第4話 この世ならざるモノ

 タケルは、自分のスニーカーのつま先をぼうっと眺めながら、人ごみの中を漂うように歩いていた。

 雑踏の音も、いつしか耳に届かなくなっていた。このままどこか遠くへ行きたい、そんなことを考えながらアーケードの中、行き交う人々の隙間を歩いていた。

 と、いきなり肩に衝撃を感じた。

 ハッと顔を上げると、三十代半ばくらいの男がタケルの目の前に立ちふさがり、怖いほどに睨んでいた。


――しまった。


 ぼんやりと歩いていたため、ぶつかってしまったようだ。

 その男は見るからに普通ではなかった。バサバサの髪にはフケが浮いていて、よれて首の伸びたTシャツとシミだらけのチノパンを履いている。コケた頬には無精髭が生え、顔色の悪い陰気な顔をしていた。

 一見しただけで、近づきたくないと思わせる男だった。

 タケルは後退りながら頭を下げた。


「す、すみません」

「このガキが……」


 男の声は初めはとても小さくよく聞き取れないほどだったが、次の瞬間、爆発した。


「このガキがあ! このガキがガキがガキがガキガガキガガキガアガガグァァァァ!!」


――な、なんだよこいつ、ヤバ……


 刺すような男の目は、黒目が常人よりも一回り小さく、白眼がかなり目立っていた。異相だ。罵りが奇声に変わって行く間にも、黒い点のように瞳がきゅうと縮んでいくようだった。

 どう考えてもこの男は普通じゃない、とタケルは頬を引きつらせて後退る。


 と、男が腕を振り上げ、タケルは反射的に両腕で頭を庇った。殴られると思った。一瞬呼吸が止まり、悲鳴が喉にひっかかる。

 しかし、男はもうタケルを見てはいなかった。殴られることもなかった。

 何かを真っ直ぐに指さした腕をそのままブンっと水平に回し、よろめきながらも独楽のようにぐるぐると回転しながら、周囲に向かって叫びだしたのだ。


「おま、おま、お前ぇ! お前おまえおまえおまえぇ! おまえぇぇ! 何みてんだ! おまえ! 何見てんだよ! 何みてんだ何みてんだってぇ何見て! 見てんじゃねえよおぉ!! おまえらぁ!!」


 大勢の通行人たちが最初の奇声に驚いて、タケルと男に注目していたのだ。

 その人々を次々に指さしながら、男は口から泡を飛ばして叫び続けていた。

 タケルは周りに大勢人がいたことに感謝し、転びそうになりながら人垣の中に逃げ込んだ。

 そして通行人の影からタケルは男を振り返った。


「おまえおまえおまえおまえええぇぇ!!!! み、み、み、み、みてんじゃねみてんじゃみてんじゃあぁぁぁぁみてんなぁぁってえぇぇ!!!!! うわあぁくあぁはあぁぁ!!」


 男の叫びは、最早意味のある言葉ではなくなっていた。

 人垣は一様に、面食らい眉をひそめていた。


 その時、タケルの目が一点に吸い付けられた。叫ぶ男の頭上に白い靄のようなものが浮かんでいたのだ。

 なんとなく少し霞んでいるだとか、蚊取り線香の煙が淡く漂っているだとか、そんなものでは無い。はっきりと濃く白い靄だった。そしてそれは霧散することなく凝集して、男の頭上に漂い続けている。

 しかも、靄には尻尾のようなものがあり、うねうねと蠢きながら男の首に巻き付いていたのだ。首つりの紐ように。


 首の後ろがむず痒くなり、ゾクゾクと身震いをする。

 もう見るな。見ちゃいけない。そう思うのに目が離せない。


 男の首に巻き付く靄のようなもの。それが突如、プルプルと震えそして凝縮し、人型に変化した。しっかりと輪郭をもち、本物の生物のような存在感をもって。

 小さな白いソレは小人のようだった。頭を下に足を上に、逆立ちのような格好で浮かんでいる。その腕を男の首に絡め、締めあげていたのだ。


 タケルの唇がわななき、ブツブツと毛穴が立ち上がり、震えが止まらない。見てしまったことを猛烈に後悔してしまう。

 せめて今からでも目を逸らせ、と脳は指令を送っているのに、身体が言う事を聞いてくれなかった。


 その白い小人のようなモノが、ゆっくりと顔を上げようとしている。

 タケルの息が乱れる。

 頭のおかしな男を覗き込んでいたソイツの顔が、こちらに向こうとしている。

 息だけでなく、心臓も跳ねるように鳴っている。

 そして真っ白い得体のしれないモノ、そいつがタケルを見た。血の色に光る眼が、狙い撃ちしたように真っ直ぐにタケルを見たのだ。


 ドクン!


 一際大きく心臓が鳴り、タケルは思わず胸を押さえた。

 背骨の中に氷の槍を突き刺されたような気がした。スーッと全身の血が冷えてゆく。


――なんだ、アレは……。


 逃げよう、そう思ったが体が言うことを聞かない。焦る心と裏腹に、足は一歩も動かせないのだ。

 奇声を上げ続ける男の頭上で、ソレがニタリと笑った。

 真っ白な顔の中で裂けるように口が開き、赤い舌がチロチロと唇を舐め始める。その間も、ソイツはずっとタケルから目をそらさず、じっと見つめていた。


 足が地面に縫い付けられたようにタケルは動けず、視線さえも変えられずにいた。呼吸さえもままならない。ヘビに睨まれたカエルだ、と絶望がひしひしと迫って来る。完全にロックオンされていると。


 そして、突然その白いものが動いた。

 いや、動いたように感じた。もの凄い風圧と音を聞いた気がしたのだ。

 目に映った現象は、ただソイツが何かを叫ぶように大きく口を開いただけだったのだが、眼前にそいつが迫ってきたような気がしたのだ。視界を真っ白な顔で覆ってしまうほど近くに。

 自分は今から死ぬんだな、とタケルは恐怖に取り付かれながらもソイツを見つめ返していた。背中を冷たい汗が一筋落ちていくのを、他人の身体のように感じながら。


 しかし、白いモノはもう一度嫌らしい笑みを浮かべ、次の瞬間には跡形ものなく消えていた。

 そしてその途端に体の呪縛も解けていた。

 ズルズルとすり足で後ずさり、背を向けた。ガチガチと歯を鳴らしながら、タケルは走りだす。


 人混みをかき分け、走った。アーケードの出口に向かって走った。

 どこへ逃げればいいのか解りはしないが、とにかくこの場所から離れたかった。逃げなければ、自分はあの男と同じようになってしまう気がしてしまうのだ。


 途中、中学生くらいの少年にぶつかったが、構わず走った。

 少年は押し飛ばされて、ドスンと尻餅をつく。「あ!」と声を上げる少年を振り返る余裕など無かった。

 タケルはそのまま走った。


 逃げるんだ。早く。

 一体アレは何なのだ?

 異様なモノ。尋常ならざるモノ。この世ならざるモノ。

 タケルの脳裏に一つの言葉が浮かんでいた。

 それは「魔」だった。


 あり得ない、そう思いながらも心のなかでは確信していた。

 アレは魔物なのだと。

 なぜそんなモノが見えてしまったのかなんて、分かるはずもない。ただ恐ろしさに震えながら、タケルは夢中で走っていった。


 どこをどう走ったのだろうか、ふと我に返ると、昨日大沢に呼び出された河川敷にたどり着いていた。苦痛と屈辱の記憶が鮮やかによみがえり、先程までとは違う恐怖が湧いてきてしまう。

 どうしてこんなところに来てしまったのかと動揺し、タケルは左右に視線を走らせた。大沢が居ないことを何度も確認してから、ようやく大きく息を吐きだすことができた。

 大沢とあの白い魔物。全く次元の違う問題でありながら、等しくタケルに恐怖を与える。どちらか一方だけならマシだなんてとても思えなかった。


――どっちもごめんだ……。


 額に浮いた玉のような汗をぬぐい、ゆっくりと何度も深呼吸する。気持ちを落ち着けるには少し時間がかかりそうだった。

 握った拳を見つめる。なんの因果でこんな目に合うのかと、無性に情けなくなり涙が滲んでくるのだった。


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