第24話 キラキラと

 あかりは洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分をみて大きくため息をついた。

 酷い顔だ。目が充血して目蓋はパンパンに腫れあがり、鼻は真っ赤。こんな顔をタケルに見せてしまったのかと思うと、恥ずかしさでまた目が熱くなってくる。


 それでも、心はとても穏やかになっていた。

 今まで一度も誰にも語ったことの無い自分の過去を吐き出して、こんなにすっきりするなんてと思ってもみなかった。

 きっと、相手がタケルだったせいだろう。

 当時の大人たちのように、下手な慰めやアドバイスめいたこと、説教じみたことなど一切言わずに、ただ聞いてくれたからだろう。


 そして「誕生日おめでとう」と。

 この言葉を初めてくれたのは、祖母だった。

 二人目がタケル。

 お前は産まれてきて良かったんだよと、二人が言ってくれてる気がして、また涙が零れそうになる。


 ブルンブルンと頭を振って、もう一度顔を洗う。濡らしたタオルで目元を冷やしながら、こそっとドアの隙間から縁側を覗いた。

 タケルの後ろ姿が見える。腕を腰の後ろの方について、少しのけぞるように空をみあげている。

 チリンチリンとなる穏やかな風鈴の音に聞き入っているように思えた。


 なんだか不思議な気分だった。自分の家に彼がいることも、まさか自分の身の上を彼に語ることになるとも、思いもしないことだった。

 彼と話したいなと思うことはあったが、実際に自分から声をかけることなど絶対に無いだろうと思っていたのに。自分とは関わらないほうが彼のためだろうし、時折姿を見られればそれで満足だったのだ。

 だが、タケルがハクを目撃しターゲットにされるという事態になってしまったからこそ、あかりは居ても立ってもいられずに彼に近づいたのだ。


 あかりはタケルの背中を見つめながら、出会った時のことを思い出していた。正確に言えば、あかりがタケルを初めて見た日であって、彼は何も気づいてはいなかったのだが。





 あかりはよく早朝の散歩に出かけていた。

 誰もいない通りを歩いていると、まるで町が死んでしまったようで、この世に自分一人が取り残されたように気分になる。

 ここは死者の国。灰色の景色の中を一人あるいてゆく、そんな妄想をいつも抱いていた。


 その日は高校の入学式の日だった。普通は期待に胸を膨らませたりするものなのだろうが、何の感慨も湧かなかった。

 学校が嫌いとも好きとも思わないし、祖母に行ったほうがいいと言われたから行くだけだった。


 春の朝のひんやりとした空気を吸い込むと、体が透明になるような気がする。

 人のいない灰色の死んだ町を、透明な自分がただ一人ふわふわと歩いている、そんな幻想に浸りながら自分が通うことになる高校に向かって歩いてみた。

 それはただの思いつきだった。誰にも見つからないうちに、まだ誰も来ていない学校を見てみようと思ったのだ。学校も灰色をしているのか確かめてみようかなと。

 

 高校の前の道までくると、遠く校門の前に誰かいるのが見えた。制服を来た男子だった。

 あかりはビクリと立ち止まる。なんでこんな早朝に学校に来るのよ、と自分を棚に上げて不満気にその男子生徒を眺めた。

 その生徒はキョロキョロと門の中を覗いている。何しているんだろうと思う間もなく、唐突に彼は校門によじ登り、サッと中に入ってしまった。


 あかりは妙なものを見てしまったなと、小さくため息をついた。静かな幻想を壊されてしまったのも不満だった。一人だけで学校を見てみたかったのにと。

 そして少し早足に校門に向かった。不法侵入者が何をしようとしているのか見てやろうと思ったのだ。

 今日の入学式に合わせて何か企み事をしようとしているのかなと、ヒマなことを考える奴もいるものだと想像して呆れていた。


 校門の鉄扉の隅から、こそっと中を覗いた。

 すると、校庭の中程辺りにさっきの男子生徒が立っていた。その背の高い後ろ姿を見て、上級生だろうかと思ったが、新しそうなブレザーの裾にしつけ糸がついたままなのを発見して、新入生だと判断した。


 彼はぐるりと校庭を見渡してから、奥の角を見て立ち止まる。そこにはネットが置いてあった。野球部が使う投球練習用のネットだ。

 あかりは彼の横顔を、じっと見つめた。何をしているのだろうと気になった。


 男子生徒は、ポケットからボールを取り出した。

 そして感触を確かめるように何度も握り直し、それから額に当てた。少し頭を下げながらのしぐさは、なんだが祈りを捧げているようだ。


 彼はしばらくしてボールを額から離し、キョロキョロと辺りを見回した。誰もいないことをもう一度確かめているのか。

 少し緊張し不安気な顔に見えた。しかし一大決心をしてここに来たのだろう。おどおどしてはいなかった。


 あかりの胸が急にドキドキと鳴り始める。自分は彼の秘密を覗いているのだと気づいてしまったのだ。このまま勝手に見ていていいのだろうかという思いと、彼が何をしようとしているのか最後まで見届けたい気持ちとが、あかりの心を揺らしていた。

 そして結局は立ち尽くすように、鉄扉の影から見つめ続けることになった。


 男子生徒はキュッと口を引き締め、またネットを見つめる。

 軽くボールを投げるポースを二度三度繰り返す。そして、意を決したようにピッチングフォームに入る。

 真剣な顔だった。

 あかりは、彼は手にした一球に思いを込めようとしているのだと感じた。


 大きく一つ深呼吸をし、ゆっくりと一歩左足を前に出し振りかぶった。

 鋭く前方を見据える目に、あかりは吸い込まれそうになる。無心に彼を見つめていた。


 高く上がった右足が着地するとブンとしなやかに腕が回り、球が風を切って走った。

 ボスン!

 ネットの四角い印のど真ん中も命中した。


 あかりは思わず感嘆の息を漏らしていた。

 野球に詳しくないあかりでも、すごい速球だと分かった。


 彼は正しく起立し、被ってもいない帽子を取るポーズをして深々と頭を下げた。

 一秒二秒三秒、そしてバッと顔を上げ空を見上げる。

 目の淵が少し赤くなって、唇を噛んでいた。


 彼が何を思っているのかなんて解らない。でも、ひたむきさを感じたし、懸命に何かを見つめていることは解った。苦しげに見えるその表情の中に、絶対に負けるものかという力強さも感じた。懸命に足掻いているようで、それはキラキラと輝いて見えた。


 その時、あかりの胸が締め付けられて、涙が出そうになった。

 誰もいない校庭で、思いっきりの全力投球。その一球に全霊をかけたのだろう。

 これはきっと、彼にとってとても大事な意味のある儀式だったに違いない。早朝という時間。これから通う高校の校庭。一度だけの投球。きっと全てに意味があるのだ。

 拳を握って空を見上げる彼が、眩しくてたまらなかった。


 あかりは駈け出した。

 夢中で駆ける一足ごとに、町が色づいて春の色が目に飛び込んでくる。民家の玄関先で咲くチューリップ。満開の桜。黄緑色の新芽。薄水色の空。

 灰色なんて何処にもない。世界は色に溢れていて、命に溢れていて、そして輝いている。


 気がつけばポロポロと涙を流していた。

 ずっと忘れていたもの、目をそらしていたものを、彼は思い出させてくれた。

 彼が見せてくれた、キラキラと輝くもの。

 それをもっと見ていたい。

 彼を見ていたい。


 ……生きていたい。そう思った。





 縁側に腰掛けているタケルが、大きく伸びをした。

 ハッと我にかえり、あかりはタオルを置いた。


「お待たせして、ごめんね」


 振り返りニッコリ笑うタケルを見ると、胸に温かいものが広がった。やっぱり彼は、眩しい。生き生きと輝いて見える。

 タケルが優等生じゃないことも、クラスメイトをいじめていることも知っている。反対にタケルが悪そうな男に絡まれていることも知っていた。

 胸にドロドロとしたものを抱えていることも、すぐに分かった。それでもなお、あかりには彼が輝いて見えるのだ。苦しくても必死に生きようと、彼なりに足掻いているのだとそう感じられるから。


 いつかまた、タケルがボールを投げるところを見ていたいと思う。輝く情熱を見てみたいのだ。

 きっとタケルはあの日を最後の日に決めたのだろう。でも、あかりにはそれが始まりになったのだ。勝手な言い分だろうが、捨てないで欲しい。あの日投げたボールをいつか拾いにいって欲しい。そしてもう一度、彼の情熱を一心に込めた投球を見てみたいのだ。

 彼もきっとそうしたいはずだと、あかりは思うのだった。

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