終幕


「リリー殿、ここに来るまで森でクマに遭遇したことはないのか?」


「クマ?」


 王は突然そんな質問をリリーに投げかけた。もちろん森でクマなどとは遭遇した事はないのでなんの話かわからずに聞き返す羽目になる。


「そうだ。クマだ」


「クマ? あのでっかいクマか?」


「そうである。あのでっかいクマだ」


 ふむ、ともう一度記憶を探ってみるが、クマに遭遇した覚えはやはりなかった。


「遭遇しとらんの。なんじゃ、クマが出るのか?」


「そうだ。最近人を襲うクマが出ると報告があったのだ。衛兵を探索に向かわせたら見事に返り討ちにあってな。教会騎士団が動くという話まで出ている」


「それは話が大きいの」


 たかがクマ一匹に教会騎士団が出るなど聞いたことがない。それほどの事態だというのだろうか。


「魔獣か?」


 魔獣というのは魔女が造り出した獣だ。それは実験を経て完成される。自分に従わせる獣を自らの手で造り出す。より強力に。


 それらは人間の手におえるものではない。これが魔女が嫌われる一つの理由だ。失敗作の魔獣を外に放つのだ。それは自然を破壊し人間をも襲う。自然の摂理を狂わせる化け物。


 王はリリーが持ってきた薬を一飲みして続ける。


「……可能性は、ある。かなりの被害で出ておるのでな。そろそろどうにかしなければならんのだ。この王都は森に囲まれておる。どの道も、森に這入って森を抜けてこの王都へとやって来る。その森のどこかに魔獣の人喰いクマがいると噂が流れてみよ。誰も王都へと来なくなってしまう。そうすれば物流が止まる恐れがある」


「まぁそれは死活問題じゃろうな」


 リリーはあくまで他人事のように答えた。


「儂に退治せい。とか言うのかと思ったわい」


「さすがに薬以上のことは頼めないだろう。それにリリー殿に何かあれば、それはイコール私の命に関わって来る問題になってしまう」


 リリーがいなくなれば薬がなくなる。そうすると困るのは王自身だ。


「だからクマが退治されるまで気をつけるのだ」


「気をつけるのだと言われてものぉ。どっちみち儂だって森を通ってくるんじゃ。遭遇したら遭遇したときじゃろ」


 王は聞いてはいけないだろうと思いつつも、重く口を開いた。


「……リリー殿は……その、強いのか?」


 見た目が十四、五の少女に聞くセリフではないのはわかっている。だが、リリーは魔女だ。


「まぁ森で儂にかなう者はそうそうおらんじゃろうなぁ」


 傲慢な言い方ではない。本当に事実を言っていると感じだ。


 花の魔女と謳われるリリー。森は当然植物だらけだ。その全てを操れば敵なしだろう。だからどんなに大きなクマだろうとも恐れるに足らない。


 それに。


「まぁクマは感覚が鋭いからの。相手が人間か魔女かはすぐにわかるじゃろ。そして自分より圧倒的に強い者を襲ったりせぬわ」


 だから何も心配することはない。そう聞いて王は納得してしまった。人間を超えた魔女。その深淵の深さを垣間見た気がした。


「だが、一応は頭の片隅にでも入れられておくがよいだろう」


「へいへい。ご忠告どーも」


 きっと家へと帰るころには綺麗さっぱり忘れていることだろう。そんなものは心配のうちに入らない。


 しかしリリーはもっとも重要な事を忘れていた。クマの行動範囲がどれぐらい広いものなのかを知らなかったのだ。


そしてリリーは今現在一人身ではない。








 ある日の昼下がり、アルビノとリンドウは森の外れにある滝に来ていた。最近ではここが二人のお気に入りの場所だ。滝つぼには魚もいるし泳げる。まだ肌寒いが子供にはそんなものは関係がなかった。


「ねぇ、今日はちょっと下ってみようよ」


「いいぞ」


 二人は川下へと下っていく。下るにつれてどんどん川幅が大きくなっていった。


「へぇ、けっこう大きな川になるんだな」


 その幅は十メートルほどだろうか。水の色合いを見てもけっこう深そうだった。


「あっ、アルビノ。魚いるよ魚」


 魚を見るとテンションがあがる。どうやって捕まえようかと二人で頭を悩ませるが、ここは深そうなので泳ぐのはなしだ。さすがに足がつかない場所は怖い。


 ここで魚を捕まえるのは無理だろう。そう思って、せめてもの悪あがきにリンドウは石を魚目掛けて投げた。


 ぼちゃんと水面が悲鳴をあげるが、魚には当たらなかったようだ。川の流れは緩やかなので水面には波紋が広がっている。その波紋がなくなったとき、水面に黒い影があるのに気が付いた。


「あれ? なんだろ」


 何か黒い物体のようにも見える。どこかで見覚えのあるシルエットだ。それが水面に反射して映っている姿だと認識できたのはすぐの事だった。特に気が付いた理由はない。ただなんとなく二人は顔を上げて正面を見たのだ。


 そしてそれはそこにいた。


 真っ直ぐにこちらを見つめる身体のわりに小さな目。茶色と黒の毛におおわれたソレ。


「……クマ?」


 そこには二人を静かに見つめる一頭のクマがいた。


 二人は無言で顔を見合わせる。そこに恐怖の色はなく、単純に初めて見るクマに興味がわいたぐらいだ。


「うわー、僕、クマ初めて見たよ」


「俺もだな。けっこうデカイな」


「いや~、川が間になかったらと思うと怖いね」


 好奇心はあっても恐怖は一応感じているらしい。しかし二人は逃げ出さずにクマをずっと見ている。そしてクマもこちらを見ていた。


 先に視線を外したのはクマの方だった。踵を返して森の中へと消えていったのだ。


「……俺らも帰るか」


「そうだね。クマが川渡ってきたら怖いし、早いとこ帰ろう」


 二人は急いで駆け出した。追って来るはずはないとわかっている。だがこの恐怖心はなんだろうか。何かが二人をかり立てている。


「……道、どっちだったか」


 焦りは冷静な判断を狂わせる。


「……川から直線に離れて行けば、帰るつく、はず」


 自分たちは冷静なはずだ。なのにすべてが不安になってくる。今、隣を走っているのは本当に友なのか? あのクマではないのか?


 わかりきっている事すら疑問が浮かんでは消える。


 最初はごくわずかな音だった。それが次第にはっきりと聞こえるようになっていった。それがいつから聞こえているのかと質問されたら、答えはわからない。この音がなんの音なのかもわからない。


 だが。


 それが地鳴りかと思うほどに大きくなったときには、全ての答えが後ろからこちらに向かってきていた。








 森に機械音が木霊する。金属同士があたるガチャガチャという似つかわしくない音が自然の中にあった。その数は十人。王都アルヴェルトの教会騎士団の人間だった。


「この中になぜ我々がクマ退治をしないといけないのだと思う者もいるだろう」


 誰も声は出さなかった。


「私だってそう思う。だが、これが国民を救う事に繋がるのだ」


 それも理解できる。


 だから全員黙ってこの作戦に参加したのだ。嫌ならしなければいいだけの話だ。強制はしていない。


「隊長殿、くれぐれも注意を。ただのクマではないのかもしれない」


 それは単純に大きくて強い、といった事ではない。


 魔獣の可能性。おそらくはその可能性は限りなく高いだろうと思われている。


「わかっておる。だからこそ我々教会騎士団が出ておるのだ。そしてそなたもな。異端審問官よ」


 フッと不敵な笑みを浮かべた。


 この教会騎士団の中に一人だけ騎士ではない者がいる。それが異端審問官だ。このクマの騒動を教会はただの自然的被害とは考えていない。なんらかの、何者かの介入があったのではないかと考えている。だから王国騎士団ではなく、教会騎士団が出張ってきているのだ。


「司教様たちの予想が当たってない事を祈るのみですが」


「どうかな。この地域には魔女が住んでおる。なんらかの実験の材料とされている可能性がある。見過ごす訳にはいかん」


「それはごもっともです。だからこそ私が同行しているのです」


 魔女と教会は折り合いが悪い。得体の知れない不思議な事をするし、原理がわからない事を、説明が出来ない事を認める訳にはいかない。それは神の教えに反する。


「異端審問官殿よ。そなたは見ればわかるか?」


 クマを一目見れば、それが異常かどうかがわかるかという事だ。そう問われて否定できるはずがない。


「もちろんですよ。もしこれが魔女の仕業なら――」


 そう言って口を閉ざした。


「仕業なら?」


「……教会は黙ってはいないでしょうね」


 言葉を選んだ。教会の人間が争いを口にするなどあってはならない事だ。しかしいつの時代も魔女の尻ぬぐいをしてきたのは教会だ。魔女に言わせたら違うのかもしれないが、教会は少なくともそう思っている。そこに思想の違いが出て、こじれてこじれて、その溝は深まるばかりだ。


 長い間、不干渉を決め込んで来たが、このクマの一連が魔女の仕業だとするなら、もう待ったはきかないだろう。


「早いところ調査と駆除を終えるぞ」


 今はまだ日が高いが、日が落ちれば有利になるのは向こうの方だ。それにこの森の中のどこかに魔女が確実にいる。魔女との遭遇もなるべくは避けて通りたい。


「見つけたら亡き者にしてしまえばいいのですよ」


「教会の人間が言うセリフではないな」


「ここは森の中ですからね」


 亡き“者”。


決してクマの事を“者”とは言わないだろう。異端審問官の目的はクマではないと教会騎士団もわかっている。自分たちも教会の一員だ。何が悪で何が正義かを理解はしている。


 果たして見つけるのは一体なんだろうか。


 その答えは日が落ちるまでにはわかるだろうと思い、足を一歩前へと踏み出したのだった。














 何かが草木をかきわけて突進してくるのがわかった。まるで頭の中に直接響く地鳴りと草木が折れる音がする。振り返ることなど出来はしない。わざわざ自ら恐怖に目を合わせようとする馬鹿はいない。


 なのに。


 首が、目が、それを捉えてしまった。


 黒い黒い塊が向かってきている。


「うわああああああああッ!」


 大声を上げたのは自分を奮い立たせる為か。はたまた助けを呼ぶ声なのか。そんなものどちらでも良かった。今は走る事で必死だ。


 なぜ逃げているのかわからないでいた。ただ本能が、身体が、脳がこれはダメだと、危険だと、その場から一刻も早く離れろと指令を発していた。


 まだ短い人生だが、こんなにも全速力で、一心不乱に走ったのは初めてかもしれなかった。身体は慣れていない事をすると拒否をする。


 足がもつれてリンドウは転んだ。反射的に後ろを振り返るが、振り返って後悔した。何もかもが止まって見える。あぁ、きっと自分はここで死んだと幼いながらに直感した。


「リンドウ!」


 しかしクマがリンドウに体当たりをする瞬間にアルビノが横からリンドウを突き飛ばした。その瞬間に時間の流れが急速に早まった。


 クマは二人の上を通過。そのまま着地して振り返った。コッフコッフと息をしながらヨダレが地面へと垂れている。


 助かったが、助かっていない。


 恐怖する時間が伸びただけかもしれない。


「リンドウ、立てるか?」


 クマを刺激しないようにアルビノは小声で話した。


 クマはこちらの様子を見ているのか、ゆっくりと一定の距離を保ちつつ歩いている。生きている心地はまるでしなかった。


 どうすればいい? ここからどうすれば助かる事が出来る?


 大声で叫んでみるか? そうすれば二人の母親の耳に届くかもしれない。そうすれば助かるだろう。だが、さすがに魔女といえど、聞こえるかわからないし間に合うかもわからない。絶体絶命だ。


「……俺がおとりになるから、お前は魔女たちを呼んでこい」


 アルビノが静かにそう言った。だが、その命令は聞けない。


「出来る訳ないでしょ。逆の立場だったら出来る?」


「…………」


 出来ない。友も見捨てて自分だけが助かるなど出来る訳がない。解決策が見つからずに死の恐怖だけが増していく。そんな時、クマが立ち上がった。


 でかい。


 立ち上がるとその身体は二メートル近くがありそうだった。恐怖も倍増されるし、もちろん見た目の恐怖が圧倒的だった。


 これはどうしようも出来ないと二人が思った時、音が聞こえた。






 最初に気が付いたのはクマだった。しかし音を認識したところで動揺はしなかったし、今からやる事には変わりはない。目の前の獲物が増えるだけだ。何も問題はない。


この自然の森に似つかわしくない音だった。


それは金属音。


それに走る音だった。


 アルビノとリンドウがその音を捉えた時、それは自分たちとクマとの間にいた。


「大丈夫か!?」


 力強い声だった。それだけで安心してしまうほどに。二言目には自分たちが今一番ほしい言葉をくれた。


「もう、大丈夫だ!」


 視線はずっと前を、クマだけを見つめているのにその声だけで、その後ろ姿だけで助かったと感じた。肩の力は自然と抜けて二人とも地べたへと座り込んでしまう。まだ危機を脱した訳ではないが、きっと助かると勝手に思い込んだ。


 それだけの力強さがこの者から感じた。


「なるほど。でかいクマだ。お前が我らが国を脅かしているクマに違いないな?」


 当然ながらそんな問いに返事はない。


 いったいどれぐらいの時間が経ったのだろうかと思うほど、両者のにらみ合いは続いたが、勝負は一瞬だった。


 ほぼ同時に動く。


 クマが爪牙を振った瞬間に突進して剣を突き刺した。並の速さではない。クマが手を挙げる瞬間にその距離を一気につめたのだ。しかも切っ先は見事にクマの心臓部分を貫いていた。


 そのまま前蹴りをして巨漢を後ろへと倒した。クマは重力に抵抗もできずにそのまま地面へと倒れ込んだ。


 剣には真っ赤な血がこびりついているが、それを見ても恐怖は感じなかった。


 永遠に続くかと錯覚した恐怖はあっけなく終わりを迎えた。濃厚な数分間。きっと生涯忘れる事は出来ないだろう。人生で初めて死と向き合った瞬間だった。


「私は王都アルヴェルトにあるアルヴェルト教会の教会騎士団団長のセージという。この度、人喰いクマの討伐に来たのだが」


 一度言葉を切って目を瞑り、深い溜息をついた。


「……間に合って良かった」


 ドスンと地面に腰をおろした。きっと緊張の糸が切れたのだろう。人間相手ではなく野性の獣だ。どんな動きをするか予測がつかない。それでも倒す事ができたのは運が良かったとセージは思っている。


「ご無事ですか!?」


「異端審問官。まぁなんとかな」


 異端審問官と他の教会騎士団が遅れて走ってきた。普通ならばこのスピードなのだろう。団長のセージの身体能力がずば抜けて高い事がわかる。


「そちらの子供は?」


「あ? ああ」


 そこでようやく自分はこの子供たちを助ける為に今に至ったのだと思い出した。


「怪我ないか?」


「……はい」


「君たちは……」


 異端審問官は二人をじっと見つめた。


「ありがとうございました」


「子供だけで森に入るでない。たまたま私たちがいたから良かったものの、普通なら喰い殺されていたぞ」


「ごめんなさい……」


「どうした異端審問官」


「いえ……」


 何か違和感を感じたように思えた。こんな小さな子供二人から。さすがに気にしすぎかと思い、首を横に振った。


「私は教会の異端審問官のオルガと言います」


 子供相手にも礼儀正しく、ぺこりとお辞儀をする。そして視線を二人から倒されたクマへと向ける。


「これが人喰いクマですか」


「どうだ? 普通のクマか」


 異端審問官のオルガはクマに近寄って行き、まじまじとその姿を見る。ふむ、と。何か納得したらしい。


「このクマは普通のクマですね。普通の人喰いクマですよ。我々が思う事とは違うようです」


 この熊から魔女の波動は感じなかった。魔獣ではない。普通のクマだ。


「そうか」


「魔女の仕業ではなく残念ですね」


「どうだか」


 大人たちが会話をしている中で、リンドウとアルビノはすぐにそれに気がついた。この人たちは魔女を敵だと認識している。二人は口を閉ざす。アルビノは自分の獲物であるペストを他人にとられない為。リンドウはリリーを守る為。


 知られてはいけない。


「君たちどこの子? 家まで送ってあげますよ」


 まずいと思った。それだけは回避しなければならない。


「あ~……あ~、大丈夫です。自分たちだけで帰れますのでっ!」


「いくぞリンドウ」


「ありがとうございましたー」


 二人は急いでその場から離脱した。


「あっ、ちょっ――」


 止める暇もなく森の中へと消えていった。


「せっかちな子どもだな」


「まぁもうクマは居ないでしょうから大丈夫でしょう。我々もアルヴェルトへ帰りましょう」


「そうだな」


 仕事は終わった。クマも普通のクマだった。だが、違和感はある。あの子供二人だ。こんな山奥で子供と出会う事があるだろうか。大人の足でもここまで来るのは大変だ。それをあんな小さな子供が? 今からでも追いかけた方がいい気がしたが、オルガは首を横に振る。ただの思い過ごしだ。なのにオルガは無意識に二人の消えて行った方角を見たのだった。








 二人は一気に森を駆け抜けた。しばらく走ったところで止まって後ろを振り返り息を整える。良かった。どうやら追っては来ていないようだった。


「凄かったな!」


「そうだね!」


 興奮冷めやらぬといった感じだ。


「クマにもビビったけどあのおっさんにもビビった。本当に人間かよ」


「いやー、セージさんは凄かった」


「俺もあれぐらい強くなりたいな」


「たしかに」


 人の強さというのを垣間見た気がした。人間でもあんな大きなクマに勝てる事もできるのだと認識をした。


「帰ろっか」


「そうだな」


 そして二人は岐路へとつく。まだ日は高いし、そこまで急いで帰る理由はない。走らずにゆっくりと寄り道をしながら歩いて行く。森の中は木々が生い茂っている場所もあれば、木がない場所もある。さんさんと太陽の光が地面を照らしている場所もある。その場所は心地が良く、昼寝をするにはぴったりだろう。


「あれ?」


「ん? なんだあれ?」


 そんな場所で二人はあるものを発見した。


「あんなところにあんな岩とかあったけ?」


 その場所には大きな岩のようなものがあったのだ。


「いや、なかっただろ」


 二人の記憶にはあんな大きな岩はなかった。それは今日来る時にもこの場所を通っているし確認している。二人は訳がわからずにその岩を見に行った。


「うわーでっか」


 茶黒かった。しかし普通の岩とか異なるものがあった。


「なんだこれ?」


 アルビノが何か違和感を覚えて岩をマジマジと見る。そして理解する。


「コケ? いや……毛?」


 その岩にはゴワゴワした毛のようなものが生えていたのだ。こんな岩は見たことがない。


「本当だ。毛だねぇ」


 リンドウもそれに気が付き触ってみる。すると。


「なんだか太陽にあてられて暖かいね」


「……そうだな」


 そんな事があるのだろうか。


「あれ? なんだか今動いたような気がしなかったこの岩」


「岩が動く訳がないだろう」


 はたしてそれは本当に岩なのか。


「なんだか獣臭いな」


「本当だね。さっきのクマと同じような臭いがするよ」


「そうだな。まださっきの事を引きずっているんだろうな」


 二人は気が付いている。気が付いているが恐怖のあまりそれを無意識に認めたくなかったのだろう。


 大きな息をする音が聞こえた。それと連動するかのように岩が一回り大きくなって小さくなった。


「…………」


「…………」


 岩が動きだした。そしてその茶色の瞳で二人を見て、この二匹が自分の眠りを妨げたことを知る。岩は立ち上がり、二人を見下ろした。


 さきほどのクマが可愛らしく見える大きさだった。立てばさきほどのクマの倍近くはありそうなその巨体。片目には木のようなものが突き刺さっているように見えた。


 さきほどとは違った恐怖。これが真の恐怖。声も上げられないし動く事もできない。身体は凍り付き、ただ目の前の恐怖を見つめる事しかできなかった。


 眠りを妨げられた巨大なクマは無造作にその腕を振るった。リンドウは無慈悲に宙に浮き、後方へと吹っ飛ばされたのだった。










 心臓の音がする。ドクンドクンと脈うつのがわかる。


 いったいいつから眠っていたのか自分でもわからない。


 しかしこれだけはわかる。


 さぁ目覚めの時間だ。












「リンドウ!」


 反射的に叫んでいた。これは何かの嘘だと思う。子供だからといって簡単にあんなに宙に舞うものなのか。すぐさまリンドウのもとへと駆け寄るが、それを見て後悔した。服が真っ赤に染まっている。左のわき腹に爪牙のあとがくっきりと残っていた。


 胴体がくっついているだけでも奇跡かもしれない。


 どうすればいい?


 自分に何が出来る?


 何をしなければいけない?


 頭の中はパニック状態だ。そんな中、ドクンと音が聞こえた。これは明らかに心臓の脈打つ音だ。極度のパニック状態で自分の心臓の音がやけに大きく聞こえているのだろうか。


「いや、違う……?」


 これは自分の心臓の音ではない。頭の中からではなく、明らかに耳から聞こえる。だったら誰の心臓の音だ? この場にいるのはあと二人しかいない。リンドウとクマだ。


 そんな事を考えている間にも心臓の音はどんどん大きく聞こえてくる。クマの方を見てわかった事がある。この心臓の音はクマのものでもない。


 クマもこの音の出どころをキョロキョロと探していたのだ。だったら残された答えは一つしかない。


 リンドウだ。


 死に直面して、それでも生きようとする命がこの音を出しているのだろうか。


「リンドウ、目を覚ましてくれ」


 そう願うがリンドウはピクリとも反応しなかった。まるでもう死んでいるかのように見えた。それでもこの心臓の音は鳴りやまない。


 ここでアルビノは不可解なものを見た。リンドウの傷口に何か薄い膜のようなものが見えたのだ。


「なんだこれは……」


 何かがおかしい。


 膜のようなものに血管が見える。まるで傷口を包み込もうとしているようだった。それはだんだんと濃くなっていく。そしてそれが何なのか理解する。


 それは狼の毛皮から出ていた。


 それに気が付いた瞬間、それは始まった。


 狼の毛皮が一気にリンドウを包み込んだのだ。


「うおっ」


 驚いて尻もちをついてしまう。そこからは自分の目を再び疑うことになった。


 狼の毛皮はリンドウを完全に飲み込んだ。そしてそれが終わって、そこにいたのは紛れもない――。


「わ……ワーウルフ?」


 ワーウルフとは狼男の事だ。古来より狼男には二つの説がある。一つは満月を見て変身するもの。もう一つは狼の毛皮をかぶって変身するものだ。


 体長はおよそ二メートル弱。クマに比べれば半分以下だろう。しかしとうのクマを見れば毛を逆立てて牙を見せていた。さきほどまでとは違う。明らかに警戒している。


「……り、リンドウ?」


 呼びかけに応じたのか、はたまた偶然か。ワーウルフは大きく空に向かって咆哮した。木々は揺れ、鳥は飛び立ち、動物たちが一斉に逃げていくのがわかる。全身の毛が逆立つほどの恐怖を感じた。


 牙をむき出しにして威嚇している。そして目があったと同時にワーウルフの爪がアルビノの服をかすめた。


 自分以外は敵。


 そう思っているに違いない。


 どうすればいいのだろうか。友は我を忘れて化け物に成り果てている。そして巨大なクマもいる。もはや絶望しかなかった。ただの子供がこんな場面に直面して何かが出来ると、何かを変えられるとは到底思えない。


「どうすれば……」


 そんな事を思っていると横から茶黒い塊が猛スピードで通り過ぎて行った。二匹は互いを殺すべき対象として認めたようだ。


 クマの方が二倍近くも大きいが、ワーウルフはスピードがある。両者の力は拮抗していた。しかしワーウルフは成りたてで、中身はあくまでも人間のリンドウだ。


分は、悪い。


 二匹はもつれ合うようにして移動していく。アルビノはリンドウ放っておける訳もなく、二匹のあとをおいかけた。


「くそっ、何なんだ!」


 訳がわかならい。きっとあれは魔女が仕掛けたものなのだろうという事はわかる。しかしそれをまったくコントロール出来ていない。一応命は助かったものの、これからの解決策がまったく見えないでいた。


 そんなとき、森にひと際大きな音が木霊した。








 自分の目が信じられない。だからといって、これを拒否したりは出来ないだろう。これは紛れもなく現実だ。夢などでは断じてない。例え、アルビノが信じようが信じまいがこの現実が変わる事はないのだ。


 大きな音がした方向へ走って行くと、一本の巨大な樹が倒れていた。ワーウルフと化したリンドウが折ったのか。巨大なクマが折ったのか。土煙がもうもうと上がるなかで、徐々にそれを理解していく。


「リンドウ!」


 ワーウルフが樹の下敷きになっている。一人ではさすがに抜け出せないのか、必死に四肢をバタつかせて脱出を試みている。その樹の重さは生半可なものではないはずだ。口からはヨダレと一緒に泡が見える。


 どうすればいい?


 いや、先にクマだ。アルビノはクマの姿を探した。ワーウルフと同じく樹の下敷きになっているのだろうか。


 だが、そんな都合のいい事は起きていなかった。少し離れたところでワーウルフの様子をうかがう、巨大な姿が見えた。おそらく警戒しているのだろう。すぐに抜け出せるのにこれは演技ではないのかと。近寄ったところにその鋭い爪の一撃を浴びせるために待っているだけではないのかと、じっとワーウルフを見つめていた。


 そして本当に動けないのだと悟ったのだろう。クマはゆっくりと旋回しながらワーウルフへと近づいていく。


「やばい!」


 あのままではクマの爪牙に頭をつぶされて終わりだ。なすすべもなく終わってしまう。だからと言って自分に何が出来るというのか。


 答えは、見つからない。


 その間にも二匹の距離はどんどんと近づいていく。もう時間がない。そう思ったら勝手に身体が動いていた。


どうしようもないはずなのに。


答えは出ていないのに。


ただ、このまま友を見過ごす事は出来なかった。


気が付けばアルビノはクマとワーウルフの間へと割って入っていた。精一杯小さな両手を広げてリンドウを守ろうとした。クマから見ればそれは滑稽に映るだろう。もちろんワーウルフからもだ。


 足が震える。


 嗚咽が漏れる。


 目の前は涙で霞む。


 歯を食いしばる事も出来ない。


 死に直面した身体は正直だった。


 クマはゆっくりと立ち上がった。


 あぁ、終わる。


 後ろで唸っているリンドウは、ワーウルフはどうなるのだろうか。


 クマの身体で太陽の光は閉ざされた。まるで一瞬で夜になったかのようだ。クマが腕を振り上げた時、視界は真っ暗になった。


 真っ暗。


 闇。


 すなわち――黒。


 ばさり、と。翼の羽ばたく音が聞こえた。


「なん――……」


 自分に何が起こったのか理解するのに時間がかかった。わかる事は助かった事と、自分を覆っていた黒い翼がクマの一撃を受け止めた事。


 ギリギリと翼と爪が不協和音を奏でる。


 軍配があがったのは黒い翼の方だった。力任せでまさかあの巨大なクマを弾き飛ばしたのだ。


 アルビノはあっけにとられる。


この翼は誰の翼だ? あの魔女が助けに来てくれたのかと思って振り返っても、そこには樹の下敷きになっているワーウルフしかいなかった。


 この翼の持ち主は誰だ?


「ぅ……おぉぉおおおおおおおおおッ!」


 そう思ったらアルビノは誰かに引っ張られるように大空へと舞い上がった。そこで気が付いた。


 これは、この黒い翼は自分から生えている。


 いや、正確には違う。


 正確にはアルビノの着ていたローブの腰のあたりから翼が生えていたのだ。そこでアルビノは理解した。


「魔女の仕業だ」


 ペストが言っていた言葉の意味がすべて理解できた。などと納得している場合ではなかった。空高くに飛翔したアルビノをクマは見上げていたが、降りてこない事を悟るとまたゆっくりとワーウルフへと近づいて行ったのだ。


「まずい」


 とっさにそう思って動こうとするが、動けなかった。自分の意思ではこの翼をコントロール出来ない。身体を下にグッとさげる仕草をするが、翼は動いてくれなかった。


「おい! 動けよ!」


 何度も何度もするが、反応はしない。


「なんでだおい! リンドウが危ないんだ!」


 そこでアルビノはペストの言葉を思い出した。


『そのローブはね、あなたの事を守ってくれるわ』


 つまりはそういう事だ。


 このローブにとっての最優先事項はアルビノを守る事。下は危険だと判断したから下に降りる事は出来ないのだ。


 だからと言ってこのままで良いはずがない。


『きっとあなたの力になってくれる』


 そうだ、きっと応えてくれるはずだ。


「……下に大切な友達がいるんだよ。何があっても助けたい。力を貸してくれ」


 それでも翼は動かなかった。


「俺なら大丈夫だ。だって――お前が守ってくれるんだろ?」


 信頼の言葉だ。


「いけ!」


 言葉と共にアルビノは一気に急降下した。地面へと着地すると同時に黒い翼がバサリとクマのいる方角に翼をはためかせた。するといくつもの羽が飛んでいき、クマをけん制させた。クマはいったん離れてまた距離をとる。


 今のうちだ。


 アルビノは倒れている巨大な樹を持ち上げにかかった。もちろんたかが子供に持ち上がるはずがない。しかし先ほど、あの巨大なクマを弾き飛ばしたこの黒い翼なら。


「くっそぉぉぉぉおおおおおッ!」


 持ち上がれ。


 ググっとわずかな隙間が出来た。ちっぽけな隙間だが、これで十分だった。


「り、リンドウ! 早く!」


その一瞬のチャンスをワーウルフは見逃さない。一気に這いずって出た。身体を振るわせて態勢を整える。


 アルビノは一瞬、ワーウルフに襲われるかもしれないと思ったが、そんな事はなかった。


 狼は気高く、誇り高く、賢い。


 誰が自分を助けてくれたのか、そして誰が敵なのか考えるまでもなかった。


 前を、巨大なクマを唸り声をあげて見据える。


 そしてアルビノはその隣に立つ。


「やるぞリンドウ! 二人でだ!」


 逃げる事はやめだ。逃げても生き残れない。戦うしかない。そして今なら勝てると信じている。


「お前も力を貸してくれ!」


 自分の着ているローブへ言う。すると一対の大きな黒い翼の下の方から、一対の悪魔の尻尾のようなものが出てきた。それは長く、攻撃用なのだと理解した。


 だが、力はワーウルフの方が圧倒的に上だろう。だったら自分は防御に徹してリンドウをサポートする。そうすればワーウルフと化したリンドウがきっとやってくれるはずだ。


 互いを信頼し、命を預ける。


「いくぞ!」


 アルビノとリンドウは同時にクマへと向かって行ったのだった。








時を遡ること少し前。


「お? 覚醒したの」


 魔女のリリーはそれを感じとっていた。


「そうね」


 ペストもそれに同意する。


 狼の毛皮をリンドウに渡したのはリリーだ。そして契約をしたのもリリーだ。魔女の感覚を用いればそれが覚醒したかどうかぐらいは感じとることができる。


「それにしても凄い波動ね。森が脅えているわよ」


「そらぁのぉ。あれだけの狼の毛皮じゃ。これぐらいの波動は出すじゃろ」


 そう言ってリリーは森の方角を見た。しかし、その場から動こうとはしなかった。それどころか椅子に座ってゆっくりとお茶を飲み始めた。


 それから数分後。


「お? アルビノも覚醒したか」


「そうみたいね。大丈夫かしら」


「どうじゃろうなぁ」


 二人の波動を感じ取っても、その内容まではわからない。それでも二人は家から動こうとはしなかった。


「手、震えてるわよ?」


「うっさい。お前だって足を何度も組み替えて落ち着きのない」


 ようは二人ともすぐに家を飛び出してアルビノとリンドウの元へと駆け出したいのだ。しかし、それを絶対にしない。


「これは試練じゃ。魔女の子としてのな。親が手を出すわけにはいかん」


 死は人を成長させる。それこそ段飛ばしに。それに直面することで必ず人として成長すると、魔女二人は信じている。


「手遅れになっても」


 それに直面すれば否応なしに刺激される。かならず覚醒をするはずだ。


「信じてやるのが親というもんじゃろ」


 魔獣だという事はわかっていた。だが、二人ともそれを駆逐しようとは一瞬も考えなかったし、むしろ最高のチャンスだと思った。リスクはもちろんあったが、それを乗り越えるのが目的だ。


「もしアルビノが帰ってこなかったら世界を滅ぼすわ」


 秒針は動く。


時間は動く。


止まることなど、許されない。


 進め。


 その足で進め。


 決して一人ではない。


 人は支え合いながら成長をする。


 肩を並べて、進むのだ。


「やめんかっ。なんちゅー恐ろしい事を言うんじゃ!」


 しかしそれはきっと冗談ではないだろう。ペストは本気でやるはずだ。そしてリリーもそれに手を貸すだろう。それはだたの八つ当たりだ。


 それから二人は息子たちの帰りをじっと待ち続けた。


 信じて。


 どこまでも。








 勝算などというものはなかった。


 アルビノはまだ子供だし、リンドウに至ってはワーウルフと化している。作戦など立てられるはずがない。見て感じ、肌で感じて動くしかない。それは本能としての生への執着だ。


 まず飛び出したのはアルビノだった。駆けた、というよりは地面を飛行した。自分はあくまでも囮だ。目の前に迫ったアルビノにクマは右前足を無造作に振り下ろした。あまりにも巨大な手。それだけで自分の身長ほどあるのではないかと思えるぐらいだ。


 それを――受け止める。


 衝撃波が翼をすり抜けてアルビノの心を襲う。


 怖い。


 単純にそう思った。それでも手足は動く。自分の心は折られていない。


 その理由は一人ではないからだ。


 アルビノが動きを止めている間にワーウルフがクマの後ろへと素早く回り込んだ。そして鋭い爪の強烈な右フックを喰らわせる。


 入った、決まった!


 リンドウはそう思った。しかしクマは何事もなかったかのように身体を回転させて左前足でワーウルフを狙う。ワーウルフは後ろへとんでそれを回避。


 アルビノもいったん距離を置く。


「……どういう事だ?」


 たしかに渾身の一撃が決まったと思った。しかしクマは表情すら変えなかった。


「毛か」


 クマの毛は鎧の役目をしていた。それがワーウルフの爪から自身を守ったのだ。それに、皮下脂肪も厚い。さすがに内蔵まではその爪は届かないだろう。


「いくら表面的な攻撃をしても無駄って訳かよ」


 ワーウルフは果たしてそれに気が付くのだろうか。あれは本能で戦っているようなものだ。真正面から力と力をぶつけるのが野性だ。


 それをアルビノはコントロールしないといけない。自分にそんなことができるのかと考えていたら、二匹は攻防を繰り広げていた。


 ワーウルフの攻撃は確かに当たっている。しかし、ダメージは全然通っていない。


 クマの攻撃は当たっていない。それが一撃でも当たればそこで終わるかもしれない。それはワーウルフもわかっているだろう。しかし、それをずっと避け続けることは難しいだろう。体力が持たない。早くなんとかしなければ。


 アルビノは考える。


 どこに最高の一撃を入れれば倒せる?


 毛が薄い場所はどこだ?


 脂肪が少ない場所はどこだ?


 そんなことを考えながらアルビノは二匹の攻防を見つめる。そこには応えがあった。ワーウルフの動きを見ていると、ある一点を狙っていることに気が付いたのだ。


「喉元か!」


 獣同士が争う場合、そこをとった方の勝ちだ。


 しかし、そう簡単にはとらせてくれないらしい。だったら自分がサポートをするしかない。


 当たり前だが、喉元は真正面にある。それはつまりあの巨大な前足二本をどうにかしなければいけない。一瞬でも使えないようにして隙ができればワーウルフが、その喉元をかみ切るだろう。


 どうやって両手を封じる?


 クマの一撃がワーウルフの肩をかすめて吹っ飛ばされる。爪がひっかかっただけかもしれないのに、あの巨体が宙を舞った。


「くっそ!」


 ボーっとしている暇はない。自分も加勢をしなければ。考えはまったくまとまっていないが、アルビノは地面を蹴った。少しでもワーウルフの負担を減らす。自分ならあの強烈な一撃も翼で受け止められる。


 でも、それだけではダメな事ぐらいわかっている。こんな状況で頭が冷静に回るはずもないが、それでも考える。


 木々がクマの一撃でどんどんと切り倒されていく。


「足場が……」


 折れた木に足をとられたりでもしたら、その瞬間終わるだろう。


 クマも喉元を狙ってくるのはわかっているだろう。だからグッと顎を引いて喉元を隠している。


 両手を封じて、かつ、喉元をあけさせる。


 そんな事が本当に可能なのだろうか。しかし、やらねばこちらが殺されてしまう。


「よし!」


 アルビノは空へと飛翔した。クマはそれをちらりと確認する。上からの攻撃は絶対に見上げなければわからない。つまり、喉元が必ずあわらになる。


 上からの攻撃と、下からの攻撃。


 二対一が卑怯などとは言ってられない。


 殺すか、殺されるかだ。


 アルビノは上空から二本の尻尾で攻撃をする。羽を飛ばしてもいいが、範囲が広いのでワーウルフに当たる可能性を考えてやめた。


 クマはそれを巨体に似合わない俊敏さで避けていく。


 当たり前だが、普通のクマではない。


 これは間違いなく、魔獣だ。


 アルビノもその存在は知っている。どうやって造られるのかも。だから余計魔女が嫌いになった。無理矢理こんな姿に変えて放置するその神経が理解できない。


「くそッ! くそッ!」


 魔女は人間とは違う。


 誰もが、被害者だ。


 アルビノは葛藤する。いくつもの色が心を押し流していく。自分はそれに耐えられるのだろうか。激流にたたずむ一本の樹になれるだろうか。


 答えは出そうになかった。そんな迷いを吹き飛ばすかのようにワーウルフが咆哮した。それにハッとなる。


 迷うな。


 そう言われているような気がした。


「そうだ。迷うな。このクマだって被害者だ。でも――」


 それよりも優先すべきことがある。


 生き残る。


 親友の命。


 自分の人生をかけて誓った覚悟。


「俺は、ここで死ねない!」


 魔女を殺すまでは。


 迷いは光にかき消された。


 アルビノは木の枝に飛び乗った。枝とは言えないほどの太さがある。これだけあれば十分耐えられるだろう。そして、ローブから生えた二本の尻尾をクマに向ける。


「いけ!」


 それぞれがクマの両手を縛り上げた。


「よし!」


 それと同時にアルビノは枝の反対側へと飛び降りた。枝に重力がかかる。


 遠心力を利用してアルビノは最高スピードでクマに迫る。大きく弧を描き、収まるべき場所へ帰るかのように、アルビノはクマに吸い込まれていく。


「くらえッ!」


 地面スレスレを経由して、下からクマの顎を目掛けて蹴りを喰らわせる。しかし、思うようにバランスが取れずに体当たりのような形になってしまった。


 だが、それで十分。


 衝撃でクマは天を仰いでいた。


 それはつまり、上を向いているということ。


 さらに言えば、喉元が、むき出しとなっている。


「リンドウ!」


 アルビノの声に応えるようにワーウルフはその隙を見逃さなかった。その意図をくみ取り最高の行動と一撃を狙う。


 まるで流れ星のように、一直線にワーウルフの牙はクマの喉元を捉えたのだった。


「決まった!」


 獣の急所の首元。そこに最高のタイミングで最高の一撃。ワーウルフの牙は確実にクマの喉元を捉えた。これ以上ない完璧な連携だ。これで倒せないはずがない。


 一つ。


 一つ、誤算があるとするならば――。


 それは、相手がただのクマではなく、魔獣だということだろう。


 たしかにワーウルフの牙は届いていた。普通ならそれで終わりだ。


 普通なら――。


 獣にとって傷を負うことは命の終わりと同等だ。だが、魔獣は違った。


 喉元に喰らいつくワーウルフの左顔にクマの右の爪牙がせまる。


「おわっ」


 尻尾で動きを封じていたのに、それを引きちぎらんばかりの怪力で、まるで何も封じられてないかのようにそれを振るった。


 ワーウルフはそれを直前で回避。それでもその顔にいくばかりかの傷を許した。血が毛を押しのけながら外の世界へと顔を出す。それを長い舌でべろりと舐めとった。


 失敗した。


「……うそだろ」


 ダメージはある。しかし致命的なダメージではない。精神が肉体を凌駕している。


 それは絶望でしかない。これにすべてを賭けていたと言ってもいい。これが最高の作戦だった。それを破られたアルビノの心中は奈落の底に落ちていった。


「終わった……」


 生きることを諦めかけたその時。


 ワーウルフが攻めたのだ。作戦などというものはない。ただ、攻めた。これで終わりではない。まだ、身体は動く。死んでなどいない。死ぬまで動け。


 一瞬だけワーウルフと視線が交差した瞬間にそんなことを言われた気がした。


 現実は、過酷だ。


 悪夢よりもよほど過酷で厳しい。


 だが、アルビノは人生で最大の、これ以上ないほどの負の想いをすでにしている。


 あの時のことに比べれば――。


 アルビノは顔を上げる。


 まだだ。


 そうだ、まだ――終わっていない!


 ヨダレと血をまき散らして、二匹はもつれ合っている。攻撃が当たりだしている。近いうちに会心の一撃が入るだろう。それを入れるのがワーウルフなら問題はない。


 しかし、すでにワーウルフは限界に近い。息は荒く、足がもつれ出している。


 時間がない。


「どうすれば――どうすればいいんだ!」


 アルビノは必死になって考える。急所の喉元がダメ。なら次に狙う場所はどこだ? そこをどうやって狙う?


 焦れば焦るほど考えは霧散する。


 ワーウルフが折れた木の枝に足をとられた。そこを見逃すはずもない。


「あぶないッ!」


 しかし、クマもまた足元をとられてその爪は空を切った。まわりは荒れていた。木々は散乱して大地はめくりあがって悲鳴を上げている。こんな場所で正確な立ち回りなど出来るはずもない。


 アルビノはそんな中で自分がある一点を見つめていることに気が付いた。なぜ自分はそれを見ているのだろう。アルビノが見ていたのは折れた枝。枝といってもそれはかなり太く大きい。子供の胴体ぐらいはありそうな先端が“尖った”枝だった。


「……これだ!」


 すぐにそれをローブから生えている尻尾で巻き取る。これを持ち上げることができるのだろうか。


 枝とは言えない丸太に尻尾をグルグルとまいて、グッと足腰に力を入れて持ち上げる。なんとか持ち上げることは出来た。次はこれを持って駆けなければいけない。


 そしてあそこへ。


 勝負は一瞬だ。その一瞬の為に神経を研ぎ澄ます。切っ先を常にクマに向けて意識を集中させてイメージをする。


 それを感じとったのかワーウルフが少しづつクマを誘導する。


 狙うのはカウンター。


 アルビノとワーウルフの意識が一つになった瞬間、ワーウルフの足がもつれて一瞬だけ動きが止まった。


 その瞬間、今度はクマが最高の一撃を放つ。大木をもなぎ倒せるであろう勝負を決める一撃だ。


 一つ。


 一つだけクマに誤算があるとするならば――、それは罠にかかったことだろう。


 クマの左の爪牙がワーウルフに直撃する。衝撃波と血が飛び散った。


 しかし、ワーウルフは倒れなかった。右腕を犠牲にしてそれを受け止めたのだ。


 これが、罠。


 最初から自分は囮だ。攻守交替。今まで攻撃側のはずだったワーウルフが布石となる。


最高の一撃を止められれば、かならず隙が出来る。


 そこを狙う。


「ぅううおおおおオォおおらァああああああああッ!」


 狙う場所は一か所。


 ワーウルフの背中に足をかけて飛ぶ。


 今度はアルビノの番だ。


 最高の一撃を。


 最後の一撃を。


 アルビノは尖った丸太をクマの口にぶち込んだ。それは喉を貫通して後頭部から突き出ていた。


 アルビノとワーウルフは距離をとって見つめる。これは致命傷だ。物理的な問題だ。


 完全に入った。


 にもかかわらず、この不安感はなんだろうか。


 クマはふらふらしているが、まだ倒れていない。ゆっくりと一歩、一歩とこちらに近づいてくる。


 倒れろ。


 そう心で叫ぶ。


 倒れろ。


 倒れろ。


 もう、いいだろう。


「……倒れろよッ! 倒れてくれ!」


 クマの片目が見開かれた。その瞳には、綺麗な空が一瞬だけ映り込んだ。そのあとに訪れた色は、黒だった。


 後ろへ、盛大に倒れて大地が揺れる。そして一瞬の静寂。


「…………」


 それを願った。


 なのに、この気持ちはなんだろうか。


 恐怖からか、涙が自然とこぼれたのだった。










 波動を感じてからいったいどのくらいの時間が経ったのだろうか。


二人の波動が、消えた。


「…………」


「…………」


 それでも二人は動かなかった。


 そしてやがて日が暮れた。


 辺りは完全なる闇へと変化した。それでもペストとリリーは愛しい息子が帰ってくるであろう方角をずっと見つめる。


 黒い黒い闇。


 それ以上の黒さはないはずだ。


 なのに――。


 黒の中に黒を見た。それを認識した二人は急いで駆け寄る。見間違えるはずがない。アルビノとリンドウが帰って来たのだ。


 リンドウはアルビノの肩に掴まり、アルビノは必死でリンドウを支えながら歩いて来る。二人とも血と泥で汚れて、血も泥も半分以上が固まっていた。


 リンドウは血相を変えて走ってくる母親に気が付いて、精一杯の笑顔で応える。


「ただいま」


 親の顔を見た二人はその場へと倒れ込んでしまった。帰ってきたという安心感で緊張の糸が切れたのだろう。


「よく帰った!」


「もう、遅すぎよ……」


 倒れ込んだ息子を抱きしめて生きている事を実感する。生きている。たしかに生きている。


 ずっとこのまま抱きしめていたい衝動にかられるが、そんな訳にもいかない。


「ペスト、湯を沸かせ。儂はその間に薬を作ろう」


「わかったわ」


 二人はすぐにとりかかった。


 リンドウが特にひどかった。右腕は血だらけで肉もえぐれている。おそらく骨も折れているだろう。きっとこの傷は残る。


薬草たっぷりな風呂で身体を綺麗に洗い、傷口に薬を塗り込む。大きな傷は針と糸で縫い合わせた。あとはぐっすりと眠るだけ。睡眠こそがもっとも効果的な回復方法だ。


 ペストとリリーはそれぞれの息子を抱きしめて眠りについたのだった。








「リリー殿、ご機嫌が良いようだな」


「そう見えるか?」


 薬の準備をしているリリーはいつになく上機嫌だった。いつもなら絶対にそう聞かれたらお前には関係がないだのなんだの言うくせに、今日は本当に機嫌がいいらしい。


「実はの」


 聞いてもいないのに内容まで話だす始末だ。


「息子が成長しての。強くなったのじゃ」


 腕を組んで一人でうんうんと頷き納得している。王は意味がわからなかったが、一つだけわかった事がある。


「ほぅ、リリー殿は息子殿がおるのか」


 これは初耳だ。まぁ今までそんな話をしてこなかっただけなのだが、これは新しい情報だった。


「おるぞ」


「息子殿も魔女の力を持っているのか?」


 正直なところ、魔女というものがどういう存在なのかは知らなかった。ネルに聞いても魔女は魔女でそれ以上でも以下でもないという答えが返って来る。


 逆に人間とはなんだと聞かれて答えられなかったら、それと同じだと言われた。


「持っておらんよ。儂の子は人間じゃ」


「?」


 どういう事だろうかと王は手を顎にあてて考えるとリリーが答えを教えてくれた。難しく考える必要はない。そのままの意味だ。


「拾い子じゃ」


「なるほどな。して、その子が成長して強くなったと?」


「そうじゃ。ほれ、クマがおったろう?」


「クマ?」


 そう言われて自分の記憶を引き出す。いつ、どこの、どんなクマだ?


「人喰いクマじゃ。お前が少し前に言っておったろう。記憶力ないのぉ」


「あぁ」


 どうやら思い出したようだった。


「お前もわかっておると思うが、あのクマはただのクマではない。魔獣じゃった」


「……やはりそうか」


 しかし、教会から聞いた話とは違う。


「あのクマか。あのクマは普通のクマで教会騎士団が駆逐したと聞いておるが」


「あほぬかせよ。そやつらが駆逐したのは別のクマじゃ。本当の魔獣のクマは儂の息子の手によって駆逐されたわい」


 どうやら話が食い違っている。どこでどういう風に変わってしまったのだろうか。しかし、今のリリーの言動を聞くに、どうやらリリーの言っている事が一歩先を、詳しいその後の事を話しているように聞こえる。


 つまりどちらも本当の事を言っているのだ。教会騎士団の話には続きがあった。


「なるほどな。そういう事か。それで本当の魔獣はリリー殿の息子殿によって駆逐されたと?」


「いかにも」


 まるで自分の事のように胸を張って自慢をする。


「息子殿は何歳なのだ?」


「六歳じゃな」


「ろくっ……」


 果たして六歳の子供が魔獣のクマを目の前にして退治することが本当に可能なのだろうか。大の大人ですら無理だろう。それをたかだか六歳の子供がやってのけた?


「……ぜひとも王国騎士団に入団してもらいたいものだな」


 それを聞いたリリーは何かを思いついたかのようにポンと手を合わせた。


「なるほどの。王国騎士団か。まぁたしかに悪くはないのかもしれぬな。なるほどなるほど」


 リリーの顔は何か悪だくみをしているかのような顔になっていた。しかしそれは息子の事を想っての事だ。


「王よ。詳しく聞かせてもらおうか」


 まさか冗談で言った事を本気にされるとは思ってもいなかったので、王は少し戸惑ったが、仮に本当にリリーの子が王国騎士団に入団したら確かに面白いと思う。


 信頼は出来るだろう。


「この王都には二つの騎士団があってだな」


 この小さな会話が王都を変える騎士を生み出すのかもしれない。王はそう思いながら説明を始めたのだった。


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