第22話 Nの鬼提灯祭

『Nの鬼提灯祭』



(1)



 財前先生はこの祭りの所以を僕に言った。


「ロダン君、遥か昔、そう、この熊本と大分の境であるNにね――鬼が住んでいたんだ。

 戦国の頃、大友宗麟の領内は海外貿易港だったのだけど、そこにたどり着いた南蛮人がここに逃げ込み、鬼化したらしい。

 ほら鬼ってさ…考えてごらんよ、彼等南蛮人の容貌をさ。鼻高く、眉深く、全身紅毛と言うか、毛もくじゃら。まるで鬼の様だろう?

 まぁつまり府内から逃げて来た彼らがどうもこのNの奥深い所に住まい、この付近の村里を襲ったり、娘をかどわかしたり物騒な事をしたんだ。

 そこで村の名主は彼等を退治しよう、つまり殺そうとしてね…まぁ彼等をおびき出そうとしたんだ。

 その方法が簡単。祭りをする――、それも夜に煌々と提灯を沢山掲げてこの神社を明かりで照らして、まるで今で言う照明のように照らして飲めや歌えやの夜騒ぎをした。そうすれば――天照の古事に倣うように笑うところに人も鬼も招く。そしてそこを一気に鬼退治と言う訳なんだ。

 そしてそれはズバリ当たってね、その灯りに魅かれて鬼どもはやって来て、遂に大友の侍——地域の伝説では大友侍高橋紹運の一突きで彼等は全員殺されたと言われてるんだ。だがね、名主達は余りにも自分達の行いを恥じたんだ。

 …分かるだろう?

 だってこれはだまし討ちだ。

 それに鬼達は遥か異国、イスパニア、ポルトガルの遥か遠い国から千里波涛の荒波を越えて来た者達だ。その心情を思うと、如何に里人に悪さをしたとはいえ、一連の慕情というものがわくというのが人情だ。だからNの名主は彼等の御霊を神社に祭り祟りなく、この地で鎮まって欲しいと思ってこの提灯祭をしたんだ。

 それをここNでは—―鬼提灯祭といってね。ほら、見えるだろう。神社の境内にあるあの神楽台で鎮魂の舞いをするんだ。

 まぁそれがこのNの伝説で、そして今年は僕の二人娘の内、妹の方が巫女として面を被り舞う事になっている。

 だから夏休みの今、めい一杯練習してるのさ。

 勿論、会ったことあるよね?僕の旅館に泊まっている君だけど、知らないか思ってね。あ、そう?挨拶程度には話をしている。そうか、そうか。ん、短い髪の毛? そう、そう、娘ショートヘアの少しつんとした…まぁ思春期だから、御免ねぇ客商売なのに不愛想で。

 それとさぁ、僕の旅館と言うのは、ほらこの清流の上流にダムがあるだろう。そこで働く国土省の方の宿泊先に何十年もなっているから、君が今祭りの準備をして意外に辺鄙なこの地で人が多いと思うのも無理はないよ。家族を呼んだりしているからね。

 え?提灯祭はとてもいいシナリオになるって?そう?ならばそれは良かった。君は役者になるのが夢だったね。しかしそれにしても長崎から良く自転車でここまできたもんだ。感心だよね。

 まぁいいか。

 じゃ、後で迎えに来るよ。

 四天王寺ロダン君、

 …え?その名で呼ばないで欲しいって?ハハハ、照れるねぇ。髪を激しく搔いているじゃない。

 まぁ、良いさ。君と出会ったのは本当に不思議なご縁だ。今夜は祭りの神楽もあるしね。

 まぁゆっくり…、そのぉ、折口信夫先生のさぁ、本を読んで過ごすといいよ。

 じゃぁ、後で。


 ――え?あの仮面?


 ああ木彫りの神楽で舞う時のお面だよね。仮面と言うから驚いたよ。

 分かった。まだ神社の壁に掛かってると思うから、一緒に見に行こう。君は本当に研究熱心だね。あれが円空作かどうか確認したいなんてね。

 じゃ、まぁゆっくりしてよ。ダム管理の君の部屋隣の独身連中は今日は下の街に出てるだろうから静かだろう。もしかしたら女遊びでもしてるだろうかもね。ははは。

 それでは、本当に後で、ロダン君。又来るよ。長女と一緒に迎えに」

 そう言うとN郷土史家の財前先生は眼鏡の奥で微笑して僕の前から消えた。

 そう、四天王寺ロダンという芸名の僕の前から祭りの準備の為に。




(2)


 彼の髪はかなり伸びていて、いや、もう少し人間の生理的反応を言えば――


 …痒い、に尽きた。


 だから彼は髪に手を入れるとひたすらに掻いた。

 思えば長崎を出て夏の暑い最中、ここ大分と熊本の境であるNまで無心に自転車を漕いできた、無心になるまで此処に来た理由は何か?それは自分自身の枕元の投げだされた本の所為である。


 ――本の表紙、それは折口信夫と書かれている。


 学者自体は日本民俗学の開拓者と言ってもいいかもしれない。まぁ民俗学の学者である。

 では何故その本を彼——四天王寺ロダンは手にしているのか。

 ロダンは旅人である。

 実は山口の彦島を出て九州を自転車で旅している。最近は長崎に居た。長崎に居ておして、その市内で書店に入った。旅人にとって心慰める友人は誰かと問われれば、それは人それぞれかも知れないが、彼四天王寺ロダンにとっては夜寝静まる僅かの時に開く本がそうだった。

 長崎市内で一冊の本を手に取った。それが折口信夫の民俗学の本だった。


 ――民俗学、聞いたことはあるがその学問は分からない。


 それがロダンの知識一辺だったが、しかしながら読めば読むほど深く入り込んだ。いや、熱中したと言った方が良いかもしれない。古くから伝わる風習、伝承。それら諸々はなんと色んな文化経済の角度から接触がある事か。

 それから彼は日中ランドナー自転車を漕ぎ、夜の就寝時には民俗学の本を読んだ。

 彼自身にとって幸運は九州と言う土地は民俗学としても土地伝説にも非常に魅力的な題材が今も残り、そして郷土史研究と言う側面からもとても興味が尽きない土地だという事だった。

 そして先程迄面前に居た財前先生。

 先生はこの山奥の辺鄙なNでダム管理者相手の旅館を経営しているが郷土史家としての見識もさながら、中央の学壇に対しても鋭い研究論文をする学者であることが分かり、ロダン自身がこの旅中にネットで調べて是非にでも会って見たいという思った人物だった。

 まぁロダン自身が熱中したのは仮面――つまり、「面」であった。彼も大阪で劇団をしている。劇中でも仮面は道具で出て来る。そン仮面、思えばこれ程劇中で演じる役者をのめり込ませる道があるだろうか。


 ――ロダンは考える。


 何ゆえに人は「面」つけてあれ程の嬌態ともいえる舞いを舞えるのか。人は現実の世界を離れて仮面を被ることで何故、神の領域に這入りこめるのか?

 ロダンはその答えに虜になり、財前先生を訪ねた。

 先生は熱心にもじゃもじゃアフロヘアを掻きながら訪ねる背高のまるでマッチ棒のような若者を見て言ったのだった。



 ――それは「面」いや「仮面」を被ることで死を身近に感じるからでしょう。

 それはあの世と常世。それらを見る事ができるのは神だけ。

 だからこそ、舞人は神がかり、あれほどの痴態のような神楽を舞えるのでしょうね。 それには人間を棄てなければ。


 それには仮面、——「面」が必要なのですよ。



 ロダンは財前先生の言葉を思い浮かべながら、今夜神楽で舞う舞人の「面」を思い浮かべて髪を激しく掻いた。思い浮かべたのは木彫りの面貌だけではなかった。

 彼は或ることも思い浮かべたのである。

 それは戦後に起きたこの神楽面にまつわるある忌まわしき事件だった。




(3)


 ――忌まわしき事件。


 しかしながらこのNの人々にとっては世代が変わりすぎて誰も知らない事件に違いないが、それでもこのNに住む古老に聞けば、まだ比較的、昨日の出来事のような事件だった。

 彼、ロダンはこの集落唯一のガソリンスタンドで暇を潰すために、数日アルバイトをしている。その仕事を手伝っている時、スタンドに来た山奥で果樹園の古老K氏からその事件の事を聞いたのである。


 ――いや、あれは戦後だけどなぁ


 神社で戦後久方ぶりに鬼提灯祭をしたんだ。戦中はいろいろやかましかったからやめてたんだが、戦争が終われば関係ない。陽久方ぶりに盛大にやったんだが、その時、神楽を待った舞子が居てなぁ。

 ほら、この清流で鮎を取っていた川漁師の双子娘で妹何だが、それがよぉ。踊ってる最中、突然死んじまったんだ。検死したらしいが、わからない…。それだけじゃない。その時の双子の姉も何処かに消えちまって…気の毒にその川漁師のとこは一度に娘を失くしちまったんだよ。


 ロダンはその事を思って本を枕元に置いたまま下駄を履いて旅館を出ると目の前を流れる沢に出た。

 沢は旅館から目の前にある。石造りの階段を下りればすぐに沢に降りられる。

 彼は沢に降りると川べりの石を踏みながらやがて大きな石にしがみつく様にして上るとそこで大の字になった。

 沢の中で川の流れを変える大岩。ロダンはこの岩が気に言っている。

 岩の上に大の字になり目を瞑れば川の流れの音を聞き、時折聞ける野鳥の声が聞こえる。近くの水だまりで川魚の跳ねる音も聞こえる。この嬉しさは大阪のような大都会には無い。正に旅空の下にあってこその嬉しさであり、喜びだった。

 その喜びの中ロダンは考えている。

 忌まわしき事件の結末を。

 髪をボリボリ掻きながら大岩の上で太陽の下で身体をさらけ出して考えるとやがて睡魔がやって来た。睡魔が来るとロダンは一瞬眠りについてが、不意にやがて身を起こした。

 何故なら自分を呼ぶ声がしたからである。

 それは財前先生の長女——菜穂の声だった。



(4)



「ここですね、神楽で巫女が舞う面があるのは」

 ロダンは引き戸で開かれた木造りの社殿に二人の後に続いて入る。二人とは財前先生にその長女、菜穂である。

 長女の菜穂は今年大学1年生で今は福岡のS大学に通っている。今回夏休みを利用して一時帰郷しており鬼提灯祭の手伝いをしている。いや手伝いと言うよりも、本来はこの長女が今回巫女として舞う予定だったが、直前になり妹の志穂に変わったのだ。

 その事について先生は例の如く若者を見て、――思春期の子等がすることですから、と笑ってそれ以上は何も言わなかった。

 ロダンは社殿を見回す。

 奥に太鼓や鏡が置かれ、厳かな雰囲気を出しているその一角の壁に掛けられた幾つかの神楽面が見えた。

「…ああ、あれが」

 ロダンが指差すとするすると長女が歩き出す。すると何かに気づいたのか腰を屈めて拾い上げた。それから後ろの二人を振り返ると言った。

「父さん、ほら巫女の面が床に落ちてる」

 言ってからズボンからハンカチを取り出すと落ちて手にした面の面貌を丁寧に拭いた。

「蜘蛛の巣もあって、、汚いね。志穂には可哀そうだけど舞ってもらわないとね」

 言うと、面を壁に掛けた。

 そこにロダンと財前先生が歩み寄る。

 それから壁に戻された面をじっと見る。

 見て、先生が言った。

「ロダン君、で、どうだい?この面、円空作だと思うかい?」

 言いながら口元が揺れている。それは言外に答えを含ませているに違いない。

 つまり、――否、と。

 ロダンは髪に手を入れてもじゃもじゃに掻きながら面を見ている。見ているが、尊視線の先には面が映らない。映るのは先生の長女、菜穂だった。

 ロダンの瞳に映る彼女。肩まで伸ばした髪に二重瞼の瞳と端正に伸びた鼻梁。それを支える柔らかい唇。それだけではなく、醸し出す大人びた雰囲気がとても十九歳そこそこの娘に見えなかった。

 それは美しいとロダンは思えた。事実、今も面を見る彼女の横顔の何という美しいことか。

 それを見て思う事は財前先生の奥様も美しい方に違いないという遺伝的記憶への嘆息だ。

「で?どうだい」

 先生の問いかけに急に我に返るとロダンははっとしてまた再びじっと見てから、やがて面を指差して言った」。

「…まぁ、残念ながら先生の御見立通りといえるかもしれませんね。まぁ江戸の頃から有った面ですしのみの跡が非常に効果的な面でしたからひょっとしたらと思ったのですが、…然しながら彼の木彫りの仏像のように荒々しくも無いし、やはりこれは見事な別の仏師か誰かの工芸、もしかしたら江戸よりも古くて鎌倉とか、それぐらいからここにあったのかもしれませんねぇ」

 ロダンは申し訳なさそうに髪を掻く。その仕草を見て先生が笑うがそれはロダンに対して卑下に見た笑いではない。とても好意を持った笑いだった。

「いや、ロダン君。君の考えは面白い。確かに美濃の国生まれの円空は記録の有る人物で、長じて日本諸国を巡っているから九州に来ていてもおかしくはない。なんせ日向の鵜戸は明治の廃仏毀釈があるまでは高野と並ぶほどの伽藍が立つ修行地だったんだからね」

 ロダンはそれでもさもすまなさそうに長身を折り曲げて、平身低頭の態で頭を下げる。それはまるで巨大なマッチ棒のこけしが頭を下げて、謝るように見えた。

 横に立つ菜穂にはそれが可笑しく見えたのか、彼の姿を見て口元を緩めて笑う。それを感じるとロダンは頭を上げた。そして頭を上げると財前先生に向き直り、先程感じた疑問を口にした。

「それで先生、つかぬ事を伺いますが、先生の奥様、つまり細君ですかね。今どちらにいらっしゃるんです。いえね、他意はないんです。ほら、長女の菜穂さんが、…あまりにもお綺麗だから、きっと奥様もそうだとおもったのです」


 


(5)



 ――妻ですか。


 財前先生の声が曇る。


 ――もう、十年以上前ですが、亡くなったんですよ。野花を集めるのが趣味の優しい妻したが、ある日、家に僕が外出先から戻ると突っ伏して死んでいたんです。原因は卒中と言われました。そうですね、確かにロダン君、君が言う様に、娘、特に菜穂は妻に似ています。生き写しとは言え得る程ではないですが、容貌はどことなくね


(…卒中)

 ロダンは神社から一人旅館へ戻りながら財前先生の言葉を頭の中で何度も復唱する。

(それは聞かない方がよかったな)

 思って髪をボリボリ掻いた。

 その時、声がした。

「ロダンちゃーん」

 声に振り返る。

 振り返れば視線の先に制服姿の女子高校生が居る。それは財前先生の次女、志穂だった。

 志穂は菜穂とは違い全身から元気が陽として溢れている。

 部活でバドミントンをしている為、髪はショートボブにしておりその容貌と合わせて青春の汗と風を彼女からは感じさせる。

 それは長女の菜穂とちがい大人びた感じがあるとは言い難いかもしれないが、それでも青春の瑞々しさを十分に秘めた美しさがあった。

 そんな彼女がぴょんぴょん跳ねるようにロダンの方へ走り寄る。

 先生はこの志穂の事をツンとしている娘といっているが実は大変人懐っこい性格だ。ただ、多くの人前に出るとどうもシャイな部分と言うか人見知りがでるのか、つんとした雰囲気になってしまう。

 損な性格と言えばそうだが、しかしロダンは嫌いではない。シャイと言う部分では自分も似ているからだ。

「志穂ちゃん」

 ロダンは笑顔で言う。

「どこいってたん?」

 志穂が関西弁でロダンに言う。それはロダンから教わった関西弁だ。それに笑顔で答えるロダン。

「ほら、神社だよ。今夜、神楽があるやろ?それで神楽面を見たくて先生と菜穂さんと一緒にね、今行ってたんよ」

「ほんま?」

 志穂にロダンが答える。

「ほんまよ。それで祭りが終わったら此処を去るからさぁ」

 ロダンの言葉を聞いて志穂の顔が少し曇る。

「それは寂(さみ)ぃなぁ」

「しゃーない。僕旅人やから」

 言ってからロダンが志穂に言う。

「ほら、最後の練習せな、あかんちゃう?だってさぁ、今回の巫女姿見せるんやろ、あの悠斗(はると)君やったけ?その人に見せる為に…」

 そこで小声になるロダン。

「…おねぇちゃんから無理矢理、巫女の役奪ったんやろ?それもお姉ちゃんも好きらしい人らしいやん。まるで略奪愛やね」

 それを聞くや、顔を一瞬赤くしてロダンの背を志穂が叩いた。

「アカンで!!誰かに言うたら」

「言わへんわ」

 ロダンがカラカラと笑う。笑うと彼の長身が揺れて頭の髪が揺れる。

 それはまるで森の一本の木が風に揺れているように見えた。




(6)



 ロダンは旅館に戻るとごろりと横になったが、暫くすると退屈を感じて、下駄を履いて再び沢におりた。

 沢に降りると小魚の居る水だまりを越えて再びあの大岩の所に横になり目を閉じた。自然目を瞑れば川のせせらぎと遠くで鳴く野鳥の声が聞こえた。それで夜の鬼提灯祭が始まる迄、ここに寝そべっていようと思った。思ったが、遠くから声が聞こえる。

 ロダンはポケットからスマホを取り出した。取り出すと何気なくNの事を調べて行く。何気なく聞いた昔の事件が気になるからだ。だが出てくるのは水害の記事ばかり。中にはダム建設時に大雨が降り、川が濁流になって下流で大きな水害が発生したというものもあった。


 ――おーい、君ぃ!!

 ロダンは半身を起こすと沢べりに人が見え、自分に声を掛けている。その声にロダンは耳を澄ます。

 すると声はどうも旅館に泊まっているダムの管理事務所の人の様だった。

 聞こえる声にロダンは急いで慌てて岩から降りて下駄底を鳴らして掛け合がる。

 自分を呼ぶ声、それはこうだった。


 ――上流でダムから水を放流するらしい


 今年の夏は暑い。干ばつとは言えないが田に引く水が不足してる。

 ロダンは急ぎ駆け足で駆け上がり、再び旅館の部屋に戻るしかなった。






(7)




 必ずしも人は規則的な過ごし方をするものではない。

 ロダンは旅館に戻ると靴に履き替え、首にタオルを巻く様にして自転車に跨り、ここ数日急場のアルバイト先であるガソリンスタンドに向かった。山道を下るその先にガソリンスタンドはある。

 ロダンはブレーキをほぼかけることなくガソリンスタンドに滑り込む様に入り込む。

 入るこむと若者が数人乗った車が入れ違いに出て行った。

 大学生ぐらいだろうか、そんなことを主追いながら自転車をガソリンスタンドに停めると、ロダンはスタンドの店内に入ってゆく。

「よう、ロダン君」

 四十代ぐらいの顎髭を生やした男が帽子から顔を覗かせてロダンを見て声を掛けた。この人物がここのガソリンスタンドのオーナ——「マサ」さんでありロダンのアルバイトの雇い主である。

 このN地域の入り口であり、また情報の担い手ともいえる。このマサさん、平日はこんな山奥のガソリンスタンドで働いているが、週末になれば車を飛ばして日向までサーフィンに行くサーファーだ。サーファーなら海辺でしょ!!と突っ込むロダンに彼は顎髭を撫でながらニヤリとして――そんな奴も一人ぐらいいてもいいんじゃないとロダンに言って笑う。笑うと日焼けした顔から覗く白い歯がロダンには凄く印象的に映った。

 そんな彼にロダンは足早に歩きながら挨拶をすると、唐突にマサさんに声を掛けた。

「あのゥ…マサさん」

「何…ロダン君、神妙な顔つきで」

 言いながらロダンに言う。

「いえね…教えて欲しいことがあるんです」

 アフロヘアのもじゃもじゃ髪を掻きながら滴る汗をタオルで拭ってロダンが言う。

「何を?」

「…うん」

 ロダンは言いながらマサさんを見て言った。

「あのぉ…財前先生の奥さんの事と、それから、ほら…ダムがあるじゃないですか。ここって川が狭くて急流でしょう。若しかして昔、大雨とか水害があったりとかした土地柄なのかなと思いまして」




(8)



「しかしさ、ロダン君。こんなところで時間なんて潰しちゃっていいの?明日、此処を出て行くんだろう?だから今日は鬼提灯祭もあるからアルバイトも昨日までにしたのに」

 マサさんは帽子を被りなおしながら、ロダンをスタンドの奥へと誘う。時刻は午後二時を少し過ぎた頃だ。

「でも丁度いい、いま一台車が行ったところだからコーヒーでも飲もうかと思ったんだ?奥へどうだい?」

「お客、若者でしたね?」

 ロダンが誘われるまま後に付いて行く。

「おう、顔馴染み。福岡の大学から鬼提灯祭で友達連れて戻って来たらしい」

「顔馴染み?大学?」

「おう、ほら悠斗。俺の甥っ子、一丁前に車なんか乗ってさ。伯父さんに挨拶だとよ」

 笑いながら店のドアを開ける。

(…伯父さん、ああ、そうか…)

 ロダンンも店のドアを開けて店に入る。入れば渡された紙コップを手にしておかれたバリスタに置いた。

(あの二人が好きなのはマサさんの甥っ子だった…)

 この事は偶然である。

 実はこのガソリンスタンドに旅の途中ロダンが寄ったのは小雨が降り出してきてどうしようかと思い、暫しの雨宿りに来たのだ。

 すると雨宿りのマッチ棒姿の客人を見て店の奥からマサさんが声かけて来た。

 あまりにもマサさんの声が人懐っこい感じだったので、ロダンは雨宿りしながらNに来た理由——つまり財前先生の事、そして泊まる場所を聞いたのが、縁の始まりだった。

 そして上手く財前先生に会え、また詰まる場所も見つけることが出来た。それで翌日再びこちらに来た時、大きな檸檬色のサーフボードを仕舞うマサさんを見て笑いながら声を掛けたのだ。


 ――ここ山奥ですよ!!!

 サーファーなら海辺でしょう!!


 振り返りニヤリと笑うマサさんの受けを取れたのが良かったのか、ロダンはその日からアルバイトとしても働きだした。


 その受けを取った檸檬色のサーフボードは座るマサさんの後ろの壁に掛かっている。またそれだけではない。事務机の上には本が置かれておる。表紙には


 ――『海と老人』

 アーネスト・ヘミングウェイ


 それだけではない。レーコードジャケットがばら蒔く様に置かれている。

 机上に視線を向けたロダンにマサさんが言う。

「また週末、日向までサーフに行くからさ、何か車の中でも聴くジャズでも選ぼうかと思ってね」

 そう言いながらマサさんはプレイヤーに電源を入れた。すると店内にジャズが流れて来る。

「さぁ飲んでよ。音楽アプリも良いけど、レコードのノイズ感にはやっぱり勝てないねぇ」

 ロダンも頷くとカップを口に運ぶ。運ぶとマサさんが言った。

「それで聞きたいのは財前先生とこのNの昔のことだね?」



 

(9)




 ピアノのジャズがロダンの耳奥に流れてくる。ガソリンスタンドのドア窓から見える光景は九州山地の山並み。そして眼下にはいずれ別府湾だろうか、そこに注ぎいる清流が見える。

 鄙びているはずの場所で洗練された音楽がロダンの巻き髪を揺らして、やがて記憶の奥から言葉を運んできた。

「財前先生は元々ここの清流の川漁師の家でね。しかしながら抜群に頭が良くて神戸だったかな、そこの大学に行き、やがてこちらに戻ってこられたんだけど。その神戸時代に奥様と知り合われて結婚されたんだよ。奥様はだからここのNの人じゃない。だけどこんな山奥のNに良く馴染んでね、趣味がなんでも押し花でね。よくこの里山辺りを先生と散策しては草花を集めてね、植物図鑑を作るのが趣味でさ。学位が有ったかは知らないけど、よく知っていたよ、この辺の草花の事は」

 ロダンは頷く。

「原因が分からないけどね、亡くなったのは。もしかしたら先生は何か知ってるのかもしれないけど」

「そうなんですか?」

「まぁ警察とか来ただろうから、身内には死因は教えてるんじゃないかな」

「まぁ…確かにそうかもですね」

 ロダンが口元にカップを寄せる。

「それで生前の僕の記憶だと二十年以上前だから高校の頃だったように思うけど、凄く綺麗な今でいう女優の誰かに似ているといっても変じゃなかった。ほら、先生の上の子いるじゃない?」

「菜穂さん?」

 ロダンが名を呼んだ。

「そう、そう、あの子に面影が良く似ている気がするんだよね。まぁ気がするだけだけどね」

「やはり似てるんですねぇ」

 髪を掻いてロダンがカップを口に運ぶ。

「君もそう思うんだ」

「いや、菜穂さん、美人ですからね」

 カップのコーヒーを飲み干してマサさんが笑う。

「そうだね、女の子は分からない。歳をとるとぐんと変わる。ますますあの子は綺麗になるだろう。ウチの悠斗と同じ高校だったから知り合いみたいだけど、あいつとは何か中身と言うか、男女の成長の差が雲泥の差だ」

 言ってカラカラと笑う。それにつられて笑うロダン。その心の中にすこし針を踏むような姉妹の思いを秘めて。

「…それで」

 ロダンが針を隠すとマサさんに言った。

「ここNですが…」

 言われてポンとマサさんが手を叩いた。




(10)



「ああ、そうだね。君も知っての通り、そこに渓流があるだろう。そして先には広がる三日月川がある。まあここNは川と共にある様な場所ともいえる」

「ええ」

 ロダンは口元に引き寄せたカップを離すと手を伸ばしてゴミ箱に捨てた。捨てて、マサさんに向き直る。

「昔からここら辺はヤマメとか鮎とかさ。川魚が獲れてね。昭和の初めはまだ交通も不便だから当然海の魚は食えない。となるとタンパク質は猪肉とかさ、川魚になるんだよ」

「成程」

 ロダンが頷く。

「これは祖父さんから聞いたその頃の話だけど、この山向こうの熊本側に小さなお温泉街が在ってね、当時ここNで撮れた魚はこの地域で食べられるか、その温泉街に運ばれて金銭に替えられた。だから川漁師は割合裕福だったんだ。だから家も意外と大きかった。

 でもさ、ほら、見ての通り。ここら辺は雨が多くて、川幅の狭いから大水等の水害も多くてね。だからこの奥に水量調整と発電所を兼ねたダムが造られた。となると自然ダムの建設労働者がNに溢れて来るだろ?

 そうなると下の町や大分、熊本までは交通の便が悪いから、やがて川漁師達が部屋を貸すことになり、それならばという事で旅館を創り、やがて小さな旅館街が出来た。それが隣の温泉街と相まってさ、結構、繁盛したらしんだよ」

「そうでしたか。大きな家が沢山あったんですね」

 ロダンがマサさんの記憶を覗き込む様にして懐かしい情景に想いを馳せる。

 だが当の本人は現実を見つめている。その眼差しは向かいに座るもじゃもじゃアフロヘアの若者を。

 マサさんは現実を見ながら言う。

「でも今ではもうそんな欠片も見えない鄙びたとこになったけどね。その頃かな、君が今夜見る鬼提灯祭が復活して神楽が舞われる様になったのは。

 …さぁロダン君、もう時間が三時を過ぎた。そろそろあちらに戻った方が良いんじゃない?山道だと坂を上ることになる。ここに来るように坂道を下る訳じゃない。きつい坂を上らなきゃならないしね。ほら、丁度いい所に客が来た。僕も仕事に戻るよ。明日、此処を去る時に寄ってくれよ。君、また旅に出るんだろう。良い場所を教えるからさ」




(11)



 ロダンは自転車のペダルを漕いでいる。唯、ひたすら一目散に。

 急こう配ではないけれど、それでも山道の坂道は意外とつらい。勿論、土地を知らないという勘の為、終わりがどこかという心理的な閉鎖さが生み出すことには変わりないが、それでも十分肉体的にも精神的にも終わりがないことへの挑戦は辛い。

 長崎を出てNへ来るまでも沢山の山間地や峠を抜けて来た。そんな山迫る坂道においては唯ひたすらこれを抜行けて降る坂道で十分な快楽、つまり坂道を抜けた快楽を味わう事だけが愉しみだった。

 滴る汗をタオルで拭いながら一人孤独にペダルを漕いで思うのはツールだ。

 自転車レースのツールと言えばツールドフランス、ジロデイタリア等自分でも知っているレースはある。

 特にツールの山岳では人間の「足」つまり脚力がものをいう。

 それは否定できない。

 何故なら自分は現実にそれを実感しているからだ。

 そしてペダルを漕ぎながら思う事は――ただひたすらこの山岳を抜ける事…いや今は唯、旅館に着くことだ。

 ペダルは太腿の筋肉を強張らせ、そんな期待を地面に置いて行かそうとする。

 だからこそ、置いて行かれない様に無心に、漕ぐ。


 ――と、言いたいところだが。


 今ロダンの頭の中では、無数の言葉が巡っている。

 何故かそれらの言葉が一つの繋がりを持つのではないかと言う、そんな心のざわつきがペダルを漕ぎながら思わせてならないのだ。

 それが全て何かに帰結してならない。

 それは…


 ――水害の多いNで起きた戦後の鬼提灯祭の事件。

 

(ええぃ!!)

 思いに任せてロダンは頭をボリボリと激しく掻く。

(…何やろ、何やろ!!この激しい心のざわつきは!!)

 ロダンはもじゃもじゃアフロヘアを揺らして歯を食いしばりペダルに力を越える。

 この沢が近い坂道を越えれば、もう旅館迄は近い。

 ロダンは力を籠める為、一瞬、顔を横にそむけた。

 そむけた先に渓流の沢が見えた。

 清流の流れの先に岩肌が見え、そしてその向こうにロダンの心を慰める小さな紫の花の群れが見えた。

 小さな紫の野花の群れ。

 それを見たロダンの目が見開く。



 ――あ…、

 そうか!!

 そうだったのか。


 この時、ロダンはリアルに思った。


 ――あの人に危険が迫っている!!


 つまり自分が思っていた心のざわつきは全て繋がり、そして或る邪悪な悪戯を鋭く脳裏に描かせたのだ。

 彼の驚愕と正義が天秤で揺れ、彼は瞬時に言葉を叫んだ。

 それは…


「遊びだったじゃすまないぞ!!……ちゃん!!」


 彼の貌は正に朱に染まる憤怒の表情になって、全身の力を籠めてペダルを漕いだ。




(12)



 宵闇が四方から迫りつつある。

 木々の葉が覆う山道を上れば扇状に開けた里山が渓流に沿って見える。その里山の田園に無数の提灯が吊り下げられ、それが迫る宵闇を待っている。

 だが未だ夏の太陽は地平には沈まず、代わりに空に月が見えた。

 しかし今のロダンにはそのような風情を楽しむ心の余裕がなかった。彼は自転車を投げ出すように旅館に置くと駆け足で一目散に走り出した。

 彼はどこへ走り出したというのか。

 額に滴る汗を手の甲で拭き、祭りへ行こうとする人影をまるで猿が木々を跳び越すように抜けてゆく。

(…いけない)

 彼は心の中でどれ程その言葉を繰り返しただろうか。やがて彼の大きな足は神社の石段に掛かる。そして彼は大股で石段の階段を二、三段跳びで飛ばして駆け上がると、やがて祭りの準備の為に集まり始めた関係者達を掻き分ける様に社殿へと走り出す。

 いやもっと正確に言えば、あの社殿の壁に掛けられた――神楽面の処に。

 ロダンは社殿の引き戸を引いた。

 引くとその奥に人影があった。

 見えたのは財前先生だった。先生は神楽面を手に取り、突如息を切らして現れたロダンを見ている。

 ロダンはその姿を見て一瞬よろける様に数歩足を出したが、やがて膝に手を突くと大きく息を吸ってから、先生の方に顔を向けて言った。

「…良かった、間に合って」

 彼が息を吐く様に漏らした言葉に先生はきょとんとした表情のままロダンに言った。

「どうしたのロダン君、息を切らして。まるで何かがあって駆け込んで来たみたいに」

「先生」

 ロダンは強い口調で言った。

「その手にした神楽面の裏側に絶対手を触れちゃだめですぜぇ!!」

 思わず、自分が以前演じた江戸の股旅者口調になって、大きな声を吐きだす。

 それから大股で先生の方へ歩み寄るとロダンは言った。

「先生、聞きますが。この面の裏側には手に触れてませんね?」

「え?裏側。いや…まぁ、こうして持ってるから触れてないことも無いけど」

 普段とは違う強い口調のロダンに少しにじる様な焦りを感じながら先生が答える。するとロダンは首に巻いたタオルを取ると、先生から神楽面を奪い、先生に言った。

「先生、いいですか。絶対その手で口に触れてはいけない。早く手を洗ってください」

 言うやロダンは社殿の引き戸の外に出ようとする。

「…ロダン君、それどうするの?これから舞子の巫女頭が被る物なんだよ」

 先生の慌てる声にロダンは振り返ると、彼はやや悲し気な眼差しをして言った。

「先生、一緒に下の沢迄降りましょう。そして残念ですけど、今夜、この面を被って志保ちゃんは巫女舞をすることは出来ませんぜ」

「何だって?」

 先生の驚きが社殿内に響く。

 ロダンはその驚きに動じることなく冷静に言った。

「——思春期だから、という事ではすまされないところでしたよ、先生」



 

 



(13)



 

 神楽面をタオルで包みながら小脇に抱えて沢へと降りて行くロダンの姿は道具箱を小脇に抱えて歩く江戸の頃の大工職人の様に見える。

 もし口にキセルでも加えれば、よりもっともらしく見えるだろう。然しながらロダンは今それらを演じているわけではない。

 現実にある事実を証明するために水辺の沢へと降りてゆく、――極めて現実的な科学者のような心持だ。

 それを証明する相手である人は後ろからついてくる財前先生。

「先生」

 ロダンは大きな岩が見える場所で立ち止まって降り返る。

 ロダンはいつもあの岩の上で寝そべるが、今は違う。

 彼はそこで屈むと小さな水溜りに膝をついた。膝をつくとロダンの瞳に川魚の群れが一列になり、ロダンの人影から逃れようと方向を変えるのが映った。

 財前先生はじっとロダンが何をするのかを見ている。

 彼は無言で宵闇迫る夕暮れの中で神楽面を包んでいるタオルを広げた。そこに見えるのは財前先生の次女、志穂が被る神楽面。それは白地に塗られた女顔の面だ。

 ロダンが言う。

「…先生、お手はもう洗われましたか?もしまだならばそこの沢で洗ってください。きっと濃度が薄いものならば…害はない筈ですから」


 ――濃度が薄いものならば…害はない筈ですから


 言われた瞬間、先生は瞬時にはっとして目を見開いた。

 見開いてはっとした先生はまさかと言う信じられない表情になり、急ぎ沢の中に手を入れると、じゃぶじゃぶと音を立てて川水で手を洗い流してゆく。

 そして洗い終えると先生はズボンからハンカチを取り出し、急速に白くなった顔つきでロダンをまじまじと見た。

 そう、先生は何か核心を得たのだ。

 そしてロダンはその事実を今公にしようとして、神楽面を水だまりの中に入れた。


 ――入れて数秒…

 急に川魚たちの群れは息が苦しそうに水中をぐるぐると動き回るとやがてぴょんぴょん跳ねる様に飛び出した。


「まさか、面に…!!」

 しかしながら先生は驚きの中でもさもこうした結果が出るだろうと予測していたのか、次の瞬間には冷静になってロダンの側に屈みこんだ。

「…まさかあれが、塗られていたなんて」

 ロダンは先生の顔を見上げた。先生の顔は宵闇せまる中、青白くなってゆくが、そこに浮かぶ表情には何かを隠し切れなかった後悔が浮かんでいた。

 その後悔を共に苦しもうとロダンは精一杯の優しさと慰めを籠めて先生に向かってポツリと言った。

「これはやはり、毒…。そう、恐らくですが、トリカブトですね、先生」

 言ってからロダンは頬を震わせながら白蝋の様になってゆく先生を静かに見つめた。



(14)




 ロダンは言う。

「…そして恐らく先生の奥様が亡くなられたのはトリカブト。それはもしかしたらこの付近で自生するトリカブトの亜種かもしれませんが、奥様はその猛毒を知らずに押し花の最中に出て来た花汁を不注意で舐めてしまい亡くなった、違いますか?」

 財前先生は黙して語らない。

 水だまりの上で浮かび上がる川魚の死骸が、水に押し出されてやがて流れて行き、二人の面前から消えて行った。

 ロダンは続ける。

「僕、思ったんです。先生の奥様が亡くなられた原因が正確には分からないなんて。でもですよ、きっと先生は知っている。当時も警察は検死したでしょうから。そこで僕、このNの事を聞くうちに不思議と何か思いつくことが有ったのです。

 水辺と言うのは自生する草花が在って、意外にも毒草というのもあるんです。その代表がトリカブト…そしてね、先生。昔この付近では沢山の川魚が獲れたらしいのですが、網なんて投げ入れられない清流では釣りでは魚数は確保できない。そうなるとですね、、これは禁じ手ですが、川に…」

 そこまで言うと先生がロダンの言葉に重ねる様に言った。

「毒を混ぜて魚を捕まえるのさ…」

 ロダンはそこでじっと黙つた。

「ウチも代々川漁師一家だったから、沢付近に自生する毒草の事は知ってた。知ってたどころじゃない。毒を中和させて痺れ薬にする家伝の調合表まであったくらいだからね」

 ロダンは頷く。

「…妻は、野草を集めるのが好きだったのだけど、それは趣味でね。だからこの辺りに自生する紫の花を咲かせるあれがトリカブトだったなんて知らなかったんだ。

 紫ってスミレの様に押し花とかにすると素敵な色合いが出るらしく、ある日それを一人で押し花にしていたんだ。もし、それに僕が気付いていれば勿論止めていたのだけど、その時、僕は不在でね…」

 ロダンは後悔というものが先生の背を曲げているような気がした。

「そうでしたか。しかし先生、その事は娘さん達には黙っておられたのでしょう?」

「勿論、娘だけじゃなく親類縁者全てにね」

「でも、やはりどこかで漏れてしまうんですね」

「聞くけど、ロダン君。じゃぁこの事、誰の仕業だと?勿論、悪戯じゃすまないだろう、面を被れば口元に触れ、やがて舐めてしまうだろうからさ。君ならもう分かってるんだろう?」

「里穂さんですよ」

「里穂!?」

 先生が驚愕する。

 ロダンは髪を掻いて言った。

「ええ、いや、娘さんはきっとお母さんの事を調べたんでしょうね。幾つかの可能性をパズルのように組み立てて、事実へと向かう事は誰にでも出来ることですよ。ネットで調べれば事実に辿り着くのに時間はかかりません。いくら長きに渡って秘匿した事であっても。でも、然しながその事が調べて分かったとしてもこの事実を利用しようとした動機は…やはり、思春期故の行動ともいえるのかもしれません」

「思春期故の?それは?」

 先生が眉間に皺寄せる。

「恋ですよ」

 ロダンははっきりと言った。

「恋?」

「妹に好きな人を取られたくないという思春期故の恋の嫉妬」

 驚く先生が、ロダンの言葉をなぞる。

「…嫉妬」

「ええ、娘さんお二人が好きな方が居るのは御存じでしたか?」

「…いや、それは…」

 先生がたじろぐ。それを見たロダンは諭す口調になって言う。

「ですよね。父親っていうものはそんなものかもしれません。子供のそうした敏感なところは母親の方が機敏に感じるものですからね」

「じゃぁ二人には同じ想い人が?」

「…ええ」

 ロダンは言いながらも鼻白いだ。どこ青春を生きる少女たちの心の中に手をぐるぐるかき混ぜるように感じたからだ。

 だが、ロダンは話を続ける。

「まぁ、その人物の名は伏せときます。青春の輝きにある名を、こうした悪戯で穢すのは良くないともいますので」

「じゃあ、里穂が志穂に対して嫉妬して、つまり…こうした悪戯をして、恋心を奪おうと」

 娘たちの不遜さをなじる父親が其処に居た。ロダンはその父親の心に言葉を続ける。

「まぁでしょうね。だって神楽で舞う巫女舞と言ったらちょっとした地域の花形でしょう?綺麗に着飾り、恋い慕う人の前で舞いを舞うなんて…恋を成就させるために相手を絡め取る女性独自の魔法としては抜群の威力でしょうし」

「それは子供の浅はかさだよ、恋なんていくらでもこれから叶える方法は学ぶだろうに」

「ですがね、それが子供でそして子供が考え得る精一杯の努力なんですよ。大人になるとそうしたことに段々と鈍感になってしまう…まぁ先生もそう思う節が心の何処かにありませんかね」

 先生は小さく――そうだね、と呟いた。

 ロダンはそんな先生の背に手を遣ると神楽面を丁寧にタオルで拭いて手渡した。

「それで、どうすべきかだけど」

 先生が呟く。

「まぁ先生。こうして面が濡れているのですから、今回の神楽では面なしで舞ってもらいましょう。なぁに、綺麗に美しい顔を見せて踊るのも素敵じゃないですか。確かに伝統的には巫女舞の頭は被るのでしょうけど、今年はそれでしてしまえばいい。ほら、まぁ大人的事情という事で、隠しちゃいましょう」

 ロダンは大きく笑うともじゃもじゃ髪を掻いてから首をぴしゃりと叩いた。

 それを聞いて先生もやや気色を取り戻したのか小さく頷いた。

「そうするか、しかし、悪戯をした里穂には僕から何か言わないと、父親としての示しが立たない」

「ほう?どうします?」

 ロダンが先生を見る。見るが眉間に皺を寄せて黙っている。それを見てロダンが笑う。

「先生、娘さんには甘いようだ。よし、ならばこの四天王寺ロダンに躾けという罰を与える良い考えがありんス」

 言うやロダンは先生の耳元で何かを告げた。告げられて先生は「…良し」と言うとロダンに言った。

「里穂にはそれぐらいの罰を与えてやらないとね。それにまだ舞が始まる迄時間はあるし、当の里穂も社殿に来ている。娘も踊りは知らないわけじゃない。たまにはそうしたハプニングがあるという事も教えてやらねば、当人達の恋の行方は知らんが、罰の行くへは今はっきりとしておくよ、思春期の娘を持つ父親の威厳としてね」

 ロダンは聞きながら笑った。

 笑ってそしてロダンは、大きなため息をついて先生に言った。

「それでね、先生。昔の事件の事ですがね、きっとそれもこうした「恋」がらみではなかったかと思うんですよ。

 当時ダム建設で沢山の若い労働者が来ていたでしょう?であるのなれば、双子姉妹が同時にある人物を好きなることも可能性としてはあるでしょう。それで二人とも川漁師の家ならば、こうした毒草の調合も出来たのだと思います。

 ――それで、ここからは僕の推測ですよ。

 恐らく亡くなった方は殺すつもり何てなかった。今回みたいにちょっと舞いを踊る最中に悶絶させて恥をかかせてやろうかという程度だったのかも知れません。だから意外な結果に当人は驚愕して、やがて神楽面を調べれば自分がしたことが露見するのは間違いないでしょうし、だからもしかしたら、この清流の奥深くに身を投げたのかもしれません。

 じゃぁでも死体が無いのは何故か?

 想像するに、もしかしたらこの沢の何処かにある岩下に埋まっているかもしれません。ネットの記事を見ていたのですが、そうした大水害の記事を見つけたんです。

 全ては想像ですけど、でも事件事故と言うのは偶に人間の英知を越えたところに真実を隠すことがあります。まぁそうした事を、僕思ったので今話してみました。

 では、社殿へ行きましょう。先生のとっておきの罰を受けた里穂さんを僕も見たいですからね」



 

(15)



 鬼提灯祭の翌日、ロダンは自転車の荷台に荷物を詰め込むと旅館の受付にいつも枕元に置いていた折口信夫の本と一緒に置手紙を残して玄関を出た。

 見上げる陽は高い。

 財前先生は朝から祭りの片づけで朝から不在だった。その事は昨日のうちにロダンは知っていたから旅費の支払いを既に済ませていた。唯、少し旅の余韻ともいうのか名残惜しさが在って手紙を置いた。

 内容はなんてことはない。


 ――先生、

 短い間でしたが民俗学や地方の歴史というものについて大変勉強になりました。

 もし関西へお越しの際はご連絡下さい。


 ではいづれの時にまた。


  四天王寺ロダン



 ロダンは自転車を押し出してペダルを強く踏み込んだ。踏み込んで旅館から下る坂へ出ようとした時、自分を呼ぶ声がした。

「ロダンちゃん!!」

 ブレーキをかけて振り返る。振り返れば走って来る志穂の姿が見えた。彼女は走り寄るとロダンへ笑顔を見せた。

「行くの?」

 ロダンは頷く。

「ほんまに寂しくなるなぁ」

 関西弁で話す彼女の眼差しが少し翳る。それを見てロダンがにこりと笑う。

「まぁしゃーないよ。僕は旅人やしね。いつまでも同じ場所にはいられないんや」

「まぁね」

 それからふふと笑う。

「昨日の巫女舞見てくれた?」

「見たよ」

「どうやった?」

「中々、綺麗やったよ。あれやったら悠斗君の心を奪えたんちゃうかな?」

「ほんまに?ほんまにそう思う?」

「思う、思う」

 ロダンは思わず相好を崩す。

「そっか、しかし昨日はお姉ちゃんが大変だったね。急にお父さんに巫女舞を踊れって言われて。本当にもうてんで駄目でさ。笑い声も有って結構、恥かいてかなり気持ちへこんだみたい。だって悠斗君の前で大失態だもんね。でもさ、まぁ狐の面を被っていたからお姉ちゃんかどうか、悠斗君には分からなかったかもしれないけど」

 ロダンは話を聞きながら「そうだね」と頷く。しかし彼女の気持ちを押す様に言う。

「まぁこれで一歩リードかも知れへんね」

 気持ちを押されて満足するように志穂が言った。

「リードしたよ。大分ね、昨日の志穂ちゃん、凄く綺麗やったから、悠斗君の心掴んだかもね」

「ほんまに?やった!!ロダンちゃんに言われたらマジでそう思うわ」

 言うとニヒヒと笑う。

 そして笑いながら彼女がロダンの耳元で囁く様に言う。

「ねぇ、ロダンちゃん。…ウチとさ、軽くセックスでもする?」

 あまりにも唐突な突飛な言葉に思わずロダンは仰け反ると自転車を倒してしまった。

 幸い荷物は崩れなかったがロダンの心臓がバクバクと張り裂けんばかりに鼓動が強くなり、困惑と恥じらいが入り混じった顔つきなった。みるみる顔が手に染まり、言葉を選ぼうとするロダンの脳みそが爆発しそうになってがむしゃらに髪を掻いた。

 その表情と仕草に隠された意味が志穂にも分かったのか、彼女は大きな声で腹を抱えて笑った。

「嘘よ、嘘。これは次のラウンドで私が恋を叶えるために行動することよ」

 あまりにも陽気に騒ぐ彼女の声にロダンは自分がからかわれた意味と同時に真面目に捉えてしまった自分を恥じて、余計にがりがり髪を掻いてそれから何度も何度も首を叩いた。

 その仕草を見てアフロヘアの下を覗き込むようにして志穂が言う。

「いやぁ御免ね、ロダンちゃん。からかったりして」

 幾分落ち着きを取り戻してロダンが言う。

「いやぁ。リアルに驚いたよ。そんな事、志穂ちゃんが言うなんてさ」

「そう?」

「そうだよ」

「意外?」

 彼女が無邪気に言う。

「うん」

「でもね、ロダンちゃん。女の子だから、そんなことをおくびにも考えていないなんてことは無いのよ。「恋」は戦い。いざとなれば女の子は大変な戦略家よ、だからこの肉体を駆使してでも勝利を掴むのが女よ!!」

 言ってニヒヒと手を口に当てて笑う。

 ロダンもそんな志穂と顔を突き合わせるとやがて互いに笑い声を上げた。

 やがて二人の笑い声がどちらからともなく消えると志穂が言った。

「…で、次は何処に行くん?」

「そうだね。これからガソリンスタンドのマサさんの所に行ってどこか良い場所がないか聞くよ。マサさんには何でもいい場所があるらしい」

「そうなんだ」

 瞬時の間に沈黙が流れた。流れると志穂は後ろを振り返った。

「やっぱり、寂(さみ)ぃね」

 後ろを向いたまま志穂が言った。

「ロダンちゃん、ここNの事忘れんといてね。勿論、ウチの事もね」

「うん」

 そうロダンが答えた瞬間、急にロダンの唇に柔らかい感触が触れた。

(…あ、)

 何かが触れた、そう思った時には既に志穂はロダンに背を向けて走り出していた。走り出しながら、彼女はロダンに振り返り、大きな声で言った。

「ありがとう!!ロダンちゃん。ウチ、忘れへんからね!!」

 走り去ってゆく彼女の背を見て、ロダンは思った。

 偶然、自分が此処に旅人としてやって来たとはいえ、彼女の未来と運命を自分が守ることが出来ことは、これからの人生で小さな誇りになるかもしれない。

 それから彼女が最後に言った――ありがとうの意味。

 それがどういう意味なのか、然しロダンはその答えを追求することなく再びペダルに力を籠めた。追及なんぞは所詮、旅人の余計な詮索といえるだろう。

 自分はここNを出るのだ。

 後事は此処に残る人々に託すだけではないか。



 坂道を下れば九州山地に囲まれた扇状に広がる田園とそれに沿うように流れる清流が見える。

 田園を撫でる風が吹けば自然とロダンの首筋を伝う汗が流れた。

 ロダンは思う。


 ――此処Nは美しい日本の里山なのだ。


 やがてロダンが漕ぐ自転車は坂道を下りガソリンスタンドに辿り着いた。それは次なる目的地への案内図を手に入れる為に。

 ロダンを出迎えたマサさんはロダンに地図を手渡す。

 手渡すと彼は言った。


 ――そこでは僕の紹介だと言ってくれ。

 この田中マサの紹介だとね。


 ロダンは頷くとやがて地図をズボンのポケットに入れて彼に笑顔を残して自転車を漕いでゆく。

 そして見送るマサさんの視界の中でやがて揺れる大きなマッチ棒の姿になったが、暫く行くと大きな通りの曲がりに来て、自転車を停めた。

 ロダンは振り返る。

 振り返るとロダンは軽く湧き上がる惜別に鼻を摘まんだ。しかし摘まんでからやがて自分の指を柔らかい感触が残る唇に触れて、それから静かに手を振った。

 もう二度と来ることがないだろう、美しいNへ別れを告げる為に。



 

(16)




 財前先生が再びロダンの名前を思い出すことになったのは、九州北部を襲った豪雨災害の後だった。

 九州北部を襲った豪雨は渓流を渦巻く濁流に変え大きな爪痕をNに残した。豪雨により渓流の大小の岩は濁流の為に流され、堤防を越えて溢れた濁流によってNの田畑の多くは水没した。それ程までにこの豪雨災害は大きかった。

 然しながら豪雨が引いた後、奇妙なものが発見されたのである。ロダンが寝そべって過ごしたあの大岩の下で白骨化した遺体が見つかったのである。

 これを聞きつけた新聞記者はこぞって新聞に書いたが、いち地方新聞の記事だったのでそれをロダンが見ているかは不明だ。

 まさに彼の推理の見事さと言えるだろう。


 財前先生は彼が残した折口信夫の本を開く度に思う。

 彼はまるで九州に伝わる伝説の大男、大大法師、つまり——だいだらぼっちのようだ。

 だいだらぼっちは九州南部の勇敢で優しい隼人が神格化された存在だと自分は思っている。


 ――正に彼がそうではないだろうか。

 

 娘が犯した未遂事件、その事について彼は娘に語った形跡がない。彼は胸中深くに秘めてくれたのだ。

 では、自分は胸中に隠したのか。

 それについて自分は彼から学んだことがある。

 

 ――隠していてもいつかはバレる。


 そう、いつかはバレる、

 だからこそ、

 まぁ良い、

 本当に父親と言うのは…

 

 そこで自分の想いを切るように、先生は本を閉じた。

 閉じて瞼を瞑り、やがていつか会うかもしれない四天王寺ロダンの大きなマッチ棒姿を脳裏に思い描くと誰も居ない書斎で静かに微笑を浮かべた。

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ミステリー短篇集『嗤う田中』 日南田 ウヲ @hinatauwo

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