第四話 今更どうなるなんて


『理沙、事件。今日会える?』


 そうメッセージを送信したのは、会社に帰って直ぐの事である。あの場は何とか取り繕い、上手くやれたと思っている。深呼吸は何度しただろう。朔太郎にも、他の三人にも変だと思われないように、大丈夫、と頭の中で繰り返していた。


「木下、どうだった?」


 デスクに戻った海には直ぐに、報告を求める野村から声が掛かる。未だ再会の緊張を引き摺っているのを隠すように、小さく深呼吸を繰り返す。勿論、報告を始めれば、そんなこともすっかり忘れるのだが。


「以上です。森本さんの方で検討をして、メール連絡いただけることになっています」

「おぉ了解。あ、でさ。バイトはいつからだって?」


 報告が終わると直ぐ、野村はバイトくん――つまり朔太郎の話を始める。その話が先に聞きたかったんじゃないか、というくらい彼は頬を緩めていた。海の知らない時に、朔太郎はこうして色んな人に関わって、愛されていたのだな、と知る。それは、どこか羨ましくもあった。


「正式には来週からだそうですが、先程たまたまいらっしゃって。私もご挨拶させていただきました。あ、あと野村さん。正解は、スペインだそうですよ」

「あぁスペインだったか」


 惜しい、と野村は悔しがった。正直なところ、トルコとカナダ、惜しいと言うべきか分からない。そう考えると、ポルトガルだと言っていた森本が一番近いか。あの後、少しだけ茶を飲んだ。その際誰も合っていないことが判明すると、朔太郎は昔と同じ顔をして、ただ呆れていた。


「今日はご挨拶に見えられただけだったようなので、田中さんへ相談はしていません。担当もどうされるか分かりませんし。また来週以降に改めて、伺ってみます」

「おぉ、そうだな。俺からも森本さんに連絡入れておくよ。ありがとう」

「よろしくお願いします」


 何かあって朔太郎が不採用にならないだろうか、と頭の隅の方では願っていた。あんなに何をしているのだろう、と思っていたくせに。 随分と自分勝手なことだが、仕事となるとやり難さは拭えないのである。


「海さん、田中さんって独身ですかね」

「さぁ、どうだどうね」


 デスクに戻れば、まだ楽しそうな優奈がスッと顔を寄せる。帰りの道中は、田中の話をしたがった彼女を遮り、仕事の意見を求めた。ごちゃごちゃした感情を整理する前に、適当に話を合わせるのが苦痛だったからだ。今は多少落ち着いてきたので聞いているが、朔太郎が結婚したかどうかなど知らない。こっちが知りたいくらいである。

 それを知る由もない優奈は、「優しいお兄さんって感じでしたよね」と嬉々とした表情を見せる。朔太郎は確かに優しい普通の男だ。いつもなら彼女の恋を応援するところだが、今回だけは快くそう出来そうにない。朔太郎だけはやめて欲しい、と心は小さく悲鳴を上げている。


「もう少し背が高かったらなぁ」

「背が高かったら良かったわけ?」

「そうですね。もう少し背が大きかったら、即座に仕掛けてます」

「こら、言い方。仕掛けるって、罠じゃないんだから」

「いや、海さん。罠ぐらい仕掛けますよ。本気ですからね。次こそはって」


 拳をグッと握り込む優奈は、次こそは結婚相手を見つける、といつものように意気込んだ。朔太郎が高身長でなくて良かった、と内心はホッとしている。彼は恐らく優奈と同じくらいの背の高さだ。その物理的事情に安堵し、「さぁ仕事するよ」とそっと肩に手を置いた。

 そんな時、携帯が震えメッセージの受信を知らせる。理沙だ。


『何?どうした?少し遅くなるけど、大丈夫だよ。いつもの赤提灯でいい?』


 何てことのない普通の文面に、泣いてしまいそうになった。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただの安堵、である。お願いします、とそれだけ打ち込み、気持ちを仕事に戻そうと立て直す。胸中はまだ波立っていたが、それは奥底に仕舞い込んだ。




「海、ごめん。待った?もう、事件って何よ」


 理沙と店の前で待ち合わせたのは、二十時を少し過ぎた頃。まだ月曜日だと言うのに重苦しい顔をした海を彼女は察し、困惑の表情を浮かべながらも海の背に手を回し、暖簾をくぐった。

 優しい友人がいて良かった。そう感謝する気持ちはしっかりあるのに、これから話す出来事を信じてもらえるのか、少しだけ不安になる。


「とりあえず、ビール二つ。あとは、枝豆と出汁巻。お願いします」


 いつもの騒がしい店内に入り、女二人カウンターに座る。手早く、慣れたメニューを頼む理沙を見ながら、朔太郎の事をどう話したらいいか悩んでいた。仕事で会っちゃった、と明るく話すつもりだったが、半日経っても何処にも笑い話にする余裕がない。間も無く運ばれてきたジョッキを持ち上げ、乾杯、と微笑み合いながら一口流し込むが、彼の事を口にしようとするとパニックで泣きそうである。


「で、何があった。事件、だなんて言うから心配したよ」

「うん、そうだよね。ごめん」


 謝るけれど、続きの言葉が出てこない。夢の彼に再会してしまいました。そう言うだけなのに。ジョッキを握る手にグッと力が入り、何度も言おうと口元に力が入った。それを見た理沙は、静かに前を向いている。無理に聞こうとはしない。海が話すまで待つつもりなのだ。


「会った」

「え?会ったって、誰に」

「夢の彼。朔太郎に会った」

「うわっ。確かにそれは、事件だな」


 コクリ、と頷くと、ようやく大きな溜息が吐き出された。友人に話をするだけなのに、昼間の朔太郎の笑顔が脳裏にチラつき胸が煩いのだ。あの頃までも鮮明に思い出してしまいそうで、海はジョッキを寄せ、勢いに任せて一気に飲み干した。


「おじさん、おかわり。あと、砂肝と皮。理沙は?」

「ちょっと、大丈夫?」

「ごめん。何か緊張してたから、喉乾いちゃって」


 話し始めてしまえば、舌を出して戯ける程度には余裕が生まれる。理沙はまじまじ海を見つめニッと口元を緩めると、「揚げ出しとタコワサ」と追加注文を大声で叫んだ。彼女のこう言うところは、凄く安心する。あぁ変わっていない、と実感するからだろうか。


「仕事でさ、デザイン事務所に打ち合わせに行ったの。その前に上司が、以前そこでバイトしてた子が戻って来るらしいって盛り上がってて。行くついでに、真実の確認を任されたわけよ」


 理沙はチビチビとビールに口を付け、相槌を打ちながら上目遣いに海の話に耳を傾ける。多少の好奇心もあるのだろうが、いつものように茶化すような事はしてこない。


「だから、確認してね。そうしたら色々話が出始めて、彼が美大生だった事、タナカって名字だって事が分かって。美大生に田中なんて何人もいるだろうよ、って思ったんだけど」

「まぁ、そうよね。普通はそうだ。で?その田中くんが来たってこと?」

「うん。働き始めるのは来週からだけど、たまたま挨拶に来てね。顔を見える前に聞こえて来た声が、彼に似てる気がしてはいたんだけど。まさか本人が現れるなんて思わないじゃない。顔を見た時はもうパニックで、死ぬかと思ったわ」


 そこまで話をして、彼の方はどうだったのだろうと急に気に始めた。彼も目を丸くしていたのだから、覚えていないわけではない。少しだけでも、綺麗になったと思ってもらえたろうか。


「逃げ場もない。平静を装わなきゃいけない。久しぶり、なんて言えないからね」

「まぁ確かにそうだ。あくまで、ビジネス上の付き合い、だもんね」

「そう。ビジネス上の付き合い、なんだけどさぁ。心の準備が上手く出来なくて」


 ジョッキに口を付けたまま、また小さな溜息が、シュワシュワと音を立てる泡の中に消えていく。虚ろな目のまま、海はそれを見つめた。


「いや。ビジネスで会っちゃう時なんて、大抵心の準備してる暇ないでしょ。取引先に行ったらいた、とかさ。そこで顔に出さずに取引が出来るか、で決まるわよね。仕事上の関係性とか、プライベートでの関係性とか」

「何でプライベートが関係して来るのよ」

「だって、一度は恋に落ちた相手よ?周りの人よりは詳しく知ってる訳じゃない?気不味い状態から始まって、少し打ち解けるでしょ。周りに気づかれないように繕って、そのうちに変に意識したり、嫉妬したりし始めるわけよ」


 そう言うものなのなぁ、と少し納得のいかない顔で、いつもの少し塩っぱい出汁巻に手を伸ばす。ふわふわに軽く巻かれたそれは、実家の母の味とちょっと似ている。 だから無性に食べたくなる時があるのだ。それを頬張りながら、理沙の言うことを反芻していた。

 彼と目を合わせた時、気不味さが互いにあったのは事実だ。皆に知られまいと必死だったのは、海だけではなかった。それがビジネス上の付き合いと理解したつもりではいるが、いつか打ち解ける日が来るのだろうか。多少のギクシャクするだろうが、そこまででしかないような気もする。

 そもそも、今更彼とどうなる事なんてない。十二年も前の事とはいえ、海は朔太郎にフラれているのだ。考え方も何もかも合わないね、と。それは、大人になったからと言って変わるものでもない。仮に海が嫉妬を覚えたり、心が波だったとしても、彼は同じような気持ちを持つ事なんてあるわけない。彼が懐かしいと思っても、それは恋ではなく、昔の友人に会った程度の話なのだ。


「海は、どう思った?やっぱり好きだってキュンとした?」

「いや……そんな可愛い感情と言うよりも、ただ呆気に取られてた。驚いていただけと言うか。仕事がやり難くなるのは嫌だから、周りには絶対に知られたくないし。彼にだって、変に気を遣われたくない。そればかり考えてたよ」

「うんうん。では、それから時間が経ちました。ちょっと冷静になるよね。何度も夢に見てるってことは、きっと海の中では想いが燻ってる。それが昔とどう変わったのかは分からないけど、再会したこと自体は嫌だったわけではないでしょう?」

「うぅん、確かに。体裁を保とうとしてたからって言うのもあるけど、心臓がバクバクして大変だったよ」


 力なく眉尻を落とし、少しだけビールを口にした。

 理沙の言う通り、朔太郎に再会出来たこと自体には、胸の高鳴りがあったのだ。嬉しかったのかな、と今海の口から漏れた言葉は、今日一番素直な気持ちなのだろう。


「そっか。でも仕事は仕事。難しいかも知れないけど、そこは割り切らないとね」

「分かってる。あぁ、でも難しいよなぁ」

「うん、きっとね。海は特に隙を見せないように。絶対に仕事も上手くいかなくなるから」


 いい?と理沙はビシッと人差し指を立てから、キリッとした顔をして見せた。こういうやり取りが出来て、海は張り詰めていた心が解れるのを感じている。本当に頼り甲斐のある友人がいて良かった。


「理沙。ありがと」

「いえいえ。何かあったら直ぐに連絡しておいでね」


 優しい瞳は好奇心を隠せてはいなかったが、それでも海のことを心配していることは良く分かった。まだ月曜日だから深酒は良くないね、と言った舌の根の乾かぬ内に「ビール二つ追加」と海は大きな声で叫ぶ。それでも店内は、負けないくらいの陽気な笑い声が響いていた。



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