【恋愛・アンハッピーエンド】失愛症

お題「赤く染まった頬」


最愛の人の記憶を失ってしまう病気、失愛症。

妻がその病気にかかり、薬を手に入れるために私は町へと向かった。


ノベルアップ+にも同じ作品を掲載しています。

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 村にその奇妙な病気が流行はやりはじめたのは、冬が深まりつつある季節だった。

 まずほほがリンゴのように赤くなり、症状が進むと特定の相手に対して言葉がうまく出なくなったり表情がうまく作れなくなったりする。その様子がまるで初々しい恋のようだと、「初恋病」の俗称で呼ばれるようになった。


 しかし、患者数が増えるにつれ、実際には初恋と真逆だということがわかってきた。

 この病気は一種の記憶障害を引き起こす。しかも厄介なことに、患者が愛している相手にまつわる記憶が徐々に消えていくというものだ。

 一般的に、患者が相手に対して抱く愛情が深ければ深いほど記憶障害が顕著になると言われている。


 ある夫婦は、夫と妻が同時にこの病にかかり、破局を迎えたという。

 ある家庭は、母が子を置いて家を出てしまったという。

 ある老爺は、我が子のように可愛がっていた愛犬を捨ててしまったという。

 ある庭師は、自慢の庭を一週間で枯らせてしまったという。

 ある劇団は、売れっ子だった役者のファンが激減し、空席が目立つという。

 ある教会は、敬虔だった信者が顔を見せなくなってしまったという。


 最愛の相手といってもその対象や愛し方はさまざまだが、失愛症が流行りはじめてから人々の表情には影が差すようになった。

 中には村を去ってしまう者もいると聞く。


 ある朝、私は妻のほほが赤く染まっていることに気付いた。

 額や首を触っても熱はない。

 医者に診せたところ失愛症だと言われた。

 まだ初期症状らしく記憶障害は出ていないものの、妻はひどく不安そうに私を見るばかりだ。


 さいわい、最近になって特効薬が開発されたという。

 といってもまだ新しい薬なので、辺境にあるこの村への入荷は不定期らしい。

 町まで行けば手に入るとのことだが、馬車を使っても往復四日ほどかかる。

 それでも私は薬を買いに行くことにした。


 村を出る前に、私はなるべく多くの知人に声をかけ「妻のために町へ失愛症の薬を買いに行きます。どうか留守のあいだ妻をよろしくお願いします」と告げた。自分の弟や妹たち、それに近所の人にまで声をかけた。誰もが私のことを「妻想いの良い夫だ」と褒めてくれて、とても気分が良かった。


 出発の日、妻はすがりつくように「お帰りをお待ちしています」と言った。しらじらしい、と私は心の中で冷笑した。

 妻はなんと計算高い女なのだろう。


 乗合い馬車を利用し、町へ向かう。

 道中、私はぼんやりと妻のことを考えていた。

 私と妻は親同士が決めた結婚相手だった。

 家同士の結びつきがあり、どうしても断ることができなかった。


「夫婦とは一番近い他人だ」とはよく言ったもので、同じ家で暮らしていても妻の顔を見ると息が詰まりそうだった。おそらくそれは妻も同じだったに違いない。

 だが、世間体は守らねばなるまい。

 私は妻との関係が良好であるように演じていた。両親や弟や妹たちにでさえ。


 馬車を乗り継ぎ、ようやく町に到着した。

 薬は意外なほど容易たやく、しかも安く手に入った。聞くところによると、最近になり量産体制が整いつつあるのだという。村にはそういった情報がなかなか入ってこないのだ。

 予定より早く用事が済み、時間も金も余ったので、市場を覗いてみたり町の女を買ってみたりした。


 そうしているうちに帰宅予定日になった。

 また馬車を乗り継いで村へ帰らなくてはならない。

 にぎやかな町ともしばらくお別れだ。


 復路の馬車の中で、私は鞄の底にしまった薬のことを考えていた。

 安価で手に入れたとはいえ、今さらこの薬を妻に使うのは惜しい気がしてきた。私が妻を愛していないのと同じく、妻も私のことなど愛してはいない。

 それなら妻が失愛症にかかったとしても、私についての記憶を失うはずがない。


 それに、もしかしたら妻には他に想い人がいるのかもしれない。

 それなら本物の薬を与えず、その「想い人」とやらを忘れさせたほうが、不貞を防ぐのにいいかもしれない。

 どこかで適当な瓶を買って果実酒でも入れて渡すことにしよう。


 乗り継いだ先の馬車で、若い娘と出会った。

 どこまで行くのかと聞かれたので、失愛症の薬を買って自分の村へ戻るところだと答えたら、聞いてもいないのに彼女は自分の恋人も同じ病気にかかってしまったのだと言った。

 恋人が自分のことを忘れてしまうのがたまらなく哀しいのだと娘が泣くので、乗り合わせた人々は誰もが同情し、馬車の中が湿っぽい空気になってしまった。

 それに耐えかね、私は娘に自分の薬を三倍の値段で売りつけることにした。

 彼女は泣いて感謝した。人助けをして気分が良かった。


 二日ほど馬車に揺られ、ようやく村に帰ってきた。

 長旅で疲れたので、偽の薬は後日用意することにしよう。

 久々の我が家だ。扉の取っ手の固い感触に、都会の女のやわらかい肌が恋しくなった。

 また仲の良い夫婦を演じなくてはならないのかと思うと気が重い。


 家の中に入ると、妻が飛ぶようにやってきた。

 顔の赤みがすっかり引いているが、おそらく病気は進行しているのだろう。

 妻は私を見てひどく驚いていた。


「どちら様ですか」


 まるで胡乱うろんな者を見るかのような目つきだ。

 ああそうか、と私は納得した。

 妻は失愛症にかかり、最愛の相手――つまり夫である私についての記憶を失ったことになっている。彼女の立場としては、私のことを忘れたふりをしなくてはならないのだろう。


「茶番はよせよ。疲れてるんだ」


 私はぞんざいに言い放って上着を脱いだ。

 妻はひっと叫び震えている。まるで本当に不審者が家に侵入してきたかのような態度だ。なかなかの名演技じゃないか。

 面倒くさくなり、私は勝手に部屋でくつろぎ始めた。


 家の裏口から妻が駆け出していく足音が聞こえた。

 どうやら茶番はまだ続くらしい。長旅で疲れているというのに、面倒くさいことこの上ない。あとできつく叱ってやらなくては。


 しばらくして、今度は複数の足音が戻ってきた。


「家に、見知らぬ男が居座っているんです」


 そう話す声が聞こえた。

 見れば妻は、近くに住む私の弟や妹たちを連れてきたようだった。

 妹がなだめるように妻の肩を抱く。


「あれは兄さんだわ。私たちの兄で、あなたの夫よ」

「……えっ」


 妻は呆然と私を見つめた。

 ずいぶんと面倒な茶番に巻き込んでくれるじゃないか。さてはどこかで私が女を買ったことでも聞きつけたのか。

 ともかくこのまま放置するわけにもいかず、私は立ち上がり両手を広げてみせる。


「お前は病気のせいで忘れているだけだ。さあ、こちらへおいで」


 それでも妻は妹の腕をつかんだまま動こうとしない。

 見かねたのか、弟がこちらへ手を伸ばす。


「その前に兄さん、薬を渡して。町に買いに行ったんだろ? よく効く薬なんだってな。大丈夫、きっと薬を飲めば元のように戻れるさ」


 だが、私は動けなかった。

 鞄の中には薬など入っていないのだから。

 さっさとこの茶番を終わらせなくてはならない。どうにかしろと妻に目で訴える。だが、彼女の瞳を見たとき、私はようやく彼女の戸惑いが演技などではないことに気付いた。

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