第2話

 真紀は疑問が渦を巻く頭を抱えながら、昇降口を見遣る。入り口のひとつに大きな模造紙が掲示されていた。新入生のクラス分けだ。一年二組の列に自分の名前を見つけた。持参した上履きを抱え、自分の靴箱の前で靴を履き替える。一年生の教室は校舎の四階だった。公立高校にエスカレーターやエレベーターを期待する訳にもいかず、真紀は階段をぽたぽたと登った。


 入学試験以来となった校舎は、他人行儀に真紀を迎えていた。すれ違う人はおらず、半ば放心状態の真紀は踊り場に着くたびに自分の居場所を確認した。三階と四階の間、これを登れば一年生の教室が並ぶフロアに出る。真紀はゆっくりと階段に足をかけた。


 今までの十数分のことが頭の中を目まぐるしく駆け巡る。男の子に腕を掴まれて空を飛んだ。どう考えても現実としか言いようのないリアルな感覚が、夢だ幻だと言い聞かせようとする理性をことごとくねじ伏せていく。男の子にあれだけ接近されたのは、小さい頃を除けば初めてのことだった。風の間から感じた確かな体温は、やはり本物のように思えた。


 階段を登りきり、廊下に出る。一年一組と札のかかった教室が見えた。その向こうが二組だ。真紀は意外に密やかな廊下を歩き、開け放たれたドアから教室に入った。薄いベールのような何かが首元を撫でたような感触にひやりと肌が粟立ったが、それもすぐに気にならなくなる。何しろふと目についたクラスメイトが宙に浮いていたり、光の中から突然現れたりする姿が矢継ぎ早に真紀の視界に飛び込んできたのだ。真紀は見て見ぬ振りをした。何かの間違いだ、落ち着け、落ち着け……。そう自身に言って聞かせ、自分の席に向かう。


 出席番号順に配置された席の一番目、窓際最前列が自分の机だ。バッグを下ろし、小さく首を振った。今すぐ、耳を塞ぎ、目を閉じたかった。続々と登校してくる生徒にあって、すでに真紀の席の後ろにも女生徒が座っているのが視界の隅に映った。


「おはよ。大丈夫?」はっきりとした声に憂いを混じらせ、その少女が声をかけてきた。

 反射的に向き直った真紀を待っていたのは、小型の爬虫類を思わせる動物の顔だった。鼻の上にとさか状の角を生やし、やや横を向いた眼球がくりくりと動いていた。ただ、普通のトカゲと違い、それには小さいけれども翼が生えていて、どうやら自力で飛行しているらしかった。腕や背中は堅そうな鱗で覆われていたが、その翼は薄い皮膜のようで、うっすらと血管が浮き出ている。ゲームやアニメで見るドラゴンとしか形容できないそれと目が合い、カパっと口が開いたかと思えば突然火を吹き出すものだから、真紀はとっさに体を反らせ、バッグを胸元に引き寄せた。


「ごめんごめん、驚かせちゃったね」そう言って気安そうに笑いかける女の子は、どこからどう見ても同年代と思える潤いを湛えた瞳を真紀に向けた。透き通るほどに青い瞳に、真紀は直前の驚きを忘れそうになった。「私は一色アリス。この子はアビーって言うんだ」


 アリスは「よろしくね」と重ね、それに合わせてアビーが「くわ」と喉を鳴らし、その場でくるりと宙返りをした。真紀は目を白黒させながら自分の氏名を名乗り、アリスとアビーを交互に見ながら、椅子に浅く座った。空を飛んだ浮遊感が抜けきらない体が、再び拒否反応を示す。


「えっと、これはどんな仕掛けで飛んだり火を吐いたりするの?」

「仕掛けも何も、そういう生き物だし」アリスは首をかしげる。「鳥が飛ぶのと同じだよ。火は、確かにちょっと珍しいかもしれないけど」

 アリスはこちらの戸惑いなど意に介さないばかりか自慢げだった。真紀が向けた指をアビーがじっと見つめていた。寄り目になったその顔は愛らしくなくもなかったが、いつ口を開けて指を噛まれるかわかったものではなく、真紀はそっと手を戻した。


「でも、ドラゴンなんて……」いるはずがない、と続く言葉を真紀は寸前で飲み込んだ。アリスが不安そうな顔で真紀にじっと視線を寄せていた。試すような目、世界を違えるものを見る目だと気づいた真紀は、「私はあんまり縁がなくて、なんて種類なの?」とアリスの目を見て言った。


「アビーは〈ガルディス〉って種類なんだけど、よく人に懐くし、昔からサーバントとして重宝されているの」

 アリスがアビーの喉を撫でる。気持ちよさそうに目を閉じて尻尾を振るドラゴンの異形を視界に入れた真紀は、もう驚くのをやめた。昨日までの日常とは違う『日常』がここにはある。それを認めない限り、先に進むことはできそうもない。それは単なる先送りに過ぎないのかもしれない。自分でも何が正しいのか判然としない中、先程までの戸惑いがすうっと引いている心の内奥も覗き込んだ真紀は、結局はアリスの悲しそうな顔を見たくなかったのだろうとひとり納得した。


「かわいい、よね」

 ドラゴンにその形容がふさわしいかどうかはともかく、真紀の答えに満足したのか、アリスは笑顔を浮かべ、アビーも「くわ、くわ」と喉を鳴らしながら真紀の周りを飛び回った。


「そろそろ行こうか。体育館」

 アリスがアビーを肩に乗せ、真紀を誘う。その時、「新入生は、出席番号順に廊下に並び、一組から順番に体育館に入場してください」とアナウンスが入った。それまで意識の外に置いていたクラスのざわめきが一層大きくなる。

「歩くの?」

「ダルい」

「ゲート開けて行っちゃおうぜ」


 教室の真ん中あたりではそのような会話が飛び交い、後ろの方では何やら光が発しているようで、実際にどこかへ通じる空間ができているような雰囲気があった。教室の後ろからベランダに出ようとする生徒は、おそらく恵庭と同じように飛ぼうとしているのだろう。入学式もまだではクラスにまとまりなどあるはずはなく、恐らくは中学からの友人やその繋がりでできたグループ同士で勝手気ままに行動しようとしているのだ。


「だめだよ。入学式くらい、ちゃんとしないと」

 そこで唐突に声が上がった。アリスの後ろの席についていた女の子が立ち上がり、クラス中に響く声で呼びかけたのだ。腰まで伸びたまっすぐな黒髪が、開いた窓から吹き込む風に揺れる。静かになったクラスメイトの視線を一身に浴びながら、屹然と佇むその姿は凛々しかった。


 ひとり矢面に立つその女の子のことが心配になる。学校という狭い世界で、目立つ行動をとれば必ず極端な反応となって跳ね返ってくる。好意的に受け止められればいいが、そうでなければイジメの対象になってしまうこともあるのだ。

 真紀は内心ひやひやしながら様子を伺っていたが、水を打ったように静まった教室で、彼女を見返すクラスメイトがさっきまでのはしゃいだ空気を吸い取られたように虚ろな目になり、「そうだな、歩いて行こう」と口々に発し、ある生徒は謎の空間を閉じて、また別の生徒は窓を閉めて、ぞろぞろと廊下へと出ていった。唖然とその後ろ姿を見送っていたが、廊下に出なければいけないのは自分たちも同じだった。


「ほら、あなたたちも」と振りかけられた声に「うん、ごめんなさい」と生返事をした。アビーが「くるる」と喉を鳴らす。真紀が先頭になり教室を出ると、すでにクラスメイトは放送の通り出席番号順に並んでいた。真紀とアリス、そして黒髪の彼女の三人が列に加わると、しばらくして一組の列が進み始めた。少し間を置いて、真紀はそれに続いた。


「さっきはすごかったね」

 ちらりと後ろを伺うと、アリスがその少女に話しかけていた。列は階段に差し掛かり、少し歩みが遅くなる。それに乗じてアリスは真紀の隣にするすると近づいた。

「そんなことないって」

「私アリス」振り向いたアリスがエヘヘと笑う。黒髪少女はそんなアリスに穏やかな目を向け、「奥寺夏希」と短く言った。


「こっちが真紀ちゃんだよ」

 アリスが腕を絡ませ真紀に体を寄せた。反動で後ろを振り向くことになった真紀は、夏希に「五十嵐、真紀です」と目を合わせた。茶色の瞳が真紀をじっと見つめ、「そっか」と短く呟いた。


「でもさ、これだけの人数にって、やっぱりすごいよ」

「バレたら怒られるから、言わないでよ」

「バレない自信がなきゃやらないでしょ」


 階段を降りながら話す二人の声に耳をそばだてる。クラスメイトを対象に何かをした、ということは、夏希の能力は人を操る類のものだろうか。空を飛んだりドラゴンを従えたり瞬間移動めいたことができたり、やはりこの学校の生徒は普通ではない。一体、これから自分はどうなるのだろう。早くも意気投合する勢いのアリスと夏希の声を聞きながら、真紀は不安の塊が渦になり胸の中をかき回すのを感じた。

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