『此岸のたましい』#リプで来た要素を全部詰め込んだ小説を書く

夏野けい

たましいの質量について

202X/3/7/16:06


 帰ろうとする私をコンクリートの階段の半ばから見送る若い女がいる。雑居ビルの隣は空き地だった。午後四時の陽射しは彼女を金色に染め上げる。路面に降りる前に、私はもう一度向き直ってまっすぐに仰ぐ。


 小柄な女だった。シャツから覗く細く色の白い腕には時計すらしていない。彼女を強者たらしめているものがあるとしたら、瞳だけだろう。じっと見つめられると、肌を蛇に這われているような気分になる。

 目立たない容姿だ。あらゆるパーツのつくりが小さく、地味である。風に流れる長い髪は染めてもいない。にもかかわらず、にじみ出るような圧力があった。


 四百人が彼女の言葉に心酔した。


 彼女はとある宗教の創始者である。先ごろ、信者が集団で自死をはかった。警察の見立てでは他殺の可能性はなく、ひとまず彼女と教団の疑いは晴れている。

 私はしがない記者だ。誰も読みやしないカキモノをフリーペーパーに連載している。つまらないオカルト記事になる予定だった。取材なんて適当でいいと思っていた。なのになぜ、まだ聞きたりないと思うのだろう。


***

202X/3/7/15:27


 古い雑居ビルの一室だが、調度は小ぎれいに整えられていた。木製のローテーブルにベージュのソファ。教祖の応接間と呼ぶには質素であるか。飾り棚の大ぶりの壺だけが場違いに仰々しい。冷茶が薄手のグラスに揺れていた。遠くに子どもの歓声が聞こえた。

 茶を運んできたグレースーツの女は、折り目正しく一礼して部屋を出ていった。直後、ドアをノックされる。


「わたしが代表の江西えにしです」

 入ってきたのは小柄な女で、飾り気も特徴もない。どこかの会社の新人だと言われても信じてしまいそうな若さ。渡された名刺に目新しい情報はない。

 伏せられていた視線が私をかすめて背後の壁へ動く。見られたわけではないのに心臓が跳ねた。


「雑談の時間はありませんね。記者さん、いちばんお聞きになりたいことからどうぞ」

 鞄から教団のパンフレットを出す。それからホームページのプリントアウト。このくらいしか情報源はない。そして大した意味のあることは書かれていない。


「教義というのがよくわからないのです。生者と死者は何も変わらない、同じ世界にあるというのは如何なる意味ですか。死者との交信を行っているわけではないのでしょう?」

「わたしたちは何もいたしませんよ。ただ亡くなったかたの存在を感じたい人々に、彼岸も此岸もなく彼らは共にあるのだと伝えたいだけです」

「ここに?」

「えぇ」


 初めて彼女が私の目を見た。瞳の色は静かに凪いでいるのに、射すくめられて息が止まる。


「精霊流しと言ってわかりますか」

「九州の……」

「母の実家がそちらでして、祖父母が亡くなるまでよく行っていたのですよ。七歳くらいですか、その年は祖父の弔いをするというので精霊流しに連れていかれました。ひとつ下の従妹と一緒でした。あれ、派手でしょう。爆竹を鳴らして明かりをともして。従妹ははしゃいで怒られていましたよ。でも、わたしは怖かった」

「感受性が強かったんですね」

「そうでしょうか? わたしには空っぽに見えたんですよ。誰もいない虚空があの世だと思った。死者の魂はいつだってそばにあるのに、あの世と言う空虚にみんなが祈っているのが怖かった。今も、それは本当だったと」

「だからご自身の信ずるところを新しい教えとして広めているのですか?」


「広めるつもりなんてありません。だって、わたしの言葉に縋れる人ってごく一部なんですもの。記者さんだって、嫌悪感の方が強いんじゃありません?」


 それよりも彼女の瞳が怖かった。湿って、ひやりとした蛇の鱗。死を日常の隣に見る目。


「わたしは感じたい。大切な人がすぐそばに漂っているのを。魂に重さがありさえすれば、生者も死者も万有引力に結ばれてひきあっているんですよ。だからわたしは信じるんです。同じ空気の中に魂は重みをもって存在しているのだと」

「そうまでしてお会いになりたいかたがいらっしゃると」

「ずいぶん屈託なくお聞きになるのね」

「不快であれば慎みます」

「母は殺されたんですよ。父の不倫相手に。わたしが十三の頃です。母は強くて、きれいで、誰とでも対立する人でした。子どもの頃は先生やなんかに、職につけば上司に、結婚したら姑に、いちいち反発しては返り討ちにあうような不器用な人でした。血の結びつきには深い思い入れがあったみたいで、わたしのことは目いっぱい愛してくれました。きょうだいや親ともべったりで。あれほど激しく情をぶつける人間には会ったことがありません」


 彼女は空気を人差し指でつい、となぞる。


「身に余るほどの愛がほしいのかもしれませんね。わたしはずっと、寂しかった。腫物のように扱うでしょう、こんな崩壊した家の子なんて。だから」


 ため息が部屋にこぼされた。


「記者さん、あなた。会いたい人がいらっしゃるのね?」



***

202X/3/7/17:51


 直帰というわけにもいかず、社に戻った。紙のちらかるオフィスを奥へ。私の席は窓際にある。事務方は定時を過ぎて人がまばら、編集部のホワイトボードには取材や予定を理由に不在の文字が並んでいる。

 パソコンを立ち上げ、メモを机に放る。


 会いたい人。いないと言ったが明らかに嘘だ。きっぱりと言い切ったら深追いはしてこなかったが、気づいているはずだ。あの後は無難な問答に終始した。教団の規模や歴史やなにか、それこそホームページの記載からほんの一歩入ったくらいの。

 彼女の思い出話も以降は聞けなかった。交換条件は私の本音であったのかもしれない。


 目を瞑る。

 気配なんてなかった。やっぱり、祈る先は天国でいい。


 紗羅さらは私のクラスメイトだった。仲は良かったが、親友という言い回しは嫌いだったのでそう呼びはしない。よく互いの家を行き来してはくだらない話ばかりしていた。紗羅は美人だった。スカウトを受けずに表参道を通り抜けることができないほど。

 しかしながら変人だった。モデルよりもコメディアンのほうが似合うと言ったら、あたしの話で笑うあんたがおかしいと言った。モデルにも女優にもなる気はなさそうだった。むろんコメディアンにも。

 学校帰りによく買い食いをした。ハンバーガー、アイス、クレープ。通学路の商店街にはなんでもあった。紗羅はタピオカが好きで、あの太いストローで器用に黒いつぶつぶを吸っていた。私が飲むとたいてい氷のあいだに残ってしまうのに、いつも紗羅のコップはきれいにあいた。

 タピオカ特化型魔法だよ、といたずらっぽくウィンクしてみせたとき、私はもしかすると惚れたのかもしれない。


 紗羅の死の理由を私は知らない。遺族は公表を拒んで、学校でも公式には何も言われなかった。焼香を待つ列の黒さだけが目に焼き付いている。ストーカー殺人、という噂がどこからか聞こえた。あの白い首筋に牙をたてる毒蛇を、ほんの一瞬だけ想像した。どうせ身体しか見ていないくせに、自ら壊してしまうなんて、なんて馬鹿。本当にあったことではないはずだけれど、私は明確に架空の犯人を蔑んだ。


***

202X/3/24/16:43


「ようこそ」

 彼女はコンクリートの階段に腰かけて私を待っていた。立ちあがって砂を払い、扉を開けてくれる。

「わざわざ届けにきてくださるなんて、ありがとうございます」

「いいえ、ほかの用事のついでですから」


 掲載紙を持ってくるなんて口実だった。質問は三つ用意していた。答えてくれないならそれでいい、個人的な興味にすぎないのだから。


 出された茶はあいかわらずよく冷えていた。私たちはまた向き合って座る。紙面に目を落としていた彼女が唐突に笑い声を立てた。ゆっくりと、あの瞳が私をとらえた。

「これだったら取材なんて要らなかったでしょうに」

「誰も読んじゃいませんよ、そんな記事。必要なのは事実です。私が確かにここに来たという」

「そんなこと仰って、いいのですか?」

「構いやしません。みんな言ってることです」

「……そう。でしたらなぜここへ?」

「聞きたかったんですよ、もう一度あなたの話を」


 赤い舌が唇をなめた。


「どうぞ、何なりとお聞きになって」


「信者の方に死を望ませるような教えをしたことは?」

「いいえ」

「あなたは死を近しいものと感じていらっしゃいますか?」

「そうね……はい」


「死を望んでいるのは、本当はあなただったのではないですか」


「正しいですね。わたしは、肉体であることにんでいる。といって、信者にそれを勧めたつもりも、事実もありませんよ」

「えぇ、そうでしょうとも。あなたから滲む厭世が彼らを殺そうとしたなんて、非科学的です」

「わかってらっしゃいますのね」

「あなたを罪に問うことはできません。けれど、あなたは罪を背負うつもりだったのではありませんか? そうした明るみに出ない罪を重ねて、いつか死ぬか殺されるかしたかったんじゃ」


「それはあなたの妄想でしょう。わたしの死に誰の手も必要はありません」


 彼女は飾り棚をひらいて、大ぶりの壺を取る。ローテーブルにそっと置かれる。木の蓋が口にはめこまれている。


「この中には蛇がいます。二匹の毒蛇。ひとつは神経毒、ほとんど即死です。もうひとつは出血毒、名の通り血を吐いて苦しみ死ぬことになります。わたしはどちらに選ばれるでしょうね」


「どうかしていますよ。人を導こうという気がわずかでもあるなら、あなたは死を望んではならない。それはあなたの望むものを彼らも望みかねないからで、あなたの死が誰かの死を呼びかねないからです」

「あなたにも会いたい人がいるのでしょう?」

「死者はここにいると言ったのはあなたでしょう」

「たとえ存在していたって、同じかたちにならなくては話せないって気づいてしまったのですもの」


「だから、私たちは彼岸を信じていたんじゃないですか。死者には死者の国があって、いつか生を全うすれば会えるって信じたんじゃないですか。嘘だっていいでしょう。誰だって、身近な人に死んでほしくないんですよ」

「記者さんは他人でしょう」

「だから何だと言うのです。私はあなたが嫌いだ。自分の寂しさを弱い人たちに押し付けるあなたが。そんなところにいるのはさっさとやめたらいい。あなたに比べたら、苦しみあえぎながらも当たり前に生きている人たちのほうがずっと強い。逃げてどうするんです。ほら、どっちを向いても死しかのこってないのはあなた自身のせいです」


「お優しいのですね」

「どこが」

「まだ間に合うっておっしゃるんですもの」

「……そんなこと、言っちゃいません」


 彼女は壺を飾り棚に戻して、唇だけで微笑む。


「言いたいことは、お済みですか。記者さん、きっと二度とお会いしませんね。ごきげんよう」

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