第24話 流転の時代⑦ ❀千姫と本多忠刻夫妻



 

 

 

 元和6年(1620)元旦の卯の刻。

 当年とって24歳になった千姫は、ひとつ上の夫、本多忠刻ほんだただときに寄り添い、播州白鷺城の武蔵野御殿にぐるりと張り巡らされた廻廊から、いましも上り始めた初日を拝していた。だれもが認める完璧な美男美女の一対に、生まれ立ての朝日が神々しく射しかける。まさにこの世の至福を独り占めの感があった。


 それより4年前、元和2年の秋、同年4月に没した大御所家康の遺言を表看板として、豊臣秀頼と死別して1年にもならない千姫は、伊勢桑名10万石藩主・本多忠政の嫡男・忠刻に再嫁した。


 その翌年、本多家は家康の遺言として、千姫の実父に当たる2代将軍・秀忠から播磨姫路15万石への移封を命じられた。その際、やはり家康の遺言として、千姫に化粧料10万石が与えられた。


 巨額の持参金付き花嫁のために、当主の忠政が心を砕いて整備したのが西ノ丸、および、万事派手好みの太閤秀吉が精魂を込めて建立した伏見城の造作から一部を移築したとして鳴り物入りで建築させた武蔵野御殿だった。


 肩を並べて初日を拝み、人目も憚らず仲睦まじさを披瀝する若夫婦のかたわらには、可愛い盛りの3歳の長女・勝姫と、丸々と太った2歳の長男・幸千代が、それぞれの乳母に抱かれて侍っている。新年の寿ぎに光り輝く息子一家を、舅・忠政と姑・国姫がうれしげに見守っていた。


 この世の幸せの手本の如き家族のあとには、千姫の3人のお付きが控えていた。

 伏見の徳川屋敷で呱々の声をあげた瞬間から片時も傍を離れたことがない事実を最大の誇りとする乳母・刑部卿局、2歳上の千姫を姉の如く慕う幼馴染みの侍女・松坂局、そして、両名に比すれば日は浅いものの、気働き抜群の若い侍女・早尾。


 ――今年1年、本多家にとって、播州播磨にとって良き年でありますように。


 柏手を打つ夫の端整な横顔を、頭ひとつ分だけ小柄な千姫は眩しげに見上げた。

 男らしく引き締まった意思的な唇。細く高い鼻梁。葡萄色をした魅惑の眸。炭を2本置いたような眉。鋭角に切れ上がったおとがいの下で見るからに逞しい喉仏が、ぐびぐびと、まるでそこに別の生き物が飼われているかのように妖しく蠢いている。


 年頃の女なら、ひとり残らず惹かれるに違いない滴るような男前に、父親として次期領主としての威厳が加わった近頃は、いっそうの磨きがかかって来たようだ。


 ――なんと美々しい殿方であられることか。わたくしは本当に果報者じゃ。


 だが、当代一の美男と並んで天下一の喜悦に浸っている千姫の胸は、表面は熱く波立っていても、底の部分は氷のように冷えきり、真っ黒な澱を沈殿させていた。


 あれから何年かが過ぎ去り、周囲の環境が如何様に変わろうとも、千姫は過去の自分を決して許していなかった。目の前の幸を、見慣れた不吉な影が翳ってゆく。


 ――わたくしは、先夫の秀頼と姑の淀ノ方を見殺しにした女。


 夏ノ陣が東軍の圧倒的な勝利に終わり、絶え間ない自責の念と、八方から飛んで来る無数の石礫に追われるようにして、産みの父母が待つ千代田(江戸)城へ引き上げる途次、たまたま立ち寄った伊勢桑名城に運命的な出会いが用意されていた。


 本当の事情はどうあれ、傍目には打ち捨てて来た格好にしか見えない豊臣方に、


 ――裏切り者!


 幾百万の口を極めて罵倒され、憎悪され、蔑まれ、呪われても仕方がない立場も忘れ、眉目秀麗にして文武両道に優れた凛々しい若侍の虜に、一瞬にしてなった。


 蝶よ花よの乳母日傘で育てられ、7歳で秀頼に嫁してからはただの一度も大坂城外に出たことがない千姫にとって、生まれて初めて知る甘い恋のときめきだった。


 物見高い世間で取り沙汰されているように、わたくしはふしだらな女なのだろうか。最初の夫と母代わりの姑を見放しにした罰が当たるのだとしたら、どうかわたくし自身に当たりますように。夫や子どもには決して類が及びませんように……。


 八百万やおよろずの神々からこぞって祝福され、


 ――恥ずべき過去を持ちながら、いいとこ取りばかりしおってからに!


 嫉妬混じりの羨望を集める千姫が、実は絶え間ない自責の念に呪縛されている。

 恐ろしく峻厳な事実を承知しているのは、落城寸前の大坂城からの命からがらの脱出という、前代未聞の苦難を共に乗り越えて来た「千姫組」の3女だけだった。


 その千姫組のありようを物語る逸話がある。

 千姫が本多忠刻に再嫁するより以前のこと。


 徳川方の懸命な捜索にも関わらず、とうとう遺骸が発見されなかったため、いつまでも根強く残る「秀頼生存説」「淀ノ方祟り説」を案じた大御所家康の指示で、縁切り寺として知られる上州新田の尼寺御所、満徳寺の法縁に縋ることになった。


 だが、それまで結んできた人との縁を、ひと思いにすっぱり断ち切ろうというのであれば一度や二度の簡単な参詣で大願成就できようはずもない。人里離れた山寺に籠もり厳しい修行に堪えたとき、初めて縁切りの祈願が適う約束になっていた。

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