第22話 流転の時代⑤ 🌼正室の取り持ちで側室に





 同日未の刻。

 阿梅姫は重長夫妻の前で神妙に畏まっていた。


 開け放った縁に目をやったり茶を啜ったり、重長はいつになく落ち着きがない。

 対照的に、かたわらの正室・綾姫は、ふだん以上に恬淡としている様子だった。


「どうじゃな、白石の暮らしにも少しは慣れられたかな?」

 何度となく繰り返して来たことを、重長はまたまた訊ねた。


「はい、おかげさまで。安気に過ごさせていただいております」

「それはよかった。安気はなによりの妙薬じゃでな」


「恐縮に存じます」

「まあ、あれじゃ。ゆるりと過ごされよ、ゆるりとな」


 上滑りする会話に、今度は阿梅姫のほうが落ち着かない。


「あの、お話とは……」

「あ、いや、なに、その、なんじゃ……朝夕に欠かさずご両親のご菩提を弔われる姫の殊勝なお姿に、わが家の者どもも、みな感心しておりますぞ」

「悼み入ります」


「線香でも供花でも、不足なものがあれば、奥に遠慮なく告げなさるがよろしい」

「ありがとう存じます」


 ――さようなお話ではないはず。


 開きかけた阿梅姫の口を制するように、重長がいきなり饒舌に語り出した。


「そうじゃ、姫はことのほかに読み物がお好きであられたな。『源氏物語』などは全文を暗誦するほどに読み込まれたであろう。『伊勢物語』も同様とあらば『平家物語』は如何かな?『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり……』お父上の勧めですでに読んだ? それは早熟な。やはりあれじゃな、栴檀は双葉より芳しじゃな」


 ひとりで問うて、ひとりでふむふむと納得している。


 いつまでも本題に入らぬ重長にしびれを切らし、横の綾姫がさりげなく促した。

「殿。そろそろ例の件を」


 ぎょっとひん剥いた目を、綾姫から阿梅姫へ、綾姫へ、また阿梅姫へ、忙しなく泳がせた重長は、浅黒い首筋を朱に染めると、にわかに急き込んで話し始めた。


「で、いや、あの、その、なんじゃ……。話というのはな、ほかでもない」

「はい」

「いや。さように真っ直ぐに見つめられては、どうにもこうにも、あれじゃわ」


 なお愚図愚図切り出せずにいる重長を横目で見た綾姫が、ずいっと膝を進めた。

「殿。わたくしからお話しいたしましょうか?」


「そうか。相済まぬ。よしなに頼む」

「では、改めまして」


 常にあらめでたやなと言わんばかりの綾姫の顔から、珍しく愛嬌が失せている。

「実は、殿の側室になっていただきたいのです」


 ――なんですって! いまのは空耳?


 阿梅姫は華奢な上体をのけ反らせた。


「驚かれるのも無理はありませんが、これは、わたくしたち夫婦が真剣に相談した結果なのです」押し黙っている阿梅姫に綾姫は噛んで含めるように言い聞かせる。


「姫もご承知のとおり、加齢と共に持病が嵩じているわたくしは、いつどうなっても不思議ではない身体。そうなったとき、手許に残るのが喜佐姫だけでは淋しがりな殿があまりにも哀れで。申し訳ありませんが、しばらくは側室に甘んじていただき、やがて、さして遠くない将来、継室に就いて殿を支えてやってほしいのです」


 綾姫の腺病質は承知してはいたが、それほどまでに深刻だったとは……。

 それに、そのことと自分とを強引に結び付けられても、正直、当惑する。

 巣を急襲された鳥のように混乱した阿梅姫は精いっぱいの考えを巡らせた。


 愛らしい童顔に走る惑乱を分析するかのように、綾姫が単刀直入に訊ねて来る。

「阿梅姫殿。わが殿をお厭いか?」

「いえ、さようなことは……」

 慌てて打ち消しながら、阿梅姫はあらためて自分の心を覗いてみる思いだった。


 ――いままで殿を男として見たことはなかったが、いやかと問われれば、いやではない。むしろ好ましいとさえ感じている。あら、いやだ、わたくしったら……。


 思わず知らず、阿梅姫は行燈のように頬を染めていた。

 目の前の窮鳥の様子を見て取った綾姫は、例の含み笑いで駄目押しをする。

「ふふふ。やっぱり、わたくしが思っていたとおりのようでございますわね」


 それまで黙していた重長が、さも照れくさげに口を挟んで来た。

「なにを馬鹿な。戯れも休み休み申せ。ほれ、阿梅姫も困っておられようが」

「ふふふ、そういう殿も、まんざらでもないお顔をしていらっしゃいますよ」

「いやはや、奥の申すことよ」


 年甲斐もなく照れまくる重長と、にわかに恥じらい出した阿梅姫を交互に見やりながら、自ら企てたお膳立てが首尾よく運んだ綾姫は、くしゃっと紙を丸めたような愛嬌を取りもどした顔に、満足げな笑みをゆっくりと広げていった。


 なんとも居心地のわるい場から解放された阿梅姫は、逃げるように自室に引き取ると、父の形見となった懐剣と、母の形見となった信濃国分寺の蘇民将来の御符をふたつ並べ置き、大きく転変しようとしている運命への祈りを一心に捧げた。


 綾姫の計らいで席を外していた蘇鉄が、


 ――で?


 物問いたげな視線を送って来たが、正面から向き合う勇気はない。

 阿梅姫は蘇鉄に背中を向けたまま、消え入りそうな声で報告した。


「あのね、わたくしにね……殿さまの後添いになってほしいんですって」

「はあぁ? 奥方さまがいらっしゃるのに? 意味がわかりませんけど」


「綾姫さまが仰るには、ご自身のご健康が優れないので、万一に備え、しばらくは側室に、わたくしの口から申すのも憚られるけれど、ゆくゆくは継室にと……」


「なるほどね。奥方さまご公認のご側室ですか。ご大名には珍しいことではないと聞き及んではおりましたが、まさかご当家においてもとは、いまのいままで思ってもおりませんでした。おめでとうございますと、申し上げるべきなんでしょうね」


 姐後肌の蘇鉄に似ずいつになく持ってまわった言い方をねまわす頬に、一瞬、複雑な翳が奔ったことを、ひたすら恥じらい俯いている阿梅姫は気づかなかった。

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