弟と兄

 秋も終わりに近づくと、深く色付いた木々の葉も力尽きて路傍に散り、無機質なアスファルトをもの寂しいけれど暖かな趣に変える。

 干からびた落ち葉は、踏みつけられるたび、冬の到来を知らせるように心地よい音を響かせる。


 幼いころ、落ち葉の小山を見つけては踏みしめ、また見つけては踏みしめ歩いていると、母も一緒になって踏みしめて、

「お母さんのほうが大きい音出たぁ」と、子供のようにはしゃいでくれた。

 まゆに包まれたような、満ち足りた時間だった。

 ふとマザコンという言葉がよぎる。蒼葉に言われた言葉だ。

 次に言われた時は、共に過ごした時間が短ければ、マザコンにもなるだろうと開き直ってやる。きっと「ごめん」と謝ってくるだろう。蒼葉の泣きそうな顔が思い浮かんで薄ら笑いが出る。


 そんな母との思い出にふけって、暇な時を過ごしていた夜に、父から電話が来た。

 唐突に「週末に帰ってこないか」と切り出す。

 高校入学以来、一度も帰らない息子にとうとう堪忍袋の緒が切れたか。

 いつもとは違う。何か奥歯に挟まっているように言いよどむこともない、そのハッキリとした口調にたじろいだ。

「週末… 週末って急過ぎる。週末… たった一晩なのに帰るやつなんていない… 疲れるし」

「じゃあ、冬休みは帰って来いよ。絶対に帰れよ」と、いつになく強い語気で繰り返す。


「生まれたんだ… お前の弟が」

 その言葉は全身が硬直し、言葉を無くすのに十分なインパクトだった。

 そうだった。彼女は妊娠していたんだ。

「赤ちゃんできちゃったぁ」と電話口で聞いた時も、何の感慨も浮かばなかった。

 お前が妊娠しようがしまいが関係ないわと、心の中で毒を吐きながら、言葉少なに電話を切った。

 ひたすら逃げることしか頭になかったせいだろうか、女のことを家族として、決して認めたくなかったからだろうか、その腹の中で着実に育ち「生まれる」ことが、頭からすっぽり抜けていた。


 他人から生まれるのは他人でしかない。だから自分にとって、兄弟ができるという意識も自覚もなかった。

 そして父親の存在を、無意識に除外していたことに気づく。

「晃さんには婿養子の分をわきまえてほしいわ。新しく嫁取るなら、笹原家から出て行くのが筋ってもんよ」

 夏休みに訪れた時の伯母悦子の言葉を思い出した。口を衝いて出る父への愚痴の数々には黙るしかなかったが、ことあるごとに聞かされたせいか、それとも再婚への拒絶感が増長した結果なのか、すでに頭の中から再婚相手の瑠美もろとも父を消し去っていたようだ。

 蒼葉が言う通り相当なマザコンらしい。


 思えば存在感の薄い父だった。

 朝から晩まで仕事漬けで、平日はほとんど顔を合わせることもなかった。週末も接待だと言って家を空け、たまの休みも一人で趣味の鉄道写真を撮りに出かけるような、家族思いで子煩悩とは程遠い父だった。

「うちはまるで母子家庭ね」

 諦め顔で母は笑っていた。

「男はみんなそんなもんよ。男が家にいたって何の役にも立たない、外で稼いでくるのが男の甲斐性なんだから」

 そう言って、同居していた祖母が母を慰める。

「ねえ、亮ちゃん、おじいちゃんもおばあちゃんもいるし、亮ちゃんは寂しくないよね」

 そんな風に祖母に矛先を向けられると、多少の気遣いもあって「うん、僕、全然寂しくないよ」と言ってしまう。そして、それを聞いた祖母は、満足げに笑うのだ。



 冬休みに入って早々帰り支度をした。

 多少バツの悪さを感じるものの、単純に父を介してつながっている『弟』を見たい衝動は抑えられなかった。

 寮の玄関で靴を履いていると、「なんだよ、お前、もう帰るのか」と低い声がした。

 三年の綾野健だ。

「ケンさん… 親父が帰って来いってうるさいから、とりあえず顔出しておこうと思って…」

「もう降参かよ、情けねーな」

 何もかも知っているようなその口ぶりに動揺が走る。

「親父さんによろしくな。お袋さんにも、な」

 綾野はポンと背中を叩いて去っていった。


 寮を出てしばらく歩いていると、蒼葉が向こうから歩いて来る。

 蒼葉も気が付いたようだがすぐに俯き、歩道の端にたまった枯葉の山を、踏みしめ踏みしめ乾いた軽快な音をたてて向かってくる。

「よう、蒼葉」と声を掛けると「あ、亮一くん」と、わざとらしく顔を上げた。

「帰るんだ」

「うん、親父がうるさいから… その… 弟が生まれてさ」

「そっかぁ、おめでとう。家族が増えたんだね」

 妙に明るいはしゃぎようが、少し癇にさわる。


「お前、ケンさんにオレと親父のこと話した?」

「え、何も言ってないよ」

 蒼葉は焦って答える。

「言うわけないじゃない。絶対誰にも言わないって約束したから誰にも言ってないよ」

「ふうん… ま、別に知られて困る話でもないからいいけど」

 蒼葉は、不満げに視線を逸らし口をつむぐ。

「お前は? 帰らないの?」

「閉寮日までには帰るよ… 住み込みのバイトもなかなか見つからないしね」

 嫌味なやつだ。まあいい、もともと仲が良かったわけじゃない。

「じゃあな」と冷たく言い捨てその場を離れた。背中に蒼葉の視線を感じたが、一度も振り返らずに。



「お帰りなさい! やっと帰ってきてくれたぁ」

 多少大げさな甲高い声で迎えてくれた瑠美は、最後に見た時と随分印象が変わっていた。

 髪を短く切って化粧をしてないからだろうか、派手さはなくやわらかな印象の、どこにでもいる普通のおばさんになっていた。

 その余裕のある笑みは、もう長い間ここで暮らしているような存在感すら醸し出している。

 リビングでは、父がチラッと目を合わせ「おう」と言ってすぐ新聞に目を落とす。


 ほどなく瑠美が赤ん坊を抱いて現れた。

「はい、抱っこしてあげて」

「…オレ、抱いたことない」

「大丈夫よ」

瑠美は強引に赤ん坊を、オレの腕の中に乗せてきた。ほんの数秒間、瑠美のやわらかな腕と一緒に赤ん坊を支える。

「ほおら、お兄ちゃんよ」

 くりくりとした黒く大きな瞳が、戸惑うほど真っすぐにオレを見つめている。

「いいわねえ、お兄ちゃんに抱っこしてもらって」

 瑠美が赤ん坊の頬をとんとんと優しくつつくと、ぽかんとあけられた口が緩やかに形を変え、笑っているようにも見えた。


亮二りょうじって名前にした… お前の弟だから」

 父が新聞から視線を逸らさずに言った。

「弟」「お兄ちゃん」の言葉がこだまのように耳に残り、いちいち胸に刺さって深部を揺らす。

 何か月もの間、オレは一体何と戦っていたのだろう。

 何から逃れようと必死にもがいていたのだろう。

 この圧倒的な存在の前では、どんな葛藤もへし折られるしかないようだ。

「亮一君はガキだ!」

 いつか言われた蒼葉の声が聞こえたような気がして、頬がゆがむ。


「亮一くんに似てるでしょ。血がつながってる兄弟だから… ほら、目のあたり… 口元も… 鼻も… 耳の形も似てるわ… とてもよく似てる」

 兄弟に、交互に送られる瑠美の視線は、優しかった。

「…そうかな… 猿っぽいけど… 可愛いけど…」

 そう呟くように言って瑠美を見ると、目にいっぱい涙を浮かべて微笑んでいた。

「ありがとう、亮一くん… ありがとう」

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