15、これはつまり試練なのだろうか

 僕は『純粋理性批判』の図式論に差し掛かっていた。まだまだこれから奥が深くなるだろうし、それが楽しみだった。だがカント先生直々の講義が始まってすぐに、その難解さで頭がショートし、本を置いて息をついた。それから眼鏡を外し、目元に手を当てて軽くマッサージした。

「……難しそうな本ですね」

 僕は少しばかり驚いて目元から手を放し、声のした右のほうを見た。隣の彼女が声をかけてきたのだ。だが眼鏡をかけて体裁を整えようとする気力もないほど、読みつかれていた。

「そうなんです。難しいんです」そう言いつつ、図書館であまり会話すべきではないと思い、声のトーンをさほど落とさずに話してきた彼女を厚かましい奴だなと、表情には出さずともいささか批判的にとらえた。

 あらためて彼女を見ると、裸眼でも顎と頬に小さなホクロがいくつかあることが分かった。髪についても、ようやく肩に届くくらいの長さでダークブラウンに染まっているということを、初めて認識した。彼女の前には本3冊とノート1冊がそれぞれ開いてあった。何か学習しているのかもしれない。30前後の落ち着いた女だと思っていたが、近くで見ると揺れがあり、まだ大人になりきっていない甘えの残る雰囲気があった。それに気付いて、『今どきの若いもんは……』なんて言葉が頭の中に湧き、自分がもう若くないのだと感じた。おかげで批判的な気分は消え、自虐的であたたかな気持ちが湧いた。マナーとしてこれ以上話すべきではないと思い、軽く頭を下げてから視線を本に移し、眼鏡をかけて読書を再開した。

 だが、もう頭に入ってこなかった。何度も同じ部分を読み、ページを繰ることなく3分ほどが過ぎてから、あきらめて本をカバンにしまい、立ち上がった。すると彼女がまた声をかけてきた。

「すみません、さっき邪魔したみたいで」

「いえ、そんなことないです」僕は笑顔をつくり、愛想を込めて言った。そして別れの会釈をした。


 図書館を出てから5分ほど歩き、喫茶店に入った。そこはWi-Fiがないという不便な店ながら、そのおかげで客層も流行りの店とはだいぶ違っており、読書にはもってこいだった。60年以上続いてきた店で、現在は2代目のマスターだが、たまに父親である初代も顔を見せる。初代マスターは80を超えているだろう。その日は現マスターと50代ぐらいのウェイトレス一人だけだった。店内はの髪のようなほとんど黒に近いダークブラウンの木材と、煉瓦れんが漆喰しっくいの組み合わせでできており、照明の半分はアルコールランプだった。その、いい意味で時代錯誤な雰囲気が好きだった。

 奥のほうの席に着くとブレンドコーヒーを注文し、すぐにまた『純粋理性批判』の3巻を取り出した。そのとき、ハッと気づいて周囲を見渡した。ここは同志にとっても居心地のいいところのようで、ここでこれまでに、初老で小太りの男性と小学生の一人(マセた感じのキリっとした目の女の子)に会ったことがある。ここなら図書館よりは話しやすいので、放課後気分で浮かれて軽く会話を交わすことができた。だがそれも3分もないほどの他愛ないもので、小太りの男性とは4月下旬の急な悪天候についてやや深刻ぶって話し、小学生の女の子とは学校のことについて僕が質問し、図書館でよく会う、感じのいい(と言っても平日に図書館にいることが多いので一般的な大人ではないだろうという怪しみを持たれ、それがまた彼女らの興味や親近感を掻き立てているであろう)オジサンの役を全うした上で、それぞれ自席での自分の作業に戻った――そのことを思い出して、同志がいないかと見渡したが、今日いる8人の客はみな知らない顔だった。僕は肩の力を緩め、読書に取り掛かった。先ほどよりは、内容が頭に入ってくる。3%が7%になった程度だが。

 やがて誰かがタバコに火をつけ、店内に煙と匂いが漂う。僕はタバコを33のときにやめたが、ここに来ると懐かしく思い、吸いたくなることもあった。カント先生がいなければ吸っていただろう。だが吸わないで済ませることができるのであれば、自分自身の道徳の遂行として吸わないでみようと思って今日まで来た。それが今日は、無性に吸いたくなっている。吸いたい、吸ってみたい……。

 何かがおかしい。こんなにタバコに惹かれるなんて。僕のカント的秩序が、知らぬ間にシロアリかネズミにでもガリガリやられ、崩れそうになっている――。僕の中で赤い回転灯がつき、警報が鳴った。警戒を強め、同時に異変の原因を探ろうとした。何のせいだ? 何があった?

 僕の内部がざわついているうちに、ウェイトレスがコーヒーを置いて去っていった。その直後、ドアベルの低く柔らかい音がした――カランコロン……。なぜか敏感に反応してドアの方を見ると、そこにがいた。

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