第28話 母と娘と勝負の料理

 帰宅してから、もう三十分は経っただろうか。


 ほんとなら、今頃……先輩と一緒にクッキーを作っていたはずなんだけど……。


「………………」

「………………」


 リビングは、足が地面から離れないほどに重い空気で張り詰められている。

 それもそのはず、スーパーから帰って来ると、母さんと先輩の“お母さん”がいたのだから。『驚くな』と言う方が無理な話だ。

 ちなみにテーブルの席順は、横に先輩、前に母さん、斜め前に先輩のお母さんを並びになっている。


(……それにしても、まさか先輩のお母さんが有名人だったんなんて……っ)


 母さんから聞いた話では、先輩の母親である一条いちじょう晴美はるみさんは、有名なファッションモデルで、テレビにもたまに出ているらしい。

 さらには、料理研究家の一面もあり、ファッション雑誌だけでなく料理雑誌でも特集が組まれるほどだ。


(……スタイルが良くて料理が得意って、もしかして、無敵なのでは……?)


 そんな人が、母さんと同じ友達だったとは……。


「? ふふっ♪」

「…………っ」


 この状況で、あの余裕の笑み…………こうなったら。


 僕は、正面にいる母さんにアイコンタクトを送った。


(気付けぇ……っ!)


 すると、その声が届いたのか、向こうからアイコンタクトが送られてきた。


『どしたの~?』

『どうしたもこうしたもないよ!! なんとかしてよ……っ!』

『なんとかって言われてもな~っ』

『じゃあ、せめて説明してよっ!! どうして、二人が“あんなこと”になっているのかを……っ!!』

『う~んっ。私が説明にするには……ちょっぴり荷が重いというか……てへっ♪』

『てへっ、じゃないよ!』

『えぇ~だって~。元はと言うと、翔太郎がスマホを持って行かなかったのが悪いんじゃ~ん』

『スマホ……。も、もしかして……僕が悪いの? そんなことは……ないでしょ……?』

『う~ん……てへっ♪』


 ポケットからスマホを出して確認してみると、そこには、


『大事な話があるから、今からそっちに行くねっ♡』


 と書かれてあった。


『………………』

『ねっ?♪』

『あぁぁぁ……』


 と、気まずい空気の中、いつものようなやり取りをしていると、


「……はぁ、このまま黙っていても埒が明かないわ」

「………………」


 顔を俯かせている先輩に向けられる、母親の鋭い視線。


「もう一度言うわよ」

「…………っ」


 先輩が、ゆっくりと顔を上げる。


彩音あやね、あなたを迎えに来たわ。一緒に帰りましょう」


 ――――――…え。


「っ……それじゃ説明になってないよ……ッ!!」


 突然、じっと口を閉じていた先輩が、大きな声を上げた。


(先輩……っ)


 その表情からは、鬼気迫るものがあって……今まで一緒に生活してきた中で初めて見る姿だった。


「……ぼ、僕、お茶を入れてきます……」

「あっ私も手伝う~っ」


 そう言って、この場から逃れるようにキッチンへとやってきた僕たちは、リビングにいる二人からは見えないようにその場にしゃがんだ。


「やっぱり、母さんも気まずかったんだね……」

「いやぁ~……。さすがに一人だけって言うのはねぇー……」


 ……と言っている割には、どこか楽しそうな表情をしているのが気になる。そんな楽しめるような状況じゃないと思うのだけど。


「――だから、私が聞いているのはッ!! どうしてママがここにいるのかってことッ!!」

「あら、さっきも説明したじゃない。あなたがここに居候になることは、前もって奈津子から聞いていたって。最初に聞いたときは驚いたわ。まさか、あなたが家を出るために奈津子に相談していたなんてね」


 と言って、キッチンの方に鋭い視線をチラリ。


「…………ッ!!?」

「あははははっ♪」


 笑い事じゃないんだけど……!?


 ……まぁ、先輩の件に関しては、母さんの判断は正しかっただろう。特に、家出の相談をしてきた女の子の母親が自分の親友なら尚更だ。


「それにしても、あなた、二年生に上がると同時にそんなイメチェンなんてして、どういう風の吹き回しなのかしら? 是非、聞いてみたいわね」

「!? い、今はそんなこと関係ないでしょ……ッ!!?」

「あら、言ってはダメだったのかしら? でも、なぜ? どうして?」

「…………っ」


 完全に向こうのペースだな……これは……。


 ちなみに先輩はというと、言い返すことができず、再び顔を俯かせてしまった。


「……ほんとに……先輩を連れて帰るのかな……」


 とポツリと呟くと、隣の母さんが前を向いたまま話し始めた。


「どうだろうね……。まぁ、彩音ちゃんがこのままなにもしなかったら、そうなるかもしれない」

「そんな……」




 ――――――それだけは、絶対に嫌だ。




 どうしてこう思ったのかは、正直なところ、自分でもよくわからない。


 ただ、一つだけ言えるとしたら…………放課後の校舎裏で、先輩が男子生徒から告白されていたときの…………あのザラザラとした感覚に似ていることだろう。


 ……いや、同じと言っていい。


「――ふふっ」

「ん?」


 ふと横を見ると、母さんがこっちを見つめながら微笑んでいる。

 まるで、考えていることを見透かしているような……。


「っ……な、なに?」

「なんでもないよ~♪」


 そう言って母さんは、テーブルの方に顔を向けた。




『ここが正念場だよ、彩音ちゃん。あなたが――――翔太郎のそばにいたいのなら』




 ん? ……あ。


 すっかり忘れていたお茶を急いで作り、戦場と化しているリビングへと持って行ったのだった。




 作ったお茶をそれぞれの前に置くと、さっき座っていたイスに戻った。


「……はぁ。結局、家を出た理由も話さないし、帰りたくない理由も話さない」

「………………」

「どうしたいの? なにがしたいの?」

「………………」


 先輩は言い返すことができず、ただただ時間だけが過ぎていく……。そして、夕方の五時を回ろうとしていたところで、口を開けたのは――


「時間も時間だから、そろそろ帰るわ」


 ――先輩のお母さんだった。


「今度また来るから、それまでに荷造りを済ませておきなさい」

「………………」


 そう言って席から立ち上がると、




「――ママ待って……っ!!」




 !? 先輩……。


 さっきまでの委縮した姿が嘘だったかのように、強い意志がこもった瞳を向けた。それに対して、母親はというと、


「……まだ、なにか言いたいことでも?」


 その瞳を真っ正面に受けつつも、何事もない顔で平然としている。


 貫禄が違いすぎる……。


「……もうすぐ、夕食の時間なんだ……。だからさ……食べていってよ」


 そう言って先輩は、ハッキリとした声で次の言葉を告げた。




「私の料理……っ!!」




 その後。

 先輩がキッチンで調理を進めている間、僕たちは席に座って待つことになった。


「なに作るんだろうね~?♪ ハァ~楽しみ~っ♪」

「さ、さぁ……」


 えっ、えっと……。


「………………」


 さっきから、じーーーーーっとした視線が離してくれないんですけど……。


「……ね、ねぇ、母さん」

「? な~に?」

「さっき、先輩が言っていたことなんだけど……」


 先輩が持ちかけた勝負の内容はこうだ。

 まず、先輩が作った料理をお母さんに出す。お母さんはそれを食べて、先輩がここに残すのか、それとも連れて帰るのかを決めるという単純明快なルールだ。

 先輩が、今までここで培ってきた力を発揮しなければならないのだけど。

 そこには大きな壁が立ち塞がっていた。


「いくら何でも……料理本を出している人に“料理”で説得するのは……さすがに無理があるんじゃないの……?」


 先輩の料理スキルは、この家に来たばかりの頃より成長しているは間違いない。だけど、今回は食べてもらう相手が悪すぎる。


「う~ん……じゃあそう言う翔太郎は、どう思う?」

「え、どうって聞かれても……」

「翔太郎は、彩音ちゃんにこの家にいて欲しいんでしょ?」

「それは……」

「それに、彩音ちゃんの料理が上達していくところをすぐそばで見ていたのは、どこの誰かな?」

「………………」


 本音を言えば、先輩にはこの家に残ってほしい。でも、これに関しては親子の問題だから踏み込み過ぎるのもよくないのは確かだ。


「はぁ……。母さんは、先輩がこの家に残るのには賛成なの?」

「そうだね~……。まぁ、彩音ちゃんがこの家にいてくれれば、私としては大助かりなんだけど。翔太郎の面倒も見てくれるし♪」

「面倒って……まあ、その通りなんだけど……」


 確かに、先輩にはたくさん面倒を見ってもらっているけど。


「ふふっ。――…彩音ちゃんには、翔太郎のそばにいてもらわないと困るからね」

「え? 今なんて」

「ううんっ。なんでもないよっ♪」

「?」


「――奈津子、あなたも本当に悪い女ね」


 そう言って、先輩のお母さんは呆れ顔でため息をこぼす。


「それを~晴美はるみが言う~?」

「……ふんっ」

「えへへっ。あ、そういえば」

「……なによ」

「最近、旦那さんとはどんな感じなの?♪ あっ、聞く必要もないねっ。だって、あなたたちは、大学生のときからそれはもうラブラブで~……――」

「!!? ちょ、ちょっと奈津子……ッ! なにを今更昔のことを掘り返しているのよ! すぐそこに娘もいるのよ……!?」

「ああ~あああ~聞こえないでぇぇえええ~~~すっ♪」


 耳を手でポンポンと当てながら、話を聞き流していた。


「……ほんと、あなたのそういうところは昔から変わってないわね」

「そうかな~?♪」

「言っておくけど、褒めてないから」

「あれれ~?」


 二人とも……学生の頃からこんな感じだったんだろうな……。




 先輩が料理を作り始めて、もうすぐ夜の七時を回ろうとしていたところで、




「――――…で、できました」




 キッチンから出てきたエプロン姿の先輩が、渾身の一皿をテーブルの上に置いた。


「…………っ」


 持てる力を出し切ったのだろう。先輩の表情からは、一切の不安が感じられなかったのだから。

 先輩が作った料理は、ロールキャベツ。それは、先輩が母さんから教わった黒江家の思い出の料理。そして、先輩が最も作るのに苦労した料理でもある。


 白い皿に盛り付けられたロールキャベツと、コンソメスープから香るいい匂い。


 美味しそう……っ。


「っ……ママ! た、食べてみて……っ!」

「………………」


 無言のままフォークとナイフを手に取ると、ロールキャベツを一口サイズに切り分け…………口に運んだ。


 その様子を、先輩は表情を崩さないままじっと見つめていた。


 ……ゴクリ。


 リビングに漂う独特な緊張感に包まれた僕には、口の中に溜まった唾を飲み込むことしかできなかった。


「………………」


 すると、先輩を一瞥いちべつしてからフォークとナイフを皿のふちに置くと、じーっとした視線を向けた。


「彩音」

「っ……な、なに」


 強張った表情で精一杯の返事をした先輩に対して、母親は端的に言葉を並べた。


「まさか、これで私を説得するつもりだったのかしら?」

「っ!! ……そうだよ。こっ、これが……今出せる……全力……だからっ」

「……そう」


 先輩の言葉を聞いてロールキャベツに目を落すと、おもむろに席を立ち、ソファーに置いていた茶色のショルダーバッグを手に取った。


 …………え?


「帰らせてもらうわ」


 と言い残し、リビングの扉に向かって歩き出した。


「!? ま……待ってください!」


 席から立った僕の口からは、今まで出したことがないくらいの大きな声が出た。正直、自分が一番驚いている。


「………………」


 先輩のお母さんは、ゆっくりと振り返ると僕の顔をじっと見てきた。


「っ……翔太郎く……ん……っ」


 声に導かれるように隣を見ると、目に涙を浮かべている先輩と目が合った。

 僕は、ぎこちない動きで頷き、前を向いた。

 急に緊張してきたが、この決意が揺らぐことはない。なぜなら、


(――先輩と、この家に一緒にいたいからだ……っ!!)


 今、ここでなにもしなかったら……絶対に後悔する。そんな後悔はしたくないから……。


「言いたいことがあるようね」

「……はい」


 自分に向けられる鋭い視線に対して、こっちも視線をぶつける。


「………………」

「………………」


 その瞳からは怒りではなく、もっと正確に言うと、こちらを見定めているような……そんな気がした。


「……先輩には、今までたくさん助けてもらいました」


 口下手なりに、自分のずっと言いたかった想いを必死に言葉にしていく。


「……先輩と一緒に生活していく中で、少しずつですけど、今まで味わうことのできなかった『楽しい』って気持ちがどんどん強くなっていって……」

「………………」

「僕……人見知りなんですけど。他の人に声をかけられるようになったのは、間違いなく先輩と一緒に生活していたおかげだと思うんです……っ」

「翔太郎君……」


 


「僕には、この先もずっと、先輩が必要なんです。だから、お願いします!先輩をここにいさせてください……っ!!」


 素直な気持ちを伝え、頭を下げた。

 先輩が今どういう表情でいるのかは、この姿勢からでは見えなかったけど、微かに聞こえる震えた声から察するに、泣いているのだろう。




 ………………………………………………………………………………。




 ドキッ……ドキッ……。


 無言の時間だけが過ぎていく。


「…………はぁ」


 ため息とともに返ってきた言葉は、思っていたのとは程遠いものだった。


「……あなたには悪いけど、これはあの子が持ちかけた問題よ。それはわかるわね?」

「…………は、はい」


 それはわかっている……わかっているんだ。……でも。


「私は……あの子の料理を認めなかった。ただ、それだけのことよ」

「………………」

「それに、例え親友のお家だとしても、いつまでもいさせるわけにはいかないの」


 その声は決して荒々しいものではなく、娘のことを本気で心配していることが伝わってくる。


 ――でも。


「でも……でもっ!!」


 すると、トンッと誰かが僕の肩に手を置いた。


「…………っ」


 僕は、ゆっくりと顔を上げた。


「――――…彩音は、あなたが思っている以上に“大変”な子よ」

「え」

「それでも――」

「はい。構いません」


 向こうが言い終える前に、つい声を出してしまった。


「えっと……すみません」

「………………」


 僕が謝っている間、なにも言わずにじっと視線が向けられていた。


「……ふふっ。ねぇ、晴美。いざとなったら、私もいるし美奈もいるよ?♪」

「奈津子……」


 母さんのその優しい声色は、緊張が張り詰めるこの空間を和らぐには十分すぎた。


 ……ありがとう、母さん。


「……はぁ。わかったわ」

「え」


 僕が呆然とした顔でポツリと声を漏らすと、


「翔太郎君、あなたのその思いを尊重することに決めたわ」

「ッ!!? じゃ、じゃあ……」

「えぇ。彩音が……この家で暮らすことを認めるわ」


 その言葉を聞いた瞬間、自分の中で安堵と共に嬉しさがこみ上げてくる。


「翔太郎くん……っ!」


 その声の方に顔を向けると、先輩が今にも泣きそうな顔で近付いてきた。


「先輩……っ!」


 そして僕たちは手を上げて見つめ合った。

 自分でもよくわからなかったけど。きっと、この気持ちに言葉など必要なかったのだ。


「ヒュ~ヒュ~♪」

「…………ふっ」


 そんなこんなで、今回の一世一代の大勝負は幕を下ろしたのだった――。




 さっきまで修羅場のような空気が漂っていたリビングも、今はとても穏やかな空気が流れていた。


 そして僕たちは、“晴美さん”を見送るために玄関に来た。


「見送りはいいって言ったのに」

「まぁ~まぁ~。いいじゃない♪ ところで……」


 母さんは徐に顔を晴美さんの耳元に寄せると、なにかを囁いた。


「――本当はどうだったの? 彩音ちゃんの料理♪」


 靴を履く手を止めた晴美さんは、神妙な面持ちで考え始める。

 気のせいかもしれないけど。その顔は、ほんのちょっとだけ嬉しそうだった。


「……ふふっ。あの子は、まだまだよ」

「そっか♪ ――――…ほんと、素直じゃないんだから」

「なにか言ったかしら?」

「別に~っ」

「ふーん。じゃあ奈津子、あの子のこと、よろしくね」


 すると、靴を履き終えた晴美さんがこっちを向いた。


「彩音、くれぐれも迷惑をかけないようにしなさい。いいわね?」

「わかってるよ……。えっと……ありがとう、ママ」

「……ふっ。じゃあね――」


 母さんの自信たっぷりな言葉を聞き、晴美さんは玄関を出て行った。


 ――ガチャリ。


「ふぅ~……。さてと!」


 玄関の扉を閉めた母さんは軽く息を吐くと、僕と先輩の背中を押してリビングに戻った。

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