第17話 大坂夏ノ陣⑯ 🌸忠輝の改易、伊勢朝熊へ





 同年7月6日。

 松平上総介忠輝は兄の2代将軍・秀忠から改易を命じられた。

 といっても、家康の勘当からすでに10か月が経過している。


 ひそかになし崩しを期待していた生母の茶阿局はとつぜんの命に慌てふためき、大御所家康亡きあとも変わらぬ人望を集めている、最古参の側室にして秀忠の養母でもある阿茶局に泣きついた。


 だが、たとえだれがどう取り成そうとも、父・家康の重りが取れた分だけ、兄を兄とも思わぬ不遜の度が増して来るように思われてならない、13歳年下の不気味な異母弟の流罪を、秀忠は決して撤回しようとも、軽減しようともしなかった。


 ――江戸から一刻も早く追い払い、鳥も通わぬ僻遠の地に封じこめておきたい。


 2代将軍の嫌悪を露骨に示すかのように、処罰の実行はきわめて迅速に行われ、それから1週間も経たぬ7月12日、上野藤岡に蟄居中の忠輝は、修験の山として知られる伊勢朝熊いせあさまへ送られることになった。


 いまだ木の香も新しい越後高田城の奥御殿で、五六八姫はその通告を受けた。


「まことに申し上げにくき仕儀ではございますが、奥方さまとの御縁もここまでと思し召しになられたほうがよろしいかと。お心を安らかになさってくださいませ」

「……相わかった」


「追い打ちをかけるようでございますが、当城も早急に明け渡さねばなりませぬ」

「言われるまでもないわ」

「一刻も早く江戸のお父上のもとにご出立なさってくださいませ」

「わかったと言うておる」


 手をつかえて矢継ぎ早に告げる留守居役の山田隼人正やまだはやとのしょうは、いやな役目を厭うてか、それとも家臣の目には冷淡で高慢ちきに映った奥方の凋落ぶりを嘲笑ってか、うっそりうつむいたきり、最後まで五六八姫を見ようとはしなかった。


 ――せめてお別れの前に、ひと目だけでも。


 五六八姫の懇願は隠密裏に適えられることになった。

 越後高田城から江戸の伊達屋敷へ真っ直ぐ向かうはずの姫駕籠は、甲斐から武蔵へ入ると府中でとつぜん経路を変え、ひたすら品川の天妙国寺を目指して走った。


 着到を告げる合図を受け駕籠から滑り降りた五六八姫は忠輝が待つ書院に急ぐ。


「殿。お会いしとう存じました」

「奥。よう来てくれたのう」

「この背に翼が生えていたらと、昼も夜も身を焦がしました」

「わしとて、そなた恋しさに枕を濡らさぬ夜はなかったぞ」


 手を取り合った夫婦は、互いに分身となる品を交換し合った。

 夫から妻へは、桜の花柄が刻印された、美麗な護身用の懐剣。

 妻から夫へは、三つ葉葵(徳川家紋)と仙台笹(伊達家紋)のあるロザリオ。



 松平忠輝25歳。

 五六八姫23歳。



 書院の縁を濡らしてゆく時雨のように儚く慌ただしい、束の間の逢瀬だった。

 別室に控える侍女の茜音も、赤く腫れ上がった瞼から滂沱の涙を流している。

 

 乳房から強引に引き離された赤子のように、姫駕籠の内で身も世もなく泣き通しで江戸芝の伊達下屋敷へ着到した五六八姫は、その夜から高熱を出して寝込んだ。


 ――五六八姫さま、ご無事にご帰還の儀。


 桜田の上屋敷と本屋敷、愛宕下の中屋敷にもそれぞれ知らせが走ったが、主君・政宗の心中を慮り、いずこの屋敷もひっそり鳴りを潜め、今回の一件を機に御公儀と疎遠になった場合の伊達家の未来を思い、陰気な目を見合わせるばかりだった。



 嘔吐がやまぬ五六八姫を診察した御殿医は、

「姫さまには、おめでたでいらっしゃいます」

 枕辺に付き添う母の愛姫にひっそり告げた。


「もしやと案じておりましたが、やはり……」

「いささかお悪阻が重いご様子にございます」


「娘は女親に似ると申しますゆえ、わたくしに体質が似たのでございましょうか」

「御意にござります」


「で、お腹の赤子は無事に育っておりましょうか」

「ご安心くださいませ。いたって順調でいらっしゃいます」


 愛姫から報告を受けた伊達政宗は、4か所の江戸屋敷に厳重な緘口令かんこうれいを敷いた。

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