第22話         (R18)

 落ちる、落ちる。どこまでも落ちる。

 その感覚で意識を取り戻した。風が耳元で鳴っている。それに、服が風でばたばたと暴れる音がする。

 ここはどこだろう…

 少しの好奇心で瞳を開く。そこには、驚くほど美しい青空が広がっていた。

 なんてきれいな青…。自分が落ちていることも忘れて、青空に見惚れた。

 次の瞬間、バシャッと飛沫をあげて、水面に落ちた。深く透明な水に身体が沈んで行く。銀色の泡が身体をすり抜ける感触。一度沈んだが、すぐに浮力によってゆっくり浮かんでいった。

 水の中も驚くほどきれいだ。そして、しょっぱい。海なのだろうか。

 引っ張られるような感覚がして、水面から顔が出た。ふうと息を吐く。青い空。雲も太陽もなく、空しかない。身体を起こして、周りを見渡す。何もない。ただ、水平線が三六〇度広がっていた。

 不思議な世界だ。改めて、ここはどこだろうと考える。確か、ボクは……死んだ。そうだ。ということは、ここは死者の国だろうか。てっきり業火が燃え盛る地獄に送られると思っていたが、ここは穏やかだ。

 さっきまで、脳が煮えたぎるほど考えていたので、もう何も考えたくなかった。空を見あげながら、仰向けになって水に浮かぶ。ひんやりとした感触。でも、身体は濡れていない。不思議だ。

 この心地よい場所にずっといたい。そう思った瞬間、

「ベオグラード、それはだめだよ。」

 聞き覚えのある声が頭の上でした。はっとして声がした方向を見ると、いつの間にか、ヤレンがボクを見下ろしていた。木の船に乗って、船のへりに肱をついてボクを見ている。あまりの驚きで、ポカーンと口を開く。

「…ヤレン?」

「そうだよ。…久しぶりだね。ベオグラード。」

 青い瞳を細めて微笑む。その顔は間違いなくヤレンだった。金髪が風に揺れている。さらに、顎を支える手には指輪が光っていた。

「なんでヤレンが…。死んだんじゃなかったんですか?」

「死んださ。死んだから、ここにいるんだよ。」

「ということは…ここは天国ですか?」

 すると、ヤレンが面白そうに声を立てて笑った。

「違うよ。そんな大層なところじゃない。そうだな…。おそらく、ここは生と死の狭間だろうね。」

「狭間…。ヤレンは、天国には行けなかったんですか…?」

「行けなかったんじゃなくて、行かなかったんだよ。」

 ボクはどうにも理解できず、首を傾げる。

「…なんで行かなかったんですか?」

「だって、君に何のお礼もできなかったからね。それがあまりに心残りで、死んでも死にきれなくて。こうやって亡霊になって、ずっと君を待っていたんだよ。」

 ヤレンが目を細める。そして、船から身を乗り出して、水面に落ちた。パシャっと小さくしぶきをあげ、水面に浮かぶ。

「すごい世界でしょう?この水は、君の涙で出来ているんだよ。元は白い地面だけだったのに、いつの間にか、海になってた。君には辛い思いを、たくさんさせてしまったね。本当にごめん。」

「…いいんです。むしろ、守れなくて…ごめんなさい。」

「なんで君が謝るんだ。前にも言ったけど、僕はずっと前に、自分があの戦いで死ぬと知ってたんだ。だから、君が謝る必要はないよ。」

 ぽんぽんとボクの頭を撫でた。

「何度か、君の世界を覗きに行ったけど…、君は随分と無理をする人だったんだね。もう少し自分を大切にしろと言っておくべきだったよ。」

「それはボクの性分なので…。でも、もっと命を大切にすれば良かったと…今は少し後悔しています。」

「だろうね。せっかくアドニと共に暮らす約束までしたのに、死んでしまうんだもの。死んでも死にきれないだろうなって思っていたよ。」

 優しく微笑んで、ボクの頬を撫でた。指の感触。ひんやりと冷たい。

「君の身体は、まだ温かい。まだ、死んでない。だから、僕の最後の力を使って、君を元の世界に帰すよ。」

「…。そんなことができるんですか…?」

「できる。この竜の力と、あの世界に残して来た指輪の欠片が揃えば。」

 ヤレンが空を見上げる。ボクもつられて見上げてみたが、何も見えない。ただ、青い空から雫が、ぽたぽたと落ちているだけ。

「…来た。アドニ、ちょっと遅いよ。でも、これでピースはそろった。」

「え…?」

「アドニのピアス、僕の指輪の欠片なんだ。僕は彼と共に生きる事はできなかったから…。だから、せめて、幸せな人生を送れるようにと、随分と前に渡しておいたんだよ。」

 ヤレンが懐かしそうに目を細めて言った。その言葉と表情で、やはりヤレンにとって、アドニは大切な人だったのだと悟る。

「そうなんですか…」

「うん、そうだよ。アドニは、本当にいい人なんだ。あの城に閉じ込めておくにはもったいないくらい、自由で輝いていて…。多分、憧れに近い気持ちなんだと思う。でも、確かに好きだった。それでも、今の僕にとって心から愛する人はイズミルだけだよ。」

 イズミルという名前にドキリとする。ついさっき、イズミルの身体と戦ったばかりで、あの金色の瞳が、今でもボクの脳裏に焼き付いていた。

「イズミルは、ここにはいないんですか…?」

「うん、いないよ。きっともう生まれ変わってしまっているだろうね。仕方ないし、それでいいと思ってる。それより、今は君を救う方が重要だ。」

 ヤレンの青い瞳と目が合う。ヤレンはボクの肩に手を置くと、すうと息を吸って静かに唱えた。

「我が名は竜、ヤナ・ブライト。我が盟約に従い、彼の者に祝福を与え給え。」

 その言葉を合図に、ヤレンの身体から金色の炎が噴き出した。あまりの眩さに目を細める。炎は水を伝って、ゆらゆらと揺れながら、ボクの身体を包み始めた。不思議と熱くはなく、人肌のような温かさが身体を包む。

「これは…?」

「竜の力だよ。前、アドニを助けてみせたでしょ?それと同じだよ。」

 あっという間に、身体全体が炎に包まれた。ふと顔を上げると、ヤレンの身体が透明になっていることに気づく。

「ヤレン!身体が…透けて…」

「まあ、そりゃあね。奇跡を起こすためには、それ相応の対価が必要だ。と言っても、僕は死ぬわけでも、消えるわけでもないから安心して。ただ、輪廻に帰るだけ。」

 それでも、ヤレンの表情はどこか寂し気に見えた。

「…僕は元の世界には戻れない。だから、どうか、元の世界に戻ったら、僕の分までレナを愛してあげてほしい。そして、彼女が穏やかに生きていけるように支えてほしいんだ。頼めるかな?」

 その言葉に、どうしようもなく悲しくなって、涙が溢れた。涙が頬伝って、顎からぽたぽたと落ちる。涙を止める術はない。それに、止める必要もない。

 ボクは泣きながら「はい…」とうなづいた。

 ヤレンが柔らかく微笑む。

「ありがとう。君と出会えて良かった。どうか、アドニと幸せになって。」

 こんなにも穏やかで、晴れ晴れとした表情は初めて見た。それを見た瞬間、ボクはヤレンの願いを叶えることができたのだと悟る。

 ヤレンの手がボクの心臓の上に重なった。不思議な温かさが、じんわりと心臓を温める。

「本当はもっとたくさん話したかったけど…、君の身体を、これ以上待たせるわけにはいかないからね。どうか元気で。」

 心臓がどくんと大きく脈打った。その瞬間、身体がふわりと浮かび上がる感覚がして、景色が霞み始めた。ボクはそれに負けないように叫ぶ。

「ヤレン!ボクもあなたと出会えて幸せでした。どうか、いつか必ずイズミルと幸せになってください!」

 ボクの言葉に、ヤレンの瞳が驚いたように開いた。何かボクに言っている。でも、その声は届くことはなかった。

 ***

「ベオ。起きれそうか?」

 頭の上で声がした。その声で目が覚める。何だか懐かしい夢を見ていた気がする。だが、それは泡沫の夢のように朧気で、はっきりしない。

 ボクは「うーん」と伸びをして、

「…うん、起きれるよ。おはよう、アドニ。」

 ぱちりと目を開く。丁度、アドニがボクの顔を覗き込んでいるところだった。今は茶色の髪が少し伸びて、目にかかるほどになっていた。さらに、あのピアスはなく、耳たぶに穴だけが空いている。

 何度見ても慣れない。手を伸ばせば、すぐにアドニに触れられるということが、未だに信じられない。

 アドニが心配そうな顔で口を開いた。

「顔色は良さそうだな…。でも、無理するなよ。病み上がりなんだからさ。」

「うん。でも、今日は調子がいいし大丈夫。それに、もう随分と治ったから、病人扱いしなくてもいいんだよ。」

「まあ、そうだな…。でも、本当に無理だけはしないでくれ。」

「うん、分かった。疲れたら、ちゃんと言うね。」

 そう言って、身体を横に向けて、ベッドに手ををついて、ゆっくりと起き上がる。この動作だけでも、少し辛い。それだけ、身体が弱っていた。重力で髪が顔に落ちてくる。雪のように真っ白な髪。あれから一年経ったのに、ボクの髪は白いままだ。

 ふうとため息をつき、壁に寄り掛かる。

 今日は良く晴れていて、太陽の光が部屋の中を明るく照らしていた。ボクの部屋にあるのは、ベッドとサイドテーブルとタンスだけ。この一年、ほとんど床に伏せていたので、看病に必要なもの以外はない。

 生き返った時、命以外はすべて置いてきてしまった。もう最強の人形と言われていた頃とは違って、早く走ることも、身体を酷使して戦うこともできない。それに、寿命だって普通の人に比べたら、ずっと短いはずだ。

 それでも、目の前にアドニがいるだけで、アドニがボクを見て嬉しそうに微笑んでいるだけで、不思議と悲しいとは思わなかった。

 アドニがベッドに腰かけて、ボクを見た。今日は珍しく髭をきちんと整えている。いつもは外出する用事がない限り、伸ばしたままなのに。

 アドニの手が頬に触れる。そして、顔を寄せてボクの額にキスすると、ニコッと笑った。

「誕生日おめでとう。ベオ。」

 一瞬、え?と固まる。どういうこと?と危うく訊ねそうになったが、すぐに思い出した。そうだ、今日はボクの誕生日だ。自分で決めたのにすっかり忘れていた。

「ありがとう、アドニ。」

 胸の中がじんわりと温かくなる。アドニの黄色の瞳には、きっと幸せそうに笑うボクが映っているのだろう。

 ボクはアドニの首に腕を回し、顔を近づけて囁く。

「ねえ、アドニ。」

「うん?どうした?」

「あのね、アドニが嫌じゃなければ…唇にキスしてもいい?」

 アドニの瞳が丸くなる。しかし、すぐに嬉しそうに、愛おしそうに、細くなった。

「もちろん。」

 目を閉じて、そっと唇を重ねた。アドニの匂いがする。煙草の臭いではない。アドニの身体の匂い。そして、微かに紅茶の香りがした。短く数回重ねて、そっと離す。しかし、すぐにアドニの唇が、足りないというように追いかけてきた。そうして、ボクたちは何度もキスをした。

 それは一瞬のことだったはずなのに、ボクには永遠のように感じた。まるで、ボクたちだけ世界に取り残されたような不思議な気分。それでも、唇が離れれば、元の世界に戻ってくる。

 アドニが気恥ずかしそうに笑って、

「…キスが、随分とうまくなったな。」

 とつぶやいた。ボクはクスッと笑って、

「アドニが教えてくれたからね。」

 と答える。ボクたちは顔を寄せてクスクスと笑いあった。


 アドニに手を引かれて、階段を下りる。ボクが転ばないように配慮してくれるのは嬉しいが、こんなことも満足にできないことが、少しだけ悲しい。

 ここはボクとアドニの家。二階建ての建物で、半年前にセラムとジユルが建ててくれた。それまでは、霧の街に身を寄せていたが、アドニの立場上、ずっと暮らすことはできなかった。

 竜の宝石。アドニはどうやっても、レイト人の敵。そして、ボクも竜の国では指名手配犯。

 ボクとアドニが二人で暮らせる場所は、人里離れた森の中くらいしかなかった。それでも、一握りの人々がボクらを愛してくれるなら、それでいいと思う。

 一階に降りて、リビングのドアを開く。すると、「えお!」と元気いっぱいの愛らしい声が響いた。

「レナ、来てたんだね。」

 レナはこくりとうなづき、とたたたとおぼつか無い足どりで、こちらに歩いてきた。レナは一歳八ヶ月。随分と髪も伸び、顔立ちも赤ん坊ではなくなってきた。やはりヤレンに良く似ている。でも、瞳の美しさはイズミル譲りだ。

 そして、もう一人、ソファに腰掛けてジユルが紅茶を飲んでいた。ジユルは今は髪を伸ばして、低い位置で結んでいる。それに、表情が飄々とした感じから、少し落ち着き、大人っぽくなった。

 ジユルはボクに気づくと、ニコッと笑った。さっきアドニから紅茶の香りがしたのは、ジユルと飲んでいたからかと気づく。

 レナはボクの前まで来ると、「あっこ!」と両手を広げて、ボクを見上げた。

「え…?ああ、抱っこ?」

「ん、あっこ!」

 キラキラと期待するような眼差し。最近は抱っこはおろか、立つことさえままならなかったのにできるだろうか…と迷う。それを察して、アドニが助け舟を出した。

「レナ、ベオはまだ抱っこできるほど、元気になってないんだ。俺が抱っこしてあげるから、それでいいだろ?」

「にに、や!えお、あっこ!」

「なあ、レナ…」とアドニがレナに目線を合わせて、説得しようとしたが、頑なに首を縦にふらない。それどころか、どんどん機嫌が悪くなっていった。

 ついに、ジタバタと床に転がり始めたところで、ジユルがやれやれと立ち上がった。

「まったく、わがままなお姫様だなぁ。仕方ない。オレが補助するからさ、ベオグラード、抱っこしてあげてくれる?」

「うん、分かったよ。ほら、レナ。抱っこするから、機嫌直して。」

 ジタバタ暴れるレナの隣に座って、とんとんと肩を叩く。すると、レナは涙を流しながら、こくりとうなづいて、手を広げた。ボクはレナの身体の下に手を入れて、持ち上げようとする。だが、やはり腕力が足りない。すると、ジユルがレナにばれないように、風で持ち上げてくれた。

 子どもの何とも言えない、ちょっと酸っぱいような匂いに包まれる。ジユルが補助してくれているとはいえ、どっしりと重い。それに、じんわり熱い。大きくなったなぁと、何だか感慨深くレナを眺めた。

 レナはボクの服を握って、満足そうに「へへ」と笑った。白い肌にピンク色の唇、黄金のような金の瞳。暴れて乱れた金髪。何度見ても、この子にヤレンの、そして、もしかしたらイズミルの血が流れていると思うと不思議な気分になる。

 レナは抱っこしてもらって満足したのか、アドニの方を見て、

「にに、あっこ!」

 と元気に叫んだ。全員がお腹を抱えて笑い出す。まったく、子どもというのは、本当に面白い。

 レナがアドニに抱っこされながら、キッチンに消えたところで、ジユルの隣に腰掛ける。少しの運動でもやはり疲れる。すると、ジユルが新しく紅茶を淹れて、ボクの前に置いてくれた。そして、またニコッと笑って、

「ベオグラード、十八歳の誕生日おめでとう!」

 と言った。ボクは頬を緩めて、

「ありがとう。ジユル。嬉しいよ。」

 と礼を言う。誰かに誕生日を祝われるなんて、あまり経験がなくて、未だにどんな表情をしていればいいのか分からない。

 照れ隠しに紅茶を一口飲んだ。温かい。それに、いい香りだ。

「美味しい。こんな上等な紅茶が家にあったなんて知らなかった。」

「ああ、それ、ジユルが持ってきてくれたんだぜ。」

 キッチンからアドニがひょいと顔を出した。「お礼言っておけよ」とだけ言って、また戻る。ボクが「ありがとう。美味しいよ」と言うと、ジユルは嬉しそうに微笑んだ。

「それは良かった。これはアルメリアが選んだよ。さすが育ちがいいだけあるよなぁ。」

 少し照れくさそうにつぶやく。その左手薬指には、結婚指輪が光っていた。ジユルは半年前にアルメリアと結婚した。そして、今アルメリアのお腹には、赤ん坊がいる。やっと安定期に入ったそうで、たまにボクの顔を見に来る。

 今、霧の街は変わりつつある。長の一族は身を引き、新しい長が政治を行っている。そして、ジユルとセラムが、それを手伝っている。レイト人は結局、三万人と少ししか残らなかった。それでも、ゼロではない。確実にレイトの血は後世に残っていく。

 ふと気になって、ジユルに質問する。

「そう言えば、アルメニアは今日は来てないの?」

「ああ、後でセラムとイジュマと一緒に来るよ。色々揃えてからって言ってたから、昼過ぎくらいになるかもね。オレはレナのお世話係として、先に来ただけだからさ。」

「そっか…。その…、レナの世話、任せっきりでごめん。少しは手伝えたらいいんだけど…」

「いいって。ベオグラードは、まずは元気にならないとだぜ。それに、オレたちもイジュマたちも好きでしてるんだから、気にするなよ。後、レナも二つの家を行き来して、楽しいみたいだし。」

 レナは基本的に霧の街に居て、スタアク夫婦と、イジュマとセラムが育てている。たくさんの人に愛情を注がれているせいか、表情豊かで良くしゃべるようになった。

 ボクは熱を出していることが多く、あまりに可愛がってあげられないが、それでも、レナはボクに懐いていた。元々、人見知りしない子だが、それが少しだけ不思議だ。

 ジユルと他愛ない話をしていると、アドニがお菓子を持って戻ってきた。いつの間にか、レナの髪がきれいに整って、ツインテールになっている。

「可愛い髪型だね。アドニに結んでもらったの?」

「ん!」

「そっか、よく似合ってるよ。」

 嬉しそうに、ニパッと笑った。さっきまで泣いて暴れていたのに、子どもというのは気分がころころ変わる。

 レナはアドニの腕から降りて、床のおもちゃで遊び始めた。それを眺めているだけで、何だか幸せだなと思う。

 アドニがボクの隣に座って、菓子をテーブルに置いた。一つつまんで口に運びながら、ボソッとつぶやく。

「…レナは母親似だな。」

 意外な言葉に驚く。

「そうなんだね。ヤレンは大人しいイメージだった。」

「へえ、そうなのか…。ヤナもあんな感じで、元気な子だったんだぜ。目を離すと、すぐにどこかに行くから、その度に追いかけて…」

 懐かしそうに目を細めた。ヤレンと過ごした日々が、アドニの中に確かに存在するのだと、ボクは何とも言えない温かな気持ちに包まれる。

 それから、ジユルとアドニの会話に耳を傾け、美味しい菓子と紅茶を飲みながら、のんびりとした時間を過ごした。

 正直、最初はアドニが皆となじめるか不安だった。しかし、アドニは持ち前の明るさと、ヤレンの幼なじみという立場もあって、すぐに仲良くなった。特にジユルとは話が合うようで、ボクがいないところでもよく話している。元々、この二人は良く似ているので、馬が合うのかもしれない。

 温かな日差しと雰囲気に、うとうとと眠気に襲われる。起きていようとしたが、どうにも睡魔に勝てず、そのまま眠りに落ちた。

 *

 美味しそうな匂いで目が覚めた。いつの間にか、眠っていたようだ。目を擦り、起き上がる。ボクはソファに横になって寝ていた。冷えないように、身体にブランケットがかけてある。

 顔を上げると、丁度皿を運んでいたセラムと目が合った。

「おはよう。よく寝てたな。」

 セラムがふっと笑って、通りすぎていく。相変わらずオールバックにしているせいか、人相が少し悪く見えるが、表情は随分と柔らかくなった。ふとした時の仕草がイジュマに似てきたなと思う。

 きょろきょろと回りを見渡すと、部屋がいつの間にか飾り付けられていた。お祝いの装飾。その鮮やかな色合いに、ドキドキと胸が高鳴る。

 アドニが気づいて、少し心配そうな顔でボクの顔を覗き込んだ。

「体調は大丈夫そうか?」

「うん、大丈夫。寝て元気になったよ。」

「そうか、それは良かった。」

 ほっとしたように、よしよしとボクの頭を撫でた。本当はキスしたいという気持ちがにじみ出ている。それが、ちょっと面白くて頬が緩まった。

 ボクも手伝おうとしたが、イジュマに「レナを見ていて」と頼まれ、すごすごと退散する。イジュマは髪を腰まで長く伸ばしていたのに、最近になってばっさり切った。それが、またよく似合う。セラムがボソッと「惚れ直した」とつぶやくほどだ。

 言われた通り、レナの隣に座って、

「レナは、どんなおもちゃで遊ぶのが好きなの?」

 人形や積み木を眺めながら聞くと、「あい」と石を渡してくれた。何の変哲もない、道端に落ちていそうな石。それを並べて遊んでいる。

 これはなかなか難しい遊びだな…と貰った石を握り締め、その様子を眺める。少し前まで赤ん坊だと思っていたのに、いつの間にかこんなに大きくなっていた。こうやって、少しずつ成長し、いつか大人になってしまう。変わってしまう。

 レナだけじゃない、ジユルもイジュマもセラムも、そして、アドニも年老いていく。ボクはそれを、どのくらい傍で見ていられるだろう。

 その時間が長くなくとも、もし明日終わるとしても、ボクは心から幸せだと思う。だって、あの時死んでしまうはずだったのに、こうやって、十八歳の誕生日を迎えられたのだから。

「ベオ、そろそろできるぜ。こっちにおいで。」

 アドニの声が響く。ボクは「はーい」と返事をして、レナの手を引いて振り返った。いつの間にか、テーブルいっぱいに美味しそうなご馳走が並んでいた。スープにパン、それに肉料理、菓子まである。相当奮発して揃えてくれたのだと思うと、胸が熱くなった。

 皆、嬉しそうにニコニコと笑っていた。セラムは少し控えめだが、それでも銀色の瞳が嬉しそうに細くなっている。

 立ち尽くすボクを見て、セラムがふっと笑った。

「何呆けた顔してるんだ。こっち来いよ。」

「…うん、皆、ありがとう。」

 感動で今にも泣いてしまいそうなのを堪える。せっかくのお祝いの席が、涙でしょっぱくなってしまうのは嫌だ。今は泣くより、笑っていたい。

 ボクの手をぎゅっとレナが握った。レナを見ると、楽しそうにボクを見上げてニパッと笑った。レナも今日がどんな日か理解している。それが、何だかとても嬉しかった。

 ボクが席につくと、アドニとジユルがボクの両隣に座った。そして、目の前にセラムが座り、その両隣にイジュマとアルメニアが腰を下ろした。アルメニアのお腹が前に見た時より、さらにふっくらとしていた。もう少ししたら、ジユルとアルメニアの子が生まれる。そしたら、レナもお姉さんになる。

 ジユルがグラスに飲み物を注いでいく。そして、グラスを持つと、心の底から嬉しそうに、

「ベオグラード、誕生日おめでとう!今日は好きなものを好きに食べてくれ!それじゃあ、乾杯!」

 と言って、グラスを持ち上げた。グラスがかつんと当たる音が響き、それから、お祝いの言葉が雨のように降り注いだ。

 ボクは胸いっぱいで、何だか訳が分からなくなって、ただ「ありがとう。ありがとう」と繰り返した。去年の誕生日は生死の境をさまよっていたので、お祝いどころではなく、皆の誕生日もほとんど寝込んでいて、後から「おめでとう」と伝えて、プレゼントを贈るだけだった。だから、こういう時、どう反応していいか、よく分からない。それでも、精一杯感謝の気持ちを伝えるくらいはできる。

 乾杯の音頭が終わると、皆一斉に食事を始めた。ボクの前にも、たくさんの食べ物が並んでいる。すべて手作り。皆で手分けして作ってくれたのだ。それが、言いようもないほど嬉しかった。

 アドニの腕がちょんと当たる。見上げると、見たことのないほど、優しく穏やかな表情をしていた。ボクがじっと見ていることに気づき、「どうした?」と首を傾げる。

 好きな人が隣に居て、幸せそうな表情を浮かべている。これ以上何を求められるだろうか。

 ボクは、「何でもないよ」と答えて、食事を口に運んだ。

 いつもよりもずっと美味しくて、何だか幸せな味がした。


 賑やかな誕生会も終わり、ジユルたちは帰っていった。レナが珍しく「やら!」と駄々をこね、泣きながらボクとアドニに手を振る様子が、脳裏に焼き付いている。

 本当に可愛くて、ずっと見ていたくなるほどに愛おしい。ボクとアドニでは、子どもを作ることはできないけれど、レナはまるでボクたちの子どもみたいだ。もう少し、ボクの身体が強ければ、二人で育てられたのに…と思う。

 アドニは子どもが好きだ。もちろん、ヤレンの子というのもあるだろうが、本当にレナを可愛がっている。それに、子どもとの接し方がうまい。昔、妹がいたと言っていたことも関係しているのかもしれない。

 ソファでくつろいでいると、濡れた髪を拭きながら、アドニが入ってきた。ボクの隣に腰かけると、ボクの濡れた髪をぐしゃぐしゃと拭き始めた。

「濡れたままにしてると風邪ひくぜ、ベオ。」

「…ついボーとしてた。ちゃんと乾かすよ。」

 それでも、アドニがわしゃわしゃと髪を拭き続ける。アドニは過保護だ。それは、ボクの身体が弱いからだろう。アドニはたぶん、ボクがそんなに長くないと思っている。そして、その日が来るのを恐れている。だから、できるだけ、不安要素を取り除きたいのだ。

 あっという間に髪が乾いた。ボクは小さくお礼を言い、アドニの顔を見上げる。アドニは自分の髪を拭きながら、「どうした?」と首を傾げた。

「アドニ。今日はありがとう。とても楽しかった。本当の生まれた日ではないけど、お祝いされると嬉しいものだね。」

「それは良かった。俺も祝えて嬉しいよ。それと、少しほっとした。これからも、ずっと祝わせてくれ、ベオ。」

 そう言って、顔を寄せて、ボクの頬にキスした。ボクは「もちろん」とうなづき、アドニをぎゅっと抱きしめる。温かい。それに、石鹸のいい香りがする。アドニの手がボクの背中側に回り、優しく抱きしめた。しかし、すぐにぱっと手を離し、

「大分疲れたんじゃないか?そろそろ寝な。」

 と言って身体を離した。ボクは首を振って、

「そんなに疲れてないよ。まだ眠くもないし…、隣に居ちゃダメ?」

 と囁く。アドニは一瞬考えて、

「疲れを感じてないだけだ。今日はもう寝た方がいい。ほら、おいで。」

 そう言って立ち上がると、ボクに手を差し伸べた。有無を言わせない言い方に、大人しく従うしかない。

 せっかく十八歳になったのだから、キス以上の事をしたかったのに…

 それでも、それを口に出す勇気がない。自分の部屋に戻り、ベッドに仰向けに寝転がった。しばらく、木の天井をぼんやりと眺める。やっぱり眠くない。それに、何だか頭の中がもやもやして、すっきりしない。

 身体を起こして、壁に寄り掛かった。目を閉じると、隣の部屋でアドニがごそごそと作業している音が聞こえる。アドニもまだ寝ていないようだ。

 どうしようかと迷う。アドニの気持ちも分かる。ボクにできるだけ無理してほしくないのだろう。それでも、どうしてもアドニに触れたいと思ってしまった。

 トントンと遠慮がちに、扉を叩く。期待と不安が混ざった気持ちに、心拍数が上がり、心臓が痛む。こんなに緊張するのは久しぶりだ。

 すぐに、アドニが扉を開けて顔を出した。

「どうした?」

 怪訝そうな表情。ボクは気持ちを伝えようと口を開いた。しかし、どうしても勇気が出ず、もじもじしてしまう。

「あのね、その…」

「うん?」

「えっと……。今日…一緒に寝たらダメ?」

 やっと言えたのは、この程度だった。あまりに恥ずかしくてうつむく。顔がカッカと熱い。やっぱり言うんじゃなかった…という後悔に襲われて、居ても立っても居られなくなった。

 ちらっとアドニの顔を盗み見ると、考えるようにじっとボクを見ていた。少し間があって、アドニが口を開く。

「…いいぜ。おいで。」

 ボクは、ほっと胸を撫で下ろし、「良かった…ありがとう」と言って部屋に入った。

 アドニの部屋はボクと同じ大きさだが、窓の向きが違う。そして、もう一つ壁を覆うほど本が並んでいる。それが、ランタンの光に照らされて、ぼんやりと浮かんで見えた。

 ボクはベッドに座って改めて部屋を見まわした。アドニの身長でもゆったりと寝れるほど広いベッド。物がごちゃっと載ったったテーブル。その上には煙草の箱が載っていた。だが、灰皿は見当たらない。

 そういえば、ちゃんとアドニの部屋に入るのは初めてだ。興味津々にきょろきょろと部屋を眺める様子を、アドニがおかしそうに笑った。

「俺の部屋、そんなに面白いか?」

「うん、見たことのない物ばかりある。面白いよ。」

 アドニが「はは」と笑いながら、隣に座った。身長差があるので、顔を見るためには、見上げるしかない。しばらく、じっと見つめ合う。

 黄色の瞳がランタンの光で、キラキラと輝いている。まるで、イエローダイヤモンドみたいだ。初めて会った日も、アドニの瞳があまりに綺麗で、つい見惚れたことを思い出す。

 そうだ。そうだった。この笑顔を、ずっと手に入れたかったんだ。

 ボクはアドニの頬に手を当てて微笑む。

「ねえ、アドニ。好きだよ。心の底から、ボクはアドニが好き。」

 ボクの言葉に、アドニの瞳が驚いたように丸くなった。しかし、すぐに照れくさそうに笑って、

「俺もだ。俺もベオが好きだよ。」

 そう言って、額を合わせた。ボクはアドニの唇にそっと触れ、目を細める。

「ふふ、好きって伝えるだけで、何だかとっても幸せだね。ボクの見た目こんなに変わっても、愛してくれて、ありがとう。」

「…当たり前だろ…」

 アドニが消え入りそうな声でつぶやいた。その瞳には涙が溢れんばかりに溜まっていた。目を閉じると、涙が筋になって頬を流れる。震える唇を通り、顎に溜まってぽたぽたと落ちて行った。

 声も出さず、アドニが泣いている。悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。何だか嬉しくて胸の中がじんわりと熱くなり、ボクの瞳からも涙が零れた。

 ボクたちは見つめ合い、それからキスをした。次は、熱く何度も何度も唇を重ね、舌を絡める。ボクは目を閉じて、その感触に集中した。ちょっと塩辛くて、気持のいいキス。重ねれば重ねるだけ、どんどん欲しくなっていく。

 アドニの手が裾からゆっくりと中に入り、背中に触れた。温かい手のひらの感触に身体が反応して、少しだけビクッと震えてしまう。すると、はっとしたようにアドニが唇を離して、

「…大丈夫か?すまん、ついやり過ぎたな…」

 と身体を離そうとした。咄嗟にアドニを抱きしめ、

「…大丈夫だよ。大丈夫だから…もっと触って…アドニ。」

 と囁き、首にキスをする。アドニの身体も熱い。興奮で火照っている。その熱がボクの身体も熱くしていく。

 アドニがボクの髪を撫で、

「…ずるいぜ、ベオ…。そんなこと言われたら…我慢できない…」

 とつぶやき、唇を重ねた。ゆっくりと指が背中をなぞる。夢中になってキスしているのに、その触り方は優しくて、まるで壊れ物を扱っているようだった。

 アドニの唇が離れ、ボクの首に触れた。短くキスしながら服の中に手を入れて、たくし上げる。あちこち深い傷が残った、ぼろぼろの裸が目に入った。恥ずかしくて、さっと顔をそむける。

 アドニの舌先が乳頭に当たる。そのまま、舌先で転がすように舐め始めた。その感触がこそばゆくて、つい「ふふ」と笑う。

「くすぐったいよ、アドニ。」

「くすぐったいだけ?」

「うん、他に何かあるの?」

 純粋な疑問を口にする。アドニは「まあ、初めてだし、そんなものか」と小さくつぶやいて、

「その内よくなるぜ。ベオが良ければ、もう少し触ってもいい?」

「うん、いいけど…」

「ありがとう。」

 ちゅっと乳頭にキスして、次は吸い始めた。まるで、赤ん坊がお母さんのおっぱいを吸っているみたいだ。ボクはなんとなくアドニの髪を撫でた。柔らかい。撫でているだけで、何だか幸せだなと思う。

 アドニの手が、ゆっくりと脇腹を通って下りて行く。指がズボンのすそに入った。ぐっと引っ張って、ズボンを下ろそうとする。

 ボクは咄嗟に、その手を掴んで、

「ボクもアドニに触りたい。それからじゃ、ダメ?」

 と囁く。アドニの動きがピタッと止まった。思ってもいない言葉だったのだろう。少し考えた末、こくりとうなづいた。

「…いいぜ。好きにしてくれ。」

「ありがとう、アドニ。」

 次はボクがアドニの首に口づけする。アドニの口から「ん…」と小さく声が出た。舌の先で、ぺろりと舐める。汗の味がした。そして、少しだけ石鹸の味もする。ちゅっちゅっと軽く口づけしながら、服の中に手を入れる。驚くほど熱くなっていた。同じようにたくし上げると、火傷やひっかき傷の残った身体が現れた。ボクと違って、筋肉が発達してがっしりしている。服の上からでは分からなかったが、よく鍛えられている。

 ボクもアドニの真似をして、乳頭を舌先で舐めた。すると、アドニが「う…あ…」と低い声を出し、口元を手で覆って隠した。舐めたり吸ったりすると、どんどん呼吸が荒くなっていく。それを見て、触られると気持ちがいい場所など理解した。

 ついに我慢の限界というように、アドニがボクを押し倒した。ボクの上に覆いかぶさると、ベッドの脇に置いていたランタンを消した。

 一気に部屋が暗くなる。

 ボクは夜目が利くので、すべてがはっきりと見えた。アドニの唇が、口に当たる。今度は激しく、貪るように舌が口の中を暴れまわった。息する間もなくキスする。何だかこの光景見たことがある。いつかは分からない。でも、初めてではない。それはおそらく…夢の中だろう。

 キスをすればするほど、下半身が熱を持っていった。ズボンが苦しくて仕方ない。もう脱いでしまいたいと思った途端、アドニの指がズボンの裾に入り、下にずらした。そして、そのまま、足を滑って脱げる。

 開放感と恥ずかしさが同時に襲ってきて、目をぎゅっと閉じた。アドニの唇がお腹に触れ、ちゅっちゅっと短くキスしながら、段々と下におりていく。

 あっと思った時には、アドニの口がボクの大きくなったものに当たった。ボクは慌てて身体を起こして、止めようとする。

「き、汚いから…」

 アドニはちらっとボクを見ると、舌先でぺろっと舐めた。身体に電気が走る。ぱっと口元を手で覆って、ふるふると首を振る。それでも、アドニはやめてくれなかった。舌でゆっくりと舐め続ける。ぞくぞくと快楽が身体を走り抜け、口から変な声が出る。

 少しの間続けると口を開いて、かぷっと咥えた。「ン―――!」と思わず叫ぶ。今まで感じたことのない、気持ちの良い温かさに、一瞬飛んでしまいそうになった。

 ずぼずぼと音を立てて、口が動く。その度に、びりびりとした衝撃が身体を走り抜け、思わず声が出た。

「ん…ああ…うう……」

 気持ちがよくて、どうにかなってしまいそうだった。はあはあと天井を見つめる。自分で触るのとは全然違う。熱に溶けてしまいそうだ。

 アドニの手がボクの手に重なる。ボクはその手を握りしめた。大きな手。ボクの好きなアドニの手。

 アドニの口から、するりと抜ける。その感覚に身体がびくびくと震えた。アドニは涎まみれになった口元を拭って、もう一度、ボクに覆いかぶさった。

 ボクの瞳は潤み、頬は興奮に赤く、熱に浮かされたような表情をしているはずだ。アドニがボクの頬に手を当てて囁いた。

「大丈夫か…?まだできそうか…?」

 心配そうに顔を曇らせている。ボクがこくこくとうなづくと、「無理だと思ったら言ってくれ」と言い、額にキスした。

 そして、自分のズボンを下ろして、ボクの股の間に座った。何かがボクの上に重なる。熱くて大きくて、ちょっと凸凹している。すぐに、アドニのだと理解した。

 ボクの手を掴んで、握るように言う。ボクは両手で覆うように握りしめた。ボクの手のひらの中で、二つ重なっている。ボクのはそんなに大きくないけど、アドニのはとっても大きい。

 ボクが掴むと、アドニがボクの身体の横に手をついて、ゆっくり腰を動かし始めた。涎が潤滑剤になって、ぐちゃぐちゃと音を立てて擦れる。

 擦れれば擦れるほど、快楽が何度も押し寄せて、声を止めることができない。口から「う…あ…んあ」と漏れる。アドニの顔も恍惚として、口から吐息が漏れている。

 アドニがボクの唇にキスをして、「気持ちいい?」と囁いた。ボクはうなづきながら、「うん…気持ちいいよ…」とつぶやく。

 口や瞳から液体が流れ、顔を汚していった。こんなにどろどろになるなんて、想像もしていなかった。ただただ気持ちがよくて、温かくて、不思議と疲れることがない。

 快楽が波のように何度も押し寄せ、ついに我慢ができなくなった。今にも出てしまいそうになって、ぎゅっと握りしめる。

「アドニ…ボクもう…」

「…ああ、俺も…」

 その瞬間、今まで感じたことのない快楽が身体を走り抜けた。「うっ」と短く呻く。びゅっびゅっと液体が勢いよく飛び出し、胸の上にぱたぱたと落ちた。勢いを失った後も、生温い液体が手のひらから、お腹にぼたぼたと落ちていく。

 急にどっと疲労が押し寄せて、力なくだらりと横たわる。身体中が熱くて、汗ばんで、気持ちが悪い。荒くなった呼吸を整えようと、深呼吸を繰り返した。

 アドニが立ち上がり、タオルを持ってきた。ボクの胸の上にべったりと垂れた精液を拭き取り、それから下半身を拭き始めた。あっという間に、タオルがぐっしょり濡れる。もう一枚乾いたタオルで、綺麗に拭き取ると、ボクの隣に寝ころんだ。

 ボクの汗ばんだ額にキスして、ぎゅっと抱きしめる。アドニの身体は汗が冷えて冷たくなっていた。それが火照った身体を冷ましてくれて、何だか気持ちがいい。

 アドニの汗の匂いに包まれる。その温かさと匂いが、あまりに幸せで、瞳から涙が零れた。ボクは声を押し殺して泣いた。本当は泣くつもりはなかった。それでも、涙を止めることができない。

 ぐずぐずと鼻をすする音で、アドニに気づかれてしまった。ボクの顔を覗き込んでいるのが、涙で霞んだ景色の中でぼんやりと見えた。

「どうした…?どこか痛いのか…?」

「ううん…違うよ…。あんまりに幸福で…涙が止まらないの…」

 熱い涙が目尻からベッドに染みていく。アドニがボクの涙を指で拭って、よしよしというように頭を撫でた。

「…ベオが幸せなら、俺も幸せだよ。」

 その言葉に胸がいっぱいになって、アドニの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。

「…アドニ…好きだよ…。どうか…ボクが死ぬまで…ずっとそばにいて…」

「ああ…ずっとそばにいるよ。ベオが寂しくないように、毎日キスするし、こうやってたくさんベオを抱きしめる。だから、俺が死ぬまで、ずっとそばにいてくれ…」

 その温かな腕の中で、ボクは涙が枯れるまで、泣き続けた。アドニは何も言わず、ただ傍に寄り添ってくれた。その優しさが、温かさが、ボクにとって救いだった。

 おやすみのキスをして、ボクたちは眠りについた。少しして、アドニがすうすうと寝息を立て始める。ボクはその唇にそっと口づけした。途端、猛烈な眠気に襲われる。

 酷く疲れて、もう意識を保つことができない。

 ボクはふうと大きく息を吐き、それから、目を閉じた。









 愛する人よ、

 どうか幸せに。

 そして、ボクがいたことを、

 どうか忘れないで。

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