外に出た時は、もう夜だった。

 セムの頭は、こんがらがってきた。父の妄想を科学者の目で否定してほしかったのに、逆に父の話を科学的に裏付けてしまうことになってしまった。

 しかも話の内容が内容だけに、恐ろしくて震えが止まらない。

 それでもまだ半信半疑の部分があって、あの先生も大丈夫なのかなとも思う。

 もう、何を信じていいのか分からない。

 うつろな心で、建物のすぐ外に停めてあった自分の赤いスペースジェットに乗り込んだ。空中を浮遊して走る車だ。透明なキャノピーが後ろから延びてシートを覆うとスペースジェットはゆっくりと浮上し、次に猛スピードで空中を滑った。すぐそばにエアチューブの入り口があったのでそれに入ると、あとはもう自動的にチューブの中を音速に近いスピードで走る。対向車があればこれも自動的にチューブが膨らんで、すれ違うとまた一台分の幅に戻る。チューブはかなりの高さに所に設けられていて、町が下の方に見下ろせる。セムの目に映ったのは、このシュルッパクいちばんの繁華街の煌々こうこうたるネオンだった。

 繁華街の出口に向かうチューブの分基点で、セムはなぜか無意識にそのネオンの方に引き寄せられていった。そしてチューブを出てネオンの海の中に突入すると、適当な路上にスペースジェットを乗り捨てた。周りにも色とりどりのスペースジェットが、所狭ところせしと停められている。

 町を歩いている人々は、圧倒的に若者が多かった。真昼と変わらないくらいにネオンで明るく照らされた町を、奇妙な服装の男女がグループで、あるいはカップルで歓声とともに埋め尽くしている。

 そんな中に混じってセムも歩き、一軒のダンスバーに彼は吸い寄せられた。

 中は相当広い空間で天井も高く、大音響の音楽が鳴り響いている。

 ダンスフロアは平面ではなく、そこだけ無重力になっているので、多くの人々が空中を上になったり下になったりで踊り乱れている。その無重力ゾーンの外にカウンターがあり、そこがバーだ。

 セムはそのカウンターの丸椅子の一つに腰かけ、手元のボタンで強い酒をオーダーし、その脇に左手の甲をつけるとそこに埋め込まれたICチップスから代価が引き落とされる。そして人工頭脳のロボットのアームが延びて目の前にグラスをそっと置いた。

 とにかく彼は、酒を飲んだ。今の混乱した頭を沈めるには、わけが分からなくなるのがいちばんだと思ったのだ。はたして大音響の音楽が後頭部をがんがん刺激し、グラスをどんどん重ねるうちに世の中の何もかもがどうでもよくなってきた。

 この大ホールで踊り狂っている何百人の人びと、外の町を笑い声を上げて闊歩している何千人もの若者、その誰もがセムの父の言ったことやヤコブ教授から聞いてきたことを何も知らない。いや、情報としては知っているだろうけど、彼等の関心事ではないということだ。

 少なくとも彼らの意識の中では、この歓楽の時が永遠に続くと思っている。何が起ころうとも自分は死なないという、不思議な自信を持っている。それが彼らにとっての現実で、その現実の中に今こうしている限りはセム自身も身を置いていた。

 享楽に身を浸している同世代の若者たちを見ていると、やはり父の言うことは妄想、ヤコブ教授の言うことも三流科学者のたわごとにすぎないのではないかとも思えてくる。

 そんなうつろな目をして酒を飲んでいる隣にいた、同じ年格好の男二人がセムに話しかけてきた。

「浮かない顔で、カネでも騙し取られたのか?」

 それどころじゃないとセムは内心思って、ただ黙って首を横に振った。

「金ってことじゃないのか。金じゃないとすると、女だな。この世の中、金と女で成り立っている。そのためなら体を張って、命がけさ」

 男たちボクシングのパンチのまねをしながら、笑いながら無重力ゾーンの方へ行ってしまった。

 またしばらくセムが一人で飲んでいると、近くでドスンと鈍い音がした。

「あ、て!」

 それは、女の声だった。見ると若い娘が無重力ゾーンから出てここに来る着地に失敗したようで、セムのすぐそばで尻餅をついている。思わず立ち上がってセムは助け起こそうとしたが、もう酔いが回っていてうまく歩けない。

 女はなんとか自力で立ち上がろうとしていて、オレンジ色の短いスカートの奥の白い物がちらりと見えた。セムはそれがなぜかうれしく、少し正気に戻って立ち上がる女にやっと手を貸した。女の手を握っているという快感が、また彼の脳裏を貫いた。

「ありがと。こんな人のこと気を使ってくれる人なんて、あんまりいないよね」

 実は親切ではなくて少し下心があったことは、もし倒れているのが男だったら知らん振りをしたであろうことからも、セムは自分でも自覚していないでもなかった。だが表面意識では、親切を装った。

「大丈夫?」

「少し休もうと思ったけど、やっぱ踊ろう」

 女もかなり酔っているようだ。セムの手を引いてそのまま無重力ゾーンを浮かび上がり、高い所まで彼を引いて行った。セムも大音響のビートと、腹にどすどす響くベース音の中で踊り始めた。

 空中で踊るのだから上下になったりひっくり返ったり、立体的な動きができる。しかも、相当の数の人がいるから、ほとんど音楽に撹拌かくはんされているといった状態だ。

 女はスカートが短いものが多く、上に下になったりすればスカートの中がまる見えだが、誰も気にしない。もはやこの町の若者には羞恥心がないようだ。男たちもそんなの気にしない……わけがない。男たちの視線はその絶対領域に釘付けになりながらも、動きをやめることはしなかった。

 当然、激しく踊るからぶつかり合うのもしょっちゅうで、それが原因でのけんかもあとを絶たない。今も大音響に消されながらも怒鳴りあう声も聞こえ、やがて殴りあいになるとたいへんだ。無重力で殴ったら、相手はかなりの所まで空中を飛んでいく。それが、ひしめきあって踊る人たちにぶつかり、また新たなけんかの種となる。

 そうなっても、踊る人たちは他人のことになど無関心だ。あちこちでけんかが起こっても全く関せず、それ以外の大部分の人々は歓声を上げて踊り狂っている。

 セムとて例外ではなかった。天変地異? 人類が滅亡? 緊急事態? そんなのもうどうでもよくなっていた。ていうか、もうすっかり忘れていた。

 すると、セムをここに連れてきた女が、何かわめいている。女の周りには三人ばかりの黒ジャンバーの男が群がり、どうも彼女をナンパして連れ出そうとしているようだった。女は嫌がって抵抗している。セムは、フワーッとその方へと飛んで行った。

「おい! おまえら、なんで俺の女に手を出すんだ!」

 セムは大音量の音楽にも負けないような声をしぼり上げた。男たちは光る目で、じろっとセムを見た。いつものしらふのセムならここですごんでしまっただろう。だが、今日は気が大きくなっている。

「おまえの女だと? 適当なこと、言うな!」

「本当だ。そいつは俺の」

 そのあと女の名前を言おうとしたのだが、実はまだ女の名前も聞いていない。

「こいつの女だって? ほんとかよ?」

 と、男は女の方に聞いた。すると女は、

「そうだよ!」

 と答えた。勝った、とセムは思った。

「俺の女に手を出しやがって!」

 あとはこの大ホールのあちこちで起こっていることと同じ状況になり、それをセムがやっているというだけであった。周りの誰もがやはり同じように無関心だった。

 男は三人ともセムの一撃で、多くの踊りに興じる人々を巻き込みながらホールの向こうの壁まで飛んで行って激突した。セムは女の手を引いて、入り口に近い方で無重力ゾーンから出て、そのまま外へと女の手を引いたまま走り、自分のスペースジェットに女も乗せて急発進した。

「かっけえ! 私、ラハールっていうの」

「俺、セム」

 それからセムはほとんど無口になって、スペースジェットを走らせた。チューブには入らずしばらく飛ぶと、すぐに赤いバラの花畑だ。その中に彼はスペースジェットを停めた。

 周りにもいくつかのスペースジェットが停まっているが、人は乗っている。例外なく、若い男女だ。そして、中でやっていることも、皆同じだった。

 その同じことを、セムもしようとした。いや、むしろラハールの方から求めてきた。セムの背中に両手を回したラハールは、セムの唇を吸った。セムの手は、彼女のスカートの中に忍び入り、しばらくしてから今度は胸をまさぐっていた。そして、ボタンがはずされる。ラハールの手も、セムの固くなったものの上を何度もさすっていた。そしてその手がそれを引き出し、顔がそこへと近づいていった。


 二人は行為が終わったあとそのまま寝ついてしまったようで、気がつくともう周りは明るかった。見ると、サイドシートでは昨夜の女――ラハールが、胸ははだけてスカートもまくれ、下着を何もつけていない下肢を大開きというあられもない姿で寝ていた。

 それを見たセムは、途端に嫌悪感に襲われた。その嫌悪感は目の前の女に対してだけでなく、昨夜の酔った上での行為、さらにそのような行為に及んだ自分自身に対してでもあった。

 頭の中にはまだ酒が残っていてすごい頭痛とともに、意識も朦朧としていた。そして何よりも胸がムカムカし、自分の嫌悪感とともに吐き気がしてきた。

 自分も慌てて下着とズボンを上げると、キャノピーも開け、身を乗り出して地面に向かって思い切り嘔吐した。その気配にラハールも眼をこすりながら起きたようだが、セムは急に、

「降りてくれ!」

 と叫ぶと、ラハールをスペースジェットの外に押し出した。

「きゃあ! 急に、何すんのよ! ちょっと! 乱暴な! こんなところで下ろされたって、どうやって帰ればいいのさ。だいいち、ここはどこよ!」

 ラハールがわめきながらそれでも車体にしがみついてくるが、セムはかまわずキャノピーを閉めてスペースジェットを発進させた。もう遥か下でラハールが気違いのようにわめいてセムを呪っていたが、もうその声も聞こえない。セムは朦朧とした頭のまま、スペースジェットを走らせた。

 そのままエアチューブに入り、音速で町の方へと戻った。

 ものすごくどす黒い、嫌な空気に彼は包まれていた。空が底抜けに青く明るいだけに、彼の内面の暗さが余計に目だって自分で感じてしまう。

 なぜこんな嫌悪感に襲われるのか、彼自身よく分からなかった。昨日の行為は、今の世のこの町なら誰でも普通にやっている普通のことだ。暴力とセックスが氾濫し、人々の関心はカネカネカネだ。

 チューブは、町に差し掛かった。相変わらずのすごい人の出で、ここの人たちはこんな昼間でも何の仕事もしていないことになる。ただ金のためにだけ嫌々働いて、唯一の楽しみは金がたまることであり、それによって物質的快楽を求めようとしている。

 だが、ごった返しているこの人びとのうち、働くことさえしていない人もずいぶんいるはずだ。働いたら負けだと思っている。そして昨日の夜は、自分もこの人混み(人ゴミ)の中の一人だった。

 とにかく胸がムカムカするので早く帰ろうと思った時、下の方の町の広場で人だかりが見えた。一度は通り過ぎたが、

「え?」

 と思ってセムは、スペースジェットを停止させた。その間はチューブが膨らんで、後続車両が追い越すのも簡単だった。

 そしてセムが驚いたのは、その人ごみの中に父がいたのである。

 父は、ただ遊びまわっているだけの群衆に向かって、大声で何かを説いている。聞こえなくても、人類に危機が迫っていること、それを乗り越えるために改心を促しているのであろうことはすぐに分かる。その父の目は、必死だった。遠目でも分かるくらいだ。

 セムは、思わず身震いをした。道行く人は誰もそんな父の言葉に耳を貸そうともせず、胡散臭そうに横目でチラッと見ては通り過ぎていくだけだ。するとそのうち一人の若者が父に近づき、なんとバケツの水を父の頭からかぶせた。

「気持ち悪い爺さんだな。ウゼえんだよ。あっち行けよ!」

 父の演説の内容はよく聞こえなかったのに、そんな怒号だけははっきりと聞こえてきた。

 セムははっとしてすぐに飛び出して行こうかとも思ったが、次の父の態度に体は硬直した。父はその若者に深々と頭を下げているのである。謝っているのかとも思ったが、どうも父は感謝の言葉を述べて礼を言っているようなのだ。

 そしてその後、全く何事もなかったかのように、全身ずぶ濡れのまままた父は演説を続けていた。

 セムはしばらく動けなかった。そのうち気を取り直してスペースジェットを動かしたが、チューブの中をほとんどのろのろと飛んでいるため、何台ものスペースジェットに追い越された。

 もう何が何だか、頭の整理がつかなかった。父の妄想だと自分に言い聞かせてきたのだが、あのような父の姿を見てしまっては衝撃も大きかった。本当に真剣に、命をかけてでないとできないことである。

 父をしてああまでさせているその根源は何なのだろうかと、セムは考え込んでしまった。だが考えれば考えるほど、頭の中は混乱する。

 そしてその父の姿と対照的だったのが、昨夜の自分だ。やはり自分の父親が水をかけられていい気持ちはしないけれど、さっき父に水をかけた若者と同列に自分はいるのではないかという気さえもした。

 そしてもう一つ彼を恐怖に感じせしめたのは、昨夜のけんかの相手が自分を割り出して自宅まで復讐に来ないか、もしくはあのラハールという女が最後に邪険にしたので、何か自分に責任を追及して乗り込んでこないか、はたまたその両者が結託して……、そこまでくるとさらに頭の混乱に加え、恐怖心さえ頭をもたげてくる。

 自宅に戻った彼は、自分の部屋のベッドへと直行した。そしてそのまま布団をかぶって、眠ってしまった。それが、今の彼にできる唯一のことだった。考えれば考えるほど頭が混乱するという状況下、先ほど感じた恐怖感も相って、今彼にできることは考えることの放棄しかなかった。

 彼はひたすら眠り続けた。眠っている間だけでも、現実の混乱から逃避できる。夜になり、ヤペテが夕食の時間を告げにきても、セムは無視して眠り続けた。そのまま、まる二日間、完全に全部というわけではないが、そのほとんどの時間をセムはベッドの中で眠っていた。

 そしてようやく、翌日の夕食を告げる声に、セムはのそのそと起きだした


 テーブルの食卓の上には、見たこともない白い饅頭のような物が皿に盛られていた。

「なんだ? これは」

 テーブルにも座らないうちに、セムは食事当番のはずだったヤペテに聞いた。ヤペテは、

「そのうち、分かるよ。兄さんは世間で大騒ぎになっていることを知らないのかい? テレビ、つけて見てごらん」

 セムが大型スクリーンを壁に広げ、スライドでニュースを投射すると、この地方のすべての街路樹や山の中の自然の木々に至るまで、この白い餅のような饅頭のようなものがなっているというニュースが映し出された。それが何であるかということは誰も分からないということで、またなぜこのような突然変異が自然界に起こったのかということもまだ解明できていないということである。

 ほんの一角の街路樹等に餅がなったのなら誰かの悪戯いたずらということもあり得るが、シュルッパクの町中の木々に一斉に餅がなり、そればかりか周りの多くの都市でも同様なのだという。

 もちろん、早速餅を回収しての科学的分析が行われているが、その結果は驚くべきことに未知の物体だということだ。このような得体の知れない物体だけに市では市民に一切手を触れることを禁じていたが、おもしろがってそれを持ち去る人もあとを断たないようだ。だが、持ち去ったところで、人々は何の役にもたたないその餅を、ただ家の中に転がしているだけだろう。

 今、セムの家の食卓の皿の上にこの餅が並べられているということは、ヤペテもその餅を持ち去ってきた人の一人ということになる。だがそれを食卓に並べた人は果たしてほかにいるだろうかと、ニュースでだいたいの状況を把握したセムは思った。そしてそれに最初に手を出したのは、父だった。父はそれを、思い切りほおばる。

「うん、うまい。新鮮な小麦のパンだ」

「パン?」

 ヤペテが少し不満げに

「僕、りんごの方がいいのにな」

 と、言って餅に手を出して口に入れて、

「なんだ。りんごじゃないか。おいしいりんごだよ」

 と、言う。不思議そうにハムも手を出して口に入れて、

「ねえねえ、僕はお魚が食べたいなと思っていたら、これ、お魚じゃないか」

 と、言うのだ。セムは、キツネにつままれた気持ちだった。父が笑った。

「どうやらこの餅は食べた人の想念が、つまり何を食べたいかと思っているかによってたちまち物質化して、その人が食べたいものに突然変わるんだな」

 そこでセムも騙されたと思って、食べてみることにした。

 セムは試しに、ソフトクリームをイメージした。訳の分からないものを口に入れるのにはものすごく抵抗があったが、父や弟たちがどんどん食べているので、セムも思い切って口に入れてみた。

 するとしたが触った瞬間にそれはトロンと溶けて本当に口の中でソフトクリームに変わったのである。

 セムは絶句して、今度はセロリを意識してみた。かじりかけの一つの同じ餅なのに、今度は舌が触るとザラッとして、噛むとさくさくとしたセロリになっていた。

 セムの目が白い丸になっているのを見て、父は驚いている様子もなく大声で笑った。

「これはだな、マンナといって神様からの贈り物なんだよ。すでにわしは御神示で、このマンナについては告げられていた」

 また父の神様談義なのに、セムはなぜかこの時はその内容を聞きたいと初めて思った。父の顔が、少しだけ真顔になった。

「いいか、なぜ神様は今この時期にこのようなものを下さったのか。それは、古文献をひもとけば分かる」

 古文献というまた突拍子もないものを父は取り上げた。

「古文献によるとこの地は、超太古に人類が発祥したもとつ国の世界大王スメラミコト様から全世界に派遣された十六人の皇子皇女の中のおひと方、ヨイロッパアダムイブヒ赤人女祖あかひとめそ様という皇女様が切り開いた土地だ。だから女祖めそ様のお名前を取って『女祖炎民野メソポタミヤ』という」

 三人の兄弟は、目を剥いた。こんな話は、学校の歴史では決して教えてはくれない。この地方がメソポタミヤということは常識だが、そういういわれがあったとは初耳だったのだ。

「その女祖めそ様は派遣される時はもう香りを放つお年頃で、とにかくバラの花がお好きだったから、どうかね、この地方は地平線の彼方まで一面のバラの花畑だろ」

 それもまた、初めて聞くいわれだった。

「そして我われの直接の先祖は、女祖様の系統であるアダムイブ民王ミツトソン様だ。そういう昔からのことが書かれた古文献が、我が家には代々伝わってきたのだ。神様は御神示で、それを研究せよとおっしゃった。すると、たいへんなことが書いてあった」

 三人は、身を乗り出した。

「過去に人類誕生から今に至るまで、なんと何回もこの地球は天変地異に見舞われてきたし、『万国、泥の海になる。五色人、皆死す』と書かれているような大規模なものでも過去五回起こっている」

「父さん」

 恐る恐る、ヤペテが手を上げた。

「みんな神様が人類を懲らしめるために、五回も天変地異を起こしたの?」

「いや」

 父は首を横に振った。

「神様は最愛の神の子である人類を、憎くて滅ぼしてしまわれるようなお方ではない。神様には今後人類をどうしていくかという、厳とした御経綸、つまりご計画がある。今の時代はそれを詳しく話すことはできないけれど、その御経綸上やむを得ないということもあったのだろうし、またその御経綸によって神界、神霊界の方もたいへんなことになっていて、そのとばっちりが人類界に天変地異という形できたということもあろう。そしてだな、その古文献に奇妙な記述が書いてある」

 また三人とも、息をのんだ。

「それは、過去五回の大天変地異の前の描写には、『木に餅がなる』という記述が必ずあるんだ」

「今のことじゃないか」

 と、さすがにセムも背筋が寒くなってきた。だが父は、ヤペテに目を向けた。

「しかしこの餅を食卓に並べたという、ヤペテの発想はさすがだ。さっきも言ったがこの餅はマンナといって、間もなく天変地異を迎える人類への神様からのせめてもの愛の残り火によるプレゼントなんだ。来るべき天変地異が起こっては、食料は一切なくなる。今のうちにこのマンナをできる限り貯蔵しておくことだ」

「父さん、聞いていい?」

 セムが意を決したように、口を開いた。

「神様はなんでそんな重要なことを、お父さんに告げたの? このシュルッパクのウバル・トゥトゥ市長にでも直接御神示を下した方が、影響力もあるだろうに」

 父は目を閉じた。そしてゆっくりとひげの中の口を動かした。

「わが一族は古来より『シュメール族』と称し、それゆえに先ほどの古文献も伝わっている」

「シュメール族?」

 ハムが口をはさむ。

「先ほど話の出たヨイロッパアダムイブヒ赤人女祖様の、いわば直系の子孫がわれわれのこの家族なんだ。つまりはもとつ国の『ス』の霊統であり、日(火)の神の直系ということになる。だから、因縁の魂なんだ。神様は来るべき六回目の天変地異に、それを乗り越えて次の文明を起こすいわば『種人たねびと』を探しておられる。その地上における代行者を、わしが命じられたのだ。だから、因縁の魂で因縁の魂をお導きせよと、神様はおっしゃる。人をただ集めるだけならば、お金をかけていろんな方法がある。でも神様はそうせずにやれということなのだ。因縁の魂は野に山に町に、まだまだ埋もれている。それをまず掘り起こさないといけない」

「お父さん」

 と、またヤペテが手を上げた。

「その因縁の魂であれば、天変地異を乗り越えられるの?」

「そうはいかんよ。悲しいことだけど」

 父の顔は、本当に悲しそうだった。

「魂の状況が、浄まっていないとな。同じ水槽の中に同じ大きさのピンポン玉と鉛玉を入れても、鉛玉は必ず沈み、ピンポン玉は浮くだろ。それと同じだ。過去世における罪穢が人々の魂を濁らす曇りとなって、神の声が入らないようになっている。だから神様は罪穢、つまり神様へのお借金を清算して、魂霊の穢れを霊削みそいでいくことをご要求されている。因縁のみ魂だと、まず神様はパーッと救いの網をかけてくださる。だが、一向に魂を浄めよう、自らの身魂磨きの精進をしようとしない人の場合、結局は因縁の魂で救われの網をかけてあげたのに、『もったいないなあ』と神様は思われる。逆に浄まった魂の場合、どんな天変地異が来ても、まるで映画の一シーンを見ているように何の問題もないということになるんだ。浄まっていないとそうはいかない。前にチュウラニヤで大津波があっただろう」

 父はリモコンを操作し、スクリーンに自分の保存していたデジタルビデオを流した。そこにはサーフィンボード片手に大津波に向かって走っていく、一人の若者が映しだされた。結局はその若者は、津波にのみ込まれて死んでしまう。

「この人は周りが止めるのも聞かずに、こんな大きな波はめったにないからもったいないと言って津波に向かって行った。その結果は、言わずと知れているね。この男はまあお気の毒なんだけど、なぜこのような無謀なことをしたのだと思うかね?」

「自信があったのかな。津波に負けないって」

 と、ハムが言った。

「そうだろう。だがそれに加えて、この人はのだよ。周りがどんなに津波の恐さを説いて止めても、それを信じなかった。自分の浅はかな経験則からでしか、物事を考えられないんだ。この高さの波ならたいしたことないと、それは確かに通常の波ならたいしたことのない高さだけど、津波はわけが違うということをこの人は知らなかったんだな」

 父は何が言いたいのだろうかとふとセムが考えた時、父の声はいちだんと高くなった。

「この津波に向かって行った人の姿が、今の世の中の人々の姿なんだよ。何も知らずに津波に突進して行っているのと同じ姿、まるで噴火山上に酔夢をむさぼっているそんな姿なんだ」

 セムには、その父のひと言が、ものすごい衝撃としてぶつかってきた。まさしく、昨日までの自分ではないか。そして同時に、街角で人びとに説法しても無視され、挙げ句の果てには水をかけられたのに深々と頭を下げていた父の姿が甦ってきた。

「お父さん」

 と、セムは思わず声を上げた。

「実はおととい、大学の先生の所に行ってきたんだ。その先生も、科学者の立場からだけど、お父さんと同じことを言っていた。科学的データから見て、気象や地質など総合しても人類の生存は脅かされていて、このまま環境を破壊し続けたらたいへんなことになるって言ってた」

 父はうれしそうに、少しだけ目を細めた。

「そうかい。その先生は立派な先生だな。わしは上からの神様の啓示にてこのことを知り得たけど、科学者は同じ所を目指して下から発展して行くんだ。結局、出発点は違っても行き着く所は同じなんだよ。科学もどんどん突き詰めて行けば、必ず神に到達する」

「でも今のアカデミーは、分かっていても発表しないんだとも言っていたけど。人びとがパニックになるのを恐れてなんだってけど」

「それもあるだろう。しかしだな、神を否定したところから出発してきたのが、今の科学だ。それは神様の御経綸上からも、そうなってしかりなのだが、今はおまえたちには詳しくは言えん。ただ、御経綸を知らない科学者としては、やはり自分たちの沽券もあるだろう。そして、彼らは自分の功績と名声の上にその地位を保ち、生活の糧を得ている。今、これから世の中がどうなっていくかということを発表してしまえばこれまでの研究の成果が水の泡になるし、自分たちの地位すら危なくなる。だから、彼らがつきとめた真実は彼らにとっては実に不都合なものだから、だからあえて隠匿するんだ。しかしわしは神様の地上代行者として、これから起こることを人々に告げ知らさなきゃいけない。何も知らずに恐ろしい津波に向かって突進して行っているような今の時代の人たちに、これから起こること、神のミチを伝えないといけない。それを聞いて信じる信じないは向こうの問題だから、信じない人を我われが裁くことはできない。我われは。告げ知らせればいい。それだけで、因縁の魂は自ずと集まってくる。いや、神様が吹き寄せてくださる。人を集めるということだけだったら、メディアを使うなどもっといい方法はいくらでもある。しかし、因縁の魂を通しての救いを、神様は命じられたのだ。そうすることによってはじめて、種人たねびとの発掘と養成という聖使命をわしは果たすことになる。これがわしの深い罪穢に対する罪穢消しになるんだ」

「お父さんも、罪穢が深いの?」

 ハムが、頓狂な声を上げた。

「深いさ。深いからこそ神様は、わしにこのような役目を仰せつかったのだろう。わしは人を救って救って救って歩かないといけないし、救世の基地としての山上の船の建設も急ピッチで進めないといけない」

「父さん!!」

 セムのひと声は、父もびっくりするくらいの大声だった。

「俺、手伝う。いや手伝わせてくれ。種人たねびと探しも、船の建設も、全力で手伝うよ」

 セムの中からほとばしる情熱が、父の目に光るものをあふれさせた。そして父は息子に深々と頭を下げた。

「有り難う」

 父に頭を下げられて慌ててセムも頭を下げ、ヤペテもそれに倣った。それでそっとセムが頭を上げるとまだ父は頭を下げたままだったので、慌ててもう一度頭を下げ直して、セムは言った。

「ちょっとお父さん、そんな頭なんて下げなくても」

 セムがそう言っているそばからヤペテが、

「僕はそうするって、とっくの昔から決めていたからね」

 そうしてちらりと、隣のハムを見た。次男坊のハムは自分の兄と弟の状況に、むしろ途惑っているようだった。

「う、ううん」

 浮かない声だったが、それも一応承諾と見えた。

「そうか、そうか」

 父はまた、セムと同じようにヤペテやハムにも深々と頭を下げた。

「いやあ、有り難い、もったいない。おまえたち三人の若い力が協力してくれるなら、百人力だ」

 それから父は手を組んで目を閉じ、祈っているようだった。この状況を、神に感謝申し上げているに違いない。そして目を開いて、

「おまえたちにも言っておこう。魂が浄まる要諦は、とにかく第一に『徹底感謝』だよ。いいことばかりではない。自分にとって悪いと思われることにも感謝だ。なぜなら神様の目からご覧になれば、善と悪という二局対立した事象は存在しない。神様は善一途のお方、この地球をお創りになって、すべてを『し』とされた神様なんだ。だからことごと一切徹底感謝、これが神のミチの基本中の基本だよ」

 それから父は、目の前のマンナをさらに子供たちに示した。

「さあ、話はこれくらいにして、どんどん食べよう。自分が食べたいものを自由に想念に描いてね」

 父はそう言ってから、高らかに笑った。

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