三本足のフェレットとオーボエ

増田朋美

三本足のフェレットとオーボエ

三本足のフェレットと、オーボエ

随分と風の強い日だった。寒くはないのだけれど、風がとにかく強い日で、あたりは砂ぼこりが立ち、紙片が舞い上がるほどの風が吹いていた。

今日は、こんなに風が強いから、製鉄所を利用する利用者の数も、さほど多くなかった。そういう訳で、今日の製鉄所は、余り人の声が聞こえてこなかった。

水穂さんは、製鉄所の四畳半で、いつも通り静かに眠っていたが、急に、玄関の引き戸がぎいと音を立ててなった。

「こんにちは。あの、失礼ですが、磯野先生はいらっしゃいますでしょうか。」

と、玄関先からそんな声が聞こえてきた。今日は、利用者が少ないので、奥の四畳半にも、しっかりと、その声が届いた。

「こんにちは。いらっしゃいませんか?あの上がらせてもらいますよ。」

その人物はそういうことを言って、どんどん製鉄所に入ってきた。鴬張りの床がきゅきゅとなった。水穂さんの隣にいた、正輔が、水穂さんの顔をなめて、彼を起こした。

「すみません、急にこちらへ来てしまいまして。あの、磯野先生、いらっしゃいますかね。それとも、病院でも行かれているのでしょうか。」

四畳半を歩きながら、その人はそういうことを言っている。

「あ、はい、今寝てますけど、おこせば起きる筈ですよ。」

途中で、御不浄から出てきた、一人の男性利用者が、そう返したので、お客さんは分かりましたと言って、四畳半へやってきた。ふすまを開けると、水穂さんも、正輔に顔をなめられて目を覚まし、よろよろと布団のうえに座った。

「どうもこんにちは。磯野先生。久しぶりですけど、僕の事、覚えていらっしゃいませんか。」

と、お客さんは、明るくそういうことを言った。

「浩二さんではありませんか。覚えておりますよ。確か、何回か、ピアノの事でこちらへいらしてくれましたよね。」

水穂さんは、そのお客さんに、軽く座礼する。

「先生に、座礼されては困ります。今日は、お願いがありまして、こちらに参りましたんですから。」

お客さんは、まさしく桂浩二君だった。かつてはしがない会社員だったが、今はピアノ指導者になっている。

「先生、この可愛いフェレットはどうしたんですか?先生が、飼育し始めたんでしょうか?足が三本しかなくて、車いすに乗せているんですね。」

浩二は明るく正輔の顔を見て、そういうことを言った。

「ええ、杉ちゃんが、どこかから拾ってきたんだそうです。元、野良犬ではなく野良フェレットだと杉ちゃんが言っていました。」

水穂さんは、そう説明した。ところで、お客さんは、浩二だけではなかった。浩二の隣に、もう一人、若い男性の客がいる。この男性客は、何だかすごく緊張しているようで、誰か偉い人に謁見するときのような顔をしていて、ずっと黙ったままなのであった。身なりは、浩二と同様、スーツ姿である。年恰好から判断すると、高校生よりちょっと年上位の年齢だろうが、本当はそうではないのかも知れなかった。

「で、お隣にいる方はどなたなんですか?」

水穂さんが浩二に聞くと、浩二はにこやかに笑って、

「ああ、僕の親戚の、息子さんです。名前は、菅沼浩紀さんです。」

といった。その名前はどこかで聞いた覚えがある。滅多にテレビを見ない水穂さんも、利用者たちが、話していたのを聞いたことがあった。菅沼浩紀。有名人ではないけれど、その名前が知られているような。

「彼は、高校生のころ、吹奏楽をやっていたそうで、担当楽器はオーボエだったそうなんです。で、今日は、お願いなんですが、彼の演奏を見てやってもらいたいんですよ。先生。ちょっと、ピアノをお借りできませんでしょうか。」

浩二は、その菅沼という男性に、挨拶するように促した。

「すみません。菅沼浩紀です。よろしくお願いします。」

たどたどしくそういうことを言う、その男性。

「そういう訳ですから、先生。彼の演奏を聞いてやってください。では、浩紀さん、急いでオーボエを組み立てて、よろしくお願いします。」

浩二がそういうと、その人は分かりましたと言って、鞄の中からオーボエのケースを取り出した。特に、可もなく不可もない、ヤマハのオーボエである。

「本当はね、うまいんだから、クランポンのオーボエを買ったらどうかと、僕も彼に言ったんですけどね。彼、どうしても、この楽器がいいんだって言って、聞かないんですよ。」

浩二は、ピアノの譜面台に、楽譜を置きながら言った。

「それでは、いきましょうか。えーと曲は、グリーンスリーブスによる変奏曲です。」

菅沼が、オーボエを組み立てると、浩二はそういって、ピアノを弾き始めた。菅沼もそれに合わせて、オーボエを吹き始める。

なるほど。彼の素質が、第一流である事は疑いない。確かに、曲の終止も、シッカリしているし、指の動きも早い。確かに、一寸指導をすれば、かなり伸びる生徒になるに違いないと思われた。

「どうでしょうか。」

浩二が、最終変奏を弾き終えて、そのように言った。

「そうですね。確かに素質はあると思いますよ。演奏技術はかなりありますから、あとは表現力があれば。」

水穂さんは取り合えず、そういう事を言った。枕元に居た正輔さえも、体の動きを止めて、彼の演奏に聞き入っていた。

「それでは、先生、彼にどうしたら、表現力が上がるのか、言ってやってくれませんか。」

と、浩二に言われて、水穂さんは、少し考えて、

「ええ、そうですね。オーボエの音色がもともとそうだから、そうなりやすいのかもしれないけれど、何となく演奏が重たすぎるんですよ。もう少し、音色を明るくするように、努力してみてください。」

と、言った。

「そうですか。音色を明るくですか。いいアドバイスを有難うございました。先生、これから時々、こちらへ来させてもらってもよろしいでしょうか?先生に、彼の演奏を、もう少し、的確に評価してもらいたいんです。」

と、浩二はいう。一体何をたくらんで、そういうことを言うんだろうか。

「音大でも受験されるの?」

水穂さんが聞くが、もうセンター試験も終わってしまっているから、そうではないなと思った。

「いえ、そういうわけではありません。ただ、一寸事情がありましてね。僕たちは、そのお手伝いをしたいと思うから、こうして、一緒に音楽してやっているだけの事です。それが、彼のためにもいいかなって思って。」

と、本人の代わりに、浩二が答えた。何か、理由があるのだなという事は分かったが、それを水穂さんは、あえて追求しなかった。

「じゃあ、もう一回吹いてみてくれますか。今度はもっと明るい音色を出すように、気を付けて。」

水穂さんがそういうと、浩二はもう一度ピアノを弾き始めた。それに合わせて菅沼も、しずかにオーボエを吹く。今度は一生懸命明るい音色を出すように気を付けているようであるが、やっぱりどこか重々しく、聞きづらい演奏であるなと水穂さんは思ったのであった。

「そうですね。演奏に癖があるんでしょうか。やっぱり重たくて、聞いているほうも、聞きにくいのですよ。もう少し、軽い演奏にしていただかないと。」

と、水穂さんは、そういった。菅沼は、申し訳ないという顔をした。でも、水穂さんは、それ以上指示を出すことはしなかった。

「そうですか。わかりました。僕も、頑張って、彼が良い演奏をできるようにしますね。僕が、一生懸命伴奏すれば、きっと、やる気を出してくれますよね。伴奏とはそういうモノだって、音楽学校の教授も言っていました。」

浩二は、一人、やる気を出しているように見えた。菅沼は、その間も静かに黙ったままなのだった。これでは、単なる寡黙な男という訳ではなさそうだ。それも何かわけがあるんだろう。それを水穂さんは、あえてなにも言わなかった。

「それでは先生も、体の調子が良いわけではありませんので、とりあえず、僕たちは帰ります。また、二三日したら、こちらに来ますから、先生、その時は、批評をよろしくお願いしますね。」

と、浩二は、にこやかにいって、菅沼に帰ろうと促した。静かにオーボエをしまう菅沼は、そのときもずっと黙っている。これでは確かに、言語障害でもあるのかもしれないと、水穂さんは思った。

「それでは、先生。ありがとうございました。先生。また来ますんで、どうかお体には、お気をつけて。」

と、浩二と菅沼は、二人で最敬礼して、部屋を出て行った。水穂さんが再度布団に横になると、正輔がお疲れ様と言いたげに、彼の手を静かになめた。

その翌日。

「おーい杉ちゃん!久しぶりだなあ。久しぶりに、風呂に入って温まれるから、うれしいな。」

と、警視の華岡が、杉ちゃんの家にやってきた。

「今日は寒いなあ。そういう訳で、味噌おでんを持ってきた。ほら、喜んで食べてくれ!」

と、華岡は持っていたビニール袋を杉ちゃんたちに渡した。

「何ですか、華岡さん。また長風呂か?」

と、杉三が言うと、

「おう、その間に味噌おでんでも食べてくれよ。」

と、華岡は、直ぐに浴室に向かおうとするが、

「ちょっと待って、華岡さん。お風呂に入る前に、今日何があったか教えてよ。華岡さんがここに来るときは、大体、大事件が起きて、解決できない時でしょう?」

「よくわかったな。まあ、事件というほどでもないがな。でも、俺の頭の中には、十分記憶に残っていることだけどな。」

と、華岡はそういうことを言った。

「其れより、とにかく風呂に入らしてくれ。そのほうが先だよ。寒くて話が出来ん。」

「はいよ。じゃ、その間にカレーを作って待っているから。早く入ってきな。」

杉ちゃんにそういわれて華岡は、やった、嬉しい!と言って、風呂場へ直行した。その間に杉ちゃんは、台所に行って、冷蔵庫から野菜を出し、カレーを作り始める。

「お湯のなかーで、もうこーりゃー、花が咲くよ。ちょいなちょいな!」

と、華岡がいい声で風呂の中で歌っているのが聞こえてきた。そういう事だから相当、風呂好きなのだろう。

一時間くらいして、やっと華岡さんは風呂から出てきた。あーいい湯だった!何て言いながら、食堂に戻ってきてデーンと椅子に座る。そうすると目の前に、カレーがしっかり置かれた。杉ちゃんありがとうな!といいながら、急いでカレーを食べ始めた。

「で、それで、今日は何を話しに来たんですか?」

と、杉三は、華岡さんに聞いた。

「ああ、ずっと前にあって捕まえた、覚醒剤の乱用者が、数か月前に刑期を終えて出所してきたんだ。そいつがな、俺のところに電話をよこしてきたんだよ。もう、そういうことは、二度としませんってな。そいつの名前は、菅沼といったかな。俺は、名前も忘れていたが、そいつの方は、ひどくまじめで、ちゃんと取り調べをした俺の事を覚えていたんだ。」

華岡は、そういうことを言った。確かに被疑者からそういうことをいわれるのは、刑事としてはうれしいものだった。被疑者はいろいろいるが、こういう真面目な被疑者は、なかなか少ないだろう。

「へえ、そういう事があったのか。そうなると確かにうれしいよな。本当によかったねエ。」

杉ちゃんはそう、相槌を打った。

「ああ、もうそれはそれは。でも、どこかで捕まらないように祈る気持ちもあるけど。」

「そっちの方が、本当なんじゃないの?」

華岡の言葉に、杉ちゃんがそうからかいを入れた。

「そうだねエ。それもあるが、あの男はきっと、音楽という物があるから、なんとかやっていけると思うんだ。なんでも、高校の時に吹奏楽やっていたそうだから。」

と、華岡は意味深に言った。

「其れをうまく使えば、薬物乱用はしないと思う。音楽というモノは、人間をつないでくれる不思議な力もあるからな。」

「さあどうかな。それは分からんよ。有名な奴だって、結構重圧に耐えられないで、再度乱用しちゃう奴は一杯いるからな。華岡さんの性善説は、時々あてにならないこともあるから。」

杉ちゃんは、華岡をちょっとからかうように言った。でも、華岡は、

「そうであっても、俺は信じたいね。ああして、もう二度とやらないって、彼がじかに電話をよこしてきたんだぜ。そういって来る奴は、俺の勘だと、二度と犯罪何てしないのさ。大体再度犯罪をする奴というのは、そういう電話何てよこしてこないから。俺、長年刑事やってて、そういう事、わかるんだよね。」

といった。杉三は、まだ、何十年もやっているわけではないじゃないかと言ったが、華岡は、どうも、その性善説に酔いしれていたいらしく、おいしそうにカレーを食べているのであった。

そしてその数日後。また、浩二と菅沼が、製鉄所を訪ねてきた。

「あれから、二人で一生懸命練習して、何とか軽い演奏になりますように、してきましたんで、もう一回、演奏を聴いてください。」

と、浩二と、菅沼は水穂さんに最敬礼して、お願いをする。水穂さんも、つらいからだをヨイショと鞭打っておこし、何とか布団に座って、演奏を聞く姿勢になる。その時に、正輔も、彼の膝の上に乗った。

「じゃあ、もう一回グリーンスリーブスによる変奏曲をやりますので、先生、聞いてくださいね。」

と、浩二はピアノに楽譜を乗せて、菅沼はオーボエを急いで組み立て、演奏を開始した。確かに、もう少し、明るくなったような気がするのだが、それだけでは、まだだめなような気がする。やっぱり演奏は重たすぎるというか、ノリがないというか、ちょっと硬いという気がしてしまうのだ。

「そうですね。明るくはなったんですけどね。演奏技術もそれなりにあります。でも、もうちょっと、演奏を軽くというか、、、。」

水穂さんは、そう批評した。

「そうですか。まだ、だめですか。」

浩二は、がっかりした声でそういうのである。菅沼が、正輔の隣に座った。

「それでは先生、どうしたら、うまくなると思いますか。先生はどう思われるか、仰ってくれませんかね。」

「ええ、先ほども言った通りです。演奏技術は、ちゃんとあるんですから、それだけでなく、お互いもう少し、明るい気持ちで音楽に取り組むことじゃないでしょうか。そうですね、さほど、深刻なものではなく、気持ちをもう少し楽にして、演奏に取り組んだら如何でしょう。意識を変えるだけでも、かなり違いますよ。」

水穂さんが、浩二に言われた通り、感想を言うと、菅沼は、さらに落ち込んだような顔をした。その顔を見て、小さなフェレットが、そっと心配そうに、菅沼の前にやってきた。

「わあ!」

いきなり菅沼がそういうことを言ったので、水穂さんも工事もびっくりした。

「どうしたの?」

浩二が聞くと、

「虫!虫!」

と怖がる菅沼。

「虫じゃありませんよ!これは、水穂さんが飼っているフェレットですよ!」

浩二も負けないくらいの声で、訂正するが、菅沼はブルブル震えたままだった。しまいには、正輔をハエたたきでたたくようなしぐさで、右手を挙げようとするので、

「菅沼さん、これは虫じゃありませんよ!虫じゃありません!これは虫じゃありません!だから、ハエたたきでたたく必要もないんです!」

と、浩二がそれを止める。すると、

「ガブッ!」

と小さなフェレットが、菅沼の左手指にかみついた。それをしてくれたおかげて、菅沼は正気に戻ってくれたらしい。急にわっと涙を流して、男泣きに泣いた。

「すみません、先生。もうかなり改善されているんですけどね。時々、こうして症状がまだ出ちゃうんですよ。でも、彼ももう二度と乱用はしないと言ってくれてますから。」

と、浩二がそう説明するが、

「いいえ、もう説明しなくて構いません。彼の抱えている事情も分かりましたから。」

水穂さんは、優しく言った。

「本当にすみません。僕たちも、症状を出さないようにさせます。今日は本当にすみません。」

浩二は一生懸命謝罪した。水穂さんは、正輔に、菅沼の手を離すように促した。小さなフェレットは、しぶしぶ、かれの手を離した。

「一体どうして、このような人というと失礼だけど、こうして演奏をするようになったんですか?」

水穂さんにそう聞かれて、浩二はこう答える。

「いえ、たいしたことじゃないんですけどね。うちの教室の近くの企業が、協力雇用主制度に加盟したので、そこで働いている人が、うちの教室でピアノやったり、ほかの楽器で合わせたりするようになりまして。」

つまり、刑務所などから出てきた人を、積極的に雇って、もう再度犯罪に走らせないようにするといいう制度だ。それに、浩二の家の近くの企業が参加して、浩二もそれに協力しているのである。

「すみません、先生。初めに、説明するべきでしたね。でも、どうしても言えなくて、僕は、そのままにしてしまったんです。」

「いいえ、かまいませんよ。」

と、水穂さんは、そういった。

「だって、そういう人たちと同格にしか扱われてこなかったんですから。」

そうか、水穂さんも、そういう扱いを受けてきたのか。

「そうですよね。先生の出身地は、伝法の坂本でしたか。それでは、そういう扱いをされても仕方ありませんね。」

「伝法の坂本。」

不意に、菅沼さんが言った。初めて、正常な声を聴いたので、水穂さんは、一寸びっくりした。

「ええ、若い方は知らないと思いますが、そこの出身というだけで、汚い奴だとか、臭い奴だといって、差別的に扱う習慣が昔あったんですよ。伝法の坂本は、今はゴルフ場になっていますが、昔は、富士でも有数のスラム街だったんですよ。」

浩二がそう説明すると、菅沼さんは、そうだったんですか、ごめんなさいという顔をして、また泣き出してしまった。

「大丈夫です。そういう優しい気持ちがあれば、二度と薬物には手を出すことはありません。」

水穂さんは、静かにそういった。そうだよ、と言いたげに、小さなフェレットが、チーチーと声を上げる。水穂さんは、きっぱりと、でも優しくこういった。

「じゃあ、もう一回演奏に行きましょう。重いものを吐き出すことができたんですから、今度はうまくいくのではないですか?」



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三本足のフェレットとオーボエ 増田朋美 @masubuchi4996

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