「伝説が伝説でなくなった日」

 そんな文字とともにセムのいる部屋の空中に浮かぶ映像には、無理やり宇宙服を着せられてシャトルで打ち打ち上げられたうさぎが一羽、月面をピョンピョンはねている姿が映しだされている。やがてそのウサギにはきねが持たされ、人間の手が介添えしてではあるが月面で餅をつき始めた。

「今まで月面でウサギが餅をついているなんていうのは、非科学的な伝説にすぎませんでした。しかし今やその科学の力で、伝説を現実にしてしまえる時代が来たのです」

 興奮しきった女子アナウンサーの声は、やたらかん高くキンキンとセムの耳に響いてきた。

 セムは一つため息をつくと、ソファーから立ち上がった。スクリーンをオフにしようとリモコンを探した。こういう時に限って、リモコンはどこかへ行ってしまう。それを探す間もセムは、全くばかなことばかりをやっていると今の社会を呪いたくもなった。特に二十一歳という若さが、余計に彼の正義感をかき立てるのだ。

 ――世の中、狂ってる。

 確かに今の世の中は尋常ではない。今回の月のウサギの次は、今度は月でスッポンの養殖をする計画もあると先ほどの女子アナは告げていた。そんなことならまだしも、遺伝子を操作して翼の生えた馬を出現させて大騒ぎしたりもしている。

 科学の進歩という美名の元にそのようなことに多額の研究費が注ぎ込まれているのが、今の時代の象徴でもある。

 ――けしからん! そのような行為は、神の権限を犯すもの

 いつも、父のジウスドラが悲しそうな顔でそういうことを言っているのが、ふと頭の中をよぎった。

 そしてちょうどソファーの下に落ちていたリモコンを見つけたその時に、入り口のドアがスーッと上にスライドする気配にセムは振り向いた。

「お兄ちゃん! お父さんが話があるんだって!」

 すぐ下の弟のハムだ。父のことをふと考えた時に、このタイミングだ。父の話と聞いて、今見ていた映像が映像だけに何だか嫌な予感がした。

 スクリーンではもう話題が変わり、地球の南大陸のほとんどの地域で、人々が遊んでいるところを突然いくつもの火山が一斉に火を噴いて襲ったニュースだ。それと、最近は毎日必ず地球のどこかで巨大な地震が起きているというニュースが続く。ほかにも旱魃かんばつによるひでり、そうかと思うと予想だにしなかった大雨災害のニュース、さらには一つの大陸すべてを焼きつくしていまうような勢いの山林火災の広がり、感染症の蔓延、そういったものが次から次へとスクリーンに現れては消える。

 そうかと思うと、「ある男の人が女の人を殺しました」とかいうニュース。

 セムは、ようやくスクリーンのスイッチをオフにした。たちまちスクリーンは消えて、ただの壁となった。そして、仕方なく父のいる階上へと、弟のハムとともに向かう。

 弟に、父の話は何かとは聞かない。だいたい予想はついているからだ。決して厳しいことはなく優しい父なのだが、時々突拍子もないことを言い出すのが玉にきずだ。

 エレベーターで四階に上がる。そこは「御神前ごしんぜん」と父が称している部屋がある。父はそこにいるという。居間ではなく父がそこにいるということからしても、父の話は予想がついてしまうのだ。

 部屋に入った。いつもここは煌々こうこうと部屋の照明のライトがついている。奥の棚の上には磨かれた水晶のような玉があり、それを背に父、ジウスドラはいつになく厳粛な顔で座っていた。いつもの柔和なニコニコ笑顔は、今はない。末の弟のヤペテはすでに父の前に座っており、その左右にセムとハムは並んで座った。

「実はな、たいへんな御神示が下ったのだよ」

 御神示? 御神示って神のお告げってことか……セムはもはや自分の頭を常態に保つことに努力を傾けていた。

 また父の神様談義が始まったといった感じだ。これさえなければ、いい父親なのだ。

 セムはふと、父が背にしている一段と明るく証明を当てられた棚の水晶の玉に目をやった。

 思えば自分たちが母親を失ったのも、この玉のせいだ。今でこそこんな借家だけど大きな家に住んで、自分を大学にまで父は行かせてくれている。しかし、セムが小学生の頃の一家は戦争の煽りで貧のどん底まで落ち込み、食うに困っていた時期だった。父は戦争のためにそれまで社長を務めていた会社が倒産して職を失い、多額の借金を背負っており、毎日靴下のセールスをパートでやって生計をつないでいた。

 そんな頃である、父の神様狂いが始まったのは。

 そして明日の食料もこと欠くその時に、父は自分がセールスで得た金で何十万ディオンもするこの玉を「御神体だ」と称して買ってきて、これを拝めと家族に言ったのだ。それは決して強制というような感じではなかったが、あまりにも父の突拍子もない行為に愛想をつかした母は、セムたち三兄弟を残してとうとう出て行ってしまった。

 それ以来、父は老齢の今に至るまで再婚はしていない。

「御神示によるとだな、この世界が滅びる。神様は人類を滅ぼそうとされているんだよ」

 セムたちは、開いた口がふさがらなかった。今までも神様の話をすることはあっても、ここまで突拍子もないことを言いだすのは初めてだ。セムはさっき世の中が狂っていると嘆いていたばかりだったが、今度はとうとう自分たちの父親まで狂ってしまったと溜め息ものだった。

「神様はもうこの世を滅ぼされる。このままの状態で突き進んだら、人類は地球を破滅させるかもしれないという恐ろしい人類自壊の限界点にまで達しているからな。そうなったら、何のために神様は人類に科学文明を起こさせたのかということにもなるし、それに神様の御計画にも支障をきたす」

 父は、自分たちのような若者の親である人びとに比べると、年齢がひと回りも上だ。本当は自分たちと同じくらいの孫がいてもおかしくない。それゆえに、とうとう認知症でも始まったかとさえ思う。だが、父の目は真剣だった。

「御神示って、神様の声が聞こえたの?」

 次男のハムの問いに、父は首を横にふった。

「まあ、そうともいえるし、そうでないともいえる。その状況は実に神秘的な摩訶不思議な現象で、とても言葉では言えない。おまえたちがすぐに信じられないのも無理はない。わしとて最初はキツネかタヌキにばかされているのかと思ったくらいだ」

「じゃあ、僕たち、どうすればいいの?」

 と、末っ子のヤペテが口をはさむ。父は穏やかな表情を見せはじめ、咳払いをしてからまた話を続けようとした。

「ちょっと待って」

 と、父の言葉を遮るように、ハムが口を開いた。

「もし本当にそうだとしたら、もうすぐみんな死ぬってこと? まあ、どうせ、人間、いつかは必ず死ぬんだけど」

 ようやく父は、いつもの笑顔を取り戻した。

「まあ、最後まで聞きなさい。驚かせてしまったかもしれないけど、だが今の異常気象や人類の荒廃ぶりを見れば分からない話でもないだろう? 最近の異常気象は、学者さんたちももうそろそろ話題にしはじめている」

 セムは、自分の大学の教授陣の顔を思い浮かべていた。だが彼らは科学的根拠に基づいて今後を予想するが、父の場合は全く神がかりなのである。

 セムはもうばかばかしくて、一刻も早くこの場から退散したかった。だがセムが何か言う前に、父の次の言葉が続いた。

「いいか、人類が滅亡してしまうような天変地異がこれから起こる。だが、我われがどうしたらいいかも、神様はちゃんとお示しだ」

「じゃあ、僕らは助かるの?」

 ハムの言葉に、父は優しい目をその次男に向けた。

ではない。んだ。救われる側ではなく、我われが救う側になるんだよ。いいか、神様は今の時代は暴虐世に満てりということで、人類をお創りになったことを後悔しておられるとまでおっしゃった。しかし、神様は人類が決して憎いわけではない。それは当たり前だろう? 等しく神の子として、神の地上代行者、最高芸術品として神様は人類をお創り下さった。だから、本当はかわいくてしょうがないのだよ。神様とてかわいい我が子に対して、できればそのようなことはしたくない。だがそうしないと、今の人類の有様では神様の御計画は進まないと言われる。ここで人類をきれいに洗濯、大掃除することが必要なんだと。本当は、たった一人の人間がそういった災害で苦しむのでさえ、神様とては断腸の思いなんだ。だから、我われに、一人でも多くの人を救えという、そういうお示しなんだよ」

「救うって、どうやって?」

 今度はハムが、口を開いた。

「そのための具体的方法も、お示し下さっている」

 三人とも、息をのんだ。

「まず、神より離れて穢れきっている今世の人たちに、改心を促すことだ。そうして魂を浄めておかないと、とてもこの度の大天変地異は乗り越えられんだろう。人々の魂に訴えかけて、まずは神の怒りを告げ知らせるんだ。神縁かみゆかりの濃きものは、必ず吹き寄せられる。ただ人を集めればいいというものではない。大いなる改心のできるものたちでないと、何にもならん。これは魂の救いだ。肉体的に、死から救うというのにとどまらない」

 改心するだけで救われるのだろうか、魂の救いって何だとセムがぼんやり考えていたが、さらに父は続けた。

「神様の御神示はこうだ。まずこの近くのいちばん高い山の頂上に、木材であるものを建てよという」

 ハムが目を上げた。

「あるもの?」

 それを見て父はニッコリと笑った。

「詳しくは追って話すが、そのあるものとは、幅、高さ、大きさについてもすべて御神示が下っている。長さは三百アンマ、幅は五十アンマ、高さは三十アンマだ」

 長さだけでも三百アンマ、つまり百五十メートルもある。そして幅が二十五メートル、高さは十五メートルとなる。それを聞いてあまりに巨大なので、三人ともが驚いていた。セムが目を上げた。

「もうそうだったら、お父さん、それって一つの巨大なビルじゃない」

「いいか、ビルのように合成建材ではダメだ。神様のお示しでは、すべて木で造るようにとのことだよ」

「そんなこと言ったって、どこの建築業者に頼むの? だいいち、そんなお金はあるの?」

「ハムの疑問ももっともだ。だがな、神様はすべて人力で、わしらが造れとおっしゃる」

 それを聞いてセムは、いいかげんここに座っているのが限界になった。それでも父は大まじめなので、とりあえず、

「そんなものを、何のために?」

 と、聞いてみた。

「それはまだ神様は、教えては下さらない。ただ、それは船だとおっしゃっていた」

「船?」

 声を上げたのは、三人同時だった。

「船って」

 と、ヤペテが口をとがらせて震える声を出した。

「船って、川とかに浮かぶものでしょ。どうしてそれを高い山の上に?」

 父は顔こそ柔和に笑んでいたが、目は鋭かった。

「一切が御神示なのだよ。そこには疑問も疑いも挟むことはできない。御神示ということは、絶対なる至上命令なんだ。この船造りと人々の改心への導きを同時にしなければならないからたいへんだけど、神様がそうしろとおっしゃるのだから仕方がない。神様は奥の奥のそのまた奥の、人知ではとても推し量ることのできないご存在なのだから、ス直が大切だよ。おまえたちには、強制はしない。ただ、わしが伝え聞いたことだけはおまえたちにも伝えておく。あとは、自分たちでどうするかを選べ」

 父は、それだけを言った。


 部屋を出た三人の兄弟は、歩きながらも顔を見合わせて微笑むだけで、何も言えずにいた。その沈黙を破って、エレベーターを待つ間にざわめき始めた。まず、セムだ。

「親父、とうとう気が狂ったな」

 弟二人は、すぐには答えなかった。セムはさらに続けた。

「こうなるともう、妄想の域を出ないな。俺は親父の話は、右の耳から入って左の耳に抜けていたけどね」

 そう言ってセムが笑ったので、少し恐い顔をヤペテは見せた。

「なんだか今日のお父さんの様子から、笑っていいようには思えないけど」

「いや、いいんだよ。笑ってもいいんだよ。いや、むしろ笑ってる場合だよ。だいたい人類が滅亡するなんて、そんなことある訳ないじゃないか」

 その言葉はセムにとって、一種の自分への言い聞かせのようなものでもあった。

 「父の妄想だ」などとはいうものの、あながち父の話のすべてを否定しきれない何かが心の中に残っているのだ。

 人類滅亡や御神示、それの巨大な船を高い山の上になんて話はさておても、今の世の中はたしかに異常である。自然界でも気候変動が始まっているらしいことは事実で、さらに今の世相を見ても災害が多発し、暴力がはびこり、人々はカネだ、モノだと、それらへの追及のみで生存している動物になりさがっている。

 だから、今すぐに何かが起こってもおかしくない世の中なのだ。

 エレベーターが階下に着いた。その時ヤペテが、兄と弟をそっと見上げた。

「僕、父さんの言う通りにするよ」

 まだ高校に入ったばかりの弟の発言にも、セムはただ苦笑いしていた。


 それから数日たち、世の中は相変わらずの日常がこのシュルッパクの町では繰り広げられていたし、何も起こる気配はないが、セムたち家族だけは確実に変わった。貧のどん底で靴下のルートセールスなどやっていた父を拾い上げてくれて重役にまでしてくれた会社から、「必要とあれば、いつでも声をかけますから、その時だけでもおいで下さい」と、それでかなりの額の給与を頂いているようだった。その自分が役員をやっている会社を、父はすっぱりと辞めてしまったのである。

「そんな! 生活はどうするの!」

 三人の息子は父に詰め寄ったが、父は笑っていた。そして、

「とりあえず借金は完済できた。あとは、神様の御用をする人には神様は絶対に食うに困らせない」

 と、ピシャッと言った。

「食うに困らないって、現実問題としてもう収入はないってことになるじゃないか」

 そう言って、いちばん食ってかかったのは次男のハムだった。

「神様がどうのこうのと自分の趣味を通すのはいいけど、まず生活をちゃんとしてよ、父さん。もっと現実を見てくれないと、俺たち三人はどうなるんだよ」

 父はただ穏やかに笑んで、三人の息子を見ていた。

 

 ところが仕事を辞めたはずの父なのに、次の日からも父は毎日出かけていく。どこへ行くのかは息子たちの誰も知らない。どうやら「人救い」とやらに歩きまわっているようで、毎日へとへとになって帰ってくる。

 そんな父の様子にハムは毎日食ってかかっているが、それをなだめているのは末っ子のヤペテだ。

 長男のセムはというと、自分は無関心と決めていた。

 ただ、一つ父の言葉で気になったのは、「最近の異常気象は、学者さんたちももうそろそろ話題にしはじめている」ということだった。学者が認めているのならあり得るかもしれないと思ったセムは、いちばん身近な学者、つまり大学の教授を訪ねてみることにした。


 シュルッパクの町の西外れに、セムの通う大学はあった。セムが訪ねたのは気象学のヤコブ教授の研究室で、ビルの十三階にあるその部屋からはシュルッパクの町が一望できた。町の周りは、一面のバラの花畑である。その真っ赤な花畑が遥か地平線の方まで延びているのもまたここからはよく眺められる。

 小柄なヤコブ教授はいつもの白衣、爆発したボサボサ頭に牛乳瓶の瓶底メガネで、相好を崩してセムを迎えた。歯も何本か欠けている。

 この部屋を学生が訪ねてくるのはめったにないようで、それだけにうれしいようだった。セムとてこの教授の授業を週に一回取っているだけで、これまで親しく話をしたことなどない。

「いやあ、どうしたのかね? 何か聞きたいことでもあるのかな?」

「はい。実は」

 セムは、いきなり本題を出すのははばかられたので、

「ここ最近の地球の異常気象についてなんですけど」

 と、言っておいた。すると教授はますます嬉しそうな顔になって、

「そうだろう、そうだろう。君もおかしいと思うだろう」

 と、話の内容が内容なのに、余計にニコニコしている。

「今は地球の裏側のことまで、瞬時に情報が分かる時代だ。テレビのニュースだけじゃなくて、個人個人が直接の生の情報を手に入れられるからな」

 「はい、確かに」

 と、セムは言った。

 教授は、最近の人たちが腕につけているサイバーネットのことを言っている。その小型スクリーンで誰とでも相手の顔を見ながら話ができるし、あらゆる情報を取り出すこともできる。この装置がそのままリモコンにもなって、テレビモニターをどこででも出現させて小型スクリーンの映像を映し出すこともできるし、プリンターをリモコン操作して情報をプリントすることもできる。

 今の世に生きる人々の必需品といっていい人工知能で、小学生から老人まで誰もが所持していた。この装置で買い物もできるし、身分証明書代わりにもなる。銀行の装置を操作して預金の出入金や送金・振替も可能だ。

 教授はさらに話し続ける。

「先月もヒナタエビロスで、大地震があったな」

「はい」

「ヨモツ国は旱魃と洪水だ。ヒウケエビロスではハリケーンが吹き荒れるし、竜巻たつまきも大暴れだ」

「そうですね」

「そしてタミアラではまた大地震と津波。ミヨイは地球温暖化で海面が城して、大陸全体で海岸線が七ミリオン(十キロ)も後退してしまった。沈むのも時間の問題じゃないかな?」

「はあ」

「そしてご存じのとおり何カ月も渡ってオネストでは、大陸全体を焼きつくす森林火災が今も収まってはおらん」

「確かに、多すぎますね」

「そればかりではない。今世界を脅かしている感染症の拡大もある。ヒウケエビロスとヨモツ国では毎日何千という単位の人たちが亡くなっている」

 教授はそこで一度、ため息をついた。

「君は若いから知らんかもしれんが、わしがこの年まで生きてきたその経験でも、また遠い昔の記録でも、過去にこんな災害が次々に起こったことはない」

 実際には、災難はそのような自然災害ばかりではない。人心の荒廃による凶悪事件も後をたたないし、さらには戦争の危険性さえはらんでいる。

「全く科学万能とうぬぼれて、自分たちが神の被造物であることを忘れた結果だな」

「え?」

 セムは意外だった。科学者であるこの教授の口から、神というような単語が出るとは思っていなかった。

 放っておけばこの教授はどんどんどんどん一人でしゃべりまくるので、ちょうど故意に話の腰を折るいい機会だ。

「科学者である先生も、神様を信じてるんですか?」

 教授は笑った。

「いいかね、君。本当の科学をどんどん突き詰めていけば、神に到達するんだよ。ただ、あからさまに神とは言えないから、宇宙意志とかある絶対的なものとか言葉は置き換えたりするけどな。でも、やがて宗教と科学は一体になるだろうよ。わしのような一流の科学者になればなるほど、どうしても神に行き着いてしまうんじゃ」

 教授はさらに声をあげて笑った。

「先生、そのある絶対的なもの、宇宙意志って何なのですか?」

 勧められるままに円椅子に腰をおろしたセムは、話の流れからある程度分かり切った質問をした。

「それはだな……、それは君のお父さんの分野だろ」

「え? 父をご存じなのですか?」

「お父君のジウスドラさんは、その点については実に詳しい。わしなんか足元にも及ばない偉大な学者だな」

 この教授が父を知っているというのは驚きだ。どこに接点があるのかどうしても見出せない。だが、父の名が出たことによって、今日ここへ来た本来の目的に近づいたとセムは考えた。

「いやあ、君のお父さんのことはいつも尊敬している。お父さんは、人類の幸せを一心にお祈りされているしな。いつもニコニコ顔で、他人の悪口や陰口、不平不満や愚痴を絶対におっしゃらない。おおらかで物事に頓着せず、時には童心そのもので、機知とユーモアにもあふれている」

「あのう、先生」

 またこのへんで遮らなければ、教授の話はいつまで続くか分からない。教授が言う父の姿は、セムも認めているところだ。それだけに自慢の父である。しかし、今はその父が困ったことになっている。

「実はその父なんですけど、どうも妄想に駆られて、それで」

 セムは、意を決した。

「御神示が下ったとか言い出しまして」

 教授はまた笑うかと思ったが、何と今度は真顔で興味深そうに聞いている。

「ほう」

「何でももうすぐ大天変地異が来て人類が滅びるから、人類を救うために山の上に船を造るとか言いだしたんですよ」

 セムは手短に、父から聞いた話のあらましをヤコブ教授に告げた。しばらく何かを考えていたようだった教授は、やがて立ち上がって、リモコンを手にした。壁に巨大スクリーンが現れた。そこに映し出されたのはテレビの放送ではなく、教授が所有するディスクの映像のようだった。

「やはり君のお父さんは崇高な方だ。まあ、これを見たまえ」

 映し出されたのは、大気の状況だった。

「これはエビロスとかヨモツ国とかの外国じゃあない。この女祖炎民野めそほたみやの上空じゃよ。厚い雲が生成されつつあるのがわかるかな?」

 見ると確かに、上空に水蒸気のかたまりが集まり始めている。

「今、地上の水分が地熱で蒸発して、どんどん空中に舞い上がりはじめているんだ。こうして雲が発達してくると、地上に雨というものが降る」

「雨?」

 セムは雨を知らない。この地域では時折霧のようなものが早朝にりていて、必要な水分はそこから摂取する。だから、空から水が無数の糸で落ちてくる雨などという話を聞いても、セムにはピンとこなかった。

「それもものすごい勢いで降ることになる。この地方だけの話じゃあない。全世界規模でだ。しかもだな」

 教授は次々に映像を切り換えながら話し続けた。

「しかもこの雲、ただの雲じゃあないんだ。今の人たちの想念波動が物質化して、どす黒い雲になっていっている。そうすると、大雨が降ったら一面に泥の海になるかもしれん」

「どういうことですか?」

「つまりだな、今の雲は純粋な水分だけではなくて、泥のかたまりにもなっているということだ。その重みで、一斉に泥水が降ってくるのも時間の問題だ。『雲泥の差』なんていう言葉もあるけど、そんな言葉はもう死語だな。もはや『雲』と『泥』に差がなくなってしまったんだよ」

 教授は声をあげて笑い、また急に真顔になった。

「それにだな、地球の地軸が傾く可能性もある。雲と雨だけでなくて、地殻変動も起きつつあるんだ」

 父の話とあまりの符合しているので、セムは空恐ろしくさえなってきた。

「そういうことが、学会では正式に発表されているんですか? 政府の対応は?」

「いやあ、なかなか頭の固い連中でな。こういう話をしても、鼻にもかけない。でも、そんなアカデミーの頭の固いやつらの中にも、うすうす感づいている人はいるようだ。政府もだ。だがそうだとしても、彼らはこういった事実を直隠ひたかくしにするだろうな。一般の人々にこういったことが知れたら、いたずらにパニックを引き起こすからね」

「そんな」

 セムは一瞬絶句した。

「そういえば、お父さんは木で船を造るようにと言われたそうだな」

 教授はそんなことまで知っているので、セムは驚いた。

「はい」

「そうか。それは賢明だ。いいか、驚いちゃいけないよ。今度の大雨はただの水でなくて、硫酸の雨の可能性がある。そうなるともう、金属や合成建材は溶けてしまう。どこにいても助からない。でも、それでも助かる人は助かるんだよ」

 また教授は、高らかに笑った。その一方で、セムはひそかに背中を凍らせていた。

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