第三話 初めまして、と言う再会


「森本さん、こんにちは」

「あぁ、木下さん。あとは……畑中さんかな?こんにちは」


 ドアを開けながら挨拶をした海に、森本は顔をこちらに向け返事をする。後ろから付いて来た優奈を覗き込み、若手が来たねぇ、と微笑んだ。

 優奈は、海の二歳下の二十八歳。新人の頃に指導係に就いてから、そのまま海と共に仕事をしてきた相棒。今はどんどん結婚していく周囲に押され、焦燥感を募らせる言葉をよく口にしている。ずっと代わり映えのしないボブで固定している海と違い、優奈は流行のものを抑えたキラキラした女の子だ。だから、恋愛がうまく行くのだってそう遠くはないだろう、と海は思っている。


「今日はご相談があって参りました」

「うんうん、どうしたのかな」

「あの例の件なんですが」


 これまで悩みの種だった販売プランの進展について、海は資料を出して説明を始めた。カフェと販売スペースの間仕切りにこういった物を使えないか、と先程ミーティングで出した画像を彼に提示する。優奈もこの意見に賛同し、あれこれと彼女なりの意見を述べ、どうにか設置出来ないかと思惑しているようだった。


「と言うことは、販売の方には別途設けなくていいってことかな」

「そうですね。泥付きの野菜を置くつもりではいますが、収穫体験については常設では難しいと判断しました。遅くなって大変申し訳ないのですが」

「いいよ。うんうん。なるほどね。じゃあ、予算とそれが上手く見える方法を考えよう」

「はい。お願いします」


 海と優奈は、同時に頭を下げた。二人にとって、初めて手掛ける大きな仕事である。多少の気合があるのは当然だ。顔を上げると二人目を合わせて、微かに口元を緩ませた。


「仲良しねぇ。お茶しながらやった方が、面白い案が出るかもよ」


 事務所の奥から森本の妻――花枝はなえが上品な笑みを浮かべてやって来たところだった。手に持つトレイには、湯気が立ち上るコーヒーカップが四つ乗せられている。彼女は優しい笑みのまま、難しい顔で腕を組んでいた三人に「こっちこっち」とコーヒーを並べたテーブルに招いた。事務所はあまり大きくないものの、デスクの奥にはミーティングスペースがある。森本も「じゃあお茶しよう」と花枝の誘いに乗り、席を移動した。


「お二人は本当に、仲も良くて憧れます」

「あら。優奈ちゃん、いつもありがとう」


 大体、ここへ移動すると雑談が多くなる。そこから良い意見も出るので、誰も止めはしない。ただ、ここ数年。優奈はこのフレーズを必ず言っている。


「また言ってる。優奈、毎回言ってるよ」

「海さんだってそう思いません?もう、どうやったら出会えるんですかねぇ」

「そうねぇ、私たちは同級生だからねぇ。出会いと分からないのよね。海ちゃんは、どう出会うの?今の子たちは、合コンとか?」

「私に聞いちゃいます?出会えてもロクなのいない奴ですよ」


 コーヒーを一口含み、海は自虐的に笑い飛ばした。誰の見本にもならないような恋愛しか、ここ数年していないのだ。胸を張って言えることなど何もない。


「優奈ちゃんは、面食いだからねぇ。やっぱり背の高い人で、シュッとした感じのイケメンが好きなんでしょう?」

「そうですね。背が高い、はマストです。自分より大きい男性がいいんですよ」


 優奈は、一七〇センチ近くある。いつもはローヒールのパンプスを履いて仕事しているが、デートにはもう少し可愛らしいものが履きたいらしい。ただそうすると、相手と同じくらいの背の高さになってしまう事が多いようだった。因みに、海は一五五センチと少し。だから、優奈の悩みに共感する事はない。


「あ、そう言えば。うちの野村がですね、森本さんに聞いて来い、と言っていたのですが」

「何何?野村くん、最近来ないからなぁ。聞いて来いなんて、偉そうに。自分で電話でもしてくればいいのに」


 花枝と優奈は、確かに、とケラケラ笑う。こういう無邪気さが、他人から愛される術なのかもしれない、なんてくだらないことを思った。


「バイトくんが帰って来るって聞いたけど本当か、と」

「おぉ。野村くんにまで噂が広まったか。あ、さては千佳ちゃんだな」


 森本の言う『千佳ちゃん』とは、野村とミーティグ後に盛り上がっていた林千佳子のことである。入社時から森本夫妻には世話になっているらしく、今でも仲が良いようだ。


「バイトね。来週からまた来るよ。野村くんにそう伝えてくれる」

「分かりました。そのバイトくんと言う方は、何か面白い方なんですか?」


 イケメンですか?と食いついた優奈を脇目に、海は単に感じた疑問をぶつける。大学を卒業して、海外へ行った。アイデアが沢山出て来るような男。そこまでの情報しかなかったが、少し興味があった。


「大学の時に、バイトで雇った子なんだけど。確かに面白い子でね。枠にとらわれない、と言うか。斬新なことをしてくれる子でさ。卒業して、ポルトガルに行ったんだよね」


 トルコでもカナダでもないのか。「二人とも不正解」と頭の中で大きな×印を付けた。


「そうそう。彼、美大生だったんだけどね。インテリアデザインとかに興味を持って、うちでバイトしてね。卒業して、そのまま旅に出たのよ」

「え?何でですか」


 海が『美大生』と言うワードに引っかかっているうちに、優奈が疑問をぶつける。美大を出て旅に出たという流れが、可笑しな事なのかそうでないのか、海には分からない。


「いや、ここで働いてるうちにさ、建築も面白くなっちゃったんだよ。それで海外建築を見に行くって。好奇心旺盛な子でね。何年か前に連絡が着て、建築士の学校に行くって。二年通えば、二級は取れるからね。それで卒業したら働かせて欲しいってさ」

「え?それで、二級は取れたんですね?」

「そうなの。だから少しサポートにも入ってもらえると思うわ。あぁ、あなた。あの子、今日来るんじゃなかったかしら」


 夫妻が見つめる先にあるカレンダーには、今日の日付に大きく丸がしてある。そうして下には、『バイトくん』とメモ書きがされていた。


「森本さんたちも、バイトくんって呼んでたんですか?」

「あぁそうなの。タナカ、って普通の名前なんだけどね。主人が『おい、バイト』って呼んでたものだから、いつの間にか皆んなそう呼ぶようになっちゃって」

「た……タナカさん、ですか」

「そうタナカ。何か変かしら」

「あっ、いや。バイトくんって言うから、何か難しい名前で呼びにくいのかと思ってたら、普通だったんで」


 海は笑って必死に誤魔化した。美大生。好奇心が旺盛な、タナカ。そんなタナカなど、世の中に沢山いるに違いない。寧ろ彼であることの方が有り得ない話だ。それなのに、夢のせいもあるからか上手く処理が追い付いていかない。 そんな時、「こんちは」と若そうな声が、入り口の方から聞こえて来る。軽くて、柔らかい声だ。


「お、バイトか?奥だよ、入って来い」

「はぁい。お客さんですか?」


 直ぐに胸が煩くなった。理由は一つ、この声である。夢の中では、「バイバイ」としか言わない声に似ていたのだ。そんなわけはない。そう偶然など起こらない。そう思い込ませようと試みるが、バクバクと大きな音を立てた心臓は、今にも飛び出しそうだった。


「ほら、バイトくん。ご挨拶なさいな。今、新店舗のご依頼を受けている会社の担当さんよ。ほら、野村くんのところの」

「あ、あぁ。今日は野村さんじゃないの?」


 花枝の手招きに導かれて、パーテーションの向こうから現れた顔。夢の中のあの笑顔からは流石に年を取っていたが、それは紛れもなく海の心の中に棲みついている田中朔太郎ほんにんだった。目を合わせた彼も、「どうして?」と言わんばかりの表情を見せる。段々と大きくなる心臓の音が、気持ち悪い。ウマが合うだろうか、と心配した数時間前の自分を、噛み潰してしまいたかった。


「あ、えぇと。初めまして。田中朔太郎です。宜しくお願いします。すみません、まだ名刺がなくて」

「あ、いえ。は、初めまして……ミノリの木下海、と申します。よ、宜しくお願いします」


 社会人になって早八年。何度も名刺を渡してきたが、こんなにも手が震えた事があったろうか。社会人一枚目の名刺ですら、こんなに震えていなかったように思う。隣で挨拶を始めた優奈に気付かれまいと、海は懸命に平静を装った。

 上手く笑えているのだろうか。不安な気持ちを持って、海はおずおずと朔太郎を見つめる。目にかかる前髪、目尻の皺。あの日と同じ笑顔が、間違いなくそこにあった。

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