【SF(少し不思議)】記憶カッター

お題「気球」「トマト」「カッター」

ジャンル指定なし

――――――



【三十代 男性の例】



 最近SNSで知ったのだが、『記憶カッター』というものが流行はやっているそうだ。

 なんでも、いらない記憶だけを切り取るように消すらしい。


 トラウマの克服にも効果が期待できると聞き、さっそく私も『記憶カッター』を購入することにした。

 カッターという名前から、機械で脳に微量な電流でも流すのかと想像していたが、出されたのは飲み薬だった。

 栄養ドリンクのような小さなビンにさらりとした液体が入っている。どうやら、これを飲むだけで忘れたい記憶を消し去ることができるらしい。


 商品説明によると、服用の直前、消したい記憶を思い出す必要があるとのことだった。記憶カッターの成分が脳の神経細胞に作用し、直前に思考した内容とそれに関連する記憶が消えるという仕組みだ。

 トラウマなどを抱えている人には辛いだろうが、記憶を消すためにどうしてもこのワンステップが必要になるようだ。


 そして、消えた記憶と同じ状況が再び起こった場合、記憶が蘇ってしまう可能性があるとのことだった。

 たとえば、子どもの頃に川で溺れて水が苦手になってしまった人の場合、また溺れたら過去の記憶も戻ってしまうということか。


 私はソファに腰かけ、深呼吸を繰り返した。

 商品説明によると、消したい記憶を鮮明に思い出すほど効果が上がるらしい。あの日のことを思い出すたびに足が震えるが、背に腹は代えられない。


 あの頃、私はまだ大学生だった。

 若さとはおそろしいもので、無謀で恐いもの知らずだった私や同級生たちは、手作りの気球で有人飛行をしようと試みたのだ。

 結果として、それは成功に終わった。


 いや、むしろ成功しすぎてしまった。思っていたよりも気球が高く上昇してしまったのだ。

 初飛行で操作に不慣れなうえ、上空は強い風が吹いていた。

 私たちを乗せた気球はぐんぐんと流されていった。このままどこへ行ってしまうのだろうと不安ばかりが募る。

 地上に真っ逆さまになり潰れたトマトのようになる自分の姿が頭から離れない。

 

 結局、途中で燃料がつきて気球がしぼみ始め、ぐんぐんと降下していった。落ちたのが雑木林の上で助かったが、これが電線に引っかかったり海の真ん中だったりしたら大惨事になるところだった。


 隣の県に不時着した私たちは、大人たちから叱られた。

 事前に届け出をしなかったことから始まり、見通しの甘さ、無人飛行で安全確認をしなかったこと、危険行為をして周囲を騒がせたことなど、とにかくこってり叱られ、あわや大学を退学させられそうにもなった。

 当時付き合っていた恋人にふられ、親からの仕送りも減らされてしまった。


 そういった出来事があり、私はすっかり高所恐怖症になってしまった。

 たとえば、展望台の床がガラスになっている部分なんて絶対に立てないし、そもそも展望台という場所自体がダメだ。観覧車もジェットコースターもダメ。

 だから、妻は私のことをアミューズメントパーク嫌いだと思い込んでいる。


 正直に言うと、実は階段を上ることさえ苦痛で、妻と外出するとき以外はすべてエレベーターで済ませている。それでも、かつて女性にふられた経験から、妻には高所恐怖症のことを隠し通してきた。


 数々のことを思い出すだけで、足が震える。

 もう、あんなことは二度とごめんだ。

 私はひといきに『記憶カッター』を飲み干した。爽やかな清涼感が喉を通り過ぎてゆく。清々しい気分になった。


「やったぞ!」


 嬉しさのあまり、私は叫んだ。

 まるで生まれ変わったようだ。


 さっそく外を歩く。階段も平気だし、今までは眩暈がしていたエスカレーターも。すいすい上れる。

 なぜ自分があれほど極度の高所恐怖症だったのか、そもそも何がきっかけでそうなったのかも思い出せないくらいだった。

 あの薬は素晴らしいものだ。


 うきうき歩いていると、ふと旅行代理店のポスターが目に留まる。

『ミャンマーで気球体験ツアー』


 歴史ある寺院の数々を上空から観光できるのか。これは素晴らしい。

 そういえば、私は気球というものに乗ったことがない。せっかくだし、高所恐怖症克服記念に乗ってみようか。

 そうだ。もうすぐ妻の誕生日だし、サプライズで夫婦旅行をするのも悪くないな。きっと妻も喜んでくれるに違いない。


 私はわくわくしながら旅行代理店へと入っていった。

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