキしていた。お兄ちゃんはずっとこの街で暮らしてた。知り合いがいて当たり前。

 職場の人やご近所さんとも挨拶したりするし、普通なんだろうけど、あんな、友達みたいに話しかけてくる人はいなかった。ものすごく興味はある。と、同時に怖い。


 あたしはある程度“心”を取り戻すまで記憶を失くしてた。お兄ちゃんはどうなんだろう。お兄ちゃんも、何かを忘れてるってことはないんだろうか。忘れないと心を保てないような、何かがあったりしないんだろうか。

 離れてから、一度だけ振り返る。

 何か話しているのか、黙ったままなのか、二人が向かい合っている事しか分からなくて、結局胸騒ぎを抱えたまま、あたしは婦人服売り場へと向かった。

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