第5話 浴室の説明はベッドで

お風呂が嫌いという人がいる。あの湿った湯気が浴室一杯に広がっていることに何よりも不快感を抱く人がいる。その人でも温泉宿の大浴場や露天風呂など湯気が籠らない空間ではゆっくりとリラックスできるという。

堀田もどちらかといえば風呂に溜まる湿気を好まない。下宿の浴室もこれに漏れない。だからいつもシャワーで済ませているのだ。

だから、居石の肩越しに見た光景を生涯忘れないと思う。

適度に湯気の立った浴室、その中に横たわる裸の老人、その胸に金色に輝くナイフと鮮血の赤。

倒れそうな足に何とか力を込めて立っている。

居石はいつも通り、自分の前にいる。

「要さん、あ、あれは、死んでるの?」

自分でもおかしい言い方だと思う。

「まあ、転んで頭打った人ではないわな」

居石はこちらを見ずに言った。

居石は、堀田が立っているだけでやっと、というのがわかっているのか、堀田の肩を抱くように後ろに下がった。

代わりに田辺さん、仁科さん、美紀さんが浴室を覗こうと近づく。

「お嬢」三橋さんが美紀さんの肩を持って、後ろに引き寄せる。見てはいけないということだ。

浴室を覗いた二人は驚愕の顔で出てきた。最後に出た仁科さんが扉を閉じる。

誰もが何も言葉を発しない。居石はそんな状況を観察しているようだった。

「あの、警察に連絡しなくて良いのですか?」

静寂を破ったのも居石だった。

全員の時が急に流れ出した。

「ああ、はい、私が」美紀さんが出て行く。

「私も行きます」西田さんが付き添う。電話するのに付き添いが必要か?と思ったが、この場から離れたかったのだろう。

「では、私が検死をやりましょう。早い方が良いと思うのです」仁科さんが言った。

「そうですね。お願いします」三橋さんが言った。

仁科さんと三橋さんが扉を開けて浴室に入る。居石も入っていくので堀田もつられて中に入る。浴室内はまだ温度も高く湿度も高かった。

「風通しを良くしておいた方が良いですね」三橋さんが言った。

「お願いします」仁科さんが首肯する。

三橋さんは二重扉の浴室側と脱衣所側の扉をあけて、扉のレールの所にドアストッパを取り付けた。

これをしないと勝手に扉が閉じてしまうためである。扉の閉め忘れによって温度が下がるので、それを防止するための機構である。

ドアストッパを取り付けた三橋さんは、そのまま脱衣場から外に出て行った。しばらくするとボイラー室の扉から三橋さんが出てきた。女湯からボイラー室に入ったのだろう。ボイラー室で三橋さんは浴室とボイラー室の扉を開け放しにして、次にボイラー室と外との扉を開け放しているのが見えた。

山岳部の夜の強烈な冷気が浴室内に入り込む。曇っていた左右のカランの鏡がすっかりと綺麗になって浴室内の様子を映し出していた。

「これでどうでしょうか?」三橋さんが再び顔を出す。

「はい、大丈夫です」仁科さんが言った。

「滑りやすいので気を付けてください」三橋さんが心配そうに言った。

仁科さんはスラックスをめくり上げ、浴室を進んで花畑さんのそばまで行った。そこから検死を行うようである。やりにくいことには変わりないが、床のリンスを洗い流す事を避けたのであろう。

仁科さんが花畑さんの検死を行っている中、二人で浴室を見て回る。脱衣場から見て右手のカラン側には窓はなかった。左手のカラン、花畑の遺体がある側には窓があり、先程入浴した時にも確認していた。

先程と違い、すっかり曇りが晴れた窓ガラスには雨が叩きつけていることが良く分かった。窓ガラスのクレセント錠は浴室側にあり、閉じられていた。

まだ、検死に時間がかかりそうだったので、二人は浴室の外に出た。

脱衣所に出ると、田辺さんがそこにいた。洗面所の椅子に座り、禿頭を撫でまわしていた。

「田辺さん、大丈夫っすか?」居石が気遣う。

「ああ、大丈夫だ」

堀田にはかなり疲弊しているように見えた。

無理もないだろう。日常生活で殺された人間を見ることなんてないと言っても良い。

居石もそれ以上話しかけることはなかった。

浴室の外に出ようとしていると三橋さんが戻ってきた。

三橋さんも田辺さんがかなり疲弊していることに気が付いた。

「田辺さん、外に出ましょう」田辺さんの肩を抱いて外に出ようとする。居石が黙って三橋さんが持っている反対側の肩を持った。

思っていたより体にきているようだ。

堀田は先行して脱衣場のドアを開けた。二人に抱えられた田辺さんが出てくる。

レジカウンターで電話をしていた美紀さんがはっとした様子でそばに立っていた西田さんに目配せする、

西田さんがこちらの状態に気が付いてやってきた。

「部屋に寝かせましょう」西田さんが提案する。

その提案を飲んで田辺さんを二階に運ぶことになった。三人で田辺さんを抱えて部屋まで連れて行った。

部屋でベッドに寝かせる。大柄な体格の田辺さんを二階まで運ぶのには疲労が溜まったようで、居石は左手で揉むように右肩を回していた。

一仕事終えて、四人で一階に戻る。

一階に到着すると同時に美紀さんがこちらにやってきた。

「警察に電話しました。こちらの状況をお伝えしたのですけれど、やはり道が通行できないのが響いているようです。明日の朝まで現場をそのままにしておいてほしいと」

「ああ、それで僕が写真を撮っておくと伝えたんだ」

忘れていた、と言って西田さんはカメラを取りに再度自室へと引き返していった。

「ちょっと母にも伝えてきます」美紀さんは喫茶店の方に向かおうとする。

「お嬢、やめた方が良いと思います。もう少し待ちましょう。女将さんの体調が万全ではないでしょうから」三橋さんが美紀さんを止めた。

「ああ・・・そうですね。そうします」美紀さんは頷いた。

「でも、一応母の所に行っていますね。心配なので」美紀さんはそのまま喫茶店に向かった。

確かに、はっきりとしていない状況で心配になるのも理解できる。

西田さんが降りてきて、カメラを携えて男湯に入って行った。

今立っているところには三橋さんと居石と自分しかいない。

居石は何か考えている。

ふと顔を上げて、

「三橋さん、ボイラー室を見せてもらっても良いですか?」

また変なことを言い出した。

「要さん、何言っているんですか?余計な事しないでくださいよ。警察到着まで待ちましょう」

これ以上はお店にも迷惑になりそうだと感じた。

「いや、お店に恩返ししないとな。一宿一飯の恩義ってやつだ」

珍しく適切なことを言う。

いや、そうじゃない。

「恩返しになるかはわからんけどな」そんなことを居石は言い捨てた。

「お見せするのは構いませんが、小汚いですよ?」三橋さんが申し訳なさそうに言った。

「それは問題ないです。いつも小汚いところで生活していますから」居石は即座に答えた。

「あ、それはこっちのぼーっとした後輩も同じです。小汚い部屋で寝食を取っています」

「おい、それは余計だろう。もう絶対に泊めないからな」

「こんなことを言っても泊めてくれるかわいい後輩なんです」

三橋さんは、はあ、と言って何とも所在なさげにしていた。

そりゃそうだ。

「そういうことでしたら、ご案内いたします」

そう言って三橋さんは二人をボイラー室へと案内することを承諾してくれた。

「ではこちらへどうぞ」

三橋さんについていくと、女湯だった。

「え?」と思わず声が出てしまった。

その声に反応するように、

「女湯にあるボイラー室への扉から入ろうと思います。外は雨ですから」

「あ、何かすみません」条件反射で謝罪する。

三人で順番に暖簾をくぐる。

靴を脱いでそのまま脱衣所に入る。

当たり前だが服は脱がない。同じように二重になっている扉、その間にスノコに乗った珪藻土マットを通り抜けて浴室に入る。

女湯の作りは男湯と同じではあるが、どちらの壁にも窓がなかった。ボイラー室への扉は向かって右手にある。

「男湯からしかダム湖は見えないのですね」居石が言う。

「時間帯によって変えています。流石に毎回女性は見ることが出来ないっていうことは不公平ですからね」

関西風の浴槽の右側を通ってボイラー室に入る。

扉を開けると、石造りの小さいスペースだが三和土があった。ここでは浴室掃除に使うバススリッパのようなものを脱いだりするのだろう。

そこから一段上がると、ボイラー室の床になる。

ボイラー室は入ると左手に長く伸びている部屋だった。

三橋さんは小汚いと言っていたが、掃除用具や洗剤の詰め替えなどが置いてあり、確かいに乱雑な様子が見えたが、汚いという印象を堀田は受けなかった。

部屋自体は女湯側から見ると左手に伸びている。

そちら側に向かうと男湯があるということだろう。

そちらに向かって歩いていくと、男湯女湯のちょうど中間地点にボイラーが置かれていた。

ボイラーの横を通り抜けてさらに進むと左手に扉、さらにその先にも扉があった。

「あの奥の扉が外に通じているのですか?」居石が三橋さんに尋ねる。

「ええ、そうです。とはいっても・・・」

三橋さんはドアの近くに行く。

「この扉は鍵が壊れていましてね。この通りです」

三橋さんはドアを指差した。

居石と堀田が近づくと、ドアノブの上部分に丸い穴が開いていた。覗いてみると、穴の先からわずかな光と雨と視界の下部分に草のようなものが見えた。この部分は空洞になっている。つまり鍵がないのである。

「なるほど、この部屋には簡単に入れるっていうことですね」

三橋さんに言った。まあ、そうですね、と言って三橋さんは扉から離れる。

居石は扉に近づいた。

そして、Tシャツの裾をもって、裾越しにドアノブを触って開いた。

「指紋対策?」堀田は居石に聞いた。

居石はそれを無視してドアを開いて外を覗き込んだ。

外は雨がさらに強くなっており、風も強い。

居石はドア付近の地面を見ていた。

雨が思ったより強かったのか、居石は扉を閉めた。

「鍵は直さないのですか?変な輩が忍び込んできますよ」

居石は三橋さんに尋ねる。

「そうなんですがね。無精が過ぎると言いますか、ここに盗まれて困るものがないっていうのと、浴室の扉の方を施錠しているので、店側に被害はないかなと」

管理している本人がそういうのだから良いと思ったが、居石は違うようだ。

「早めに直した方が良いですね。そう思い込んでいると大変な目に遭うと思います」

「ご指摘ありがとうございます」

三橋さんは丁寧にお辞儀した。

「こちらの扉が男湯に繋がっております」

そちらを見ると女湯と同じように一段低いところに三和土があり、三橋さんがそこに降りて扉を開けると、そこが男湯だった。三メートルほど先に花畑の遺体、さらに写真を撮影している西田さんと検死が終わった様子の仁科さんがいた。

二人共浴室の中に足だけ浸かって立っていた。

恐らく仁科さんが足だけお風呂に入れて作業していたのを西田さんがマネしたのだろう。

二人共ボイラー室から登場した居石と自分に少し驚いていた。

「ちょっとボイラー室を見せてもらっていました」

居石がそんな二人の様子を受けて、説明した。

「おお、そうでしたか」仁科さんが言った。

仁科さんだけではなく西田さんも額に汗が浮かんでいた。それはそうだろう風通しを良くしたとは言っても浴室だった場所である。まだ気温と湿度は高い。

「検死の方はいかがでしたか?」居石が言った。

「そうですね。はっきりとは特定できませんでした。やはりこの場所のせいもあります。無理してでも見解を、ということであれば、死後三十分から一時間ぐらいでしょうか?詳しくは警察に見てもらった方が良いですね」

堀田は詳しく知らないが、温度などで死亡推定時刻が変わってくるのだろう。

普通の環境とはやはり違う。

「死因の方はどうでしたか?」

居石が動じることなく言った。真にこの先輩は豪胆である。目の前に遺体があるのに。自分はそちらに目を向けないようにしているのに。

「見ての通りナイフで心臓を一発ですね。出血が少ないのはナイフが栓になっているためです」

居石は腕組みして聞いていた。

「あのナイフって刃渡りはどれくらいですか?」居石は聞いた。

「このナイフは確か刃渡りとして十五センチくらいだったと思う」西田さんが代わりに答える。

「他に外傷はないですか?」西田さんが仁科さんに聞いた。

「そうですね。頭を打った後がありますが、刺されて転倒した時にできた傷だと思います」

立っているところをナイフで刺されて倒れた時に頭を打った、というイメージが堀田の頭で再生された。

しかし、ちょっと引っかかる。

「あのナイフで刺されたことが致命傷ってことなのですよね?」

自分も意見を出してみようと思う。

「どうやって刺したんすかね?花畑さんが立っているところは立っていられないくらい滑るのですよね」

全員が自分を見ている。

「確かに。溢してしまったシャンプーとリンスがボイラー室の入り口から浴室の入り口手前まで続いています」

そうである。そのおかげで浴室に出入りする時に少し気をつけながら出なければいけなくなったのだ。

「申し訳ありません、私がしっかり掃除をしておけばこんなことにならなかったですよね」

三橋さんが申し訳なさそうに言った。

「それは結果論ですよ。滑って転んで頭を打って死んだわけではありませんから」仁科さんが慰めるように言った。

「さっきも聞いたかもしれませんけれど、リンスぐらいシャワーとかで流せないのですか?」居石が言った。

「リンスってシャワーだけじゃ流れないですよ。こすり洗いまでしないと落ちません。要さん風呂掃除したことないですね?」

「なんで風呂掃除したことないになるんだ?リンス使ったことないっていう発想にはならないのか?」

「リンス使わないんすか?」

居石はじろっと堀田を見た。

「俺はリンスインシャンプーだ」



仁科さんと西田さんが浴室を後にしたので、三人はボイラー室を出ることにした。

先程と同じルートで女湯から出てくると、仁科さんも西田さんもそこに居なかった。レジに戻っていた美紀さんに話を聞くと仁科さんは田辺さんのところで診察、西田さんは部屋で今撮影した写真の整理をすると二階に行ったことを教えてくれた。

三橋さんは、仁科さんの手伝いをするために二階へと上がっていった。

時刻は十九時を回っていた。

「どうしますかね」居石を見る。

「どうするっていっても、警察が来るまで何もできないだろう?」

「要さん、さっき自分で一宿一飯の恩義とか言っていたじゃないですか?」

居石は腕を伸ばすようにして体をほぐした。

居石としては図星なようで、黙ったままでいた。

するとそんな二人を見た美紀さんがこちらにやってきた。

「やっぱり花畑さんは殺されたのでしょうか?」

そりゃ自分の店のお風呂で人殺しがあったとあれば、評判が悪くなるだろうと思うことは理解できる。

「そうですね、警察ではないので何とも言えませんが・・・」

こちらとしてもわかっていることなんて少ない。

「そうですか、さっき花畑さんが言っていたことが気になって」

「言っていたこと、ですか?」美紀さんが伏し目がちになる。

「さっき、喫茶店で母と花畑さんと話をしていた時です。あの人の話自体はいつも通り、いつになったら出て行くのかとか、ここを駐車場にした方がどれだけ儲かるとか、そんな話でした」

あの爺さんはここを潰して駐車場にしようと考えていたのか。だったら、お風呂に浸かってダム湖を眺めていた方が嬉しい。

「いつもは昼くらいに来てダラダラと夜まで話していくのですけれど、今日は早めに切り上げてくれたのでほっとしていたんです。なんか人と会う約束していてその人との話がうまくいけば、お前らとの無駄な話し合いも終わるからって言っていました」

「誰かと会う約束ですか。それは・・・ここでっていうことですよね?外には行けないし」思い出しながら言った。

「そうですね。お風呂で待ち合わせしていると言っていました。でもこの雨ですから、私も今日は外からお客さんとしてやってくる人はいないから、もしかして今日集まっている人たちの中の誰かじゃないかと思っていたんです」

今日初めて来た自分たちを除いたここの客たちの中に、花畑の爺さんに甘言した人間がいるということか。

「その約束した人っていうのに心当たりはありますか?」居石の質問が飛ぶ。

「いえ、全くありません。ここに集まってくれる人たちはここ以外でどんな生活しているかはわかりませんから」

それもそうだろう。日常生活まで一緒にいたら、もはやそれは家族である。

「確か、今日は特別な集まりっていうことを西田さんが言っていませんでしたか?

居石が思い出したように言った。

「そうでしたか?多分・・・失礼なことを言いますが、お二人が怪しかったからだと覆います」

美紀さんは本当に申し訳なさそうに言った。

「こんなですからねぇ」

居石を指差す。

「こんなっていうなって。どこからどう見ても一般人だろう?季節に合ったコーディネートだし」

「そうじゃないって。図体のでかいやつがアロハ着てハーフパンツでビーチサンダル履いて店に入ってきたら、身構えるでしょう?」

居石は目を宙に向けたまま何も言わなくなった。そんなに落ち込まなくても。

「不謹慎ですけど、母と私にとっては正直ほっとする部分もあります。この店が結果としてつぶれることになるのかどうかはわかりませんが、毎日のように続いていた追い込みがなくなっただけでも」

それは本当にそう思う。美紀さんには素直に同情する。

そばにいると思っていた気配が無くなったので横を見ると案の定、居石がいない。

美紀さんに会釈して、落ち込んでいる先輩を探すと、すぐに見つかった。

入り口近くのテーブルに座って、出入り口の扉を眺めている。

堀田は向かいの椅子に座る。

「なーに黄昏てんすか、さっき言われたことがショックだったんですか?謝りますよ。ごめんなさい」

居石を見ると、遠くからではわからなかったが、目線が下を向いていた。その目はショックを受けた人の目ではないと思った。

居石は何も言わずに、その場に座っていた。

しばらくすると、「何か食べようか」と言って、堀田に調達をお願いしてきた。

美紀さんに聞いてみると、簡単なサンドイッチならば作れるということで、お願いした。十分後に運ばれてきたのは、ホットサンドだった。

二人でお礼をして、しばらくそのおいしさに舌鼓を打つ。

満足して平らげた後、傷心?の先輩が「部屋に行こう」というので、食器を下げるのと同時に、飲み物とお菓子を調達して二階に向かった。

堀田は田辺さんの様子が気になったが、押しかけても悪いと思い、素直に部屋に帰った。



風呂にはすでに入っていたし、外の気温もこの季節にしては低く、正直過ごしやすい。にもかかわらず、体は汗びっしょりだ。

向かいのベッドに寝転んで天井を黙って見ている親愛なる先輩はどうだろう?

この部屋に帰ってきてから三十分は経過しただろうか。テーブルの上の缶ビールは自分のだけほぼ空になっている。居石の缶ビールは手も付けられていない。プルタブも開けられていない。

部屋に入ってきて早々、ベッドに寝転んだ居石は、先程の姿勢を保ったまま、堀田の世間話にも、ああ、とか、うん、しか返事しない。

何を考えているかは手に取るようにわかる。

こっちとしても気になっている。考えを聞きたいところだ。

「要さん、事件の事考えているのでしょう?」

水を向けてみた。

「ああ」

変わらない返答だった。

「犯人って誰ですかね。誰も人を殺しそうにないように見えましたけどね」

「お前は、見た目で殺人を犯す人かどうかがわかるのか?」

今までの返答に慣れてしまっていたので、動揺した。

「え?はあ、いや、わかりません」

「だろう?誰だってそのようになる可能性はあると思うぞ」

このまま黙っていると同じ事になりそうなので、さらに畳みかける。

「花畑さんの自殺ってことはないですか?」

「ないな」

間髪入れずに返される。

「ない・・・ですか?」

「ああ、ない。あの爺さんは風呂で人に会う約束があったんだぞ。そんな人間がなぜ急に自殺することになるんだ?」

「急にそんな気持ちになることもあるんじゃないですか?」

「お前な、仮に風呂でそう思ったとしても、風呂で自殺することはしないだろう?」

「それは・・・」

「しかもナイフで刺すなんてするかな。水があるんだから溺死にした方が手っ取り早い」

「自分で溺れるなんてしないですよ。苦しくなってすぐに辞めてしまうでしょう」

「だから、無理だって言っているじゃないか。まだ浴室外に出た方が自殺する手段なんて沢山あるだろ?」

「その通りのような気もしますけど」

殺されたということを信じたくはない、という気持ちがある。

「では、他殺ということになりますよね」

「そうなるな」

「他殺だとするとやはり、外部犯の可能性もあるのでしょうか?」

「どういうこと?」

どういうことと言われても。

「いや、外部から侵入した犯人が花畑さんを殺害したということです」

居石はそれまで腹の上で組んでいた手を頭と枕の間に入れた。

「外部犯っていうのはどうかなぁ」

「ないっすか?」

「いきなりやってきて、死ねぇーって爺さん刺すの?」

「そんな行き当たりばったりはないでしょう。毎日恨み買ってそうな人じゃないですか。だからそんな動機を持って常日頃過ごしていれば、殺意ぐらい湧く人だっているでしょう?」

「だからって衝動的に刺すかい?店舗の中のお風呂に入っている人間を」

「うーん・・・衝動的に刺すなら外歩いている時の気がしますね。のうのうと歩いているのを見かけてイラッと来てザクッと。ここには毎日のように来ているのだからこの近くで待っていれば簡単にできそうですね」

「それは衝動的っていうよりも計画的な犯行だな」

それはそうか。

「では外部犯が計画的に花畑さんを刺すために侵入したっていうことっすか?」

「さっきがくちゃんも言っていたけれど、計画的に殺害しようとするのであれば、外で一人でいる時を狙った方がはるかに安全だし、そもそもこんな大雨の日に実行する必要もないだろう?毎日のように来ているんだからさ、晴れている時に実行すれば良いよ。店の周りに足跡が残る心配とかするでしょう?」

確かにあくえりあすの周りの地面は土であって雨によってかなりぬかるんでいた覚えがある。

「でも・・・」

「納得しねぇの?じゃあ、もっと言ってしまえば、今のこの状況では外部から来た犯人の場合は逃げることが出来ない」

「逃げることが出来ない?」

「そう。あの爺さんが来る前に道が封鎖されただろう?百歩譲って、もう今日殺害してやりたいっていう気持ちが抑えられなくて、どうしても風呂場でリラックスしているところをひと思いにザックリと刺してやりたいっていう外部の人間がいたとして」

「なんかそういう風に言われると、外部じゃない気がしてきました」

「まあ聞け。さらに毎日のようにここに来る時間がわかっているにも関わらず、ここに来る途中に実行に移さずにどこかに潜んでいて店に入るのを見ていたとするだろう。それで、まあまだわかってないが何らかの方法で殺害した、ここまでは良いか?」

「はい」

「それから犯人は逃げることになるな?内部ではないという仮定で話しているからな。そうなるとその犯人はどこに逃げたんだ?」

「え?だから・・・店の外に」

「仁科さんが土嚢を積んで対策するくらいに雨が降っているのに?倒木で道が封鎖しているのに?どこに逃げるんだ?山の中か?それこそ犯人にとって自殺行為だ」

居石が言っていることがわかってきた。外から来た犯人の場合、殺害は出来てもそこから逃げることが出来ないのか。

「ちなみにダム湖に逃げるっていうのは?」

居石は黙って、お前本気か?という顔をしたが、

「ダム湖はダムの管理事務所とかで監視されているからな。今頃ダムに落ちた客はいないかって店に確認の連絡が入っているだろうな」

ぐうの音も出ない。

ということはこの店の中にいた人間の中に殺害犯がいるということだ。

「となると、あくえりあす関係者ってことですね。誰かなぁ」

「誰がってなると良く分からなくなるから、まず殺害方法かな」

「殺害方法。つまりヌルヌルの床でどうやってナイフを刺したか、ってことですよね」

ボイラー室を見せてもらった時に疑問に思ったことだ。

少し考える。

「実は刺されたのはあの場所ではない、っていうのはどうですか?」

「ほう、というと?」

居石は顔だけこちらに向ける。

「花畑さんは、左側のカラン前で刺されたのではないっていうことです」

「どこで刺されたと思う?」

「はい。例えばですが、浴槽の中で刺されていたっていうのはどうでしょうか?」

「んーツッコミどころ満載だな。なぜ外に出したんだ?」

「えっと浴槽で殺害されたことを隠ぺいするために・・・」

「それって意味ある?」

「ないですかね?」

「んー何らかの理由があって隠ぺいしたいとしても、浴槽の中で刺したらいくらナイフが栓になっているからって血ぐらい出てくるんじゃないかな?隠ぺいにならないと思う」

ダメか。確かにそうかもしれない。

「じゃあ、右側のカランの前で刺されていたというのはどうですか?」

「同じようになぜ動かしたのかがわからないな。そのまま右側のカランの前に置いておけば良いじゃないか」

「犯人の後に入ってきた人から遺体を隠すためじゃないですかね」

「あんな遮るようなもののない場所でそれは意味あるのか?それに左側が使えないから右側のカランを使っていただろう?まぁすぐに見つかるわな」

「そうっすね・・・。あーじゃあ、あの場所に必然性があるってことか・・・」

「必然性・・・うーん」

居石にもはっきりと答えがわかっているわけではないことはわかる。自分とディスカッションしながら考えをまとめているのだ。

「あの場所で刺されたのではないっていうのは良いと思うんだよね」

「ですよね。でもだからと言って動かす理由にはならないですよね?」

「例えばだが、不可能性を出すためにっていうのはどうだろう?」

「不可能性ですか。ヌルヌルの場所では刺すことは難しいからっていうことですね」

「そう。あの場所では普通に刺すことは出来ない。足が踏ん張れないからね。だから、何か天罰が的なものがそうさせたのだっていう」

居石は言っていて笑っている。

「面白いっすか?」

「すまん、天罰ってなんだよと思って」

「それはわからないじゃないですか、犯人が本気で天罰に見せかけようと思ったかもしれないでしょう?」

「そうだな。この流れだと訳わかんなくなりそうだからやめよう」

自分でその流れにしたのだけどね。

「何かしらかの仕掛けを使った場合は床がヌルヌルしていても可能だろうか」

話はナイフを刺す方法になった。

「実は殺された後からヌルヌルになったっていうのはどうですか?」

「初球から変化球かよ」

何が直球なのかはわからない。

「でもそれは却下かな。お前が確認しているだろう?」

そういえばそうだ。足でヌルヌルを確認している。

「じゃあ、ナイフを発射して刺したっていうのはどうですか?」

「ナイフを発射か、ボウガンとか弓矢のようにか?」

「そうですね。もっと小さくスリングショットのようなものでも良いですね」

「そうした場合、ナイフの柄が問題になりそうだな。飛ばしにくいような気がする。やったことないからわからないけれど」

それはそうだろう。前に俺がナイフを飛ばした時には柄が邪魔してね、なんて言われた日にはこちらとしては何て言えば良いかわからない。

「柄は後からつけたということはないですかね」

「最初に刀身だけ飛ばして殺害して、後で柄を戻したのか」

「そうですよ。困難は分割せよっていうじゃないですか」

「そうなると、二つ疑問がある。一つ、どこからナイフを飛ばしたのか、二つ、どこに花畑さんはいたか、三つ、どうやって柄をもとに戻したか」

「要さん三つです」

「細かいことはいいんだよ。早死にするぞ」

因果関係は?と聞きそうになるのをぐっと堪える。

「どこから飛ばしたか、っていうことですけれど、二つしかないですよね」

「浴室への入り口とボイラー室へ出入りするドアか」

浴室の窓ガラスは施錠されていたことを思い出す。

「窓ガラス開けて、浴室の外から飛ばしたっていうのは無いですか?」

「それだとおかしいだろう?」

「なぜです?」

「窓ガラスをどうやって施錠したんだ?」

「それは何らかの仕掛けを使って・・・」

「便利な言葉だな。とりあえず置いておくとしても、爺さんは正面から刺されていたんだぞ?俺らが入っている時は窓に背を向けて入っていたはずだ」

「それは・・・」

「わざわざ、窓を開けて、ナイフを発射する装置を構えて狙いをつけた後、爺さんを呼ぶのか?」

「そんなの途中で位置を変えたかもしれないじゃないですか」

「あそこが定位置って言っていたよ。毎日飽きもせずここに通うくらいの粘着質な人だからな、位置を変えることはしなかったんじゃないか?」

「だとすると、位置は窓を背にして座っている状態で正面からナイフを刺す」

そこまで言うと何も言えなくなってきた。

「無理ですね」

ギブアップ宣言だ。

「まあ、難しいよな」

「さっきから俺ばかり考えを話していますけど要さんは何かないんですか?」

「んー多分あの爺さんは浴室の中で刺されていると思う」

「さっきと同じじゃないですか?仕掛けを使わないとできませんよ」

「そんなに難しく考えなくても良いと思うんだ」

「簡単に出来るんですか?」

「多分」

「多分って、断定を避けますね。珍しい。じゃあこっちから質問しますよ。浴室内で刺されているって言っていますけど、どうやってナイフを持ち込むんですか?」

浴室で刺し殺すためにはナイフを持ち込まねばならず、それ想像するだけでも難易度が高い。裸一貫で入るのが普通だからだ。全長で三十センチくらいの大きさの刃物を持ち込むことはタオルを持っていても難しい。

「そうなんだよな。トリックを仕込まないのならば、ナイフを浴室に持ち込んで刺したってことだからな」

これも暗礁に乗り上げそうである。

「やっぱり浴室で刺されたっていう前提が間違っているんじゃないですか?何かトリックのようなものを使って外から刺したんですよ」

「その議論はしたでしょ?」

「中からだって無理じゃないですか?ナイフ持ち込めないでしょう?」

居石は黙ってしばらく考えていた。

その間ようやく起き上がって机の上の温くなったビールを手に取った。

「新しいのに取り替えましょうか?」

「ああ、そうだな」

堀田は部屋の扉近くにある床置きの冷蔵庫に行き、扉を開けて冷えた缶ビールを取り出した。

居石から温くなった缶ビールをもらって、代わりに新しいビールを居石に渡した。

居石は受け取ってすぐにプルトップを開けて喉に流し込む。

堀田は温くなった缶ビールを冷蔵庫に入れると、冷蔵庫の扉を踵で軽く小突いて閉じた。

居石は一息、ふーっとため息をついた。

テーブルの上に缶を置いて、またベッドに寝転ぶ。

「ここの常連客の人たちはさ、この店をどうしたいのかね」

居石がまた天井を見たまま言った。

「え?存続させたいんじゃないのですか?集会場の代わりみたいなものでしょう。みんなで仕事の合間とかに集まって、おしゃべりしたりお風呂に浸かったり。そんな時間を過ごすところですよ」

「そうか」

「どうかしたんですか?」

「いや、どうもしない」

また全くこちらを見なくなった。じっと天井を見ている。

仕方ないから、ビールを流し込む。しゃべりすぎたのか、ビールが進む。少し温くなってしまったビールを一気に流し込んで、自分も新しいビールを取り出す。プルトップを開けてから口をつける。

机の上のお菓子もあらかた食べてしまっていた。しゃべりながらお菓子をつまんでいたようだ。

居石はほとんど食べなかったから、自分が大半を食らったということになる。これでは研究室や実験室で作業している時と同じだ。

まあでも働き始めたらできないことだと思う。

世の中に出たら、目前にいる先輩のような変な人に出会うことはあるのだろうか?

わからない。

それに、出会いたくはない気もする。

でも、なんだか寂しい気もする。

振り回されたいっていうことだろうか?

缶ビールをテーブルの上に置く。自分もベッドに横になる。

「寝るのなら歯を磨けよ。歯は大事だぞ」

そんな助言に感謝しながら堀田は目を閉じた。

疲労が溜まっているようで意識がすぐに遠のいていった。



七月二十七日


徐々に意識が戻ってきた。身体が寒くて少し痛い。変な寝相だったのだろうか。

布団をかぶったまま、枕もとのスマートフォンを見ると午前七時だった。昨日布団をちゃんと掛けて寝たのだろうか?

隣のベッドを見る。布団がめくれているだけで誰もいなかった。

「起きたか?あのままお前が寝るから、布団掛けるくらいはサービスしといてやったぞ」顔を上方にあげると、窓を全開にして窓際に立ち、タバコをふかしている居石がいた。

「あ、おはようございます。そういえばここに来てタバコ吸ってないっすね」全く声が出ていない気がする。

まあな、と言ってタバコを口にくわえる。

「さっき美紀さんが来た。喫茶店で朝のコーヒーを出してくれるってさ。お前の寝相を見て笑っていたぞ」そう言って、手に持っている携帯灰皿に灰を落とす。

「ああ、最悪だ」

堀田は首だけ起きて下半身を見る。大丈夫そうだ。危なかったかもしれない。

「何しているんだ?ああ」

こういう時に察してくれるのは助かる

「要さん、寝ましたか?」

「いや、一晩中起きていた」

「何していたんですか?」

「ちょっと浴室を見てきた。三橋さんが風呂場で作業していたからすんなり入れてくれたよ」

「何しに行ったんですか?」

「風呂場の窓を見に行ったよ」

「風呂場の窓?」

頭が記憶を呼び起こしている。花畑さんが昨日殺されたんだ。その事件について、お酒を飲みながら話していたのだった。

「風呂場の窓はどうでしたか?」頭を枕につけながら言った。

「窓の鍵に細工した形跡はなかったよ。三橋さんにも見てもらった」

その話を聞いて、おや?と思った。

「どうやって窓の鍵の所まで行ったんですか?」顔を上げた。

「三橋さんに双眼鏡を借りた」

そんなことか。

「浴槽のふちに座って確認したよ。本当は触ってもみたかったんだが、三橋さんが変わりないって言っているから細工していなかったんだろう」

風呂場の守護神が言っているなら信じよう。

「要さん、寝てなくて大丈夫ですか?」

「帰りのがくちゃんの車で寝る」

寝る気か。

「それよりほれ、雨が止んだぞ。向こうには太陽も見える」

昨日まで窓ガラスを叩きつけていた雨がほとんど降り止んでいた。天候としては曇りなのだろうが、まだ白い雲が空を埋め尽くしているのが居石越しに見えた。

「さて」居石はタバコの火を携帯灰皿で消す。

「みんな喫茶店に集まるそうだから、俺らも行くか」

「はあそうですね」

そう言って身支度を始める。

「いつ頃警察きますかね」

「うーん午前中には来るんじゃないかな?」

「結局、犯人判らず仕舞いでしたね」

そういうと、居石は堀田を見た。

「いや、わかったよ」

「え?」

今何て言った?

「わかったよ。誰が殺したか」

「わかった・・・んですか?」

ああ、そう言って居石は部屋のドアを開けた。

「さて、一宿一飯の恩義を果たしに行こうか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る