第二幕


 幸せだと言い切れる。


 捨てられて良かったと言い切れる。


 なのに。


 なのにどうして夜になると涙が出てしまうのだろうか。


 思い出さなくていい事を夜になるとどうしても思い出してしまう。心が乱れてしまう。どんなに忘れようとしても、あの時の感情は、裏切られたという事実が夜の闇のようにこの小さい身体へと覆いかぶさって来る。


「……ぅっ……うぅっ……」


 声を押し殺して泣いても、大声で泣いても変わらない。ならせめて迷惑にならないように小さな声で泣こう。


 毎晩毎晩繰り返す。


 その声を聞くたびにリリーはリンドウの部屋を訪れた。ロウソクを片手に部屋へと這入る。ベッドに丸くなって必死で泣くのを堪えている我が子を見ると心が痛む。


 リリーは机の上にロウソクをおいてフッと息をかけて火を消した。そしてゆっくりとリンドウのベッドの中へと入る。


 何も言わずに優しく抱きしめた。言葉は必要ない。ゆっくりと、優しくリンドウの頭を撫でる。リンドウが眠りにつくまでいつまでも。


 この状態が例えひと月続いたとしても、一年続いたとしても、リリーは嫌な顔せずに同じことを繰り返すだろう。


 ヒック、ヒックと泣いていたが呼吸が安定してきた。疲れて眠りについているのだろう。そこでリリーは頭を撫でるのを止めた。


 かわりにリンドウの顔の位置を少し変えて、耳を自分の胸に当てる。自分の心臓の音を聞かせる為だ。まだ幼い子供は母親の心臓の音に安らぎを感じる。それはまだ体内にいた時の心臓の音を覚えているからだろう。


「儂の心臓の音でも大丈夫じゃろか……」


 本当の母親ではない。でも愛情は本当の母親にだって負けないと自負している。


 そんなリリーの心配をよそに、リンドウはようやく夢の中へといけたようだった。リリーはリンドウの頭に優しく口づけをして、リンドウの後を追うように自分の目を閉じたのだった。






 朝、目が覚めると自分の隣には大口を開けて眠りこけている母の姿があった。


「豪快な寝相だなぁ」


 見た目とは全然そぐわない。しばらく見ていると――。


「ふごっ」


 どうやら自分のいびきで目を覚ましたらしい。口元のヨダレを拭きつつ、愛らしい大きな目がこちらを向く。


「なんじゃ、もう起きておったのか」


「うん。ちょうど今ね」


 リリーはむくりと上半身を起こして伸びをした。


「くっ、あっ」


 なんだか野性的というか自由というか悩み事なんてなさそうだなとリンドウは思った。


「またここで寝てしもうたの。いやはや、子供は体温が高くて暖かい」


 きっと最後の言葉はリンドウに余計な気を使わせまいとする親心だろう。


「さて、朝飯じゃ」


 二人は仲良く手を繋いで階段を下りて行った。






 リリーは子育てをした事がない。だから何をすれば子育てになるのかが分からなかった。家にある本を読んでもそんな子育ての方法などいう文字は一つも見当たらなかった。


 パンを二人でかじりながらリリーは思う。


 何をすればこの子の将来の役に立つのだろうか。魔女の子供なら教えることはなんとなく分かるが、相手は人間の子供だ。


 さっぱりわからない。なので一番手っ取り早い方法に出た。


「リンドウよ、何かしたい事はないか?」


 本人に直接聞いた。


「うん? う~ん、したいこと?」


 そんな事を突然言われても困る。今の生活に何一つ不満はない。この平穏が少しでも長く続けばいいと思っているが、それはしたい事とは違う。


 リンドウは考える。


 したい事。


 するとリリーのあの言葉を思い出した。


『強くなれリンドウ。最低でも儂を守れるぐらいに』


 そうだ。自分の母親を守る事だ。だったら最初に行うことは決まっている。


「読み書きを教えてほしい」


「ほぅ」


 まずはそこからだ。それが出来ないと何も出来ない。


「よかろう。頑張って覚えるのじゃぞ」


 リリーはリンドウの頭をわしわしと乱暴に撫でた。されるがままだが、それが心地よいのだから仕方がない。


 それからリンドウはリリーに読み書きを教えたが、その成長は早かった。これは人間の中でも優秀な部類に入るだろう。一度教えたら理解するし、ある程度教えたら、教えなくても自分で本を探して理解する。


 まったく手のかからない子だ。それからリンドウは本の内容に関係なく、家にある本を片っ端から読み漁っていった。もちろん分からない内容ばかりだ。それでも読んだ。繰り返し繰り返し読んだ。


「ねぇ、まま。他に本はないの?」


「他に、か」


 あるにはある。だがこの家にはない。だから正直に言った。


「あるにはある。世界にはたくさんの本がある。読みたいか?」


「よみたい!」


 即答で答える。湖のほとりのようなキラキラした顔で言われた。それが少し心苦しい。


「世界中の本を読むのは大変じゃ。それにお前のような子供には這入れない場所もある。じゃから今のうちから準備をするのがよかろうよ」


「じゅんび?」


 オウム返しで聞き返した。


「まぁ準備と言っても特に何もすることはないんじゃが……。しいて言うなら成長することじゃな。大人になれリンドウ。早う大人になれ」


「おとなに……」


 何かをするには準備が必要だ。その準備をするためには他の準備がまた必要になってくる。本当に目指す先にはいくつもの困難が待ち構えているものだ。


「おとなになれば何でもできる?」


「そうじゃな」


「ままを守ることも?」


「できるじゃろうな」


 リンドウは“何から”守るのか分かっていないだろう。だから全部から守ればいいと思っている。この世の全てだ。自分の母親に害を成すもの全てから守る。それには段階が必要だとこの会話で理解した。


 リリーは本当にリンドウは賢い子だと思う。なぜ、このような子をリンドウの親は捨てたのだろうか。それが理解できなかった。あまりあその事を考えるとリリーは自分の機嫌が悪くなっていく事に気が付いた。


 これはれっきとした憎悪だ。リンドウを捨てたリンドウの親が憎い。こんな素晴らしい子を捨てた親が許せないと思った。気が向いたら殺しに行ってやろうかと真面目に考えたが、優しい我が子がそれを望まないだろう。たとえ自分を捨てた親でも親は親だ。きっとリンドウはしっかりと割り切れるはず。いつかその事について話してみたい自嘲した。


 将来、それこそリンドウが大人になって、なんでも出来るようになった時に、実の両親に会いたいと言ってきたらどうするべきか。今のうちからリリーはその答えを準備しておこうと思った。


 答えと、心を。


 息子の願いは何でも叶えてあげたい。それが自分に害を成す事でもだ。


 死ぬほど愛おしい。


 まだ会って数日なのに、この感情はなんなのだろうか。いや、答えはわかっている。母性だ。精一杯、目一杯愛してやろうと、リリーはこの無邪気な笑顔に誓ったのだった。










「お前を今から殺す」


 ペストは唐突に、目を見据えられてそんな事をアルビノに言われた。出会ったときに、殺すと言われているので驚きはしなかった。


 ただ、この時が来たのかと、それだけを思った。








 アルビノの右手にはナイフが握られていた。もちろんこの家のナイフだ。まだ切っ先はこちらを向いていない。アルビノは立っているだけだ。立っていて、ただナイフを握っているだけだ。


 いちいち声をかけるとは律儀な奴だとペストは内心笑った。


「あたしを殺してもいいの? 言ったと思うけど、あたしを殺したらきっとあなたも死ぬことになると思うけど?」


「かまわない。お前を殺せるんなら本望だ」


 随分と難しい言葉を使う。なるほど、覚悟ができたのだろう。それは言い換えれば成長したと言ってもいい。その事にペストは嬉しくなった。我が子の成長は嬉しいものだ。


「ふぅん。そのナイフであたしを刺すのね? はたして刺さるかしらね?」


「刺さるまで刺せばいいだけだ」


「まぁごもっとも」


 ペストはソファーに足を組んで座っている。殺すと言われてからも、ピクリとも動いていない。アルビノは待っていた。律儀にも待っていた。


「さっさとかかってらっしゃいよ。あたしを殺すのでしょう?」


 グッとナイフを握る手に力が入ったのがわかった。きっとこの状況を何度もイメージしたはずだ。だが、イメージ通りになんていくはずもない。相手は魔女だ。


 それでもやるしかない。それが自分の生きている意味なのだから。


「……ぅ、うぁァぁぁあァぁあアアあああアあああああッ!」


 大声をあげて、勇気を振り絞ってアルビノは駆けた。二人の距離は三メートルほどだろう。いかにアルビノが子供だからといって、そんな何秒もかかったりする距離ではない。ものの数秒で、それは届いた。


 メキッ。


 骨が軋む音がアルビノの耳に届いた。届いたというか直接頭に響いた。


 ペストは座ったまま、組んでいた足をほどいてアルビノの顔面に足の裏を向けたのだ。アルビノは避けることも出来ずに、磁石のようにペストの足に吸い寄せられた。しかし磁石みたいにくっつくはずはない。


 まずナイフが手から落ちた。カランと金属音が鳴り響く。その直後にアルビノが地面に倒れるドスンという音がして終わった。静寂が唐突に訪れた。


「あらあら、大丈夫?」


 そんな言葉を発しているのに、ペストはまだソファーから立ち上がろうともしなかった。


「ぅっ……くっ……」


 アルビノには一体何が起こったのかわからなかった。ただただ顔が痛かった。激痛がイカヅチのように駆け巡るが、アルビノの目は冷静に落ちたナイフを見つけていた。それを見て悟る。


 あぁ、なんだ、失敗しただけか。


「修業が足りないわね。出直してらっしゃい」


 アルビノがペストを見上げると、嬉しそうでシニカルに笑う美しい顔がこちらを見下ろしていたのだった。








 それからアルビノは顔を合わせるたびにペストを殺そうとした。


 食事中。


 食べている最中にナイフの切っ先をペストの顔目掛けて放った。それをペストはフォークでガチンと受ける。ペストの余裕の笑みから「まだまだねぇ」という言葉がいとも簡単に読み取れた。


 それにカチンときたアルビノは二撃目を繰り出す。しかしそれも当然のごとく止められた。三撃目も四撃目も。いくらナイフをふるったところで当たるのはペストの持っているフォークだけだった。


 ちなみに机の下でも攻防が繰り広げられているのは言うまでもない。最終的にはペストがアルビノの足を踏んづけて動けなくなっておしまいだ。


 そんな事を毎日毎日繰り返した。


「楽しい毎日ねぇ」


 退屈だった毎日とはまるで違う。毎日が光り輝いて見える。これもすべてアルビノのおかげだ。


 今日はどんな方法で殺しにくるのだろうか。真正面からではなく、しっかりと策を練って来るのだろうか。


 今日の殺し方は昨日の反省をしっかりと生かしてきている。しっかりと学習していた。それでもまだ足りない。


「くそッ、どうしてだ!」


 アルビノは何が悪いのかが分からなかった。イメージでは完璧だ。だが、それをいつも上回って来る。自分が想像もできない事をして対応してくる。


「さすがは魔女、か……」


 普通の人間なら百回は殺せているはずだ。しかしペストには傷一つついていない。さすがにまだ早いのかと思った。もっと自分が成長したなら。せめてペストと同じぐらいの身の丈があれば勝率はもっと上がるはずだ。それこそ腕力だけでなんとかなるかもしれない。


 そう思ったアルビノは毎日自分で考えた訓練をしだした。訓練といっても身体を鍛えるだけだ。だが、それが何よりの武器となると信じている。


 ペストはもちろんその事を知っている。早く成長してほしい。自分を驚かせてほしい。まだ見ぬ結果を想像してペストはシニカルに笑ったのだった。




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