第3話 一ノ瀬家の人々

「あら多希たきさん、遅かったんですね」

「ただいま帰りました、お母様」


 あまりすぐには出会いたくなかったな、と多希子は思うが、とりあえずは笑顔を向ける。


「すみません、ちょっと資生堂の竹川町店で買いたいものがあったのを思い出しましたので、銀座へ寄り道しましたの」


 さすがに時間が遅くなりすぎた。帰ってみたら、玄関横の応接間に、待っているピアノの教師の姿が見えた。そうなると下手に隠し立てするよりは、銀座に行っていたことは話した方がいい、ととっさに彼女は判断する。


「まあ、だったらお買い物を頼めば良かったわね。新製品が出ているはずなのよ」


 一ノ瀬夫人はにっこりと笑う。


「何か切らしてましたの? お母様」

「ええ、ほら、新発売の『ドルックス』のクリーム。何でも、澄んだ感じの良い香りがするそうですよ」


 うきうきと夫人は言う。

 確か、と多希子は思い出す。先日居間に置いてあった家庭雑誌に広告が載っていた。舶来品に負けないものだ、ということらしい。

 多希子自身はそう興味は無い。今日のぞいていたウインドウにしても、どちらかと言えば、化粧品よりは洋菓子だった。


「じゃあ今度見てきますわ」


 そうね、とにこにこと夫人は手を合わせた。いつの間にか、銀座に「寄り道」していたことは何処かへ行ってしまっている。


「ピアノの先生もお待ちですからね。早く着替えていらして」

「はい」


 にっこりと笑い、多希子は自室へと向かう。そしてその話は終わり。ふう、と彼女は胸をなで下ろした。

 彼女は自分のそういう、小賢しい所はあまり好きではない。だがそれは、それも家庭で上手くやっていくこつだ、と思っていた。

 父親の一ノ瀬氏は多希子には優しいが、同時に厳しい。銀座に一人で行くことにしても、何らかの目的がそこにあれば見逃してくれるが、何の意味もなく「ぶら」つくことに関しては、決していい顔をしない。

 そのあたりは、まあよくある父親だ。いや、普通よりはずいぶん甘い。ただその父親が「よくある」人と違うのは、建築会社の社長だ、ということだった。

 この日の多希子の「用事」は、その会社の方へ書類を持っていくことだったのだ。自宅付で届けられた海外からの資料を、学校帰りに届けること。

 出向いたら、社長室はちょうど来客中だった。何でも、大陸の方から戻ってきたばかりの建築事務所の人々だという。そのうちの一人は結構若かったが、どんな人物だったのか、までは彼女もよくは覚えていない。

 多希子が自室に入った頃、家の扉が勢い良く開いた。


「ただいまお母様っ。あら、ピアノの先生のお靴。お姉さまもうお帰り?」


 妹の由希子ゆきこだった。


「何ですまた靴をばらばら…… まああなた、髪がずいぶん乱れてますよ」

「ええっ? ああでも仕方ないわ。今日はテニス部のほうで、練習試合があったの」

「あなたはもう…… 多希さんを少しは見習いなさいな」


 夫人は思わず頬に手を当て、ため息をつく。いつものことだった。


「いいのよ~ だって私はお姉さま程頭良くないし、不器用だし~ だったら明るく健康がいちばんだもの」

「明るく健康、はいいですけどね…… ふう」


 妹の由希子は、三つ違いの女学校二年だった。父親の方針で、この二人は同じ府立の高女に通っている。姉は私立の女学校だったのだが、そこの空気は必要以上に娘に贅沢を覚えさせた。資産家の所に嫁いだから良いものの、下の娘達は、あまりその風潮に染めたくはない、と実直な社長は考えたのである。

 しかし同じ学校というのは、姉妹を何かと比べさせるものだ。


「あなたも多希さんを少しは見習って大人しくしないと、いいお嫁の口がありませんよ」


 すると由希子は笑ってこう言う。


「いいもの、私は私だし。お母様だから、こんな私でいいといういい方を見つけてね」


 この調子だから、誰も彼女を憎めないのだ。だが夫人にしては、問題である。そしてこの娘を何とかするには、その前に多希子をどうにかしなくてはならない。

 一ノ瀬家の子供は四人だった。

 一番上の真希子まきこは既に嫁いでいる。その下が四つ上の兄の希一朗きいちろう。兄は現在、帝大の一年生で、将来会社を継ぐために、建築を専攻している。そしてその下が多希子で、末が由希子だった。

 多希子をきちんとした所に縁付けないことには、夫人は、親としての自分の役目は果たせない、と信じているようだった。

 そうしなくては、死んだ彼女達の母親に申し訳が立たない、と。


 現在の一ノ瀬夫人は、上の三人とは血がつながっていない。彼女達の本当の母親が亡くなったすぐ後に、彼女はこの家にやってきた。だがその時既に、由希子を連れていた。そして由希子は一ノ瀬氏の実の子だった。

 多希子はまだ本当に幼かったので、生みの母親のことはほとんど記憶にない。そして今までにそこのことで問題が起きたこともない。ただ、お互いに少しばかりの遠慮をしあっているような所はある。

 姉の真希子となると、多希子とちょうど十歳違うので、難しい時期に別の女性を母親と呼ぶことにずいぶんと抵抗があったらしい。


 一方、多希子は自室で制服から着替えていた。洋服箪笥から、もう少し簡単な洋服を一枚取り出す。その洋服を見ていたら、ふと昼間のことを思い出した。

 別にそう嘘をついている訳じゃないわ。資生堂のショウウインドウを見ていたことだって本当だし……

 言い訳のように、内心つぶやく。


 ただ言わないことがあっただけよ。


 彼女――― ハナのことは何となく口には出さない方がいい、と多希子は思った。それは銀ぶらをとがめられることとはまた別の、自分だけの秘密にしておきたいことだった。

 多希さん、と声がする。いい加減行かなくては、と多希子は返事をした。

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