第3話 一本目の短剣は浴室で

風呂が焚けたのである。確かに、湿度はあるものの少しひんやりとしたこの気温では、そろそろ身体を温めたいところではある。その気持ちは十分に理解できる。

しかしだ。このお店を地上げしようとしている男が店主とその娘と三人で密室に籠っているというこの状況で、ぬくぬくとお湯を頂いている場合なのかと堀田は思った。

「要さん、俺なんかイライラついています」堀田は腕組みしながら言った。

「最近の若者は怒ることがないって言われているから珍しいな」居石は入り口近くのスペースに置かれている椅子に浅く腰掛けて、手に持っているスマートフォンをいじっている。

「自分もその若者でしょう?」

「怒らない方のな」

そんなこと言っているが、この先輩は怒ってばかりいることが多い。

地主の爺さんが隣の喫茶店に入って行ってから三十分ほど経過している。中で何が行われているのか外からでは全く分からない。

その間にあくえりあすのお客たちはそれぞれ好き勝手に過ごしていた。自分だけがやきもきしているのが滑稽に思えてくる。目の前の先輩を含めて。

田辺さんは早々に風呂へと向かった。西田さんは二階に行ってまだ戻ってこない。仁科さんはなぜかカウンターの中にいる。店番しているということなのだろうか。

カウンターを見ていたら、聞きたいことがあったのを思い出した。仁科さんに聞いてみよう。

「仁科さん、何しているのですか?」

カウンターに近寄ると、仁科さんは文庫本読んでいた。

「ああ、これを読んでいました。なかなか日常では時間もないですからね。一日だけの休暇ではありますが、このチャンスに読みたかった本でも読もうと思って、持ってきたんです。しかし、さっきの話だと明日に帰れるかはわかりませんね」

仁科さんは苦々しく笑った。

「そうだったんですか。あの、失礼なのですが、ここで読まなくてもあっちのウチのバカな先輩が座っている椅子でも読めると思いますが?」

失礼だとは思っていたが、聞いてみようと思った。

「バカは余計だぞー」

聞こえていたのか。二十メートルは離れているぞ。どんな耳しているんだ。

「はは、聞こえていたみたいだね。ここに座っているのは、椅子が私の腰に合っていてね。美紀ちゃんがいないときとかに店番をする代わりに座らせてもらっているんだ」

すでに美紀さんには許可を取っているということか。

「そうだったのですか。あの。一つ伺っても良いでしょうか?」

「はあ。私でわかることだったら大丈夫ですよ」

堀田は仁科の後ろの壁に掛けてあるケースを指で差した。

「あのケースには何が入っていたのですか?」

そのケースは先ほどから気になっていたものだ。ケースに収められている光沢のある紺色の生地が×印にへこんでいたのだ。へこんでいる部分だけで三十センチ切るくらいだろうか。

仁科は後ろを振り返って、ああ、と言って話し始めた。

「あれはですね。ナイフが飾ってあったのですよ」

「ナイフ?へえ、あまりこの店の雰囲気に合わない展示ですね」

『でしたね』、が正しいが。

「まだこの店を開店したばかりの頃だと聞いたので、まだご主人が存命の時ですね。私はまだこのケースに収められていた時に見ていますが、装飾性の高い短剣でした」

「それは一度見てみたかったですね。でも、×印になっているということは二本あったのですか?」

「そうなんです。双剣なんですよ。柄が金色で、多分メッキでしょうけれど、そこに鷲と狼が彫られていました」

「へえ。パッと思い描くと観光地のお土産物とかでありそうですね」

そういうと、仁科さんは一瞬はっとした顔をした。

「案外そうかもしれませんね」仁科さんは微笑んだ。

「それを飾ってあったっていうことなんですね。今は飾ってないのですか?」

「それが五年ほど前に盗まれてしまってね。未だに戻ってきてないのですよ」

「盗むほどに価値があるものだったのですか?」

「うーん、装飾があるからそう見えたのかもしれないけれどね。堀田君がさっき言った感想はもっともだと思うよ。一見したところは観光地の土産物に毛が生えたようなものさ」

仁科さんは、わずかに俯いて言った。

「でもね、柳本さん一家にとっては大切な双剣だったと思うよ」

理由があるということか。

「昔ね、まだご主人の浩二さんが存命の時、まだ敦子さんと結婚する前だね。すでにここに店を出していたそうなんだが、まだその当時はここら辺一帯は害獣が多くてね。とても迷惑していたそうなんだ。でもここら辺の地形的な問題なのか、役所の対応が良くなかったのか詳しくは私も聞いていないのですが、長い間対応してくれなかったようなんですよ」

なんとも不運だ。苦労が多かったのだろう。

「そんなある時に、君らみたいに旅の人がここを訪れてね。浩二さんはそんな旅の人に愚痴をこぼしたようなんだ。まあ良くある話だよなあ。最近こんなことが嫌でねなんて世間話をしたわけさ」

それほど悩まされていたのなら、そんな話を旅人に一つ話すのも、その旅人にとっては心に刻まれるものになるのかもしれない。堀田はここに立ち寄った時から、良くも悪くもそのように自分の心に刻まれるものがあると感じていた。

「そうしたらな、自分がその害獣を駆除しようと名乗り出たわけさ。害獣は夜に出るっていうことで、ここに宿泊して夜に害獣が出たところでその後を追って行って処分したっていうんだ」

何だその話は。そんなむちゃくちゃな話があるのだろうか?

「その時に旅人が害獣を駆除するのに使ったのがここに飾ってあった双剣だという話だ」

ここで双剣が出てきた。堀田のイメージでは害獣駆除とは罠を仕掛けたり、猟銃で殺処分したりというものしかなかった。それを短剣二本でやってのけた。どんな人物なのだろう。まるで神話に出てくる主人公ではないか。

「とんでもない人もいたものですね。その人が残していった双剣、と言うことですか?」

「うん、無理言って飾らせてもらっていたらしい。普通のナイフだよと言って、去って行ったらしいがね。でもそのおかげでお店も持ち直して、その話をまた浩二さんは旅人に話すものだからちょっとは有名になってね。売り上げの後押しをしたっていうわけ」

「それだったら、盗まれたときは悲しんだのではないですか?」

「そうだね。でも盗まれてなくなったこと自体は仕方ないって言っていたよ。あの旅人とこの双剣でここまでやって来られたから、感謝しかないってね。それよりも刃物だから犯罪に使われやしないかとそれだけは気にしていたね。あ、西田君が最初に盗まれたことに気付いたみたいだから聞いてみると良いよ」

仁科さんは途中からじっと天井の方を見上げて、思い出すように言った。当時のことも頭の中で再生されているのだろう。悲しい思い出があるのだろうか。

「いやーさっぱりしたぁ。やはりいいお湯だ。ボイラーで炊いた水だがな」

はっはっはと笑いながら田辺さんが三橋さんとお風呂から出てきた。最後の言葉は余計なのでは。

「おお、青年。開業医と仲良くなったか?」身体から湯気が立っており、頭髪のほとんどない頭からも湯気が立っている。まるでゆで卵である。

「なんだ?頭ばかり見て。ゆで卵みたいか?」

この人はエスパーか?

「え、いや、そ、そんなことないですよ」自分で見てもわかりやすい動揺だ。

「はは、まあ良いさ。本当の事だからな」

すると、いつの間にか横に居石が立っていた。

「がくちゃん、俺らもお湯頂こうか」

「おう、そうだぞ。せっかく泊まることになったのだから、入って行かなきゃ損だぞ」

確かに身体にまとわりついた汗を洗い流したい気分ではあった。

階段の方で音がしたので目を向けると、西田さんが降りてくるところだった、手にはバスタオルを抱えている。どうやら同じ目的らしい。

「田辺さん、お風呂終わりましたか?」

言われた田辺さんはしばらくこちらを向いて体を吹いていたが、田辺さん、ともう一度呼ばれると、はっとしたように西田さんを振り返った。

「おお、西田君、良い湯加減だぞ。堀田君たちと一緒にどうだい?」

「お、君らも入るかい?じゃあ、若者と裸の付き合いをしてみようかな」

西田さんが言うからこっちとしてはそのままの意味に聞こえるが、発言した人によってはかなり誤解を生む発言となるのは間違いない。

「そうですね。じゃあ、準備してきます」お風呂を頂くこと決めた。

荷物を車から降ろしていなかったことに気が付いて、雨が降りしきる中、宿泊用の荷物を降ろしに行った。といっても居石の分だけである。堀田はまさかこんな事態になるとは思っていなかったから宿泊の用意をしてこなかった。

戻ってきてそのことを話した。

「さすがに下着は無理ですが、歯ブラシは準備していますし、タオルは風呂場に置いてあるものを使って良いですよ」三橋さんが言ってくれた。

「なんか申し訳ありません。料金は後でお支払いします」

「お風呂代だけで良いですよ。バスタオルのレンタル代込みです。歯ブラシはサービスです」

ありがたい話だ。

「他に必要なものがあれば、俺のもの使って良いから」居石も言ってくれる。それくらいは配慮してくれるということか。

居石の荷物は二階の部屋に持ち運ぶことになった。二階は廊下を挟んで左右に部屋があるような作りである。西田さんからは奥のダム湖側の部屋を使ってくれとのことだった。部屋に入ってみると、ビジネスホテルよりは劣るが全く問題なく泊まれるところだった。簡単に荷物を置いて階下へと戻る。居石は鞄からバスタオルと洗顔クリームを用意していた。お肌の手入れはしっかりとしているようである。

一階では西田さんが待ちかねていた。

「じゃあ良いかな。入りましょう」

普通の銭湯や温泉と同じく暖簾はあるが、暖簾をくぐるとすぐに扉がありそれを開いて中に入ることになる。紺色の暖簾を手でひょいと上げ、さらに扉を開けると右手に脱衣場が広がっていた。流石に規模は町の銭湯に劣るためか、下駄箱のようなものはなかった。三和土があり、そこに靴を置いておくスタイルである。

靴を脱いで上がると、床にゴザが引いてあった。水はけが良いのだろうか。それでも田辺さんがすでに済ませてあるため若干湿っている。

三和土を上がるとすぐに洗面台が二つあり、ドライヤが常備してあった。脱衣所の方に向かうと、右手に浴室への扉があり、左手には棚が設置されていて、脱衣籠が十個ほど並べられていた。今は空になっている。それぞれ籠に衣類を入れていく。

「先に行っているよ」西田さんは早々に脱いでおりタオルで前を隠して入っていった。

「凄いですよね。こんなところでお風呂入れると思ってなかったですよ」

堀田は左で着替えている。

「ああ、そうだな。このお風呂の話を聞くまでは、今日風呂無理だなって思っていたからな」

喜びの表情と言うわけではなさそうであった。

脱衣が完了したので、堀田は前を隠して浴室に向かう。後ろからついてくる居石を見るとタオルを肩にかけて、一切隠していなかった。それくらい自信があるのだろう。率先してみたくないので、考えないようにして前に向いた。

浴室へ続く扉を開ける。目の前にはもう一つ扉があった。二つの扉の間は人が一人立てるくらいのスペースである。二重扉にしてあるのは中の温度を変えないための工夫だろう。二個目の扉の手前、床にアイボリーのマットのようなものが置かれていた。

「お、珪藻土マットだな」肩越しに居石がのぞく。腰か近く、お尻に何かが当たりそうで、すぐに離れる。

「珪藻土マットって吸水力が強くて速乾性が高いっていうやつですよね」確かテレビで取り上げられているのを見た気がする。

「ちょっと見てみ」居石は珪藻土マットの下を指差した。マットの下側に木の板が等間隔で並んでいるのがわずかに見えている。

「ただでさえ乾きやすいのに、マットの下に木製のすのこを置いて、乾燥速度を早くしているんだな。おもてなしの心ってやつだ」

それ以外にも、寿命が延びるたり、より清潔に保たれると言ったことがあるだろうなと思う。

珪藻土マットを超えて、二つ目の扉を開ける。暖かい蒸気が堀田の体に纏わりついた。浴室内は堀田が知っている銭湯ほどの大きさはなかったが、もちろん普段使っている浴室なっかよりは十分に広かった。浴槽は扉の斜め右、浴室の真ん中にあり、浴室を挟む形で左右に四つずつカランがあった。浴槽はUの字を縦に引き伸ばしたような形をしており、書き順で始まりと終わりの部分が壁に面している。

「すげーしっかり銭湯しているじゃん」居石が言った。

「しっかり銭湯しているってまた変な日本語使わないでくださいよ」とは言いつつも、堀田も同じように感じていた。正直あまり期待していなかったからである。

見ると、西田さんは浴槽を正面に見た時の右側のカランを使っていた。また、出入り口正面のカランの列の奥には三橋さんがモップを持って立っていた。

「ああ、いらっしゃい。あの気を付けて下さい。こちら側の床に盛大にリンスとシャンプーをこぼしてしまって、立っていられないくらい滑ります」

それは大惨事だ。そんなことがあるのか。

浴室に入ってすぐの床は大丈夫なようである。少し足を出して二歩ほど前の床タイルを指で撫でてみると摩擦係数がゼロなのではないかと思うほど滑らかだった。これは危ない。

田辺さん、風呂から出てきたときに言ってくれよと思いながら、とりあえず西田さんと同じ方のカランを使うことにした。西田さんの隣に居石、その隣に自分が腰を下ろす。

西田さんはちょうど頭を洗い終わってシャワーで泡を洗い流しているところだった。

「何か大変なことになっているよね」手で顔の水を払ってから西田さんが言った。

「はい、なんか床がツルツルだそうで」

「田辺さんが盛大にぶちまけたらしいぞ」西田さんは居石の耳元でこそっと言ったつもりだろうが、浴室の反響でこちらにも聞こえてきた。

「田辺さんには秘密にしとってください」三橋さんが言った。あそこまで聞こえたのか。

西田さんは片手を上げてオーケーの意思を示した。

「珍しいっすね。関西風のスタイルなんですね」居石が西田さんに言った。

「良く知っているね。オーナーがね、あ、先代の浩二さんの方ね。関東のスタイルよりこっちが好きだったみたいだよ」西田さんはタオルでボディーソープを泡立てながら言った。

「あの、すんません、関西風って何ですか?」二人に聞いてみた。

「あの浴槽の設置の仕方だよ。関東とか東の方の銭湯は浴室に入るとまずカランがいくつか並んでいて、その奥に横長の浴槽があるっていうスタイルだろう?関西の方は、ここみたいに浴室の中央に縦方向に浴槽があって、挟むようにカランがあるんだ」

「へー知らなかったです。関東と関西で違う形式だったのですね」

「他にもあるでしょう?嘘か真か知らないけど、関ケ原を境にうどんの汁の色が違うとか」西田さんが言った。確かにそんな話は聞いたことがある。しかし銭湯の構成まで違うとは思わなかった。

西田さんは身体を洗い終わると全身をシャワーで洗い流してから、タオルを頭に載せつつ、後方の浴槽に浸かった。

堀田は頭を洗い終わり、身体を洗おうとしていると、居石が隣でボディソープを泡立てて、口周りに撫でつけているのを見た。

「あ、要さん髭剃るんですか?」

「おう、俺伸びるのが速いんでね。朝と夜で二回剃っているんだ」そういうと、髭剃りを準備した。いつの間に持ち込んでいたのだろうか?

堀田はボディソープをタオルに着けて洗っていると、西田さんの方から、おーいとのんびりした声が上がった。隣で鏡に向かってシャワーを当てている居石を横目に堀田はシャワーでも全身を洗い流して、浴槽に向かった。西田さんと向かい合うようにして浴室に肩までしっかり浸かると腹の底から声が出るくらいの湯加減であった。個人的には好きな温度だった。

西田さんと同じようにタオルを頭に載せて目をつぶってしばらくお湯を楽しんでいた。目を開けると向かいに座っていた西田さんが右手を振っていた。こっちに来いという合図である。

ちょっと緊張した。でも居石がいる所でそうなるものでもないだろうと思い、思い切って隣に座ってみた。

「何ですか?」聞いてみると、西田さんは首であちらをみろと言った。

その方を見ると、堀田が体を洗った方とは逆のカラン、その上部ある窓を示していた。入る時は気が付かなかったが、左側のカランの上部に大きな窓が設置されていた。今は窓が曇っているから見えないし、外も大雨なので風景は見えないけれど、晴れていれば目前のダム湖が綺麗に見えるのだろう。

「晴れていたらきっと良い光景でしょうね」素直に感想を言った。

「僕はここの風景が好きでね。季節が感じられるんだよ。ダム湖の周りの木々や自然がね、それを教えてくれる。最高の風呂さ。こんな風呂は見たことない」

それは同感である。こんなに素敵な場所でこんな素敵なお風呂はなかなかない。

そう思っていると、髭を剃り終わった居石が堀田の隣に座った。

「ちょ、要さん、もう少し離れてくださいよ」

「なんだよいいだろう。そんな仲じゃないじゃないか」

また誤解されるような言葉を。

「え?そんな感じなの?」

西田さんが距離を取る。面倒臭くなる予感しかしない。

「誤解ですよ。誤解。こいつがバカなだけで」

「うぉい、誰がバカだ?」

「ちょっと立たないでください。せっかく良い景色だったのに」

風呂場で騒いでいると、入り口の扉が開いた。

「賑やかですねぇ。若い人がいるとそれだけで活気があって良いですねぇ」

仁科さんだった。

仁科さんの登場によって、誤解は完全に解けていないが騒ぎを収めることになった。

「仁科さん、店番はもう大丈夫なのですか?」さっきまでの仕事がどうなったのか聞いてみた。

「ああ、美紀さんが戻ってきましたのでね。正しい主に席をお返ししたと言う感じです」

「え?あの爺は?」西田さんが言った。すっかり僕らに毒されてきた。

「ああ、花畑さんはまだ喫茶店にいるようでした。美紀さんが言うには、もう出てくるとのことですが」

「大丈夫ですかね。ついていてあげなくて」誰ともなく言った。

「大丈夫だろう。田辺さんがいるだろう?外に」居石が言った。確かにそうだ。

「確かに居石君の言う通りだ」西田さんが言う、

「しかし、田辺さんがすでにお酒を入れている可能性もある。その場合、全くあてにならない」

そう言って、顔を手で洗った。

「外には三橋さんもいるから大丈夫だよ?」仁科さんが言った。

「それでも僕は先に出るよ」そう言って湯船を出て行った。

「気を付けてくださいね」何に気を付ければ良いのかはわからない。けれどそれしか言うことはなかった。

その間、仁科さんは身体を洗って湯船につかっていた。

「彼は真面目でね」髪をかき上げながら仁科さんは言った。西田さんと同じように窓が見える所に座っている。

「困っている人を放ってはおけないんだ。以前にもそんな状況にあった人を助けたようなことを言っていたよ」

責任感の強い人なのだろう。確かにずぶ濡れの自分たちの宿泊のために奔走してくれたのだから、こちらとしても感謝しかない。

でも、今の時代生きにくいのではないだろうか?

居石を見ると、冷めたような目でぼーっとしていた。本当にこの人は何を考えているのかわからない。そんなことを察したからか、

「仁科さん」居石が仁科さんを見ないで言った。

「三橋さんはどうやって外に出たんですか?」

ん?どういうことだ?

「え?そこの扉じゃないのですか?」堀田は居石に言った。

「でも開いた音はしなかっただろう?」

そういえばそうだ。仁科さんが入ってくるときはすぐに気が付いたのに。

「ああ、ボイラー室から外に回って出たのでしょう」仁科さんはあそこと言って指差した。

そこは入り口から見て左側のカランの奥にある壁だった。こ浴室が面している壁は一面木材で作られている。そのためにわからなかったが、左側のカランの奥の壁に小さな窓ガラスと取っ手が取り付けられていた。

「ああ、そうか。銭湯ですもんね。ボイラー室があるのは当たり前ですね」堀田は言った。

「あのボイラー室ってどうなっているんですか?」居石の質問は止まらない。

「うーん、中に入ったことはないから、詳細はわからないけれど、私が言える範囲でよいですかね?」仁科さんが言う。

「はい、もちろんです」居石も厚かましく聞く。

「確か、中にボイラーがあって、ボイラー室から男湯と同じように女湯にも行けるはずだと思います。あと、ボイラー室の湖側には扉があって、そこから外に出れるはずです」

なるほど。

「そこの扉からぐるりと建物を回って正面から帰ってきたということですね?」居石が確認する。

「そうですね。正面から帰ってきたからそうだと思います」

「そこの扉から出ればよかったのに」堀田はつぶやいた。

「少しでも浴室内の温度が変わらないように気を遣われたのでしょう」仁科さんがフォローした。三橋さんのように気配りがしっかりしている人であればきっとそう考えるだろう。

聞くだけ聞いた居石はまた風呂を楽しんでいるようだった。本当にこっちも気を遣う先輩だ。

「お二人は、軍持ダムの軍持の意味を知っていますか?」仁科さんが言いだした。目線は窓の方を向いている。ここからは見えないダムの全景を思い描いているのかもしれない。

「いえ、知りません」お風呂に入っているのだが姿勢を正して答えた。

「僕も知りません」同じように窓の外を見ていた居石もそう答えた。

「軍持とはね、元々サンスクリット語で水瓶を意味する『グンディ』を由来としているそうですよ。軍持とは音訳だと聞きました」

由来を聞くと単純だが、なかなか凝っている。

「まあ、大した話ではありませんがね。名付け親はあの花畑さんなのですよ」

それは意外だった。

「こちらにダムを誘致した時に名前はこれにしたいと申し出たそうです」

「案外、あの人もここの地域の事をちゃんと考えているのかもしれませんね。もしかしたらこの店もあの人の言う通り立ち退いた方が良いのではないですか?」

居石が言った。なんてことを言うのだろう。堀田はハラハラしながら、居石と仁科さんの顔を交互に見た。

仁科さんは一度居石の顔を見たが、すぐに正面を向き直して、

「はは、居石君の言う通りかもしれませんね。しかしね、だからと言って柳本さん達に嫌がらせをしてよいということではないですよね?」

居石もその答えが返ってくることを予想していたようで、

「その通りですね。申し訳ありません」

殊勝に謝罪した。

「いえいえ、しかし、ひどい雨ですねぇ。ここの星空は極めて素晴らしいのですよ。私も幼心に望遠鏡なんて持ち出してですね。たまに自分の医院の屋上で眺めたりするのですよ」

確かにここの星空は素晴らしいだろう。きっと自分もここに住んでいたら仁科さんと同じことをしていただろう。

素敵な時間は浴室の扉を開く音で終わりを告げることになる。

「おう、なんじゃ、藪医者と若造どもか、これじゃあ女風呂に娘と入った方が良かったわい」大きな声が響いた。

恐らく三人ともうんざりした顔をしていたと思う。

「さて、十分温まったからそろそろ出ますよ」仁科さんはそう言って湯船を上がった。

「おう藪医者、わしが来たから出るっていうのか?気分悪いわ。こんなしょうもない土産屋の風呂に入ってやろうっていうのに、入り浸っている客がどうしようもないからな」

こっちまで辟易とする。

言われている仁科さんは、一通り罵声を浴びせられても動じなかった。慣れてしまっているのかもしれない。

「仁科さん」居石が声をかけた。

仁科さんが振り向く。

「前言撤回します」

仁科さんはニヤッと笑って片手を上げて出て行った。

「ふん、どいつもこいつも」そういうと右側のカランに向かった。三橋さんは職務を正しく遂行したのだろう。黙っていてひどい目に遭わせるということはしなかったようだ。

堀田としてはすぐにでも出たかったが、居石がまだ出る気がないということと、仁科さんが出て行ってすぐのタイミングで出て行くのは火に油を注ぐと思ってやめた。

二人の頭の後ろでシャワーの音がしているがそちらを確認することは出来なかった。さすがに身体を洗う時くらいは口を閉じているのだろう。しばらくして、花畑が湯船に入ると、つかつか歩いてきて、二人の前によっこらせと座った。絶対にわざとだ。位置的に居石の前に座っている。最悪の着席位置だ。一触即発になりかねない。早く出たい。何で律義にここにいるのだろうかと本気で悩む。さっさと出てしまえば良いのに。何を言われようと一度しか顔を合わせないのだから、関係ないはずだ。でも、となりの阿呆な先輩が何をしでかすかわからないからだ。きっとそうだ。となりの奴が悪いんだ。

あーたぶんのぼせ始めているのだろう。お湯につかるのをやめてU字型の風呂のふちに腰を掛けた。

「最近の若いやつは礼儀ってもんを知らんのか?そんなところに座ってこっちに汚いものを見せるんじゃない」落ち着いた声ではあったが、嫌味はたっぷりだった。そんなこと言われてもこっちもしんどいから無視させてもらおうと思ったが、自分もあまりいい気はしないので、浴槽に入れていた足を抜いて、花畑さんに背中を向けるように足を浴槽の外に出して座った。

ふん、という声が聞こえたが、気にしないことにした。それよりもこの位置からでは全く見えない先輩のことが気になって仕方がない。

「聞くところによるとお前さん方は、土木を勉強している学生なんだってな」少し張った声で花畑さんが言った。どちらに向けての発言なのかはわからなかった。

「はあ、そうですが」居石が応答した。少し興味があったので瞬く静観してみよう。

「ふん、土木を学んでいる学生にしては、腑抜けた顔をしているな。わしがお前らぐらいの時にはもっと熱気と根性があったぞ」

「あなたが若い時と今は違いますからね」

随分冷静に受け答えしている。

「若い時に建設業に就いていたのですか?」逆に質問する。

「わしは建設業には就いておらん。中卒じゃ」

「でも軍持ダムの誘致には尽力したと聞きました」

「中卒ではダムの誘致が出来ないと思っているのか?」

それもまた正論だ。学歴などあまり意味は無いと堀田も思う。かなりの努力をされたのだろう。

「いえ、そうは思っていません。発言が軽率でした。失礼しました」居石もそう思ったのだろう。

「しかしな、お前さんの言っていることも間違いではない。わしが直接誘致に参加したわけではない。実際に誘致を行ったのは役所の人間どもだ。わしは尻を叩いたに過ぎない」

そうは言っているが、根回し等で暗躍していたことは想像に易い。

「そうでしたか。近隣住民の恨みを買ったでしょうね」

「さあ、知らんな。恨みを買った覚えはない。寧ろダム誘致でこの地域に人が多く来たことで潤っている。感謝されなければおかしいんだがな」

確かにここまでの道は、車こそ少ないが、綺麗舗装がしてあって走りやすかったし、コンビニや複合商業施設など、多くあったように思える。確かに花畑さんの言っていることは最も一理ある。

「やり方が気に食わないっていう人が多いのではないですか?」

居石もかなり攻める。

「そんなことは知らん。こっちは最も合理的なやり方を取っているだけじゃ」

まだ出会ってわずかな時間しか経っていないが、そんな自分でも言っていることが無茶だということはわかる。

居石は一度顔に浮き出た汗を手で拭って、

「そうですか」と言った。水の音がしたので、振り向くと居石は浴槽から立ち上がっていた。

「随分とご苦労されたようですね。いや、未だご苦労の最中でしょうか?お聞きする限り素敵なポリシーだと思います。ただ私には理解できません。ごめんなさい」

そういうと、そそくさと扉から脱衣所へと出て行った。これ幸いだ。堀田も脱衣所へと向かう。一応花畑に頭を下げておく。花畑は全くこちらを見ずに、ふん、と鼻を鳴らしていた。

「反対側に座った方がダム湖は良く見えるんじゃないですか?僕らはもう出ますから」

浴室から出る直前に居石は足を止めて、花畑さんに振り返って言った。

「わしはダム湖なんか見たくもないわ。それにここはわしの定位置じゃ。余計なお世話は道を歩くお年寄りにしてやれ」

そんな発言にも全く起こる様子もなく居石は出て行った。

温度差からかひんやりと気持ちよい脱衣場で、居石と着替えをしている。

「珍しいですね、要さん。普段だったらあの状況で腹を立てて大暴れするかと思ったのに」

「俺はどんな性格していると思っているんだ?」頭を音楽フェスのプリントがされたタオルで拭きながら言った。

「いや、あなた飲み会とかでもあるでしょう?飲み会中気持ちよくなったのか知りませんけど、急にテーブルの端を勢いよく持ち上げるじゃないですか?俺初めて見ましたよ、唐揚げとか枝豆が載った皿が滝のように床に落ちていくのを」

「ちょっと何言っているのかわからない」

「その店出禁になったじゃないですか」

「あのご老人は自分の過去に囚われているんだろうな。俺がどうしようとも思っていないけれど、立ち退きとか辞めてもらうってことは難しいだろうな。言っていることが彼の中で筋が通っていると思っている」

話し変えやがった。まあ良いが。

「そうですね。頑固とはまた違うというか」

そこからは二人共黙ったままだった。

浴場から出てくると、休憩スペースに田辺さんが座っていて瓶ビールをグラスに次いで飲んでいた。西田さんの予想通りと言うことだ。結果論としては花畑さんはお風呂へと行ったことになるのだが。

「おう、青年たち、飲むか?」ビールを掲げてにこやかに言った。好々爺ってやつだな。

「いただきます」居石はすぐさまそちらへ向かった。嬉しそうである。テーブルひっくり返さないことだけを願う。

レジカウンターを見ると、美紀さんが座って何やら作業をしていた。堀田は先ほどまで花畑と隣の喫茶店に消えていたことが気になって、そちらの方に向かった。

「あの、美紀さん」

「ああ、堀田君、お風呂どうでした?」穏やかな笑顔で迎えてくれた。

そんな顔で言われると何も言えなくなる。それだけの威力がその笑顔にあった。

「素敵なお風呂でした。ありがとうございました」

「いえ、父の思惑が成功しているのを見ているのが嬉しいのです」

「先見の明があったということですね。あの」

正直言うかどうか迷っている。

「ん?どうしました?」小首を傾げて言った。

「あ、いや、あのさっき喫茶店で」

喫茶店で、と言ったところで顔から笑みが消えた。

「ああ、それは。そうですね。お客さんの前でお見苦しいところをお見せして申し訳ありません」

美紀さんが悪いわけではない。

「いや、こっちはまったく気にしていないのですが、美紀さんとお母さんは大丈夫だったのですか?」思い切って聞いてみた。

「はい、大丈夫です。相変わらずの立ち退き話をずっと。いつもの事ですから、あの人はしばらく話してから勝手に出て行って、勝手にお風呂に入っていっただけです」

「そうですか。ならば良いのですけれど。西田さんが心配されていました。早々にお風呂を上がっていきましたよ」

「ありがたいことです。西田さんにも気を遣ってもらっていて申し訳ないと思います」恐らく西田さんはそれ以外の気持ちもあるように思う。

「おーい、優秀な後輩、こっち来て飲むぞ」

呑兵衛が呼んでいる。

「呼ばれちゃいましたね」

「そうですね。無視するのも面倒なので行ってきます」そう言って歩みを進めた。こっちとしてもこれ以上の会話は難しかったのでちょうどよかった。

陳列棚を抜けてテーブル席に向かう。

テーブルに近づくと田辺さんと居石の座っている席の奥、あくえりあすの入り口の扉に誰かが屈んでいるのが目についた。すぐに席に着かずにそちらに回ると、仁科さんだった。

「仁科さん何しているんですか?」

見ると、大きな袋をドアの前に並べているところだった。

「ああ、堀田君、雨が強くなりそうだからね。念のため土嚢を積んでいるんだ」

土嚢は土砂を袋に詰めたものである。あくえりあすの入り口は左右の扉が引き戸である。そこのわずかな隙間から水が入り込むのを防ぐ目的で設置するのだろう。

「自分も手伝います」

仁科さんと二人で土嚢を積み上げた。扉との隙間が無くなるようにしっかりと積み上げる。ほぼ終わっていたために手伝う量は少なかった。その後、仁科さんもテーブルに座り酒盛りとなった。

「いやーまたお風呂入らなければいけませんね」仁科さんが首元に巻いたタオルで汗を拭って言った。

「要さん、なんで手伝わないの?」

「いや、もちろん言ったよ。大丈夫だとおっしゃったから手伝わなかったんだよ」

「やるだろう?手伝えって」

「気になっていたんだが」と田辺さんがグラスを傾けて言った。

「堀田君は居石君の後輩だよな?私から見て、極めてフランクに話していると感じたんだが、どういう関係なんだい?」

赤ら顔がとても似合うようになってきた。

「先輩後輩の関係以外には何もないですよ?」堀田は言った。

「先輩後輩の関係をインスパイアしてブラッシュアップしたスキームに従ってコンプライアンスを振りかけた関係に仕上がっています」

「居石君なんだけどね、さっきから何言っているかわからなくなってきたんだ」田辺さんが肩を落として堀田に話しかける。

「気にしないでください。いつもの通りです。酔い過ぎだと思います」

「お水ここに置いておきますね」美紀さんがお水を持ってきてくれた。

居石は素直に飲む。しばらく水だけ飲ませよう。

「美紀さんありがとうございます」

「いえ、楽しんでもらっていて嬉しいです」

美紀さんは本当に良い人だな。

「あの、込み入った話なんですけれど」

田辺さんも仁科さんも目を見開いてこちらを見た。

「いや、大した話ではないと思うのですが、美紀さんてご結婚していないのですよね?そのお相手とかはいらっしゃらないのですか?」

二人共顔を見合わせ、グラスを傾けた。

「いないみたいだな」田辺さんがグラスを空けた。

すぐにグラスにビールを注ぐ。

「そうなんですね。勿体ないな。かわいいのに」

「相手がいないのではしょうがないな」

「でも結婚したほうがこのお店にとっても良いのではないですか?守っていくためにも」

田辺さんはふっと息を吐いた。

「そう簡単にいかないんだよ」

場に変な空気が流れてしまった。ちょっと失敗した。何か事情があるのだろう。

「それにしても居石君は変な人だね」仁科さんが助け舟を出す。

「そうなんですよ。特に酒が入るとですね」と言って、先程脱衣場で居石に話したエピソードを話した。

「え?そんな人なの?」仁科さんが目を丸くする。

「うーん、良くない酒の飲み方だな」田辺さんは腕組みして言う。

「そうですね。彼のせいで出禁になった店がいくつかありますからね」

「酒癖が悪いってことかい?」仁科さんが居石を見ながら言う。

「悪い・・・でしょうね。テーブルを持ち上げた時は帰り道で道端でたむろしている若者片っ端に喧嘩売っていましたからね」

「大変だね」仁科さんが同情の目で見る。

「少しでもわかってもらえれば幸いです」

ふと外を見ると依然として雨足は強かった。先程倒木の被害が報告されたが、それ以上の災害が起こらなければ良いと思う。雨雲が厚いためか、常に薄暗くて空の色から今何時がわからない。壁かけ時計に目を移すと十七時であった。まあこの時間から飲むこともたまにあるから問題ないが。

時計を見ていたつもりだったが、そのすぐ下のレジカウンターを見ると三橋さんと美紀さんが話していた。ここまで話し声は聞こえてこないくらいの音量である。二言三言言葉を交わすと三橋さんは軽く手を挙げてお風呂へと行った。なんとなく想像するとお風呂に入ってきて良いかと聞いていたのだろう。

「三橋さんお風呂に入っていきましたね」

「え?本当?」仁科さんがひょいと顔だけ上にあげて見た。

「あー入っていった。今日はもう終わりにするのかな。まあ人来ないしな」

今日は店じまいにするということだろう。

確かに裏方の三橋さんが風呂に入ろうとしているのだから、もう店仕舞いにするのだろう。

この雨では来る人も来ないだろうし。靴音がしたので、きょろきょろしていると、階段から西田さんが降りてくるのが見えた。下まで階段を下りきると見えなくなる。しばらくするとお店の棚の間から西田さんが顔を出した。

「あ、もうやっていますね」ニコニコしている。この人もお酒が好きなのだろう。

「おう、先にやってるぞ。お前も早く飲め」田辺さんが勧める。

「さっき中途半端にお風呂出てしまったので、ゆっくり浸かろうと思ってまた降りてきたんですが」

西田さんは頭を掻きながら困った顔をする。

「西田君、僕も入ろうと思っていたんだ。先に良いかね?」仁科さんが席を立ちながら言う。

「そうですか、先程土嚢を積んでもらうのをお願いしたので、特約と言うことでお先にどうぞ」

「ああ、そうかい、すまないね」そう言うと仁科さんは一度二階に向かい、三分ほどしてまた一階に降りてきた。タオルなどを持ってきたのだろう。そのまま浴室に消えて行った。

その時浴室から声が聞こえた。何やら叫んでいる。

「うるさいな。なんだ?」田辺さんか覗くように言う。

「ちょっと見てきますね」堀田は立ち上がって浴室へと向かう。

「僕も行こう」西田さんもついてきてくれる。

酔っぱらいの田辺さんと寝ている先輩はこの場に置いていく。

脱衣場に入ると、腰にタオルを巻いた三橋さんと服を着たままの仁科さんが、暴れている裸の花畑さんを押さえつけていた。

地獄絵図だと堀田は思った。

「え?なにしているんですか?」やっと出た言葉がそれだった。

「あ、すみません。ちょっと花畑さんが激高していまして」

三橋さんが言うが、それは見ればわかる。その理由が知りたい。

「ここで着替えようと思ったらいきなり浴室から飛び出てきてね。ひどく興奮しているもんだからさ」仁科さんが必死に花畑さんの右手を捕まえている。

「わしの髭剃りはどこじゃー。良いものなんじゃぞ!貧乏人どもが盗みよったな。とうとうやりやがったわ」とあ顔が外れんばかりに騒いでいる。

地獄絵図だ。

「あの、花畑さん、僕らが探しますので浴室に戻ってください」西田さんが言った。

「うるさいっ訴えるんじゃ」そんなことを言っている花畑さんを何とか鎮めつつ、三橋さんが浴室へと連れて行った。

「探すか」へとへとだと言わんばかりに西田さんが言った。

西田さん、仁科さん、堀田の三人で脱衣所を捜索することになった。浴室では花畑さんがまだ喚いているのだろうか?声は聞こえない。

堀田は洗面所を探していたが、見つからなかった。消耗品を入れておく所まで探したが、見つからなかった。仁科さんが脱衣籠のある場所を探していた時に、「ああ、これじゃないか?」と声が上がった。堀田は貴重品のロッカー、西田さんは浴室への二重扉の間にある空間を探していた時だった。

「ちょっと見てくれないか?」仁科さんが二人に見せる。

その手にはメタリックに光るT字型の剃刀があった。

「多分これでしょう。花畑さんに知らせましょう」

西田さんが手に取り、浴室への扉を開けた。

浴室内では三橋さんがどうやら愚痴聞き役になっていたようである。

大変ご苦労様です。

「花畑さん、これですか?」

西田さんが手に持っている剃刀を見た花畑さんは。

「おお、それじゃ」と言って、西田さんの手から剃刀を奪い取るようにして取った。

そして何も言わずにカランで髭を剃り始めた。

西田さんはやれやれといった顔で脱衣所に戻ってきた。

「すみませんでしたね」仁科さんが堀田にそんなことを言ってくれる。

「いえ、とんでもないです」それしか言うことはなかった。

仁科さんはそれでも風呂に入るようで、脱衣場に残った。

西田さんと堀田は脱衣場から出て、飲み会の場に戻った。

田辺さんと机に突っ伏したままの居石が迎えてくれた。

「ん?うあー」酒癖の悪い先輩が起きだしてきた。

「おお、起きたか、酒に弱いのか?」

「ああ、田辺さん。いいえ、ちょっと疲れているんだと思います。少し休肝時間をもらいます」

素直に酒乱ですとは言えないのだろう。

「体つきを見ているとそうは思えないけどね」西田さんが居石を見ながら言った。

「見た目で判断は怖いですよ」

「そうだね。その通り」

「でも酒乱ですよね。居石さん」

ここで先程のリフレインである。

「君も大変だね」西田さんが肩に手を置く。

この光景もリフレイン。

しばらくすると三橋さんがお風呂から出てきた。

喫茶店側へ行こうとする三橋さんを田辺さんが止めた。

「おーい、こっちに来て一杯やらないか?仕事は今日も終わりだろう?」

声に気付いた三橋さんがこちらへやってきた。

「ああ、みなさんご機嫌ですね」

『ご機嫌』と言う言葉が出てくることが可笑しかった。

「三橋さん大変でしたね。お疲れ様でした」堀田が言った。

「お心遣い感謝いたします。でも、慣れました」ニコッと笑う。

そして、三橋さんは田辺さんの顔を見て、

「申し訳ありません、女将さんの方で手伝わなければいけないことがあるので、そちらを済ませてきます」と言った。

「そうか、じゃあ待っているよ」田辺さんはグラスを持ち上げる。

「あ、そういえば三橋さん、花畑さんにちゃんと左側のカランの床が滑ること、伝えたのですね」堀田は先ほど思ったことを伝えた。賞賛に値すると思ったからだ。

「え?言っていませんよ?転べば良いと思っていました」柔和な顔をしながら、えげつないことを考えていたようだ。

「悪運も強いってことだな」あくびをしながら居石が言った。

しばらく、堀田と田辺と西田がアルコール、居石がソフトドリンクという布陣でゆるりと時間が流れていった。

そうこうしていると仁科さんが戻ってきた。

「いやーいいお湯でした」

「あのくそ爺は大丈夫だったか?」田辺さんが嫌な顔をして言う。

「風呂に入る前に一悶着ありましたからね。ごちゃごちゃ言われていましたよ」仁科さんはタオルで頭を拭きながら先程の騒動を説明した。

「髭剃りなんていいじゃねぇか」田辺さんが言った。

「なんか高いものらしいですよ」そんなことを言っていた。堀田には値段とかはわからなかったが。

「そういえば長風呂ですよね?」居石が言った。

「あの爺さん長風呂が大丈夫なんだよ」田辺さんが嫌そうな顔をして言った。

「西田君、どうぞ。お待たせでした」

「すみません、では失礼して」そう言ってお風呂へ向かった。

またそこからアルコールにまみれることとなった。特に田辺さんが。

この酒宴では、肴が無くなったら美紀さんに言って棚に並ぶ土産品から肴になりそうなものを見繕ってテーブルに広げた。

それにしてもひどいやり方だろう。後で料金は払うのだとしても。

「お、もうつまみがないな。堀田君、ちょっと選んできてもらえる?」

「がくちゃん、もうチョコレートと柿の種とかチョコレートとポテトチップスとかの組み合わせのものはやめてくれな」

「要さん、あれのおいしさがわかってないんですか?人生の半分損していますよ?」

「でた、人生の半分損している論法。それさ、人生の半分が言っている自分の年齢以上の人にも同じこと言えるのか?」

「何言ってるんすか?まだ酔っています?」

そんな捨て台詞を残して、物色に移る。いくつか見繕い、美紀さんの所へ持って行く。自分で言うのもなんだが、非難された品をしっかり外して選んでいるところを評価してほしい。そんな人誰もいないが。

品物をレジに持って行くと美紀さんがいなかった。

「あれ?どこに行ったんだろう」

そこに喫茶店から三橋さんが出てきた。

「堀田さん、どうされました?」

事情を説明する。

「ああ、では私の方で処理しておきましょう。お嬢はお風呂だと思います。さっき私が入る前にボイラーの火を落とすと伝えたので」

「ボイラーの火って落として大丈夫なのですか?」

「ああ、うちのお風呂はちょっと特殊でしてね。浴槽が魔法瓶のようになっているんですよ。温度が下がりにくいのです。火を落として三十分くらいだったら問題なく入れますよ」

「なるほど。お店の方はもう大丈夫なのですか?」

「はい、先程お嬢が仁科さんに土嚢と一緒に閉店の掛札をしてもらうように頼んでいましたから」

それではもう、客は来ない。

「三橋さんもいかがですか?」

「そうですね。では、参加させていただきます」

そこから三橋さんも踏まえての酒宴となった。

三橋さんは酒に強いらしく、場がビールから焼酎に代わっていても、焼酎からスタートできる。それだけではなく、いくら飲んでいても酔うことなく、冷静な三橋さんでいられるのだ。田辺さんはもうヘロヘロになったおり、先程までの威勢の良い発言がすっかりなくなって、ある意味落ち着いていた。

場の会話がロボットアニメの主役機で一番強いのはどれか?という議論になった。田辺さんや仁科さんがガンダムやマジンガーZを持ち出したところ、堀田がエヴァ初号機を持ち出して、格が違うと説明したところ、居石がガオガイガーを持ち出してきて空間湾曲がどうのこうの、ハンマーで光にするんだぞと拳を振り上げて力説する。

全く四者が引かない状況のところに西田さんが戻ってきた。少しおいて美紀さんが戻ってきた。

艶のある髪にほんのり赤みがかった頬、シャンプーのいい匂いが脳を刺激する。美紀さんも酒宴に誘ってみた。

「あ、ぜひ、いろいろお話聞かせてください。その前に母に伝えてきますね」そう言って喫茶店に向かった。

さらに一時間ほどが経った。場が盛り上がっていると、居石がふと言った。

「花畑さん遅すぎないですか?」

その場の皆がそれぞれ顔を見合わせる。

「確かに長風呂にしては遅いな」田辺さんが時計を見る。

「今日は特に長いですね」仁科さんがグラスを持ったまま言った。

「まだ風呂に入っていたけどな」最後に風呂から出た西田がつぶやく。

全員少し心配になってきた。長風呂が好きだと言っても、ご老人である。何かあってからでは遅いのではないか?

「では見てきましょうか?」三橋さんが立ち上がる。

「いえ、三橋さんは座っていてください。人が多くても文句言いそうだ。僕が見てきますよ」西田さんが三橋さんを座らせてから立ち上がる。

「西田さん、申し訳ありません。お願いします」美紀さんも西田さんにお願いする。

「寝ていたら叩き起こしてやりますよ」

お酒が回っているのか、西田さんは強気だ。

西田さんは風呂場へ向かう。暖簾直後のドアは開いたままにして行った。

風呂場からわずかな声で、花畑さん、と呼ぶ声が聞こえた。

その直後。

「うわーっ。誰か、来てくれっ」

叫ぶ西田さんの声が響いた。

その声に直ちに反応したのは、三橋さんと居石だ。二人共共に立ち上がり、椅子を倒して飛び出した。

その後ろに堀田も続く。

その後ろから他の三人も続いてくる音が聞こえる。

先行している三橋さんと居石が暖簾をくぐる。

堀田も後に続く。

脱衣所の中は、浴室から発生している上記で天井付近が白く煙っていた。

その中で、浴室の入り口付近で尻餅を着いている西田さんがいた。

その脇には介抱している三橋さんがいる。

居石の姿が見えない。

後ろから他の三人も入ってきた。

堀田は西田さんに近づく。

すると、居石の姿が見えた。

浴室への二つある扉の間、珪藻土マットの上に立ち、浴室をじっと見ている。

「要さん?」

恐る恐る声をかける。

「ああ」

居石はその声に反応した。しかし目線は浴室のままである。

居石に近づく。

その肩越しに浴室を覗いた。

そこには。

向かって左側のカランの前、浴槽との間に花畑さんが横たわっている姿だった。

人が倒れているにも関わらず、誰も近寄って行こうとしていない。

誰もそばに近寄らなかったのは、その横たわる花畑さんの胸に金色に輝いているものが見えたからである。

双剣の片割れ。

そして滲み出る赤い液体。

柄に刻まれた狼が猛々しく吠えていた。

堀田はその狼に睨まれているかのようにその場から動けなかった。

花畑吉右衛門が浴室で刺されて絶命していた。

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