第2話 新人の挨拶は管理室で

七月二十六日

 

車がゆっくりとダムに続く道を進んでいる。朝から太陽が顔を出すことはなく。厚い雲が空を覆い尽くしている。

車のドライバーである刈谷雄二郎はダムを目指していた。刈谷は自家用車に乗っている。軽自動車である。一人暮らしであるため、軽自動車で十分である。

刈谷は今まで神奈川で仕事に就いていた。独立行政法人の港湾海洋構造物研究所の所属である。これは一応現時点でも変わりはない。今年度始まってすぐに軍持ダムを管理している関東地方整備局の軍持ダム管理事務所に出向になった。

約束事の出向なので刈谷は素直に従った。

そこから研究所の残務整理を行い、引継ぎを行った。同時に軍持ダムの近くにマンションを借りた。独身寮も紹介されたが、断った。プライベートまで職場の人間と一緒に仲良くするっていうことが刈谷にとっては苦痛でしかなかった。

職場の人間と休日に遊ぶという価値観は刈谷の中にはない。だから普通のマンションを借りた。

一昨日に引っ越しが終わり、昨日は散歩がてら近所を見て回った。ゆったりとした時間が流れる街だと刈谷は感じた。その後車で行ける範囲の施設に行ってみた。大型のスーパーマーケットや最近よく見かける複合型のショッピングセンターなどにも足を延ばした。

そして本日、初日となる。できれば晴天で迎えたかったが、そうはいかないようである。フロントガラスには先ほどから軍持ダムの全景が見えている。

これから向かうのはダムの管理事務所である。軍持ダムの管理事務所はダムの両側にそれぞれ一つずつある。ダムを正面に見て向かって左側が第一管理事務所で右側が第二管理事務所ということらしい。

刈谷が向かうのは第一管理事務所である。二連マルチプルアーチダム形式の軍持ダムはその両岸にウィングがあるが、その上部に管理事務所が設置されている。第一管理事務所はその隣に軍持ダム資料館がある。車は資料館のとなりにある駐車場に入り込んだ。エンジンを切り、助手席に置いたトートバックを取って車の外に出た。

刈谷は頬に水が当たることに気が付いた。

「そろそろ降り出すかな」

そうつぶやくと小走りに第一管理事務所へ向かった。



第一管理事務所の自動ドアを入ると、小さめのロビーに人影があった。若い男性がロビーに備え付けられているミーティングテーブルの椅子に座っていた。

「お。ようやく到着したね。雨は大丈夫だった?」

男は立ち上がって刈谷のもとに来た。

「はい、お久しぶりです。水元さん」

男の名前は水元直樹である。刈谷は彼と仕事をしたことがある。

初めて会ったのは、一年前の港湾構造物の維持管理に関するシンポジウムである。刈谷は主催側として働いていた。その時にシンポジウム会場で発言をしていたのが水元であった。その時に水元は二十七歳、刈谷は二十四歳であった。

その後、刈谷の勤めている研究所に四か月の間出向しており、その間一緒に仕事をしたのだ。その期間の仕事ぶりは、研究所の所長から帰らないでほしいと引き留められたエピソードが物語る。

刈谷も悪い印象はなかった。仕事後の飲み会や休日に遊びのお誘いを受けることはあったが、先程の理由で断ると、わかったと一言でこちらの考えを理解してくれた。

これは刈谷にとって新鮮であった。

これまでは大体断ると、なぜ来ないのか?じゃあ次回は参加して、理由まで踏まえて説明しても理解はしてくれなかった。彼らの中で刈谷の理由は理由になっていないようなのだ。だから刈谷はそれ以降ただ単に断るようにしていた。どう思われても良かった。他人は所詮他人だったからだ。

そんな中での水元の出現だったため、刈谷は一目置いていた。

「水元さん、お久しぶりです。お世話になります」

今回の出向は交換留学のような形をとっていた。つまり水元が研究所に出向して、その期間を満了した後に今度は研究所側から刈谷が軍持ダムに出向になった。

「研究所の時は散々こき使われたからなぁ。こっちに来たらこき使ってやるぞ」水元は自分の肩を刈谷の肩にぶつけた。

「こき使ってはいないでしょう。ダムは全く門外漢なのでよろしくお願いします」刈谷は頭を下げた。

「いやいや、刈谷君なら大丈夫だよ。えーっと、まずは作業着からだな。総務に行こうか」水元は歩き出す。

初日はとりあえず大人しめの私服で来いというのが、水元から少し前に刈谷に届いたメールの内容だった。だから刈谷はチノパンにカッターシャツに決めてきた。

水元の後ろについて刈谷は歩き出す。ロビーを抜けて奥に進むと階段がある。階段は下にも続いていたが水元は階段を昇り始めた。

「悪いな。エレベータもあるけれど、あれお客さん用な」水元は後ろを振り向かずに言った。

建物は二階建てであり向こう岸にある第二管理事務所も同じ構造をしているとのことだった。

二階に上がると廊下があり、右手には所長室がある。これは第一管理事務所にしかない。向かいには総務課の部屋があった。その隣にはメインとなる管理課の部屋がある。

「所長に挨拶をしなくても良いのでしょうか?」刈谷は言った。

「ああ、今日所長はいないんだ。都内で会議だったかな」水元は所長室を見ながら言った。

「所長が呼ばれる会議って、珍しいですよね?」

「うん、そうだな。なんか他の施設の所長クラスも呼ばれているとか言っていたような気がする」

「そんな会議って何ですかね」その言葉には水元は答えなかった。

二人は総務課に入り、細かい手続きを行った後、事務員から作業着のサイズを聞かれた。刈谷が自分のサイズを申告すると、在庫があったようですぐに上下の薄緑色の作業着が刈谷の手元に揃った。刈谷は標準的な服のサイズであるため、サイズがないということは心配がなかった。

総務課から出ると、管理課の向かいにある部屋がロッカールームになっていると聞いたので、そこで着替えを済ませ、荷物をロッカーに置いた。

真新しい作業着を見た水元は、

「サイズはちょうど良いな。うーん、作業着に顔が負けているぞ」

「はあ、でもそれはどうにもなりません」刈谷はなぜか申し訳なくなった。

二人は管理課の扉を開けて中に入った。

「ここが管理課だ」

刈谷は部屋を見渡す。オフィスのように机が部屋の中央に並んでいる。扉から最も遠い場所には広めの机があった。

「ここは管理課と機械課と調査課が一緒になっている。窓側が管理課の机のシマで廊下側が機械課と調査課だな。刈谷君は調査課だよな」

「はい。辞令にはそのようになっています」

「調査課は今二人だけだから自由にやれると思う」

まずは副所長に挨拶だな、とトーンを落として言い、水元と刈谷は奥の机に座っている人物のもとへ向かった。

近づくと、机の上には『副所長』と書かれたプレートが置かれていた。

「副所長お疲れ様です。刈谷君が着任しました」

副所長と言われた人物は、机の上に広げていた書類を眺めていた。顔にはリーディンググラスをかけていたが、水元が言い終わると、ゆっくりと顔を上げた。

「ああ、ご苦労さん」

そういうと、よっこらせと同じリズムで立ち上がった。

「副所長の百田だ。出向期間は四か月だったな?まあ、問題は起こさないようにくれぐれも頼むよ。俺の首が飛ぶからな」

百田は緩みきった顎肉を震わせて言った。

「お世話になります。よろしくお願いいたします」刈谷は形式的に挨拶を済ませた。

「水元、お前世話になったんだろう?いろいろ教えてやれ。教育係な」

そういうと緩み切った腹肉を震わせて座った。再びリーディンググラスをかけて書類を眺め始めた。

「わかりました。ありがとうございます」水元はそういうと刈谷を引き連れて副所長の机を離れた。

去り際に他の机に着席している職員たちに簡単に挨拶をして回った。

その後は、一旦水元と別れた。調査課には刈谷の机が準備され、他の二人の職員から業務の紹介と今後の流れの説明を受けた。

説明は部屋の隅にある会議スペースで行われた。副所長の机の反対側に位置する。業務説明が終わり、机に戻る間に窓から外を見ると、雨が降り始めていた。

時計を見ると正午まであと二十分であった。机に戻った刈谷は、午前中の説明内容などを整理した。業務内容としては気象、雨雪量、水位、流量および水質等の調査や環境に関する調査または地形、地質等の測量及び調査もあり洪水予測等の精度向上も含まれるようであった。

作業が終わるタイミングで時計が正午を告げていた。すると、水元が近づいてきた。

「昼どうする?」

「何も考えていないです。皆さん、普通はどうしているのですか?」

「仕出し弁当を頼んでいるよ。そういえばさっき総務でそれ聞かれなかったな」

「通常は総務でお弁当を注文するっていうことですね?」

「お弁当頼んだけれど食べないっていう人もいるから総務に聞いてみようか」

総務課に向かうために二人で扉を出た。すると、扉の前に大きな体の男が立っていた。

「うわ」水元は驚いていた。

「おい、人を見て驚くって失礼じゃないか?」男は管理課の新崎であった。

新崎は文句を言っているようだが、顔は笑っている。二人の関係性があるからこその対応である。

「新入りは驚いていないぞ。さっきはどうもな」新崎は片手を上げて刈谷に挨拶をする。

「これから飯か?」

「はい、そうです。刈谷君がお弁当を頼むのを忘れてしまって。総務に余っているかどうか聞きに行こうとしていたのです」水元が言った。

「なるほどな。もし余ってなかったらどうする?」

「車あるんで、麓の食堂に行こうと思っています」

「そうか。そういえば刈谷君、午後はやることあるか?」新崎が刈谷を見て言った。

「いえ、明日から作業が本格的に始まります」刈谷は言った。

「うん。午後からダムのバルブの点検に行くが、一緒に行くか?作業ではなくダムの中まだ見ていないでしょう?」

「あ、助かります。お願いいたします」

「よっしゃ、じゃあ十三時半にこの部屋に居てくれ」新崎は言った。

「新崎さん、点検が十五時からですよ?」

「ああ、さっさとバルブだけ見てくるよ。内部はまた点検の時な」

わかりました、と水元が言って別れた。

「タイミングが抜群でしたね。ぶつからなくてよかったです」刈谷は言った。

「出会い頭にあの顔は、ぶつからなくても事故だよ」水元は言った。

「でも、おかげでダムの中を見学できます」

「これから四か月もあるんだから嫌と言うほどダムに入るだろう」水元はうんざりした様子で言った。

「おれはもう飽きた」

「飽きるとか言うものじゃないでしょう」刈谷は前を歩く水元に言った。

総務課の扉を開けると、総務課の制服を着た職員以外にもう一人作業着の女性がいた。

「大窪さん、昼飯?」水元が声をかける。

「水元君、あ、刈谷君も一緒なのね?」水元と同じ管理課の大窪真奈美である。

「先ほどは簡単な挨拶で申し訳ありませんでした。刈谷雄二郎です。今後ともよろしくお願いいたします」刈谷は改めて丁寧に挨拶した。

「ご丁寧にどうもありがとう。水元君と私は同い年で同期なの。だから何かと仲良くさせてもらっているのよ」大窪はニコッと笑顔で言った。

この管理事務所の大半の人間は管理課に所属している。さらに管理課の中で分類されていて、水元は電気係、大窪は管理係である。先程の新崎は機械係である。

「総務に何か用?」大窪が尋ねる。

「用事があったから来ているんだよ?お前も総務に用があっているんだろう?」水元がおどけて言う。

「そういえば変な聞き方ね。今日は午前中に下のサーバ室の点検担当だったから。その報告よ」そういうと、大窪はノートを持ち上げた。そこには日付と名前が書かれており、点検をしたことを記載するノートであった。一日おきに名前が書かれている。

「自分、お昼を頼み忘れていたので、お弁当が余っていないか見に来たんです」刈谷は説明をした。

「そうなんだ。だったら、私のお弁当あげるよ」大窪はお弁当箱を差し出す。お米とおかずがセパレートになっている仕出し弁当である。

「食欲ないのか?」水元が心配する。

「うん・・・ちょっと」大窪がじっと水元の目を見る。

水元はその目から察したように、

「わかった。だったら刈谷君、ありがたく貰っておこう」

「はい。ありがとうございました」刈谷は素直に受け取った。仕出し弁当はプラスチックの箱に入ったもので、ご飯とおかずが分かれているものであった。毎食弁当の代金は給料から天引きされるということだったが、今回は大窪の奢りと言うことであった。

三人で総務課を出る。

「刈谷君、午後も研修?」大窪が言った。

「いえ、新崎さんと点検に行きます」

「え?点検って十五時からじゃなかったっけ?」

「ああ、新崎さんがダムの中を紹介するっていうことが主目的だよ」

「大窪さんも点検業務ですか?」

「そう、ダム内点検はね、六人で点検するのよ。今日は私もローテーションに入っているわね」うんざりした顔で言った。

「大窪さんも一緒に行けば?」水元はバルブの説明に大窪も誘った。

「ああ・・・うん、ちょっとこれから副所長に呼ばれているから」

大窪は声を落として言った。水元も少し俯いている。

「そうでしたか、了解しました」刈谷はそう言った。

二人は大窪と別れ、管財課の中に入って応接スペースを使って昼食をとった。

他の職員はほとんど自分の机で食事をとっているか、不在の場合は外に食べに出かけているのだろう。雨足も強くなってきており、管理課の中は早々に食事を済ませて仕事に入っている職員もいるようだった。

食事を済ませると、刈谷は水元の分の弁当箱を管理課に持って行くことにした。二人分の弁当箱を抱えて総務課の向かいの給湯室で弁当箱を軽く水で洗ってから持って行った。

管理課に帰ると、先程と同じスペースに水元が座っており、手招きをしている。前のテーブルにはコーヒーカップが二つ並んでいる。

「コーヒー入れてくれたのですか?」刈谷は聞いた。

「ん?コーヒー嫌い?」

「いえ、むしろ大好きです。ありがとうございます」

しばし食後のコーヒーを楽しんでいると、

「そうか、バルブの点検か。あ。」水元が思いついたように言った。それから水元は自分の机まで行って、PCで何かを確認して戻ってきた。

「俺は今日第二管理事務所から出発だ」

「どちらから出発とかあるのですか?」

「うん、後で新崎さんから教えてもらうと思うけれど、ダムの中に監査廊っていう通路があるんだ。軍持ダムの中には三本の監査廊がある。そこを二つの管理事務所から三人ずつ計六人の職員がローテーションで監査するのさ」

「つまり・・・第一から三人、第二から三人で両側から監査していく、と言う流れですね?」

「そういうこと」

「水元さんはこちらにいるのに反対側から出発するのですか?あまり合理的ではないですよね?」

「管理課の全員のほぼ全員のローテーションだからな。副所長も監査するんだ。他のダム管理事務所ではわからんが、軍持ダムでは副所長の意向でね。そんなローテーションだとどうしてもこんなことになる場合もある」

「ちょっと手間ですね」

「まあな。でも、今日は第二事務所でやる仕事があるからな。問題はないよ。と言うわけで、先に第二に行ってるわ。点検まで他の用事を済ませておくよ」

そう言って、水元は去って行った。この雨の中、車を出していくようだ。

刈谷は新崎との約束の時間までに自分の机のPCのセッティングをしていた。

新崎に声をかけられるまで時間が来たことに気が付かなかった。

「刈谷君、そろそろ行こうか」

「あ、はい。ごめんなさい。すぐに行きます」

刈谷はメモ帳を手に取り作業着の胸ポケットに入れた。

「先ほど確認するのを忘れてしまったのですが、準備する者ってありますか?」

「ヘルメットはまだ作ってないよね?」

「総務からはまだ連絡はありません」

「じゃあ見学者用のヘルメットで行こうか。他はいらないよ」

新崎を見ると肩掛けの鞄とヘルメットを手にしていた。

職員には自分用のヘルメットが支給される。ヘルメットにも耐衝撃だけではなく、防電仕様になっているもの等様々なタイプがあるが、ここで支給されるヘルメットは一般的なタイプで通気性の高いものである。職員個人のヘルメットには、名前と血液型が記入されており、万が一事故などが発生して、出血と共に意識が無くなってしまっていても、血液型がわかるようになっている。

刈谷はまだそのヘルメットが出来ておらず、見学者用のものを渡された。

「すみません、良く分かっていないのですが、ダムの中にはどのようにして入るのでしょうか?」刈谷は言った。

「うん、この建物から入るよ」新崎は歩きながら言った。

「この建物も第二事務所もウィング部の上に建っているでしょう?あ、ウィングってわかる?」新崎は管理課の扉を開けた。

「はい大丈夫です」ウィングについて刈谷は知っていたのでそう言った

「建物の地下に降りていくと、ウィングの中に入っていくのだけど、ウィングはダム堤体と接続されているからね。監査廊に入る扉はそこにあるよ」

二人は管理課から出ると、階段で一階まで降りた。

「このまま階段で降りていっても良いのだけれど、時間もないからエレベータで行こう」

「さっきの管理課の横にエレベータは使えないのですか?」

先程使えなかったエレベータのことを尋ねた。

「ああ、地上階のエレベータは一階までなんだ。ウィング内のエレベータは廊下の奥にあるよ。エレベータの系統が違っていてね。速度も違っているよ」

地上エレベータは建物屋上を含めて三階分しかないが、ウィング内は百メートル近く移動する必要があるために速度が違うということだった。

軍持ダムは堤高が百四十メートル、ウィング部以外の堤体幅が三百二十メートルで総貯水容量が一億六千万立方メートルである。日本ではこのサイズの二連マルチプルアーチダムは珍しい。

二人は事務所の一階に着いた。先ほど水元と会ったロビーと逆方向に進むと別のエレベータの扉が見えた。刈谷が乗れなかったエレベータはいわゆる一般的なオフィス等で見られるエレベータであるが、ウィング部に降りるエレベータは扉が重厚に作られていた。

「ああ、こっちにあったのですね」刈谷が言った。

エレベータの扉は新崎が下降ボタンを押すとすぐに開いた。

「さすがに早いですね」

「いやいや刈谷君、最初からここにあっただけだよ」新崎が言った。

刈谷は顔を赤くした。

そのままエレベータに乗り込む。回数表示はB1Fから下に向かっての表示しかなかった。表示名もシンプルで、地上に近い方から上段監査廊、中段監査廊そして基礎監査廊となっていた。

新崎はB2Fを押した。中段監査廊に向かうことになる。

エレベータの扉が開くと、狭い通路に出た。通路の端には階段がある。これが地上から続いている階段である。その脇に扉がある。

「冷えますね」刈谷は言った。

「気温の変化がないからな。冬は暖かいよ」

二人は鉄製の扉まで歩いた。

扉は鉄製であり、ドアの脇には四角い箱がつけられており、配線が伸びていた。

「新崎さん、これは何ですか?」

「ああ、カードリーダだよ。この扉を開錠するには職員証をこのリーダにかざして開けるんだ」

そういうと新崎は自分の職員証をカードリーダにかざした。電子音がして、開錠した音が響いた。

新崎が扉を開けて中に入る。

「随分厳重なのですね」刈谷が言った。

「一応テロ対策」

新崎はさらっと言った。

「これは僕の職員証でも開けられますか?」

「うーん、ちょっと見せて」新崎は刈谷の首からかけている職員証を手に取った。

「この職員証では開かないね。このカードリーダを開錠できるのは管理課の職員証だけなんだ」

「なるほど。入ることが出来る人数も限定しているっていうことですね」

「それでも三十人はいるけどな。でもその通りだよ。それにカードリーダを使うと記録が残るようになっているから、監査廊への入室管理も簡単にできる。一石二鳥だ」

「一石・・・二鳥ですか?」

「細かいこと気にすると、早死にするぞ?」

二人は監査廊を歩く。

監査廊と言っても、コンクリートダム内部の通路であるため、もちろん周囲はコンクリートである。

「ダムの外から見るとすごく湾曲していますけど、中から見るとそこまで湾曲していませんね」

「それはそうかもな。それでも湾曲しているけどな」

監査廊は高さがおよそ四メートルであり、二メートルおきに設置されている蛍光灯によって照らされている。蛍光灯は天井近くの壁上部の両脇に同じ間隔で設置されている。

二人は第一管理事務所の方から第二管理事務所に向かって歩いている。しばらく歩くと、向かって右側の壁に扉が見えた。

「この扉はね、外に続いているんだ」新崎が扉を開ける。ここにはカードリーダはなかった。

扉を開けてすぐのところに鉄柵があり、左右に通路が伸びていた。この扉の場所はアーチを放物線として見た時に接線の傾きがゼロとなる場所である。目前には軍持ダムから見える壮大な風景があるはずだが、雨足が強いためか、開けた扉からの風景はモノトーンであった。

「うあー雨がさらに強くなってきたな」新崎が扉を閉めながら言った。

「通路もびしょ濡れでしたね」刈谷は言った。

「あの通路は何ですか?」

「あれはキャットウォークっていうんだ。ダムの前面を点検するためにある。軍持ダムでは内部監査廊からキャットウォークに出ることができる」

つまり上中下でそれぞれキャットウォークがあるということである。

「外部監査廊っていう位置づけですね」

「そうそう。でも、慣れないと怖いぞ。足がすくむ。後で点検の時に外の点検もするからな」

二人はさらに監査廊を進む。少し進むと進行方向左手に扉が見えた。

「新崎さん、ここは何ですか?」

「この扉の中には地震計があるんだ。後の点検見てもそんなに面白くないからパスね」

二人はさらに進む。地震計の部屋から少し歩いて、二つのアーチの接合部分に着いた。そこまでに続いていた壁が無くなり、右手奥に通路が少し伸びて、その先に扉があった。

「ここの扉もキャットウォークに続いているから」新崎はそういうと二つ目のアーチ部に向かった。アーチ接合部の扉は外から見るとダム中央部の台形部分にあるため、監査廊によって、内部からの距離が異なる。

二つ目のアーチもその中央部に扉があり、キャットウォークに出ることができるようになっていた。さらに進むと左手に扉が見えた。

扉の上部には『中断測定室(プラムライン室)』と書かれてあった。

「ここがお目当ての部屋だ」新崎は鉄扉を開けて中に入った。

部屋は六メートル四方の四角い部屋だった。部屋の中央には鉄製のフレームに囲まれた空間がある。フレームの置かれている部分の天井と地面には丸い円形のプレートのようなものが設置されていた。そのプレートは中央部分に穴が開いていた。

そのスペースの奥には簡単なステンレス製の棚があり、ファイルが数冊と箱が三個ほど置かれていた。右手にはPCが置かれた簡単なデスクがあった。

「ここはプラムライン室っていうところだ。部屋の目的としては、中央にあるフレームの中央をよく見てみろ。フレームの外からな」

新崎に言われ、刈谷はフレームの外から中を覗いた。注意してみると、細いワイヤーが天井から地面まで続いていた。

「これは何ですか?」

「これがプラムラインと言ってな。ダム堤体に生じるひずみを測定して、ダムの安全性をチェックする装置だ」

「これでどうやって安定性を測定するのですか?」

「原理は単純だよ。ワイヤーがダムの上部から底部まで続いているんだ。底部の方には重りが吊り下げられている。この時のワイヤーの変位量を上部と底部で測定して、その相対変位量からたわみを測定するっていう原理だ」

「凄いですね。ワイヤーだけで測るんですか?」

「そう。格好良く言えば重力を使わせてもらっている。普通のダムでは上部と底部だけに管理する部屋があるんだが、ここでは上中下三部屋ある。精度が上がるかの検証も行っているんだ。一番上の部屋が今補修工事をお願いしていて立ち入り禁止になっているがね」

刈谷は説明を聞きながら頷いていた。

説明が終わると新崎は部屋の左奥に向かって歩いて行った。この部屋の扉を背中にして左側の天井は二メートルほど丸みを帯びている。新崎が歩いて行った左奥の天井には円形のハンドルが取り付けられたハッチのような扉があった。

新崎はそばの梯子を上りハッチを押して開ける。

「ここを開けるとバルブが見える」

刈谷も新崎の後ろから、梯子を上ってハッチの中に入る。

そこは、円筒を横にした空間だった。その空間に円筒状のバルブが横に設置されている。ハッチから見て左手は解放されており、外が丸見えになっている。雨の吹き込みはなかった。空間は直径十メートルの円筒で、同心円となるように直径六メートルのバルブが横向きに設置されている。

二人はハッチを閉じて、バルブの下面に立った。外部の円筒とバルブの間が二メートルあるためにちょうど人が立てる。

「これがバルブだ。バルブと言ってもいくつかある。このタイプの正式名称はハウエルバンガーバルブだ」

そういうと新崎はバルブをポンポンと叩く。

「このバルブはコンジットゲートの役割がある。まぁゲートとかバルブとか言うけれど、単純に円形のものがバルブで四角形のものがゲートって思っていても良いと思う。総称して水門扉とも呼ばれるな。ダム堤体側はダムの内側に繋がっていて、これで洪水調整するわけだな。風呂場の栓みたいなもんだ」

そこまで言うと、新崎は鞄を降ろして作業を始める。刈谷はバルブの周囲を見て回った。バルブの下から上ってきたハッチと反対側に移動しようとしたとき、

「ハウエルバンガーバルブはね」と新崎が作業しながら話し始める。

「先端部分がスライドすることで放流するんだが、その時に円錐状のコーンで放流が分散されるんだ。今は見ることができないけどな」

「放流が霧状になるってことですね?」

そういうこと、と新崎は言うと荷物をまとめ始めた。

「さあ、帰ろうか」

再びハッチを開いて降りていった。



その後は再び監査廊を進み、第二管理事務所側のウィング部に着いた。新崎はカードリーダに職員証を近づけて鉄製の扉を開ける。

「外に出るときもカードリーダを使うんですね?」刈谷は質問した。

「そう。外に出るときもだよ」新崎はエレベータの昇降スイッチを押す。

「抜かりないですね」

「そりゃそうだ。もしダムが破壊されでもしたらどうなる?単に水浸しでおしまいっていう話じゃないからな」

刈谷は頷いた。

「仰る通りですね」

エレベータが到着して二人は乗り込んだ。

すでに第二管理事務所内部になっているが、内部構成としては第一管理事務所と全くと言って良いほど変化がない。

先ほどと同様に階段を使って建物二階に到着する。

同じような廊下があるが、第一事務所と配置は逆になっている。また、所長室もなく、その場所は倉庫になっている。

管理課が廊下の右手に、総務課が左手にある。またどの部屋第一管理事務所よりも一回り小さい。

「お疲れ様です」新崎と刈谷が部屋に入ると部屋のどこかから声が聞こえる。

「ダムの中しっかり見てこれたかい?」水元が二人に近寄る。

「なかなか態度は良かったよ。でも、持って行ったメモ帳には何にも書いてなかったね」新崎は刈谷の肩を叩きながら言った。

「あ、いや、書くよりも目で見て覚えていったほうが良いと思ったからです」

水元と新崎は笑った。

「いやいやすまん。そうだな。まずその意識が重要だと思うよ」新崎が言った。

「そうそう。だんだんと忘れてくるから。そう言った意識を持ち続けていって欲しいよ」

水元も賛同した。

刈谷は安心した。第二事務所には刈谷の机は無かったので、水元のそばの空いている机に座っていた。壁かけ時計を見ると、十四時半になるところだった。一時間ほどダムの中にいたことになる。

「そういえば気になっていたのですけれど、あれは監視カメラの映像ですか?」

刈谷は部屋の隅の応接セットの壁際に掛けられているモニタを指差した。壁にはおよそ八十インチのモニタが掛けられている。画面には分割された映像が表示されており、それぞれがダムの全景や天端の道路、先程見学したバルブのアップまで表示されている。

「まあな。一応二十四時間監視っていうやつだよ」

「第一管理事務所にもありましたよね」刈谷は同じ位置にモニタがあったことを覚えていた。

「そう。同じ映像を映している。映像も二十四時間はサーバを通じてハードディスクに保存しているよ。本当は一週間くらい保存しておきたいんだけれどね。カメラが十六台あるからさ」

「容量が膨大になりますね」

「そうなんだよ。それに自分たちでも毎日点検しているから、とりあえず現状維持っていうわけ」

おもむろに水元が胸ポケットから携帯電話を取り出した。着信があったようである。

「ちょっとすまん」そういうと部屋の外に出て行った。

刈谷は立ち上がって事務所の窓から外を眺めた。湿度が高いためか薄く霧が発生している。雨は落ち着いているようだ。相変わらず雲は薄黒いから、また少ししたら一雨来るだろう。

「あー君って新入りさん?」

志向が目前と一緒に靄に包まれていた刈谷はびっくりした。

「あ、はいそうです」

見ると、服の上からはわかりづらいが筋肉で引き締まっていることがすぐにわかるような浅黒い肌をした男性が立っていた。それでも顔に刻まれた皺からは経験値の豊かさが見て取れた。

「水元知らないか?もう点検の打ち合わせをしたいんだが」

「あ、水元さんは今電話で部屋の外に・・・」

刈谷がそこまで言うのと部屋に入ってくる水元は同時だった。

「ああ、松田さん、すみません」

水元が携帯を胸ポケットにしまいながら言った。

「いや、構わないよ。十五分前だから打ち合わせしようか」

「はい。あ、まだ紹介していませんでしたね。こっちが新入りの刈谷君」

「自己紹介が遅れました。刈谷雄二郎です。調査課に配属になりました。短い期間ですがよろしくお願いいたします」

刈谷は頭を下げた。刈谷は調査課なので、基本的には第一管理事務所にいる。同じようにダニ管理事務所をメインにしている職員もいる。

「松田幸次郎です。管理課機械係所属です。いろいろ勉強して帰ってください」

松田は握手を求めてきた。

「新崎さんと同じ所属ですね」刈谷は握手に応じながら言った。

「まあ、機械の事でわからないことがあったら二人のどちらかに聞けば必ずわかる」水元は自慢げに話す。

「あのーちょっとPCの調子が悪いようなのですけど見てもらえませんか?」管理課の女性職員が割り込んできた。

「あー、こういうデジタルなものはダメなんだ俺。水元、頼むわ」松田は水元の肩を押し出すようにした。

「というわけでデジタルにはめっぽう弱い二人組だ」

「勝手に二人組にすんな」遠くから新崎が声を上げる。

「どれどれ」水元は近くのPCを触っている。

少し触った後、水元は首を捻った。

「これは良く分からんな。一応再起動はしてみた?」

「はい。でも動作が止まってしまって」

水元が壁掛け時計を見る。

「ちょっと点検が終わったらもう一度確認するからそのままにしておいて」先程言いに来た職員にそう言った。

「新崎さん、松田さん、少し早いですけど、先に点検に入りましょう。打ち合わせは移動しながらしましょう。早めに終わらせてPCの方の点検をします。ちょっと時間かかりそうなので」

二人は荷物を持って水元と扉から出て行く。水元もいつの間にか準備をしている。

「刈谷君、少し待っていてくれ。キャットウォークの点検もするからあの監視カメラに映るかもな」

「はい。わかりました」

そうはいっても、監視カメラから見えるキャットウォークの映像は、恐らくカメラがダム全景を撮影することを優先しているのか、かなり小さかった。雨は小康状態が続いており、この状態であればキャットウォークの点検は可能である。

刈谷は自分でもここのシステムを理解しようと考えた。まず、近くの男性職員に声をかけた。刈谷と同じくらいの見た目の職員を選んだ。

「すみません、今日から着任した刈谷といいます。ちょっと教えてください」

「はい、何でしょうか」

「ダム監査廊の入退室時にカードリーダを使用した記録が取られると聞いたのですが、その記録ってどこで確認できるのでしょうか?」

「ああ、ネットワークにつながっているPCならどこでも閲覧できますよ」

「それって第一も第二も同じですか?」

「そうですね。今、水元さん達が点検に行ったので見てみますか?」

「是非お願いします」

男性職員はPCを操作してウェブブラウザのソフトを立ち上げた。初期画面が軍持ダム管理事務所特有のもので、一般的な検索エンジンではなかった。

「ブラウザを立ち上げるとこういった管理画面が出てくるんだ。この画面の説明はされなかった?」

「この画面はさっき説明を受けました。ここから確認できるのですか?」

「そう。管理課のところから・・・ここね」

男性職員が画面を操作すると名前と時刻が書かれたページに移動した。簡素なページであり、日付と氏名が記載されていた。

記録は最も新しいものが最上部に来るようになっていた。見ると、今日の日付では水元がすでに記録されていた。そのつぎの欄には新崎の名前がある。

「今日は確か水元さんが上段監査廊、松田さんが中段監査廊、新崎さんが基礎監査廊に入る予定だったはずだよ」男性職員が教えてくれた。

「基礎監査廊っていうのは下段監査廊っていう意味ですか?」

「そうそう」

「誰がどの監査廊に入ったかは記録されないのですね」

「システムが古いからね。誰がどこの担当かはその日によって変わることもあるし、誰が監査廊にいるかがわかれば良いから」

点検チームは上からエレベータで降りていっているため、時間差が生まれる。時刻を見ると、水元が十四時五十八分に入室している。今はそろそろ十五時になろうとしている。

「ああ、なるほど。わかりました。ありがとうございます」

刈谷は礼を言って離れた。男性職員はすぐにブラウザを閉じていた。

先ほど座っていた机に向かい、PCを立ち上げる。

教えてもらった通りにブラウザを立ち上げ、先程と同じ画面を出してみる。先ほどの水元の記録の次に松田の記載があった。時刻は十五時二分だった。

それぞれの人物と担当する監査廊は次のようになる。


第一管理事務所―上段監査廊―百田 入室:十五時四分 

第一管理事務所―中段監査廊―柴山 入室:十五時七分 

第一管理事務所―基礎監査廊―大窪 入室:十五時十分 

第二管理事務所―上段監査廊―水元 入室:十四時五十八分 

第二管理事務所―中段監査廊―松田 入室:十五時二分 

第二管理事務所―基礎監査廊―新崎 入室:十五時五分 


監査廊内部の点検は基本的に目視によるものである。点検はダムに限らず目視を基本としている。この時に観測者の主観をいかに排除できるか、といったことが過去には課題であった。スケッチやフィルム式のカメラを使うなど工夫が取られていた。しかし、現在ではデジタルカメラの性能が各段に良くなり、またコストもかからないといったことからも良く使用されている。もれなく、軍持ダムの点検業務に際しては全員が備品のデジタルカメラを携帯している。

水元から待機を指示されたが、刈谷はすることがなかった。そのため、応接スペースに掛けられてあるモニタを見ていることにした。

時刻は十五時九分、水元が監査廊に入ってから十一分が経過したころ、軍持ダム全体を映したカメラに動きがあった。

見ると、軍持ダムの台形部分、その上部の扉から人が出てきた。出てきた人物は腰元をまさぐって、キャットウォークの手すりに何かを掛けた。刈谷は安全帯だろうと思った。高さが二メートル以上の場所で作業床を設けることが困難なところで作業を行う場合には、労働者に安全帯を着けることが事業者に求められる。キャットウォークがあるが、安全上つけていると刈谷は考えた。安全帯を手すりに装着した人物は第二管理事務所側の上部キャットウォークを進み始めた。

「あ、水元さんか」刈谷はつぶやいた。

刈谷がしばらく映像を見ていると、今度は中段の台形部分から人が顔を出した。正確に言えば、顔までは判断できないが、人が出てきたということである。中段から出てきた人物は同じように安全帯を装着して、第二管理事務所側のキャットウォークを進み始めた。

「あれは松田さんだな」

その後も、中段の人物から九分後に基礎監査廊から人が出てきて第二管理室側のキャットウォークへ、さらに三分後に上段監査廊から出てきた人物が第一管理事務所側のキャットウォークへと歩いて行った。

ふと思い立ち、刈谷は先ほど水元にPCの相談をしていた女性職員を探した。該当の職員はデスクに座っていた。

「あの、僕時間があるので、PCのこともある程度分かるのでちょっと見ても良いですか?」

「助かります。ありがとう。ちょっと見てもらってよいですか?」

「ではちょっと失礼しますね」

刈谷がPCに触れようとしたとき、大きな地面の揺れと共に、落雷のような音が聞こえた。刈谷にはそう感じた。同時にPCのネットワークが切断され、モニタもオフラインになった。画面は電源が入っているのだが、今は青一色になっており、画面右上にオフラインとなっていた。

刈谷は周辺を見渡す。他の職員もネットワークが繋がらないといったようなことを口走っている。

「第一管理事務所に連絡してください。こちらと同じ状況になっているか確認してください。」

刈谷は大きな声を上げて言った。声が届いた誰かが第一管理事務所に連絡を取ってくれれることを期待した。期待に応えて、誰かが電話をかけ始めた。

「あとサーバとかネットワークとか管理している部屋はどこですか?」刈谷は女性職員に矢継ぎ早に尋ねた。

女性職員は少し考えた後、

「一階のダムに降りるエレベータの横です」

横です、の最後を聞かずに刈谷は走り出していた。

管理課を飛び出して、階段を駆け下りる。速度は落とさずにウィング内部へ降りるエレベータの前に着く。エレベータは動いていた。誰かが上がってきている。

刈谷は視線を左に移した。扉があり、『サーバ室』とだけ書かれてあった。ドアノブを握ろうとしたあたりで、エレベータの扉が開き、水元が姿を現した。

「刈谷君?どうした?」

「水元さん、サーバが落ちました。大きな振動と音が聞こえています」そこまで刈谷が言うと、水元は何も言わずに点検用の荷物をその場に置いて、軽装でこちらにやってきた。

「俺が開けよう」

「ドアノブ触る時気を付けてください。あと開けるときは一応侵入者も警戒してください。」刈谷はそれだけ言った。中がどのようになっているかわからない限り、ドアノブが常温ではない可能性もある。侵入者に関しても同様である。

水元は叩くようにドアノブを触って常温だと確認してから扉を勢いよく開けた。

室内は八畳ほどの空間だった。問題のサーバは部屋の七割ほどを占めており、残りは掃除用具と書かれたロッカーや消耗品が置かれているアルミ製の棚が一つしかない。

水元先導で入室する。二人が確認する限りは室内が火事になっている様子もなく、侵入者もいなかった。

身長に室内を見渡し、不審者がいないことを確認すると、水元と刈谷は手分けしてサーバの復旧に当たった。幸いなことにサーバの再起動のみで復旧は出来た。時計を見ると十五時三十四分であった。管理課を飛び出してきたのが十五時二十八分だったため、六分間サーバが止まっていたことになる。

「水元さん、ここのサーバって調子悪いんですか?」刈谷が尋ねる。

「いや、二か月前に新調したばかりだ」水元は短く言った。

「そんな新品のサーバが急に全部落ちるっていうのは考えにくい、と考えてよいですね?」

「そうなるな。言っても機械だからな。絶対とは言い切れないと思うが」

刈谷はその言葉が耳に届いていないかのように部屋を歩き回る。サーバラックが入り口から見て横に二列並んでいる。その二つのサーバラックの間を刈谷は歩いた。その中心、まで来ると刈谷は上を見た。

そこには換気扇があった。その横には空調もある。今空調は止まっていた。隣の換気扇自体は古いタイプのようで、刈谷が立っている位置からでも中の羽根が止まっているのが見えた。

「水元さん、ここはサーバルームですよね?」

「見てわからないか?」水元はうんざりしてように言った。

「いえ、わかります。それにしては空調が止まっているのは変じゃないですか?」

一般的にはサーバはほぼ電源を落とすということはないために、ここのようにサーバルームを設けてある施設の場合、サーバの熱暴走を避けるためにエアコンを常に稼働させている。そのエアコンが止まっていることに刈谷は疑問を持っている。

「確かにそうだな」

刈谷はじっと換気扇を見つめていた。そして、

「水元さん、脚立ってありますか?」刈谷は換気扇から目を離さずに言った。

「ああ、あるぞ」水元は入り口近くのロッカーの脇に立てかけてある脚立を持ってきた。

「この脚立っているもそこにあるんですか?」刈谷は脚立を広げながら言った。

「そう・・・だな。いつもそこにあると思う」

刈谷はそれに対して何も言わずに広げた脚立を上った。

脚立の頂上にまたがるようにして座り、換気扇の蓋に手をかけようとして、一旦やめた。作業着のポケットから掌にイボイボが付いた軍手を取り出して着用した。軍手を着用した手で蓋に手をかけて力を込めた。しかし、簡単には外れなかった。

「なんで軍手を付けたんだ?」水元は聞いた。

「一応です。水元さんも着けておいてください」

換気扇の蓋は四隅がねじ止めされていたからである。

「水元さん、プラスドライバ持っていますか?」刈谷は換気扇のねじを見ながら言った。

水元は近くのアルミ製の棚に置かれている工具箱を開けて目当てのものを見つけ、刈谷に手渡す。

刈谷は手際よく四隅のねじを外し、換気扇の外蓋を外した。外した蓋はグローブを着用してもらった水元に手渡す。次に換気扇の羽根も外す。また水元に手渡して、換気扇があった部分にぽっかりと穴が開いたことになる。

刈谷は開いた穴に頭を入れて、サーバ室の天井裏に設置してあるダクトの中を見渡す。外と直接つながっているためか、外の雨の音が強く聞こえる。換気扇のダクトの中ということを差し引いても非常に外の雨が強いことがわかる。ダクトのすぐに目的のものを見つけた。一度頭を出して、代わりに右手を入れる。手探りで先程確認したもののある位置に手を伸ばして、目的のものを引き出した。

刈谷は片手に発見したものを抱え、脚立を降りた。

「刈谷、その機械はなんだ?」

刈谷は片手に抱えていた黒い機会をデスクの上に置いた。

「見たところ、防犯ブザーのように見えますね。それが電源、バッテリですかね。それに繋がれていて、これは受信機に繋がれているみたいですね」

弁当箱より一回り小さい黒い箱からコードが二本伸びており、片方は携帯電話のバッテリに繋がれている。もう一方はタイマーに繋がれているが、時効表示の液晶は黒くなっていた。さらにタイマーはバッテリにも繋がれているため三つの機械がコードによって環状に繋がれていることになる。

刈谷はじっとその機械を観察した。

「刈谷、これはどういうことなんだ?」水元が狼狽した様子で聞いてくる。

「まだこの機械を調べていないので、憶測になってしまいますが」

そういうと刈谷は水元を見た。

「多分音響爆弾の一種だと思います」

「音響爆弾?聞いたことないが」

「僕もうろ覚えなのですが、確か海外の銀行のサーバが消火訓練で使用した消化ガスの音があまりにも大きい衝撃音だったようで、ハードディスクやサーバが故障したっていう話を聞いたことがあるのです」

「音でハードディスクやサーバが故障するのか?」

「はい。百三十デシベル以上だったと思うのですが、それくらいの音圧レベルが一定時間以上連続で発生した場合にそう言った精密機械が故障するということがあるそうです」

「その音がここから発生したために、サーバが停止したということか」

水元はその機械を見ながら言った。

「ちなみに百三十デシベルってどれくらいの音になるんだ?」

「確か、普通の会話くらいが六十デシベルで電車が通った時のガード下が百デシベル、百三十デシベルは飛行機のエンジン音をエンジンから五メートル離れて聞いた音だったと思います」

「よく覚えているな。飛行機のエンジン音を直接聞いたことはないから何とも言えないが、衝撃のある音、爆音と言っても良いかもしれないな」

「そうですね。それがこの機械から発生したのだと思います。多分防犯ブザーの機構を改良して音圧を増幅させて発生させたと思います。でもタイマーの方が耐えられなかったようですね。ダメになっています。この音響爆弾のせいで換気扇に近い場所にあった空調も止まったということでしょうね」

タイマーの液晶が黒くなっているのを指して言った。

「つまり、誰かがここにこの装置を仕掛けて、ある時間が来たら爆音がなるようにした。その時刻が来てサーバ室で爆音が発生してサーバが停止したと。なぜそんなことしたんだ?」

「サーバを止めたい人がいるっていうことですよ」

「ネットワークを遮断したいっていうことか」

刈谷は腕組みして考える。

「うーん、でもそうだとしたらちょっとお粗末ですよね。その目的だったらサーバを叩き壊すか、それこそ火薬の爆弾を使った方が早いですよ。僕らがやったように復旧できてしまう」

寧ろ、と刈谷は続ける。

「指定した時刻に一時的にサーバを止めたいっていう意志の方が強く思います」

「一時的?」

「そうです。根拠はタイマーを使っているということと、音響爆弾を使っているっていうことですね」

水元は黙っている。

「さっきも言ったように何らかの理由でネットワークを遮断したいのならば壊した方が早いです。その場合、こんな人がいる昼間じゃなく夜とか人気が少なくなった頃に実行すれば良いと思います。それをせずに、タイマーを使ってまでこの時刻を指定したのは、どうしてもこの時刻でサーバを一時的に止めたい理由があったってことです」

「そうか。この装置の事も含めて、タイマーが仕掛けられた理由についても少し調査しなければいけないな。それにしても誰がこんなことを。場合によっては警察にも届け出をしなければいけないな」水元は髪をかき上げながら言った。

「十分警察に届け出しても良い気がしますけれどね」刈谷は言った。

二人で話していると他の職員も集まってきた。水元が先ほどまでの議論をかいつまんで説明していた。ここのサーバは第一管理事務所のものも設置されているのでそちらの状況も把握する必要があったため、二人で管理課へと戻る。

部屋に入ると、新崎が戻ってきており、こちらに向かってきた。

「なんか大変なことになっているな」

水元がまたも説明に入る。

刈谷のもとに先ほど第一管理事務所に連絡していた職員がやってくる。

「第一管理事務所の方もこちらで起こっていることは同じようです。今は復旧しています」

その報告を水元は新崎と共に聞いた。

「まだ点検している職員に連絡は?」

点検時の装備には無線も入っている。無線と言ってもPHSをベースにしたもので、施設専用のものである。施設内に居ればどこでも繋がるようになっている。

「松田さんは今戻ってきている途中です。第一の方の柴山さんと大窪も事務所へと移動中です」

「百田さんは?」

「まだ連絡が取れていないそうです」

「わかった。第一の方に続けて連絡するように伝えて。ダム自体に大きな問題はないとは思うけれど念のため」

その後、水元は他の職員らとダム内の地震計のデータ等を確認した。

刈谷も後ろで確認していた。詳細はわからなかったが、問題ないとのことだった。

「それにしても変なことしでかすなぁ。傍迷惑限りない」新崎がやれやれといった様子で言った。

「あと、これも報告なのですが、先程地元の役所の防災課から連絡がありまして」先程の男性職員の方を三人で向いた。

「大雨の影響でダム後方の山越えの道が大量の倒木で通行止めになりました。あとダムを降りる道も封鎖されるそうです」

「え?まだ僕らダムにいますけど?」刈谷は言った。

「はぁそうなのですが、先方も雨の対応に忙しいのか報告のみで切られまして」

この職員が悪いわけではない。

「ちなみに連絡があったのは?」水元が言った。

「えっと、十五時三十五分です。連絡と言っても、事後報告のひどいやつで」

水元はわかった、ありがとう、と言って席に戻した。

百田の安否確認はまだなかったが、ダムに影響はなく、サーバも復旧したということで、ひとまず刈谷らは落ち着いた。窓の外は雨が止んでいる。降ったり止んだりが激しい。

水元と応接セットに向かう。

今は騒ぎの前に刈谷が見ていた光景と同じ映像がモニタに映し出されている。

新崎はまだ点検時の装備を付けたままだったため、それらを置きに行っている間に松田が戻ってきた。

「サーバが落ちたって?凄い音がしたけど」水元と刈谷を見つけると指を下に向けて言った。一階下のサーバ室を指している。

あれは、と言って水元が説明を始めた。

「水元さん、説明が板についてきましたね」刈谷は表情を崩さずに言った。

「そりゃ短時間で何回も話していれば上手くもなるさ。今思ったんだがお前が説明すれば早かったんじゃないか?」

「あの、一応出向して初日ですよ?まだ知らない人もいるのにそんなことできませんよ」

同じように装備を置いてきた松田と新崎が揃って応接セットに戻ってくる。

「なんでこうなった?」松田がヘルメットでつぶれた髪を直すようにして言った。五十代であるが黒髪がはっきりしている。濡れた作業着のブルゾンを脱いで白いシャツになっていた。

隣では新崎も頭に手を回しているが、こちらは頭髪がほとんどない。

「現状として誰がやったかと言うことはわかりません。ただ、目的としてはサーバを一時的に停止したいっていうことだと思います」

「そんなことして何になる?」新崎はイラついた様子で言った。

「考えられることとして、まずネットワークを停止させたいという点が挙げられます」刈谷は左手の親指を折って言った。

「ネットワークって言ったって、停止させて何になるんだ?メールが使えなくなるとか、インターネットが使えないってことだろう?しかも復旧だって再起動で何とかなるくらいの被害なら、それこそなぜやったっていうことになる」松田が意見した。

「そうですね。やっぱりわかりませんね」刈谷はしばらく考えた後、そう言って引き下がった。

「それよりも百田さんの安否がわかっていない」

「あんな非道な奴なんかどうでも良いんじゃないか」松田がぼそっと言った。

「非道?なんですか?」刈谷は尋ねた。

水元は松田をキッと睨んた。

「いや、何でもない」松田は目を合わせずに言った。しかし、どこかうんざりした様子であった。

その時電話を取った男性職員が水元を呼んだ。

水元は受話器を取ってしばらく話した後、刈谷達に向かって言った。

「大窪と柴山さんは帰ってきた。百田さんからは連絡がない」

松田は天を仰いだ。新崎は前かがみになって手を組み合わせたまま何も言わなかった。

「どう・・・しますか?」刈谷は言った。

「探しに行くぞ。上部監査廊だ」水元はヘルメットを持っていた。

深くため息をつきながら松田と新崎は準備を始める。

刈谷も見学用ヘルメットを手に取り、三人に同行することにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る