闇に蠢くもの

第7話 



 家を出てから、小1時間。

 線を乗り継ぎ、3人は渋谷駅に降り立った。

 義人は朝、出掛けたときと同じく、黒い薄手のジャンパーを引っ掛けていた。

 真奈は動きやすいほうがいい――と、淡いブルーのデニムシャツにジーンズ。夏向けの白いジャンパーを羽織り、足には白のスニーカー。風に靡く白く長い髪と紅い瞳に、服の蒼色がよく映えている。

 範子は真奈に借りた優しいすみれ色をしたTシャツに、真奈と同じくジーンズ。ジーンズも真奈に借りるつもりであったが、ウエストが細過ぎた。仕方がないので、義人の物を借りた。裾が長いので、折り返して穿いていた。上にはジージャンを着込んでいた。


 辺りはまだ、薄暮に包まれ出したばかり。

 梅雨の蒸し暑い風が支配する街を、仕事を終えたのであろう、疲れた表情をしたサラリーマンやOLたちが、それでも足早に家路を急いでいた。日頃の憂さを晴らしに、酒場へと足を向ける者たちもいることだろう。

 そんな大人たちを尻目に若人たちは、これから訪れる自分たちの時間に胸躍らせて、夕暮れの街に溢れている。

 路地にしゃがみ込み、取るに足りない会話に時間を費やす者。あるいは、道行く女の子たちに声をかけて歩く者。席を埋め尽くす観客の前で歌う未来の自分を夢見て、歩道の袖でギターだけを手に、声の限りに弾き語る者――。

 各々が、自分の持てる時を、しかし、〝大人たち〟から見れば〝無駄〟と思えてしまう時を楽しんでいる。

 だが、若い彼らにしてみれば、そんな時間こそが〝大切〟ななのだ。


 3人は、青山通りを赤坂方面に向かって歩いていた。

 道を行く、流行の服装に身を包んだ何グループかの男女たちは、義人たちと擦れ違うたびに諦めとも、憧憬ともつかぬ溜め息を漏らして通り過ぎていった。

 それは、この世のものとは思えぬ程の〝〟に対してか――。

 真奈の無表情ゆえの冷たさを感じさせる美しさはもとより、いつもの笑顔ではなく、澄ました顔をしているときの義人は、ファッション雑誌の表紙を彩るモデルたちすらも色褪せるほどの端正な美貌であった。

 この2人が並んで歩くだけで、その場の空気がピンと張り詰めるようであった。

 それでも、何人かの勇気ある者たちは、2人に声をかけようとするのだが、やはり、どうしても二の足を踏んでしまうらしい。

 それほどに近寄り難い雰囲気が、この2人にはあった。

 例えば、真奈に自信タップリに声をかけてきた男性は、その紅い瞳の一瞥だけで、その場にへたり込んだのだ。だらしなく垂れた手に握られていた名刺には、有名な歌手やタレントを多数抱えるプロダクション会社の名が記されてあった。これまで数多くの〝原石〟たちを、彼は見出し、磨き上げてきたのだろう。

 だが、石の中から玉を見抜く両の眼は宙を彷徨い、その顔は恍惚とした微笑すら浮かべていた。

 知り合いでなければ範子も気後れがして、一緒に歩くことすら出来なかっただろう。

 範子は改めて、颯爽と街を歩く義人たちの姿――彼女の場合は、特に義人のほうだったが――に見惚れていた。

 そんな夢見心地な範子を振り返って義人は、


「まだ時間も早いし、何か食べようか?」


と、言った。


「早いって……!?」


 不思議な顔で聞く範子に、義人は優しく微笑みかけて、


「うん。〝〟は夜が更けてこないと動かないからね」

「人を……探してるんですか?」

「あれ、言わなかったっけ? で、真奈は何が食べたい?」

「……。あそこ。行ってみたい……」


 話を真奈に振った義人に、真奈が珍しく意見を述べて指差したのは、表参道の脇の路地を少し入ったところにあった、オープンカフェスタイルの『ハムステッド・ヒース』という小洒落た店であった。

 ただし、ロンドン郊外の墓地『ハムステッド・ヒース』の名を店名に付けるとは、風変わりな店主オーナーではあろう――。

 扉を潜ると店内にはまだまだ空席もあったが、義人が外で食べたい――と、告げるとボーイは快く承知し、席に案内してくれた。

 義人は〝お薦め〟のコースを、3人前注文し、自分は〝マティーニ〟を頼んだ。

 運ばれてきたカクテルを見て、範子が、


「それは……カクテルですか?」

「ん? ああ、ちょっぴり強めのね。何か飲みたい? カクテルにはノン・アルコールの物だってあるんだよ?」

「はい! 頂きますっ」

「真奈は?」

「……私も……」


 義人のマティーニを興味津々といった瞳で見つめていた真奈も頷く。


「ん。わかった」


 義人は先ほどのボーイを呼ぶと、真奈に〝プッシー・キャット〟、範子には〝シンデレラ〟というカクテルを頼んだ。

 しばらくして運ばれてきたカクテルを見て範子は、


「わぁ……」


と、興奮に上擦った声を上げた。

 目の前に置かれた〝シンデレラ〟というカクテルは薄いオレンジ色の見た目。

 逆三角形のカクテルグラスに入っていなければ、ごく普通のジュースのように見える。


「それはオレンジとレモン、それにパイナップルのフレッシュ・ジュースを使ってるんだよ」


と、義人が解説する。そして、真奈の前に置かれたのは〝プッシー・キャット〟。色合いはよく似ているが、こちらのほうが少し濃い目だ。〝シンデレラ〟よりも一回り大きいグラスに注がれている。


「そっちは〝プッシー・キャット〟といって、『可愛い猫』って意味だよ。オレンジとパイナップルとグレープフルーツのジュースを使ってるんだ。後は、ちょっとだけグレナデン・シロップ。グレナデン・シロップってのは、柘榴のシロップなんだけどね」


と、義人が言う。


「どっちもアルコールは入ってないから、未成年でも大丈夫。足りなければ、後でまた、別のを頼んだげるよ」

「おいしーいっ!」


 喜んで口にする範子と、表情には出ていないが何となく嬉しいのだろう、ゆっくり口を付ける真奈に、義人は満面の優しい微笑でそう言った。

 それから運ばれてきた料理を全て食べ終わった頃には、時計は7時半を少し回っていた。

 範子は満足であった。

 憧れ――いや、恋の対象たる義人と食事を共に出来たのだ。16歳になったばかりの少女にとって、それはまさに天にも昇るような気持ちであっただろう。

 だが、そんな浮かれ気味な範子とは対照的に、義人と真奈は各々、これから起きるであろうことに思いを馳せていたのか――。

 少し考えた後で、


「さて……、と。範子ちゃんはどうする? もう、帰るかな?」


と、静かに義人が問いかけた。


「え……!?」


 突然のことに驚く範子に、義人が続ける。


「これから先は、危険かも知れないよ? 昨日の晩のような目に遭うかも知れない」


 ゴクリ……と、範子は咽喉を鳴らした。昨晩、奇怪な影に襲われたことを思い出したのだ。今、思い返しても、身震いがしてくるほどであった。

 しかし――。


「……行きます!!」


 きっぱり、と返ってきた答えには断固たる意志が篭もっていた。真摯な瞳で義人の眼を見据える。

 恋する少女故の情熱さえ感じられた。

 そんな範子を、真奈は感情の窺えない紅い瞳で見つめていた。

 だが……。

 その眼差しには、どこか穏やかな空気が流れているように思われた。



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