過去(2)

夜に蠢くもの

 グレイスが南方自治都市連盟の学校への入校が決まって程なく、借りを返す機会が訪れた。


 それは近隣の集落で収穫祭が催される日のことだった。


 いつものようにグレイスがマリアの部屋を訪れると、そこに男子がいた。


 寄宿学校の自室に異性を連れ込む不届き者がいると言う話はグレイスも聞いたことがあったが、マリアはかりそめにも帝室に連なる貴人である。そのような破廉恥な真似が許されるはずが――。


「誤解しないで、グレイス。彼はそうではないの」


「そう、とは?」


「……赤面するくらいなら聞かない方が良かったのでは?」


 よくよく見ればまだ十歳になるかならないかの子どもだ。情人であるはずがない。グレイスは己の浅はかさに思い至りますます顔を赤くした。勇武においては校内に比肩しうる者のいないグレイスだが、この方面では誠に初心うぶであった。


「とにもかくにも紹介した方が良さそうね。彼の名はトール・ゴールデンフリース。わたくしの母ちがいの弟です」


「なんですって?」


 すうっと血の気が引いた。マリアの言うことが本当なら、帝都に居を構える歴とした帝位継承権者だ。順位こそのマリアよりも更に低い十二位だが、本来ここにいるはずのない貴人である。


「抜け出してきたのですか?」


 思わず口調が厳しくなる。少年がびくりと背筋を震わせた。


「わたくしがそうさせたのです」


 少年に代わって答えたのはマリアだった。


「……トールには隠居したわたしの乳母の下で、身分を隠して暮らしてもらいます。残念ですが、今の帝都にはこの子の生きる場所はありません」


 政治には疎いグレイスと言えど、後、帝国の政治情勢が刻一刻と悪化していることくらいは側聞していた。六王国の王たちはそれぞれ自国と近い継承権者の後見人となり、いよいよ政争を本格化し始めている――グレイスの父もその一人だった。


 そのような情勢下で、順位こそ低いとは言え紛れもない継承権者の一人が、何の後ろ盾もなく帝都にいることは、狼のねぐらに鶏を住まわせるようなものである。だから八方手を尽くしてトールを逃がすことにしたのだと、マリアは説明した。


「今頃帝都は大騒ぎになっているのでは?」


「きっとそうでしょうね」


 マリアは突き放すように言った。この件でトールに側仕えしていた者が詰め腹を切らされることになったとしても、感傷を持つことはないだろう。聞く者にそう思わせるひどく冷たい声だった。


「ここも長居はできません。だから収穫祭の賑わいにまぎれて今夜のうちに脱出しようと思います。わたくしが迎えの者を連れて来ますので、貴女にはそれまでの間トールと一緒にここにいてもらいたいのです」


 そしてマリアは縄ばしごを使って、窓から外に出て行ってしまった。


「……トール様はこれで良いのですか?」


 グレイスがマリアの弟にそう尋ねたのは、彼女が出て行ってから半刻後――日が暮れる少し前のことだった。


「逃げることしかできないなど、不甲斐ないと思いましたか」


 幼い帝位継承者は、その歳にしては大人びた口調で尋ね返してきた。


「そうは思いませんが」


「一つ確実に言えるのは、サカトゥムに居続ければぼくは死ぬということです。


「悔しくはないのですね」


「母親違いの姉が、ここまでのことをしてくれた。ぼくにはそれで充分です」


 嘘だろうとグレイスは思った。思ってから気がついた。マリアが自分を招いた理由のひとつに。


「悔しければ悔しいと言えば良く、悲しければ悲しいと泣けば良いのです。少なくとも、いまだけは」


 噛んで含めるように言うと、マリアの弟ははじめて年相応の顔になった。


「マリア様はすぐには戻られません。ここにいるのは素行の悪さが災いして国を追われた無頼の娘だけ。どうぞこのひとときは、トール様の思うままに」


 少年は、肩をふるわせ、涙で頬を濡らしながら、己の無力を呪う言葉を吐き出し始めた。およそ帝室に連なる貴人のすべき態度ではなかったが、グレイスには不思議と少年のその弱さが好ましく感じられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る