第34話 夜の剣戟(二)

 ——まただわ。

 布団の中で目を覚ましたラピスは、小さく息を吐いた。昨晩は熱と気怠さがかなり残っていたし、食事をして冷えた体が温まったのも手伝ったのか、粥を平らげたら和やかな気持ちで眠りにつけた。しかし今日は夕食を食べて床についてもなかなか熟睡できなかった。体調がやや回復し、意識がだいぶはっきりしたからだろう。気掛かりばかりが胸を騒がせ、微睡んだと思っては目を覚ました。いま起きたのも、一体何度目だろう。

 もう一度眠りにつこうと寝返りをうつ。しかし今度はふと違和感を感じて、はっきりと瞼が開いた。

 室内は暗い。うつらうつらしながら繰り返し覚醒したのは確かである。それを考えれば、もうとうに夜も更け、人々が寝静まってかなり経つ頃のはずだ。なのに何だ、この気配は。

 旅足が遅れた焦りで神経が過敏になっているのかもしれない。そう納得して再び寝入ろうと布団を手繰るが、えも言われぬ感覚が体にまとわりつく。

 ——クエルは……

 不安に駆られてもう一つの寝台を見れば、そこはもぬけの殻だった。驚いて飛び起き、ラピスは従者の名を呼ぼうと口を開いた。しかし声を出そうとしたのと同時にラピスの上半身は押さえられ、身動きが封じられる。

「っ……」

「静かに」

 口を覆われ身悶えをしたら、囁き声と共に耳元に生暖かな吐息がかかった。

 それを聞いて、ラピスの肩の力が緩む。落ち着こうと、自分の体を押さえる腕を強く握る。

「音をなるべく立てないでください。外の奴らに気付かれる」

 クエルクスの言葉を受けてラピスは視線を巡らせ、息を呑んだ。窓にかかった白布の向こうに人影が揺れたのである。しかも月明かりで浮かび上がったのではない。影とともに動く朱い朧な光は灯火か。さらにそれだけではなく、影に並んで細い切先が天に向いている——槍だ。

 影はラピスたちがいる部屋に沿うように動き、窓枠の中に現れては止まり、また消えては戻ってくる。通常の街の巡回警にしては明らかに宿の壁に接近しすぎているし、街全体の警備なら一つの宿の前にここまで止まることはない。

 何かを探しているのか、それとももう見つけているのか。

 影の目的を見極めようと、ラピスもクエルクスも視線を窓に止めたまま息を殺す。すると、白布に映る影が二つに増えた。そして影の動きに呼応するように、低い犬の唸り声。姿は見えないが、数頭いるのか。少なくとも一、二頭ではない。すぐ近くから、やや遠くから、鳴き交わす声が聞こえる。

「ラピス。この部屋だと知られているかもしれない。廊下に出ます」

「知られているって、まさか……」

「早く」

 クエルクスは長剣を抜いてラピスの前に回り、構えをとったまま自分の背に隠したラピスの方へ一歩後退した。それを合図にラピスも急いで足を靴に突っ込み、床の荷物から羽織に巻いた短剣を取って後方の扉の方へ足を滑らせる。

 廊下に出ると宿の女主人が奥の方からこちらへ近づいてきていた。外の様子を訝しんだのだろう。寝巻きの上に毛の羽織をかけ、手には蝋燭を持っている。他に人の気配はない。

「おや、お二人も起きてしまったかね。一体この外のは……」

「しっ」

 女主人を制し、クエルクスは廊下の反対側にある玄関口を睨んだ。二人が泊まっていたのは宿の入り口に最も近い客室だ。狭い廊下の先には帳場があり、そこがやや空間の開けた玄関口になる。扉に嵌められた小さな覗き窓には薄布がかかっているが、その向こうにやはり朱い光がちらついているのが分かる。

 客室の窓を割って入ってくるのが早いか、正面から攻め込まれるのが先か。いずれにせよ、この状況では逃げ場がない。

「おかみさん、裏口は」

「無いよ、こんな狭い宿に」

 震え声の女主人の返答にクエルクスは唇を噛んだ。獣のように研ぎ澄ました神経が、外にいる者の数が増えていると察知する。犬の声は明らかに主人の言いつけで獲物を探しているのだ。

 クエルクスは背後をちらと見た。ラピスが羽織の合わせを握り締め、瑠璃の瞳が不安げに自分を見つめているのに、ただ無言で頷いて前に向き直る。玄関口に行けば数人から取り囲まれる可能性が高くなる。応戦するなら狭い廊下か。人一人通れる幅しかないここなら、向かってきた相手を順に撃てばいい。そう判断をつけ、剣を握る手に力を込めた。

 けたたましい犬の叫び声がしたのは、それと同時である。

 続けて馬の嘶きが聞こえ、そこに怒号が混じった。しかしすぐさま自分たちがいる宿に乱入してくるのではない。その代わりに「捕らえろ!」「そっちだ」と交わす声が聞こえ、その間に鋼の撃ち合う硬質な音が響き、掛け声、呻き、悲鳴が入り乱れる。窓の外で静かに揺れていた灯火の光が新たに点いた他の光と紛れて窓の外全体がさらにぼんやりと明るくなった。一体何が起きているのか。予想外の乱闘にラピスは唾を飲んだ。

 三人はしばらくじっと身を固めていたが、外が騒しくなってからそう経たない時である。三人の正面にある玄関扉がドンっという音とともに大きく揺れ、二回、三回とそれが繰り返される。ラピスの鼓動は速くなり、胸元で短刀を握り締めた。

 木製の扉だ。武具を使えばたやすく壊れるだろう。外の者が踏み込むまでそうかかるまい。クエルクスはラピスに下がるよう手で合図して飛び込みの姿勢へと身を低く落とすと、剣の柄を握り直し脇に構えた。

 バキッ……

 木の裂ける音がしたのと同時に外の騒音が一瞬にして鼓膜を圧迫する。そして廊下の中へ人影が飛び込み、銀の太刀が空を切った。

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