第38話 北の友人(二)

 女王の厳かな声音にラピスはたじろぎ、クエルクスをちらりと見て、もう一度女王の視線を受けた。貴人の眼光は静かで強い。瞼を閉じ、息を深く吸い直すと、ラピスはパニアで起こった事の経緯を話し始めた。身を偽っての謁見、傲慢な王の態度、そして突然の求婚……王に言われた言葉の腹立たしさと触られた感触がまざまざと思い出される。あの夜、王に腕を掴まれた時に感じたえも言われぬ気持ちの悪さが這うように蘇り、恐怖に体が蝕まれる。

 違和感を感じる右腕から全身が震えてきそうだった。ラピスはそれを抑えようと、もう片方の手を伸ばす。

 だがラピスが自身を抱くより前に、右手の甲に温かい感触がし、震えは静まった。

 自分の手の上に、ひとまわり大きいクエルクスの手が重ねられていた。

「もしかしたら、パニアがいよいよきな臭い方向へ動き始めたのかもしれませんね。あの直情径行な若造なら勢力拡大の隙があればいつ何をしてもおかしくありません」

 隣国ユークレースの王妃が倒れ、そのあとに王女を伴っての諸国表敬訪問が行われるとしたら、遠からず世代交代があると考えてもおかしくない。そうだとするとパニアは隣国が忙しない時に弱みにつけ込もうと王女付きの女官を襲ったか、それとも……。

 そこまで推測を述べて女王は言葉を切り、思索に耽ってしばし黙した。卓に置かれた照明が玻璃越しに室内を薄く照らし、細い蝋燭の焔が女王の碧い瞳に映る。

「恐れながら」

 沈黙を破った低い声はアネモスのものだった。

「ラピス様が身を偽って諸国を抜けていらっしゃるのはどういった理由からなのです」

「アネモス、失礼ですよ」

「いいえ陛下」

 ラピスを見据えたまま、アネモスは続けた。

「ユークレースほど義を尊ぶ国の王女殿下が友好国であるトーナにおいても身を偽って入国するとは、お答えによっては貴国との関係を改めねばならぬほどのことです。それも亡き国王妃は陛下の一番のご友人。それを知るユークレース国王陛下がかようなことをなさろうとは信じ難い」

 冷ややかな響きが石の壁にはね返る。アネモスの腰に佩いた長剣の柄が薄明かりの中で光った。

「そういえば、ユークレースの国王陛下はどうしていらっしゃるの。確かにアネモスの言う通り、国王陛下であれば、むしろトーナのわたくしのところにラピス王女がいらっしゃるのなら、回りくどいことはなさらないでしょうに」

 何か国王に異変が、と女王に気遣わしげに問われ、ラピスは返すべき言葉に迷った。女王の視線に目をしばたたき、横目でクエルクスの方を伺って彼が頷くのを確認してから、改めて女王に相対する。

「実は……今回の旅の目的は、父ユークレース王のため、奇跡の林檎を取りに行くことなのです」

「奇跡の、林檎」

 トーナ女王はその一言でほぼ全てを理解したようだった。

「ラズルが亡くなってからの御不調はお聞きしていたけれど……国王陛下はもうそこまで重篤なのですね」

 そう言うと女王の長い睫毛が色白の目元に影を作った。ラピスは首肯し、何を話すべきかクエルクスと視線を交わして確認しつつ、事の次第を一つ一つ語った。そして旅の話がトーナに至るところまで来ると、女王はゆっくりと口を開いた。

「そんなことならば我が国を頼ってくださってよろしかったのに。いえ、何も仰らないあたりがユークレース国王陛下らしいといえば、そうなのですけれども」

「確かに他国の目を考えれば、国王陛下の病状は漏らすべきではありませんね。陛下がご存命で玉座にいらっしゃる以上、王女のみが外遊というのも極めて不自然です」

 アネモスも、事情が事情ならば偽装しての入国も致し方ないことだと、誰に言うともなく呟いた。トーナ女王にとってはユークレース国王も親しい友人だったらしい。女王は先程の威厳も薄れ、扇子の端を落ち着きなく弄びながらしばし考えていたが、やがて憐れむように切り出した。

「何か、わたくしに出来ることは無いかしら。トーナは森林や川の多い地形よ。秋の国までの道行きは楽ではないわ」

 自分の娘に向かって言うようなトーナ女王に、ラピスは久しぶりに張り詰めていた心が解れていくのを感じた。

「わかっております。でもこれは我が国の問題であり、私の家族の試練です。トーナの皆様方にご迷惑をおかけしたとあっては、父にも母にも叱られてしまいますわ」

 微笑んで、しかしきっぱりと述べる。その返答を受け、女王は目を細めた。

「まったく……ラズルによく似ていらっしゃること。あの子……あなたのお母上も同じことを仰るのが目に浮かぶようだわ」

 ラピスの母親の名前を口にしてまた懐かしさが込み上げたのか、しみじみとラピスを眺めながら嘆息し、言葉を続ける。

「それでも、やはり何かさせてもらえないかしら」

「陛下、それは」

「不用意な国の介入は避けるべきなのはわかっているわ、アネモス」

 扇子を翻してアネモスを制し、ラピスとクエルクスの方を向いたまま、女王は膝掛けにもたれていた姿勢を正した。

「でも親交ある国に手を差し伸べるのは普通のことです。それにこれは、国よりもまずわたくしという個人が大事な友人にしたいと思うこと。友人を助けたいと思うのは、トーナ国の者なら当然と言うでしょう」

 滔々と述べるさまには元の威厳が戻っていた。

「何か、できることはないかしら。旅装を整えるのでも良いですし、馬車の手配でも。必要なものがあれば仰っていただけないかしら」

「それでは」

 先に口を開いたのはラピスではなく、ずっと黙して話を聞いていたクエルクスだった。

「無理を承知でお願いを申し上げます。どうかトーナの護衛団の方に、秋の国まで御同行いただきたく存じます」

「ちょっと何を言っているのクエルクス!」

 ラピスは思わず隣に座る従者の方へ身を乗り出した。だがクエルクスは極めて冷静だ。

「過ぎた要望であるのは存じております。しかし先の賊がパニアだとすれば、この先いつ奴らが襲ってくるか知れたものではありません」

「だからってトーナ国の皆様にまであんな未知の国まで……」

「トーナ国内の治安に心配はないでしょうが、我々はトーナの地に闇い。いざパニアが動いた時、情けないながらその手勢によっては自分一人でラピス王女をお守りできるか、断言できません」

 クエルクスはラピスを見ようともしない。

「ラピス様に、そしてユークレース国王陛下に忠義を誓う者として、お願い申し上げます」

 吸い込まれるそうなほど深い黒鳶の瞳は、ひたとトーナ女王を見つめている。

 女王とアネモスは強く揺らぎない青年の眼差しに息を忘れ、そして顔を見合わせた。

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