※ ※ ※ ※

 スペインに戻るまでの飛行機の中で、ベリータはサクのことを考えていた。彼と離れる前に抱きしめた事は、何一つ後悔していない。東京で彼と再会し、自分の気持ちを確信したのだ。私にはサクが必要だ、と。

 スペインにいた頃のように身体を重ね、一緒に朝を迎えた。場所が変わっても、いつもと同じだったのに。途中から……そう会社へ挨拶に行ったあの日から、彼の態度が少しおかしくなった。スペインにいた頃なら、きっと気にならなかったと思う。自分の気持ちに気付いてしまった今、サクの些細な変化に敏感だったのだ。

あの夜、サクはまるでベリータを忘れていたように見えた――




「ねぇ、サク。今日はこのままベッドに行かない?」


 そう言ったベリータに、初めてサクが困った表情を見せた。いつものように少し情熱的な言葉を並べても、突き放されるだけだった。


「ベリータ、ごめん。今日はこれからまた、外に出なきゃいけないんだ」


 しな垂れかかっても、彼は動じない。残念ね、と余裕を見せて返答をしたが、ベリータは面白くなかった。せっかく会いに来たのに。サクは嬉しくないのか。そんな気持ちが、心の何処かで溢れ始めていた。そして、彼は続けて言ったのだ。


「それと、明日からは仕事の準備をしなきゃいけなくなった。帰国する時は送っていけると思うけれど」


 その日彼が戻ったのは、日付を跨いだ後だった。

 寝たふりをして、横になった彼にくっついてみたが、いつものように振り向いてはくれない。何があったの?いつもなら、そう気軽に聞けたのに。何だかそうしたらいけない気がして、そのまま眠りについた。




「サク、仕事の準備は家でやるの?」

「いや、外でやるから。ベリータはここにいても、出掛けても大丈夫。鍵は昨日預けたあれ、使ってくれればいいよ」

「そう。わかったわ」


 そう話すと彼は、すぐに準備をして玄関から出て行く。まだ朝の八時。こんなに早い時間から、仕事の準備をしなければならないのか。これが日本式なのかは、ベリータに分からない。

 ねぇ、何かあったの?そう喉元から出そうになって、グッと堪えた。彼はあれこれ聞かれるのは好きではないから。余裕ぶったベリータは、彼の背を見送りながら下唇を噛んだ。私にだって乙女心ぐらいあるのに、と。


 徐にテレビを付ける。

 子供のような可愛らしい女の子が、とっても真面目な顔をして話していた。ニュース番組なのだろうか。言葉が分からず情報は得られなかったが、多少気を紛らわすことは出来そうだった。


「何しようかしら」


 寂しい独り言を零して、ふと彼の置いて行った鍵に目をやる。そこには、一緒に数枚の紙きれがあった。

 そこには、幾つかの観光地の名前が書かれていた。日本語とスペイン語、それから英語で。何か悩みを抱えていたって、こういう細かな気配りをするところは彼らしい。いや、日本人らしいと言うのかしら。


「小石川後楽園……」


 メモには、日本庭園や博物館などが列挙されている。それの一番上に書いてあったのが、そこだった。


「よし。ここにいても仕方ない。行こう」


 無計画だし、何の予備知識もなかったが、その方が面白い気がする。楽しいことを考えた方が、絶対良いに決まっているのだ。それに何よりも、彼の匂いのするこの部屋に一人でいるのは、ちょっとだけ辛かった。

 そうと決まれば、ベリータも支度を始める。そう言っても髪の毛を梳くくらいだが。テレビの中の女の子は、とても綺麗に着飾っている。あんなに化粧をするには、どれくらい前から準備をするのかしら。きっと早起きだろう、と無駄な感心をしながら、直ぐに外に出られる自分に苦笑する。日本人にはあのくらい綺麗に着飾った方が良いのかも知れないが、自分には到底無理だ。テレビを消し、ベリータはバッグを手にした。


 サクのメモには、最寄り駅からの電車のルートも記載されている。駅まで出る道も、ポイントを押さえて書いてあった。ここまでしてくれなくたって、調べる術はあるのに。けれどそんな小さなことが嬉しくて、ベリータは少しだけ浮かれる。

 彼はこれからどうしていくのだろう。仕事が始まればきっと、スペインのことなど忘れてしまう。だから、言うのならば今しかない。そう決めて来たのに、未だに彼との関係を壊したくない思いが躊躇わせている。



「素敵なところだわ」


 パンフレットを手に、園内をふらりと歩く。趣のある橋や大きな松と、後ろのビル群との異様な具合を写真を撮っては、一人楽しんだ。スペインに帰ったら母に見せよう。ベンチに座り、池を眺める。静かな時間が流れ、何時までもそうしていられる気がした。園の外では、忙しく働いている人がいるなんて信じられないくらいだった。


「お腹空いたな」


 誰からも返って来ない独り言だ。この辺りに何かお勧めの店はあるだろうか。サクのメモには、流石にそれは書かれていない。携帯で検索をしようとし、はたと考える。ここは誰かに聞いてみよう。京都では地図を片手に道順しか尋ねなかったが、何とか伝えようとしてくれる人が沢山いた。勿論、忙しそうにNOと断られることはあったけれど。


「Disculpa,podria ayudarme?」


 出来るだけ丁寧な言葉で、近くにいた老夫婦に声を掛けた。だが、彼らは完全に戸惑った目でベリータを見返している。あぁ、しまった。スペイン語で話し掛けたって分からないだろう。英語の方が分かるだろうかと、Excuse me、と言い直す。


「あら、どうしましょう。私たち英語は分からないのよね」


 婦人は困惑をした様子だったが、拒絶しているわけではなさそうだった。ベリータも英語は得意ではないが、何とか単語を拾い集める。ジェスチャーを付け、lunch、eat、などと簡単な単語を見繕う。伝わるかどうかは、微妙だろうと思った。だが、サクが良く使っていた「オススメ」という日本語を言うと、彼らはパァッと顔色を変えて、ウンウン頷いて見せた。身振り手振りで伝えてくれるが、一向に辿り着ける自信がない。持っていたメモ紙とペンを渡すと、婦人は寿司と蕎麦、それぞれのオススメの店を書いてくれた。


「Gracias!」


 ベリータの礼を微笑みで受け止め、彼らは小さくお辞儀をした。一人ぼっちで――ただでさえちょっと傷心でいるベリータには、とても温かな優しさだった。スペインだって困っていたら皆助けてくれるけれど、異国の地で同じことをやろうと思っても、やはりそこには弊害がある。サクは大変だったのだろうな、と彼を思った。

 きっと明日も明後日も、サクは部屋を早々に出るのだろう。それならば、色々な人に声を掛けて、オススメとされる場所や店に出かけてみよう。だって、楽しまなければつまらないじゃない。


「いらっしゃいませ」


 ベリータは老夫婦に教えられた蕎麦屋に入った。店構えも日本的と言うか、スペインとは違った落ち着きのあるものだった。そこでも「オススメ」というスペシャルワードを使って、天ざる蕎麦を頼む。何だかもうこの言葉がさえあれば、ガイドブックに載っていない場所へ行ける気がした。

 ふぅと息を吐き、出された茶を啜る。楽しいことを探しながらも、ベリータは悩んでいるのだ。日本に来る前から考えていた事をサクに伝えるか。新幹線で東京へ来る時には、伝えることに何の障害もなかったのだが。サクの様子がおかしいことが迷わせている。今更時間なんて戻るわけがないし、と。

 でも、言いたいことは言えばいいのよ。それからの事なんて、結果が出て見ないと分からないんだから。




「じゃあ、ベリータ。気を付けて」


 帰国の日は直ぐにやって来た。あれから彼はやはり想像通りであったし、今こうして別れを告げる彼は、ホッとして見えるのだ。言う前から、何となく答えは見えている気がしている。

 空港まで送るよ、と彼の誘いを、ベリータは丁寧に断った。東京駅までで十分よ、と、笑って。離れたくなくなってしまったら、きっと面倒臭いことを言ってしまいそうだから。


「送ってくれて有難う。新しい仕事頑張ってね」

「あぁ。アイツらにもよろしく言っといて」

「そうね」


 サクは、スペインで過ごした友人たちの事を思い浮かべているのだ。あの頃のように笑って。

 そして、ベリータはサクを抱きしめた。ハグ、と言うよりは、ベリータがサクに抱きついている。


「ねぇ、サク。私たち、きっと上手くやっていけると思うのよ。私、日本に来ちゃおうかしら」

「何言ってるの?」


 緊張するベリータを余所に、サクはそう笑って流そうとする。だから、キュッと抱き寄せ、耳元に囁いた。「Te amo,SAKU」そう小さな声で。


「ベリータ……」

「返事はいつでもいいわ。じゃあね」


 身体を離すと、勢いのまま振り向き改札を抜ける。元気に。笑って。彼に大きく手を振った。困った顔をした彼の顔が、ベリータの胸を締め付ける。


Te amo.Te amo.

 色んな言葉を考えたけれど、シンプルに伝えたかった。ただそれだけを、真っ直ぐに。Te quieroじゃないの。サク、分かるわよね?



「愛してるわ、サク」




 

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