第三章 ⑨
昼下がり、世界は秋晴れだった。ジッとしていると、頬にじんわりと熱が溜まる。こんな午後は、のんびりと散歩するのが素敵だ。
リジェッタは家に帰る前に電話喫茶に訪れた。
横になって寝るのも難しい狭い個室にはテーブルと椅子、そして電話が設置されている。未だに高い電話を庶民でも気軽に楽しめるようにと近年始まった兼用喫茶は、老若男女問わず大人気だ。リジェッタも度々訪れる。ここは使い勝手が良いからだ。
紅茶を注文し、早速電話をかける。ダイヤルを回して受話器に耳を当てると、数秒もしないうちに相手の声が届けられた。
〈はいはい、コッセルさんでっせー。どこのどなたですかー?〉
「こんにちはコッセルさん。ご機嫌いかがですか?」
〈おー、なんやリジェッタもやないか。身体はもういいんかい?〉
「ええ。お陰様で。この度は、大変ありがとうございました」
目の前に本人がいるかのようにリジェッタは頭を下げた。受話器を両手で耳に固定し、とても穏やかな口調だった。
〈そうかそうか。それは良かったでー。うちもな、ちょうどあんさんに連絡入れようかと想ってたところや〉
いったい、コッセルは向こうでなにをしているのだろうか。まさか、電話に出ているのだから手術の最中ではないだろう。
人間の悲鳴のような音が、たまに受話器から漏れていた。
〈はいはい、静かにしてなー。もうちょっとで終わるから。で、あんさんが欲しいって言ってたもんが見付かってでー。それも、とびっきりの極上物や。これだけのもんは、十年に一度あるかないかやろうなー〉
「では、それでお願いします」
リジェッタの即答に、電話の向こうでコッセルがケラケラと笑った。
〈けど、高いでー? うちは現金払いがモットーやから、払い渋りなんて許さへんぞ〉
「構いません。ですから、手術を一日で済ませてください」
すると、コッセルが咳き込んだ。暫くの間、ごほごほと似たような音が続く。
〈無理言うなや。腕を繋ぐならともかく、身体の内側っちゅうもんは色々な臓器との兼ね合いで成立しとるんや。たった一日で動けるようなもんやない〉
「あら。闇医者という割に、そんな簡単なことも出来ないのですか? 私、あなたのことを過大評価しすぎていたのかもしれません。今度から《紅蝙蝠》ではなく《口だけの猫ちゃん》とでも呼ぶべきでしょうか」
〈……あ。それ、どういうことや?〉
コッセルの声が低くなった。
また悲鳴が聞こえた。
〈ちょっと黙っとけ! 脳味噌削られるくらいでガタガタ喚くなや! こっちは治療代金を踏み倒すボケカスつまり手前のために貴重な時間割いてるんやねんど。安心しい。三十年も血を抜き続ければ利息くらい払えるわ。最期になったら、髪の毛一本も無駄にせず〝使う〟からありがたいと想え! そんな心配せんでもええ。お前の子供からはちゃんと腎臓を返して貰う。そんで可愛い嫁さんがいたやろう? 母と息子が下半身繋げて腎臓を共有すれば問題あらへん。当然、結合する手術分の代金はあんさんに上乗せするけどな。まばたき一つ出来んあんさんの世話はご家族にさせれば看護婦代もいらへんな。どうや、家族の借金を家族そろって返す。これが純愛ってもんやろう?〉
爆竹が破裂するような音が聞こえた。
悲鳴がピタリと聞こえなくなった。
コッセルの声は荒くなっていた。
〈勘違いするなや《偽竜》。うちはな、あんさんの身体が慣れないって言うたんや。手術そのものは半日もかからん。あくまで、あんさんの身体を想うてのなー〉
「ならば、それで良いのですよ《紅蝙蝠》」
リジェッタの意志は変わらない。電話を握る手に、少しだけ力が入った。闇医者には闇医者の矜持があるように《偽竜》には《偽竜》の流儀がある。
椅子に座るリジェッタの背後、ドアがコンコンとノックされる。
「すみません。紅茶をお持ちしましたー」
若い女の声だった。
リジェッタは振り返らず、指先をちょっと動かした。
硬質な稲妻がドアを吹っ飛ばした。
「どうやら、あまりゆっくりしていられないようで」
レインシックスの十四ミリホローポイント弾が、成人男性の手の平の厚さもない木製のドアを貫き、今まさにドアを開けようとした女性店員の腹部に直撃した。女性店員は猪に体当たりされたかのように跳ね飛んだ。壁に後頭部を打ち、そのまま倒れる。
腹部には拳大の穴が開いていた。医者が診るまでもない即死だ。血肉のペーストが壁に地獄の花を咲かせていた。何事かと個室から出て来た利用者達の大半が悲鳴を上げた。
リジェッタの視線が、今殺したばかりの女に向けられていた。女性店員は紅茶を運んではいなかった。その右手に握られていたのは、短剣だった。
〈この阿呆! 鼓膜が破裂するかと想ったで。……ったく、そうやってよくもまあ、トラブルを招き入れるもんやな。それが金なら、今頃あんさんは世界一のお金持ちやで〉
「うふふふ。恐縮です。それで、いかがですか?」
〈しゃあない。やったるわ。けど、かなりの荒良治やで。ゲロぶちまけて血の小便撒き散らすだけの覚悟はあるかいな?〉
「あらあら。でしたら桶を沢山用意しないと」
そうして、リジェッタは受話器を置いた。転がっていた女暗殺者の手から刃を掴まないようにナイフを取る。
リジェッタの右手が霞の世界に割って入った。
飛翔したナイフが受付に立っていた男の喉元に突き刺さる。男は小銃を握ったまま後方へ倒れた。
リジェッタは困り顔で首を傾げた。
「あの、紅茶はまだでしょうか?」
店員に変装していた暗殺者はなにも応えない。刃に毒でも塗られていたのか、ナイフが突き刺さった周辺の肉が変色していく。
紫色の笑みが、天井へと注がれていた。
誰もいなくなった電話喫茶で一人、リジェッタは頬に手を当てて窓の外を眺める。この分なら、もう五分もしないうちに警察が訪れるだろう。
カレン以外の警察だと面倒だから、紅茶は別の店で飲むことにする。
そうだ。カレンから教えられた、あの店に行こう。そうだ、そうしよう。
「うふふふ。楽しみですね」
そうして、ここから去ろうとして、リジェッタは一度だけ振り返った。
「私の記憶が正しければ、ここは〝彼女達〟が管轄する場所だったのですが、私の気のせいだったでしょうか?」
だとすれば、おかしい。
「誰でしょう?」
誰も答えない。
「誰ですか?」
誰もいない。
リジェッタは、ここにはいない誰かへと想いが届くように胸の前で両手を組んだ。小さく小さく、だがはっきりと言う。
「ちゃんと、待っていてくださいね」
紅茶の時間に遅れないように、リジェッタは足を速めてその場から立ち去った。
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