無謀な企み

 寮内では、学内のような喧噪はなく、誰も蒼葉のことに触れなかった。

 まるで、誰もが蒼葉のことを知っていて「何を今さら…」とでも言うように、至極平然としていつもと同じ時を過ごしていた。

 そして蒼葉が一度も姿を見せることなく、転校したことを告げられると、寮生は皆一様に口惜しい無念の表情を見せていた。


 蒼葉の話題も下火になっていた頃、新たに投下された燃料に、クラスの数人が再び蒼葉の話で盛り上がる。

「柚木蒼葉が転校した学校ってさ、全寮制の超厳しい学校だってよ。保護者会の役員から、うちの親のとこにも電話が来た」

「聞いた。手に負えない不良が行くとこらしい。山の上にあって逃げることもできない刑務所みたいな学校」

「そんな学校が日本にあるのかよ。悲惨だぁ」

「あいつ、なよなよして、やっていけるのか」

「共学だから、いっそのこと女になっちゃえばいい」

「柚木あお子で~す、みたいな」

「元は男の子だったのぉ、よろしくねぇ」

 教室に笑い声が響く。


 思わず机を叩いて立ち上がった。

 こいつらのゲスな話には、無視を決め込むつもりだったが、耐えられなかった。

「お前ら…」と言いかけた時、

「お前らいい加減にしろ!」と重低音の怒号が飛んできた。

 教室の入り口に綾野が立っていた。

「いいか、今後一切柚木の話はするな。あいつは転校したんだ。他校の生徒の悪口は言うな。わかったか」

 怒号とは打って変わって、野太い声で淡々と諭すように言うが、鋭い眼光には怒りをみなぎらせている。

 先ほどまで騒いでいた連中は皆、うつむき肩をすぼませていた。

 綾野は「亮一」といつものトーンでオレを呼ぶと、顎で出てこいと合図してきた。


 綾野に付いて屋上に出ると、どんよりと曇った薄墨色の空がどこまでも広がっていた。冷たい冬の風が容赦なく体を刺してくる。

 今にも雨が降りそうな気配だ。

「さすがに寒いな、今夜あたり雪が降りそうだとか言ってた」

 綾野はいつもの穏やかな口調で言った。

「あの… すみません。オレ、蒼葉がバカにされてるのに何も言わないで…」

「あれでいい。何も言わなくていい。バカの相手すると面倒くさい展開になるから。寮生はみんな無視してる」

「寮生は皆、優しいです。蒼葉の転校を聞いた時も皆、残念そうな寂しそうな顔してた」

 綾野の表情がゆるんで、優しい笑顔を見せる。


「そりゃ、皆、普段のあいつを知ってるからな… お前、サネカズさんが最初に言ったこと覚えてるか? 寮に入って最初に言われたこと」

 新入りの寮生を前に、園田そのだ実和みわが言った言葉。

「『食は人なり』って言葉を知ってる? 食べるものを見たらどんな人かわかる。食べたものがみんなの人となりを作ってくの。私はみんなの母親になって、毎日美味しいご飯を作ります。ご飯でみんなを、優しくて強くて負けない人間にするから。一つ屋根の下で同じご飯を食べて、みんなを家族にする。油断してると勝手に私の息子にするからね」

 そして口癖は「息子たち」時には「私の息子たち」「我が息子」等である。

「私の息子たち、ご飯ができたよ。残すんじゃないよぉ」といった具合だ。


「あれは暗示だよな。あんなふうに言われ続けたら、みんな何となく兄弟みたいなもんだって思うだろう。蒼葉はオレにとって弟みたいなもんだ… お前もな」

 綾野が空を仰いで目を閉じた。一つ大きく深呼吸をしてゆっくりと目を開ける。

「オレ、卒業したら蒼葉を連れて行く。家族の元に戻れないオレが、家族の元で不幸になる蒼葉を救い出す。クソ親父から無理矢理にでも引き離す」

 決意に満ちた綾野の漆黒の瞳が、キラキラと輝いていた。


 ふと、綾野の黒い髪に白いものが、ふんわり舞い降りてくる。

「雪だ…」

 ふわふわと舞い降りる真綿のような雪がどんどん勢いを増してくる。

「ケンさん、中に入りましょう」

「待てよ」

 綾野は天を抱くように両手を広げ見上げると、口を大きく開けた。

 容赦なく降り注ぐ雪が、綾野の口の中に吸い込まれていく。生き物のように体中にまとわりつく雪の中で、恍惚として立つ綾野の姿は、一枚の絵のように美しかった。

 綾野はひとしきりそうした後、向き直ってにやりと笑う。

「食は人なりだ。優しさと強さ、親子を引き離す冷酷…オレはやる」

 綾野は固く拳を握りしめた。



 3月初めの卒業式が終わると、3年の寮生たちは終業式の日までに退寮しなければならない。と言っても、ほとんどの3年生は卒業式当日に、参列した親の車に荷物を載せて一緒に帰っていく。

 数日経つと、寮に残っている卒業生は、綾野だけになっていた。

 ほぼ全員が大学進学する中で、当然のように就職することを選択し、在学中アルバイトで貯めた金でアパートを借り、着々と社会に出る準備を進めていた。


 寮母の園田実和は、綾野が困らないよう細かい生活用品の準備を手伝ってやったり、まるで母親のように世話を焼いていた。

 そして、時々、蒼葉を親から引き離すという無謀な綾野の計画を心配して、

「余計な事考えるんじゃないよ、ケン。あなたはまだまだ一人前じゃない。自分の足で立ってもいないのに、どうやって他人の面倒を見るつもり? そんなお節介焼いても誰も幸せにはならないよ」

 そう説教をするが、必ず「気持ちはわかるよ。よーくわかるけどねぇ」と優しく言葉を付け加える。

 綾野は、ただ無言で実和の説教を聞いているだけだった。


 終業式まで1週間を切ったある日、綾野が「ちょっといいか」と、部屋に入ってきた。

 いつもは黒い瞳に鋭く尖ったような輝きをたたえているが、疲れているのか覇気がなく虚ろな目をしている。

「振られたよ」と、大きなため息をつき、片頬で笑って床に座った。

「オレと一緒に行く気はないと手紙が来た」

 蒼葉の学校の終業式の日に、綾野が迎えに行く約束になっていた。

 最初は「ケンさんと一緒に行く」という意志を見せていた蒼葉だったが、やはり思い切ることができなかったのだろう。


「サネカズさんの言う通りだ。オレはまだまだガキで、オレなんか信用できるような人間じゃないってことだな」

 肩を落として落胆している綾野の姿は、見たことがないだけに焦った。

「そんなことないですよ。ケンさんは信頼されるべき人間です」

 綾野がおもむろに視線を投げてくる。

「じゃあお前… お前が蒼葉ならオレに付いてくる?」

 予想外の切り返しに「それは…」と言葉に詰まり目線が泳ぐ。


「ほら見ろ。適当なこと言ってんじゃねえよ」

 綾野が鼻で笑った。

「すみません… でも、オレはケンさんを信頼してるし…」

「わかったわかった、ありがとな」

 綾野はこの部屋に入ってきた時とは打って変わって、吹っ切れたような穏やかな表情に戻っていた。

「まあ、冷静に考えれば、高卒の18の男に付いて行っても、未来はないと思うのは仕方ないわな」

 自嘲の笑みを浮かべると、綾野は立ち上がった。

「明日、ここを出ていくよ。お前にもいろいろ世話になったな」

 綾野はいつものように、漆黒の瞳に射貫くような力強い視線で笑った。

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