第四章 悪夢

     1

 コーン代わりに並べた拳大の石の間を、ジグザグにドリブルで抜けていく。

 脳内に映っている敵 ――はるはまむしひさか自分でも分からないが―― をかわし、そして右足でシュートを放った。


 壁に跳ね返ったボールが、大きな弧を描いて戻って来る。軽く跳躍して、今度はヘディングでシュートだ。


 これはさすがに我孫子あびこひがしの正ゴレイロなかひめでも防げないだろう。ボールは見事、ネットに突き刺さった。


 って、そう都合よくいくわけないか。


 苦笑。


 むらはボールを拾うと、今度はリフティングを開始した。

 使用しているボールは、サッカー用の四号球だ。

 梨乃はサッカー経験はないけれども、一人練習用にはサッカーボールの方が具合がいい。フットサルのボールはローバウンド球であり、とにかく弾まないからだ。


 梨乃のボール扱いは実に器用なもので、頭、足、腿、胸、肩、背、と身体のどの部分でもボールを受けてしまう。受ける能力だけでなく、真上に蹴り上げる能力も相当に高い。ボールの中心をほぼ正確に捉えているからだ。だからほとんど立ち位置が動くことなく、いつまでもリフティングを続けていられる。


 時折、壁に向かって強いボールを蹴っては、その跳ね返りを頭や胸で受けている。


 土曜日の朝、七時をわずか過ぎた頃である。


 ここは、利根川の河川敷だ。

 とり市に海はないが、隣はちよう市、海が近いだけあって川幅は広い。


 なお、利根川は県境を流れており、対岸は茨城県である。


 木村梨乃は現在高校三年生、二ヶ月前までわらみなみ高校のフットサル部に所属していた。

 現在は引退し、受験勉強に専念している。

 大学に進学したら、またフットサル部に入るつもりでいる。

 もし自分の入ることになる大学にフットサル部がなかったら、仲間を集めて同好会を作ってもいいかなと考えている。


 さて、朝練終了である。

 これから家に帰って、受験勉強の時間だ。


 フットサル練習に割くことの出来る時間はぐっと減ってしまったが、その分自分で色々と考えて密度の濃いメニューをこなしているつもりだ。少なくとも、受験が終わるまでの現状レベル維持は出来るだろう。試合勘、というものに関しては、どうしようもないが。


 以前の梨乃ならば、休日にフットサル部の朝練がないときなどは、朝ずっと布団とお友達なのは当たり前、昼過ぎまで寝ていることも多く、たまに早く起きてもぼーっとしてグダグダ、という感じだったので、それにくらべれば現在は実に引き締まった生活を送っている。


 ボールの汚れを軽く払うと、スポーツバッグに入れた。


 髪の毛を縛っていたヒモをほどくと、はらり、と髪が背中まで垂れた。以前はショートにしていたのだが、部活引退の少し前から伸ばしはじめたのだ。「彼氏が出来てから、ずっと伸ばしたかったんだろう」親友の浜虫久樹に、そうからかわれたことがある。その通りなので否定しなかった。


 人目も憚らず手を繋いで歩くほどに、恋人との関係は良好。しかし三年生になってからは、会う回数を減らしている。お互い受験生であり、勉強に専念したいからだ。


 帰り支度を整えると梨乃は改めて川原をゆっくりと走ったり、ストレッチを行ったり、と五、六分ほどクールダウンを行った。


 バッグを背負うと、早足で河川敷を後にした。


     2

 むらの自宅は、店舗兼住居。


 豆腐屋である。

 以前は両親夫婦で働いていたのだが、母親は梨乃がまだ小学生の頃に病気で亡くなった。

 代わりに従業員を一人雇い、現在は父親とその従業員の二人で仕事をしている。梨乃もたまに店番や配達を手伝うことがある。


 世の中は相変わらずの不景気であるが、営業努力の賜物か、最近若干売り上げが回復してきている。これから大学に入ろうという梨乃には、有難いことである。自分が、というよりも、それがために大学を諦めることになったならば父親が悲しむだろうから。


 帰宅した梨乃は、シャワーで軽く汗を流すと、昨夜のうちに用意して冷蔵庫に入れておいた果物皿を持って二階の自室へ上がった。


 果物を摂るのは脳への栄養のため。これから朝食の時間まで二時間、ずっと勉強するのだから。


 朝食の後も勉強だ。

 普段の日ならば、昼食の後も夕食まで、夕食の後も寝るまで。と、とにかくひたすらに勉強勉強なのだが、今日は午前だけで終了。午後から豆腐配達の手伝いをするためだ。

 たまにはフットサルの自主トレ以外でも身体を動かさないと、肉体が錆びれるどころか脳まで腐ってしまうから。


 本当はデートの予定だったのだが、彼氏の都合で急遽キャンセルになってしまったのだ。


     3

 軽トラックの助手席に座る梨乃は、シートを少し後ろに倒して、ぐったりとした様子で背を預けている。

 ぶるぶると中途半端に質の悪い振動が、シート越しに伝わって来る。

 もう、十年近くも使っている軽トラックだ。

 いっそのこと、もっとガタが来ていれば、マッサージ機みたいで気持ちいいかも知れない。

 このトラックも、すっかり原価償却済みだ。もって来年か、再来年といったところだろう。実母がよく運転していた車であることを思うと、なんだか寂しくもある。


 実母、とわざわざ母の頭に実をつけたのは、梨乃に継母が出来るかも知れないからだ。

 父親が、おばにすすめられてお見合いをした相手と、現在交際中なのである。このまま順調に話が進めば、今年の暮れか、来年の頭には、二人は結婚することになる。


「梨乃さん、大丈夫ですか?」


 豆腐屋従業員のヒデさんは、運転しながらさっきからそればかりいっている。


 一件目の配達を終えて、現在は次の得意先へと向かっているところだ。


「だから、だいじょおぶだって。今日は一日の勉強ノルマのほとんどを午前中にやっちゃったからさあ。頭が死んでるだけ。体をハードに動かせば、すぐよくなるから」

「どんな体ですか」


 それからしばらく、車内には沈黙が続いた。

 景色だけが変化していく。ゆっくりと、後ろに流れていく。でも梨乃は目を閉じていて、見ていない。


 目を閉じたまま、おもむろに、口を開いた。


「豆腐運びと領収書切りだけじゃなく、車の運転もしてみたいなあ。この軽トラが無事なうちに」

「まず、免許取らないとですねえ」

「そうなんだけど、今年は取れないな。あたしが全然時間割けないし、時間があってもお金がないでしょ。大学入ったらこつこつアルバイトでもして、夏に免許取るよ」

「そういうのは親に頼っちゃっていいのに。未成年なんですから」


 梨乃の、親に負担をかけまいとする気持ちはよいが、それがあまりに過ぎていて、ヒデさんにはどうにもはがゆく感じられてならないのだろう。


「ね、ヒデさん、次どこだっけ」

「香取の飲食店を三件。今日はそれで終わりです」

「了解」


 香取市の面積は相当に広く、ここでいう香取とは、香取駅近辺のことだ。


 残りの三件、特に問題もなく配達は完了した。


 そして帰り道である。

 梨乃は、トラックの助手席に座っている。

 先ほどまでのぼーっとしていた頭も、肉体を動かしたことで、いまはかなりすっきりしている。

 倦怠感と一緒に英単語まで抜けてしまってないか心配になり、幾つか思いつくまま、単語熟語を口に出してみる。

 よし、大丈夫だ。たぶん。


「お疲れ様でした、梨乃さん」

「いえ、ヒデさんこそお疲れ様でした」

「また走って帰るんですか?」

「うん。そうしたいな。香取くらいなら近いし、丁度いい」


 今日のように配達の手伝いをしたあとは、よほど遠かったりよほど疲れていない限りは、途中で降ろしてもらって自分の足で帰るようにしている。

 身体を鍛えるためであり、また、慣れない道を通るのが楽しいからでもある。


 梨乃は、香取駅の近くで軽トラックを降りた。

 走り去る軽トラックを見送ると、利根川のある方向へと歩きはじめた。

 いつも香取から佐原へ帰る時には、利根川土手の遊歩道を利用するのだ。


「そういえば、確かここのすぐそばにスーパーがあるよな。香取駅を越えたところ。走る前にアミノ酸飲料でも飲んでおくか。どうせなら余計な脂肪燃やしたいしな。効果あんのか分からないけどね、ああいうのさ」


 梨乃はぶつぶつひとりごとを呟きながら歩く。

 高校入学と同時にフットサル部に入り、鍛えに鍛えた身体は、筋肉はしっかりとついていて脂肪はさほどないという実に引き締まったものであるが、引退してからというもの、なんだか脂肪がうっすらとついてきたような気がしてならないのである。「恋愛太り?」などと久樹にからかわれる前に対策しておかないと。


 香取駅の駅舎前を通る。


「あれ、なんか駅の建物が変わってる」


 以前は古臭い電車の形の駅舎だったのだが、いつの間に建て直したのか神社のような形になっている。


「こんなとこにお金使うなら、増便したり、運賃を安くすればいいのに」


 あ、そうそう。確か、王子やサジって、最寄がここだよな。


 ……王子、きっとここでいつも、遅刻遅刻叫びながら電車に飛び乗ってんだろうなあ。


 サジに電車のドア開けて貰っていたりしてえ。

 まさかね。


     4

「あれえ、サジじゃん」


 近くに住んでいることは分かっていたが、まさかこんなあっさり出会ってしまうとは。


 ここはむらの訪れた、香取駅近くにあるスーパーマーケット。

 ゆうが、カゴを乗せたカートを押しては立ち止まり、押しては立ち止まり、メモを片手に食材の値札と睨めっこしているところに遭遇したのである。


 夕飯のための買い物だろうか。


 だぼっとした大き目のスエット姿という楽な服装。地元とはいえ、しゃれっ気の欠片もない。

 サジの私服姿を始めて見たが、まさか遠くへ行く時もこんなんじゃないだろうな。

 と、思わず心配してしまう梨乃。

 背に声を受け、びくりと肩を震わせながらも振り返った佐治ケ江は、声の主が高校の先輩である木村梨乃であったことを知ると、安堵と驚きのごちゃまぜになったような表情になった。


「梨乃先輩! あ、あれ、なんで、ど、どど、どうもご無沙汰してます」


 佐治ケ江はつっかえつっかえ頭を下げた。


「なにうろたえてんだよ。他人じゃないんだから」


 梨乃は佐治ケ江の脇腹を人差し指でつついた。


「会ってはいないけど同じ学校に通ってるのに、ご無沙汰はおかしくない?」

「どうもすみません。いきなりだったもんやけ」

「あたしもだよ。サジは確か香取だよな、なんて思っていたけど、まさか本当に会うとは思わなかった。なにしてんの? って買い物に決まってるか。あたしの方こそなにしてんだって話だよね。店の手伝いでこっちまで来てて、終わったんで、これからジョギングでもして帰ろうかと思ってさ。飲み物買いに寄っただけ」

「そうなんですか。どうもお疲れ様でした。あたしは、夕ご飯の買い物です」

「えらいなあ」

「いえ、お店の手伝いをしている先輩の方がよほどえらいです」


 佐治ケ江は、梨乃と雑談をしながら買い物を続けた。雑談といっても、梨乃が話を振っては佐治ケ江が応じるというだけであるが。


 買い物も終わり、二人は店を出た。

 梨乃は来店の目的であるアミノ酸飲料を買うのを忘れていたことに気付いたが、わざわざ引き返すのもなんだし、二、三十円ほど高くはなるけど途中の自販機でもいいや、と諦めた。


     5

 二人は並んで、香取の街中をゆっくりと歩いている。

 そろそろ別れようかな、と、梨乃が思った時である。佐治ケ江は、梨乃のまったく予期もしなかった言葉を発した。


「あの、うち、ここから近いけえ。よかったら、遊びに来ますか?」


 梨乃は驚いた。佐治ケ江が、自宅に人を招こうとするなんて。

 誰とも打ち解けようとしなかった一年前の佐治ケ江ではないこと、充分に分かっているつもりだったのに。


 王子のおかげだろうな、きっと。

 梨乃は思う。

 今年に入ってからというもの、王子ことやまゆうと佐治ケ江は妙に仲がいい。自宅の最寄駅が同じであることを知って、一緒に通学するようになったかららしい。

 王子のあの底無しの明るさは、佐治ケ江の性格にすら影響を与えてしまうのだろうな。もちろん良い方向にだ。


「いいの? じゃ、お邪魔させてもらおうかな。せっかくだし。ちょっと興味あるしね、サジの家」


 ほんと、あのサジが積極的になったもんだな。

 などと梨乃が思っていると、佐治ケ江が唐突に脇でぎゃっという悲鳴をあげた。

 佐治ケ江は両手に持ったスーパーの袋を落としそうになり、わたわたと大慌てで手をもつれさせながら、なんとか奇跡的に掴み直して事なきを得た。

 何事? とびっくりした梨乃だっただが、すぐに起きている状況を理解した。

 目の前を歩いている中年男性の、手に握られた鎖の先には犬。小柄な日本犬、おそらく秋田犬だろう。これが、佐治ケ江が悲鳴をあげた原因だ。


「なんだ、犬かぁ」


 梨乃は声をあげて笑い出した。

 そうだった、佐治ケ江は犬が大の苦手なのだ。

 彼女の犬嫌いは、いじめられた経験からくるもの。以前のままの彼女だったならば、とても笑うことなど出来なかったが(なにも知らなかった去年、犬から走って逃げる佐治ケ江をみんなで笑ってしまったが)、しかし佐治ケ江は一年前と比較して随分と成長して、芯も強くなっている。だから梨乃は平気で、いや、あえて笑ったのだ。


「あんな犬でも取り乱さないなんて、成長したじゃん。去年はマルチーズからも逃げてたのにさ」

「いきなりだったから逃げる間もなかっただけですよ。気づいていたら、細い道に逃げ込んでました」

「そっか。笑っちゃったお詫びってわけじゃないけど荷物、片方持とうか。両手でそんな、重いでしょ」

「先輩に荷物持たせるなんて、とんでもない!」

「ほんと真面目だなあ。A型でしょ」

「いえ。Bです」

「えー。確か王子がAだよね。まったく逆じゃんか」

「関係ないですよ、血液型と性格なんて」

あきらみたいなこといっちゃって」


 梨乃は、同じ三年生のはまむしひさあぜけいと仲が良い。三人ともバラバラの血液型なのだが、三人ともがそれぞれ世間一般にいわれているような血液型別性格だ。

 なので、血液型別性格というのは例外もあるにせよそれなりに科学的根拠もあるのではないか、と考えている。

 だからこそ、佐治ケ江の血液型を聞いて驚いたのだ。

 以前に山野裕子の血液型を聞いた時の方が、遥かに驚いたが。


     6

「着きました」


 佐治ケ江は足を止めた。


「もう? ほんと駅から近いね」


 梨乃の家など、佐原駅から小江戸を抜けて山を上った中腹にあるというのに。まあ、学校はそこからさらに山登りしたところにあるため、おかげで通学は楽であるが。


 目の前には、塀に囲まれた広い敷地。その中に、いかにも昭和といった古びた雰囲気の、でも広くて立派そうな平家建て住宅が建っている。


 梨乃は、佐治ケ江の後をついていく。

 開け放しの門から庭に入り、飛び石の上を歩き、玄関前についた。


 曇りガラスの戸を開けると、長い廊下が奥まで続いている。その廊下途中の、襖の開いている部屋から、四十歳くらいの女性が、可愛らしくひょこりと顔を見せた。


「ただいま、お母さん」

「あ、優ちゃん、お帰り。お買い物ありがとうね。その方は、お友達? 珍しいね、裕子ちゃんしか連れて来たことないのに」

「こちらは木村梨乃先輩。スーパーでばったり会ったものやけえ、遊びに来てもらった」

「木村です、はじめまして」


 梨乃は会釈をした。


「ああ、あなたが梨乃さん。娘からよくお話うかがってますよ。なんでも、凄い先輩だそうで。娘の恩人だそうで」

「あ、いえ、そんな」


 梨乃はどう返したものか、しどろもどろになってしまった。佐治ケ江の耳元に口を寄せ、ちょっと語気荒めに囁いた。


「あんた、あたしのことなんて話してんのよ?」


 自分のなにがどう凄い先輩なんだよ。わけ分からん。

 陰でなにをいわれているのか、ちょっと焦ってしまう梨乃であった。


「すみません」


 謝る後輩に、さらに梨乃がなにかいおうとしたとき、


「あら、お客さん?」


 と背が真っ直ぐで元気そうな、和服を着た老婆が姿を見せた。


「あたしのおばあちゃんです。おばあちゃん、こちら学校の先輩」

「こんにちは。よくいらっしゃったわね。こんな古い家ですけど、どうぞお楽に」

「はい。ありがうございます」


 梨乃はまた、頭を下げた。


 佐治ケ江はこの家で祖母、母、そして母の兄夫婦と暮らしているのである。


 玄関での挨拶もほどほどにして、梨乃は家の中へと案内された。


「お母さんにもお婆さんにも、あまり似てないね。サジって」


 佐治ケ江に誘導され、廊下を歩いていく。


「お父さん似なんですよ」

「へえ、どんなんだろ。見てみたいな」


 まったくもって、想像もつかない。どんな可愛いお父さんなんだ。

 もちろん男女の差がある以上まったく同じ顔のはずないが、どうしても佐治ケ江の顔そのままに背広を着ているところしかイメージ出来ない。それじゃ、単なる佐治ケ江の男装だ。


 廊下は、思っていた以上に長かった。

 外からの見た目通り実際に古い家のようで、延々と続く廊下を歩いていると、所々、ぎいぎいと音を立てる。


 前を歩く佐治ケ江が、そろそろとほとんど音を立てずに歩いているのを見ると、自分、デブなのかな、と梨乃はちょっとショックを受ける。いやいや、佐治ケ江は慣れているから、床のきしまないポイントを歩いているだけなんだ、たぶん。

 しかし長い廊下だなあ。


「平屋でこんなに廊下が長くてたくさん部屋があって、どんだけ広い敷地なんだよ。お母さんの実家、凄いお金持ちじゃん」


 庶民の娘は、しみじみとそう呟いた。

 なおも心に呟く。

 うちはしがない豆腐屋だというのにさあ。共通点は家が古いということだけじゃないか。

 ここの家は古さが魅力的に思えるけれど、うちはただ古くてボロイだけ。こんど大きな台風でも来たら、飛んでなくなるんじゃないかな。あとかたもなく。


「いえ。昔から住んでいるとこなので、土地があるというだけです」


 佐治ケ江は謙遜した。


「おじさん以外は全部女か。家の修繕とか、力仕事は大変だね。お父さんって、まだ広島だっけ?」

「はい。前々から関東への異動願いを上げていたんですが、どうも無理みたいっていってます」

「そうなんだ。さびしいね。まあ、お仕事だから自由にいかないのはしょうがないのかも知れないけど」


 この不景気に仕事があるだけマシというものだ。などと、働いたこともないくせに、えらそうなことを思ってみる梨乃である。


「全部あたしが悪いんです。両親をバラバラにしちゃって。お母さんだけでも広島に戻っていいからっていってるんですが、あたしのことを心配して戻ってくれないんです。おばあちゃんたちもいるし、こっちの学校では楽しくやれているし、なにも心配いらないのに。……あたしが頼りなく見えるからでしょうね。本当に、申し訳ないと思ってます。お父さんにもお母さんにも」

「あのさ、サジはとても優しくて良い子だと思うけど、そうやって自分だけを責めるところは直した方がいいな。もうちょっと図太くなんなきゃ。生きてりゃいろんなことが身に起きるわけで、いまのサジのままじゃ、辛い思いするだけだよ。そんな繊細じゃ」

「前に王子にも同じようなこといわれました。それと、あたし別に優しくなんかないです。気が弱くて、そのくせ強情なだけです。……着きました、ここがあたしの部屋です。狭いですけど、どうぞ」


 佐治ケ江は襖を開けた。

 六畳の和室。木目調のフローリングカーペットが敷かれており、隅には勉強机とベッドが置いてある。それ以外はなにもない。無駄な物のまったくない、殺風景な部屋だ。

 押入れの中には色々と入っているのかもしれないが、まさか見せてくれともいえない。

 ばったり出会っていきなり訪問して、それでこの状態なのだから、きっと普段からこうなのだろう。


 ベッドに腰をかけて、お互いの近況について話をしていると、やがて、襖の向こうから祖母の声。佐治ケ江が襖に近寄り、開くと、祖母が果物皿を持って立っていた。


 うちのお父さんなら、声などかけずにいきなり開けて入ってくるよなあ。


「ね、梨乃さん。せっかくだから夕食食べてきなさいよ」


 佐治ケ江の祖母は、笑みを浮かべながら、そういった。


「え、そんな、悪いですよ」


 突然の申し入れに慌てる梨乃。


「そんなことない。賑やかな方が楽しいもの。それとも迷惑?」

「いえ、そんなことは」

「なら食べてきなさいな」

「はい」


 佐治ケ江の祖母はあらためてニッコリと笑うと、襖を閉め、孫娘の部屋を後にした。


「ごめんなさい。おばあちゃん、ちょっと強引なとこあるんです。先輩、なにか予定ありますか? 迷惑なら、やっぱり断ってきますけど」

「予定は特にないし、迷惑なんかじゃないよ」

「よかった。それじゃ、大丈夫ですね」

「なんだかんだいって、サジにもおばあちゃんの血、結構流れてるよ」

「そんなことないですよ。年齢をとるならああなりたいなとは思ってますけど。それじゃ、あたし夕食のお手伝いしてきます。先輩、楽にしてて下さい。部屋の物なんでもいじっていいですから」


 佐治ケ江はそういうと、梨乃を残して出ていった。


「楽に、といわれてもなあ」


 と、独り言。

 なんにもないじゃないか。本当にここは女の子の部屋か。


 部屋には、それほど大きくないベッドと学習机、それだけだ。六畳しかない部屋なのに、とても広く思える。

 飾り気がないということでは、梨乃の部屋も似たようなものではあるが、多少は趣味のものだって置いてある。何冊かだけど漫画本だって持っているし、床の上にはトレーニング道具も置いてある。

 しかしこの部屋は、学者の書斎かと思うほど遊びが皆無だ。フットサルやサッカーの本くらいあるかと思ったけれども、それすら見当たらない。


 あの超高校級の凄まじいボール捌き、子供の頃から一人でボールを蹴っていて覚えたといっているけど、もしかして一度も技術指導書を読んだことないのだろうか。まさか、と思うものの、でも佐治ケ江ならば充分に有り得ることだ。


 ふと、学習机の上に写真立てが置かれていることに気付いた。

 そこには、二枚の写真が飾られている。


 一枚は、小学校低学年の頃のものだろう。

 遠足での写真だろうか。佐治ケ江の顔が、現在とあまり変わっていないのですぐ分かった。

 みんな楽しそうにはしゃいでいる中で、佐治ケ江一人だけがむすっと口を閉ざしている。

 でも、こうして机に飾っているということは、佐治ケ江にとっては楽しかった思い出ということなのだろう。


 もう一枚の写真は、今年の三月に開いたフットサル部合宿での集合写真だ。当時の部長である梨乃を中心にみんな集まり、それぞれVサインなどのポーズを取っている。

 やまゆうがおそろしくふざけた表情をしている隣で、佐治ケ江は、やはりむっとしたような顔をしている。もともと表情の硬い佐治ケ江であるが、カメラを向けられると緊張してより硬くなってしまうらしい。


 この二枚が飾ってあるということ、さしたる意味はないのかも知れない。しかし梨乃は、胸の締め付けられるような思いを感じていた。

 理由は分からないが、何故だか悲しい気持ちになっていた。


 小さな頃に酷いいじめを受けていたことを、聞いて知っているからかも知れない。


 一枚目の写真から二枚目の写真までの約十年間、きっと佐治ケ江にとって非常に辛い日々だったのだろう。


 自分には、想像もつかないけれど。


 机の下に、ボールが転がっていることに気付いた。椅子の脚に隠れてて、目立たなかったのだ。

 小さなボールだ。

 手にしてみると、それはサッカー用の二号球のようだ。

 どのくらい使ってきたものなのだろう。洗っても落ちそうもないくらいに、汚れが染み込んでいる。傷だらけの表面、ところどころ皮が剥がれてしまっており、ボロボロである。


「こんなの使って、練習してるんだ」


 思わず呟いていた。


「先輩、夕食出来ました」


 襖の向こうから佐治ケ江の声。突然だったので、梨乃はびくっと反射的に飛び上がった。


     7

 部屋を出た梨乃は、佐治ケ江に連れられて、またぐねぐねと長い廊下を歩いていく。


 案内された部屋は、十畳以上もあろうかという和室。

 中央には、長い食卓。座布団が綺麗に敷かれている。


 まるで旅館だ。梨乃はそう思った。


 食卓の上には、ご飯、味噌汁、魚の煮付け、筑前煮、その他、細かいものが沢山。地味なものばかりだが豪華な食事だ、梨乃はそんな印象を受けた。


 佐治ケ江の祖母と母、そして初めて会うがおばが座っていた。


「優のおばです。はじめまして。いつも、優ちゃんがお世話になってます」

「木村です。こちらこそはじめまして。……あの、ほんとうにご馳走になっちゃっていいんですか。なんだか申し訳なくて」

「そんな気にしないで。普段の食事だから」


 佐治ケ江優の母はそういうと、軽く笑った。


「そうですか。それでは、遠慮なくご馳走になります」


 佐治ケ江と梨乃も食卓についた。


 なお、土曜日は大抵おじさんもいるのだが、今日は仕事が入っており帰りが深夜近くになるとのことだ。


「それでは、いただきましょうか」


 祖母の号令のもと、食事を開始した。


「あ、このお味噌汁、とっても美味しい」


 まず手をつけた味噌汁を一口含んでの、思わず口をついて出た梨乃の感想である。


「それね、優が作ったものなの」


 佐治ケ江の母はいった。


 味だけでなく、具の切り方も丁寧だ。

 お椀も木製の、しっくりと手になじむもので、味覚との相乗効果でまるで高級料亭にいる気分になる。

 まあ、高級料亭など一度もいったことないのであるが、そのような感想を抱いたことに違いはない。


「ほんとうに美味しい。見た目はとてもシンプルだけども、味にとても深みがあって。あたしも一年前からまめに料理するようになったんだけど、とてもこんな味出せないや。ね、サジ、今度出汁のとり方教えてよ」

「はい」


 恥ずかしそうに頷く佐治ケ江。


「優は広島にいた頃からよくお手伝いしてくれたから、料理、結構得意なのよ。助かっちゃう」


 母が自慢気だ。


「こんなことくらいしか、親にしてあげられることがなかったし」

「話変わるけど、よくね、娘が梨乃さんの話をするんですよ」

「お母さん、やめてよ、先輩の前で、そんな」

「サジ、じゃなくて優ちゃん、あたしのどんな事を話しているんですか?」


 梨乃は身を乗り出すように尋ねる。

 玄関での挨拶の時には面食らった梨乃だが、少し時間がたったことで、恥ずかしさよりも自分がどういわれているのかの興味の方が大きくなってきたのだ。


「部活でこんな練習したとか、声小さくて叱られたとか。いまは受験生だけど、大学でもサッカーだっけ? 続けるのかな、とか。合宿から戻ってきた時が、一番色々と話してくれたなあ。あんなに喋る優を見たの、初めてだったかも。優は本当におとなしい性格の子だけど、なんだかはきはきしてきたというか、主張すべきところはするようになったというか。本人はまったく自覚ないみたいだったので、いつだったか聞いてみたことがあって、そうしたら、自分では全然そうは思わないけれど、もしそう見えるんだとしたら、きっと梨乃先輩のおかげに違いない、って」

「ええ、あたしなにもしてないですよ」


 梨乃は目を見開き、ちょっと驚いたような表情を作った。


 という謙遜に反論するのは、佐治ケ江優本人であった。


「いえ、先輩が部活であたしのこと見捨てないでくれたからです。性格や態度が変わったかどうかなんて、そんなこと自分では分かりません。でも、気持ちは、色々と楽になりました。みんなでフットサルをやることが、面白くなりました。……それ以外は全然ダメですけど」


 一年前までは、ボールを蹴っていられればそれでよい、とチームの輪にまったく入ってこようとしなかったのだ。


「そういって貰えるなら、それは素直に嬉しいけど。でもきっと、サジが変わったのって、王子の影響が大きいと思うよ」

「それもあると思います」


 佐治ケ江が答えたその瞬間、母が口を手でおさえてプッと吹き出した。


 母は、山野裕子とは何度も顔を合わせている。裕子の言動の数々を思い出して、笑ってしまったのだろう。


「ほんとひょうきんな子だものね、王子ちゃんて。あの子と一緒にいたら、優もそのうちバカ騒ぎするようになっちゃうかも」

「お母さんもそう思います? 面白い子ですよね。それに彼女、ぐいぐいと人を引きずってくもの凄いパワーがあるんですよ。口は悪いけど、ひねたとこのない真っ直ぐな性格で」


 だから、フットサル部の部長を引き受けてくれて、本当によかったと思っている。


 一度裕子の話が出ると、もう話とまらずすっかり盛り上がってしまい、ふと気が付くと相当な長居をしてしまっていた。


 おいとましたのは、もう夜の八時半だった。

 今日はもともと午前だけの勉強予定だったから、自分としては問題ないものの、佐治ケ江の家には迷惑をかけてしまった。

 でも、楽しい部長のもとで楽しく部活をやっているということをお母さんたちに伝えられたし、まあよかったのかな。


     8

 と二人、川河川敷へ向かって歩いている。

 街灯のろくにない、暗くて細い道だ。


「今日は寄っていただいて、どうもありがとうございました。勉強忙しいというのに」


 佐治ケ江は、軽く頭を下げた。


「そんな。こちらこそどうもありがとう。家族の皆さんによろしくいっといてよ。サジ、今度はうちに遊びに来なよ。といいたいところだけど、うちボロくて狭くて汚いから。……でも豆腐は大豆たっぷりで美味しいから、それじゃ、今度また配達でこっちに来たときに、持ってくるよ。その時に、お味噌汁の作り方、教えて」

「はい。じゃけえ、あれお口にあいました?」

「うん。ほんと美味しかった」

「よかった。家族以外の人に食べてもらったことなかったから」


 その後、軽い雑弾を二つ三つほどで、利根川までたどり着き、二人は別れた。


 佐治ケ江は、来た道をそのまま引き返し、梨乃は、土手の階段を上った。


 利根川河川敷の遊歩道に立つ。


 見上げれば満天の星。

 視線をおろしても、漆黒の河に揺らめく星。

 気持ちのいい空気。


 梨乃はストレッチで身をほぐすと、ゆっくりと走り出した。


     9

 さて、ここからはゆうに焦点を当てよう。


 むら先輩を見送って帰宅した彼女は、すぐに庭に出て普段通り日課を始めた。

 ボールを使ってのトレーニングだ。

 ドリブル、フェイント、壁や、大きな置石の跳ね返りを使ってパスやトラップ。そしてシュート。


 日課といっても、単に小さい頃から習慣になってしまっているだけ。一日でもやらないと、どうにも気持ちが悪いだけだ。

 要は好きでやっているのだ。

 幼い頃から毎日毎日、飽きがこないから続けているというだけだ。


 ボールはサッカーボール。

 それも、かなり小さい。

 小学校低学年でも扱いが難しいのでは、というような二号球だ。


 現在この母の実家で一緒に暮らしているおじから、幼い頃にサッカーボールを貰ったことがきっかけで、リフティングなどをして遊ぶようになった。

 一緒に遊ぶ友達がいなかったせいもあるだろうが、サッカーボールでの遊びは自分に向いていたようで、飽きも来ず、親に止められるまでいつまでも蹴っていられた。


 一人でボールを蹴っているだけで、サッカーやフットサルといった競技は、中学校で部活に入るまでやったこともなかった。

 特にフットサルなど、ルールどころか名前も聞いたことがなかった。


 小学生の頃は両親と広島に住んでいたのだが、たまにこのとりの実家に遊びに来ると、よくおじさんがボール遊びの相手をしてくれた。現在はもうやめてしまっているが、二十代の頃は、会社のサッカー部に入っていたらしい。


 おじから貰ったボールは、毎日蹴っていたせいで、中一の頃にダメにしてしまっており、現在二個目だ。

 おじから貰ったボールも現在のボールも、サッカー用の二号球だ。

 買い直す頃にはもう身体も大きく成長していたし、四号球にしようか迷ったのだが、お店で比べてみたところ四号球どころか三号球もしっくりと来なくて、結局そのまま同じサイズの物を買い直したのである。


 すでにフットサル部に入部していたのにサッカーボールを選んだのは、その方がフットサル用に比べて格段に弾むので、壁に当てての練習がしやすいからだ。まあ、フットサルに向いた二号球などそうそう売ってもいないのだが。


 通常の競技では、サッカーは五号球、フットサルはローバウンドの四号球を使用するのが基本である。

 なのにフットサル選手が、サッカー用の二号球で練習する。普通なのか変なのか、佐治ケ江にはよく分からない。


 足元技術の練習を一通り終えると、続いてリフティング練習を始めた。

 まずは基本中の基本、足の先でちょんちょんと軽く蹴り上げるリフティングから。

 右足だけ、左足だけ。続いて交互に。


 高く蹴り上げると、今度は腿。

 さらに高く蹴り上げた。

 頭上を通って背後に落ちてきたボールを、後ろに振り上げた右足の裏側で蹴り上げる。

 左足裏。

 右足裏。

 左足踵で高く上げ、身体を反転させて、大きくボールを蹴った。

 置石に当たり跳ね返ってきたボールを、胸トラップ。

 腿で上げ、小さくヘディング。


 落下したボールを足の甲で軽く跳ね上げると、再び置石目掛けて蹴った。

 真っ直ぐ伸びたボールは、五メートルほど離れた置石に当たると、今度は虹のような軌跡で戻ってきた。

 頭で受けてするりと落とし、腿で受けて落とし、足の甲で跳ね上げた。

 ボールは地面に落とすことなく、石と佐治ケ江との間を行ったり来たり。


 見世物でやるようなアクロバティックなことをしないせいもあるが、それにしても素晴らしい技術力である。


 彼女の尊敬する先輩の一人、はまむしひさからも、「ボール捌きじゃサジにゃ勝てないなあ」などとよくいわれていたものだ。


 でも久樹先輩のその言葉、謙遜も相当にあったはずだ。と、佐治ケ江は思っている。

 あと半年もせずに高校を卒業する久樹であるが、将来のJリーグ入りを目指している熱海あたみエスターテというというサッカークラブが静岡県にあり、来年新設予定のレディースチームに誘われているのだから。


 久樹がやりたいのはあくまでフットサルなのだが、選手としての幅を拡げるためにも、その話には前向きらしい。


 そんな遠くの地から声がかかるなんて、久樹先輩は本当に凄い人なんだ。

 と、素直に感心し、尊敬している。

 尊敬といっても、生き方を真似るつもりは毛頭ないが。


 満天の星空の下で充分に汗をかいたところで、練習を切り上げて家の中へと入った。


     10

「お風呂入っちゃいなさい」


 廊下で母と出くわした。

 いわれなくても、空いてれば入るつもりだった。もう十月で涼しい季節になってはきたけど、運動して汗だくなのだから。


 佐治ケ江優は着換えを用意し、服を脱いで浴室へ入った。

 まず身体をと頭をしっかりと洗うと、湯舟でお湯につかりながら自分の足をマッサージした。


 先ほどまで浜虫久樹のことを考えていたり、先ほどまで木村梨乃と会っていたためか分からないが、両先輩の顔が頭に浮かんでいた。


 二人とも、お互いを認め合う反面、競争心が凄まじかった。表面には出していなくても、態度は隠しようもなかった。


 あの人たちと比べると、自分にはそういうところが決定的に欠けている。

 競争心や闘争心のないことについては、部活に限らずよくいわれる。


 でも、そもそもそれって、そんなに必要なものなのだろうか。


 自分は自分、それのなにがいけないのだろうか。


 抜かしたい、負けたくない、そう思わなければならないものなのだろうか。


 後輩のいくやまさとも、自分のことを抜かすと公言しており実際にあの手この手でしかけてくる。


 競争心を強く持つということは、頑張り抜くことにも繋がるし、本来よいことなのかも知れない。しかし、自分に矛先が向かってくるとなると、どうにも煩わしい。


 こっちは、部活だから真面目にやっているだけなのに、里子はすぐにバカにされたなどとムキになるのだから。

 もしもこっちが適当にやっていたら、それはそれできっと怒るくせに。


 それと、前々から気になって仕方がないのが、みんながづきの特徴として挙げる「前向きなサジ」。なんなんだそれは。そもそも、前向きじゃないのって、そんなにいけないことか。


 と、こんなくだらないことをだらだらと考えているなんて、自分、まだまだ子供なんだろうか。


 子供なんだろうな。


 あと半年もしないうちに、三年生になるというのに。

 ほんのちょっと前まで中学生だと思っていたのに、もう高三か。


 進路……どうしよう。もうすぐ、三者面談だよ。

 まあ、なるようになるか。

 勉強だけは、しっかりやっておこう。


     11

 お風呂から上がり体を拭くと、下着とパジャマを着て、ドライヤーで頭を乾かした。

 軽く髪の毛をとかして、脱衣所を出る。


 自分の部屋に向かおうと長い廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから母の声が聞こえてきた。


 誰かと電話で話をしているようだ。


「……うん。でも、優がいるから。そう。だって、あたしたちが気付いてあげられなかったから、優をあんな目にあわせちゃったんだからね。償いとかそういうの関係なく、やっぱり優が最優先だよね。そんなの分かってるって。ま、そっちも大変だと思うけど、まめに電話するようにするから。たまには、そっちに帰るようにするから。頑張って。うん。それじゃ。体には気を付けてね。またね」


 受話器を置く音。

 昔ながらのダイヤル式黒電話なので、ガチャンと重たい音だ。

 昔ながらのといっても、昔からずっと使っているというわけではなく、古い物好きのおじがわざわざ中古で購入したものだが。


「誰? お父さん? どうかしたの?」

「あっと、優か。いつの間にいたの? びっくりした。そう、お父さんと話してたんだよ。そんなたいしたことじゃないよ。仕事がいろいろ忙しいんだってさ。まあ、単なる愚痴だよ」


 佐治ケ江優は「ふうん」といったきり、それ以上は聞かなかった。


 少しだけ聞こえてきた会話から考えて、母が嘘を付いていることがよく分かったからだ。


 父の愚痴は愚痴で間違いないのかも知れないが、おそらく仕事で、ちょっとした愚痴では済まないような、とても大きなものを抱えてしまっているのだろう。会社そのものが大変な事態になっているのかも知れない。


 そして母は、出来ることならば父の元へ帰り、支えになってあげたいと思っている。

 でも、自分がここにいるものだから、そして過去のことがあるものだから、それが心配で広島に戻ってあげることが出来ないのだろう。


 もうあの頃みたいに、わたしが学校で酷いいじめを受けているわけではないのだし、お母さんだけでも広島に戻ってあげればいいのに。


     12

 その夜、ゆうは夢を見た。


 広島にいた時の中学の制服を着ている。


 同じ制服を着た、数人の女子に取り囲まれている。


 顔はのっぺらぼうのようにつるんとしていてなにもない。でも佐治ケ江には、彼女らであることが分かっていた。


 なにをされているわけでもなく、ただ取り囲まれているだけ。

 それだけなのに、それがどうしようもない恐怖だった。


 なにをされているわけでもなく、ただ取り囲まれているだけなのに、佐治ケ江の精神は耐え切れず、狂いそうになった。


 脳が崩壊しないようにという防衛本能が、佐治ケ江を夢の世界から覚醒させた。


 跳ね起きた。


 真っ暗な、自分の部屋。


 机上の小さなデジタル時計のLEDによる数字が、真っ暗闇の中でほのかに浮いている。


 午前三時二十四分。


 息が荒くなっていた。


 頭の中になにかが無理矢理に入り込んでこようとしているような不快感。


 耐え切れず、両手で頭を抱えた。


     13

 放課後。今日も体育館では、フットサル部の練習が行われている。


 男子部員は、今日は外でのトレーニングのためここにおらず、他にいるのは剣道部のみ。

 だからどちらの部も、広がってのびのびと練習をしていた。


 フットサル部がいま行っているのは、ペアになってのボール練習だ。


 いくやまさとは、かじはなとのペアを組んで、グラウンダーのパス交換。


 二十回ほど続けると、今度は浮き球を蹴り返す練習に入る。

 花香が両手に持ったボールを、里子の足元に落とすように投げ、里子は右足で、花香の胸の高さへと蹴り返す。

 受け取った花香は、少し横にずらした位置へとまた投げる。

 里子は素早く横に動いて、今度は左足で蹴り返す。

 この単純な繰り返しだ。


 毎日の基本メニューで、もう体が覚えているから、なにも考えなくたって出来る。と、いうわけで、里子の注意はついつい余計なところにいってしまう。


 ゆうのことが気になって仕方がないのだ。


 まあ近い内に抜き去る目標であり、だから気になるのはいつものことだが、そうではなく今日はなんだか佐治ケ江先輩の様子がおかしいように感じるのだ。


 佐治ケ江は二つ隣で、づきとペアになってボールを蹴っているのだが、どうおかしいのかというと一目すれば瞭然で、集中力不足だ。

 とてつもないレベルの。

 おおよそまともにボールを蹴り返すことが出来ておらず、キャッチする葉月が大変そうである。


 普段の佐治ケ江は、精密機械のように正確なキックで、だから葉月がどんな適当なボールを放ろうともきっちりと返せるはずなのに。


 怪我しているようにも見えないし。


 サジ先輩、どうしたんだろ。


 と、不安になってしまう里子。

 心配しているのかと尋ねられたら、まさかと鼻で笑ったであろうが。


「あいた!」


 花香の悲鳴。

 里子の蹴ったボールが顔面直撃したのだ。


「あ、ごめん」

「里子、ぼーっとしてよそ見しないでよ!」


 花香は涙目で鼻をさすっている。


「そっちこそぼーっとしてるから、受けそこなうんだよ。いや、本当にぼーっとしてんのは、サジ先輩だよな」


 あらためて里子は佐治ケ江の方へと視線を向けた。


「里子も気づいてたんだ」

「当然。あたしサジ先輩のことしか見てないもん」

「それで顔にボール当てられちゃたまんないよ」

「だから謝ったでしょうが」


 などと軽口かわしているうちやまゆう部長の大声が飛び、次の練習メニューへ入った。


 ボールキープと奪取の練習だ。


 先ほどまでのペア同士で、四人組を作った。

 里子と花香ペアは、葉月と佐治ケ江ペアと組むことになった。


「はい、始め!」


 裕子の号令により四人組練習が開始された。


 開始と同時に里子は、佐治ケ江が持っているボールを全力で奪いにかかっていた。


 現在の実力差では、まずサジ先輩からボールを奪えないと思っている。

 それで構わない。

 悔しくはない。

 どんどん距離が縮まってきていることは実感しているし、いつか必ず追い越せる。

 それは遠い先の話ではない。だが……


 里子は妙な脱力感、というか消失感を覚えていた。


 佐治ケ江から、実に簡単にボールを奪うことが出来てしまったのだ。


 奪ったというのに満足感でも達成感でもなくて、消失感。

 里子は戸惑った。


 やっぱりサジ先輩、変だ。


 佐治ケ江は一瞬、いや二瞬三瞬ほど遅れて、自分の足元にボールがないこと、奪われていたことに気付いたようで、奪い返そうと里子へ詰め寄る。


 里子は身体を反転させて花香へとパスを出す。

 しかしそのボールは花香へは届かず、葉月にカットされてしまう。

 佐治ケ江のことばかりに注意がいって、葉月の存在をすっかり忘れていたのだ。


 葉月は、すぐさま佐治ケ江へとパスを出した。

 佐治ケ江は右足でボールを受けると、向かってくる花香をかわし、葉月へとパスを出す。

 そして葉月から、また佐治ケ江へ。


「花香は、葉月お願い!」


 里子はそういうと、佐治ケ江に向けて身体を突っ込ませた。


 パスコースは塞いだ。

 これでサジ先輩と一対一だ!


 佐治ケ江の動きを予想し、足を突き出した。


 だが、里子の攻撃は単に床の埃を吹き飛ばしただけだった。佐治ケ江がボールを軽く浮かせたのだ。


 浮かせたボールをまたぐようにして、踵の裏側に収めた佐治ケ江は、里子の様子を伺っている。


 なんだかんだいっても、やっぱり抜群に上手だな、サジ先輩。ぽっきり折れそうな華奢な体つきからは信じられないくらいに。

 だから、抜かし甲斐があるんだけどね。


 里子は、右足、左足、と休みなく繰り出して、佐治ケ江からボールを奪おうとする。

 だが、奪うどころかボールに触れることも出来なかった。


 里子は次に、足払いのようにボールを奪おうとした。これはフェイントで、佐治ケ江がまた宙に浮かせて逃げようとすることを期待したものだ。そして、里子の読みは当たった。


 奪った! と確信した里子であったが、その瞬間、彼女の目は驚愕に見開かれていた。


 宙に浮き上がるボールの表面を舐めるように、佐治ケ江の足がボールを追い抜いて這い上がり、里子に奪われるよりも先に、すっと引き戻したのだ。


 あまりに次元の違う技術を見せられた里子は、瞬間的に逆上してしまい、佐治ケ江の胸を突き飛ばして、ボールを奪っていた。


 佐治ケ江はさすがにたまらず、足をもつれさせ、尻餅をついた。


「先輩、真剣にやってください! 突き飛ばされた程度で、あたしごときから奪われるはずないでしょう!」


 里子は怒鳴った。


「ちょっと里子、そんなムチャクチャな」


 花香は、佐治ケ江を引っ張り起こしながら、苦笑と困惑と抗議の混ぜ合わさった複雑な表情を里子に向けた。


 佐治ケ江は、少しおどおどしたような顔で里子を見た。


「ごめん、里子。でも、あたし、真面目にやってる」

「いまのだけじゃない。さっきだって、あたしなんかに簡単に奪われて。バカにして、手を抜いているとしか思えない」

「バカになんかしてない」

「なら真面目にやってください。少なくとも、ぼけーっとしてんのやめてくれませんか。失礼です」


 もしかしたら、考えごと、悩みごとがあり、それで集中力に欠けているのかも知れないし、単に体調が悪いのかも知れない。その程度の想像力は、里子にもある。


 しかし里子は、普段なんでもズケズケというくせに、こういうことに関しては性格上とても直球で聞き出すことが出来なかった。


 探るように聞き出していく器用さも出来ないし、このように激しく当たることしかこのような場で取れる態度というものを知らなかった。


     14

 二人の女生徒が、山林の道を歩いている。

 わらみなみ高校の制服姿で、二人とも大きなスポーツバッグを背負っている。

 やまゆうたけあきらだ。


 もう夜の七時を過ぎている。


 十月中旬の太陽は、完全に山の向こうへと沈んでおり、見上げれば木々の間から幾つかの星のまたたきが見えている。


 山林を抜けるこの通学路、通る自動車の量は非常に多く、うるさい。しかし、木々の枝に囲まれているために夜は実に鬱蒼とした、徒歩で進むにはさびしい道になる。

 むしろこれで交通量が少なかったら、あまりにも不気味で、怖さにとても歩けないところだ。


 部活練習の後、二人残って今後出場予定の大会に向けて話し合っていたところ、下校時間が遅くなってしまったのだ。

 さらには、この時間帯一時間に一本しかないバスにタッチの差でいかれてしまい、仕方なく徒歩で駅に向かっているというわけである。


「晶、なんかくたびれた顔してんじゃん。副部長なんだから、こういう遅い日もあるって」


 裕子はいった。


「副部長っつーより、ゴレイロが疲れるんだよね」

「ゴレイロというか、さき担当がだろ」

「まあね」

「相変わらずだからな。ま、晶が全然突き放してないから疲れるわけで。しっかりがっちり付き合っているから疲れるわけで。いいんじゃないの」

「他人事だと思って」

「こっちだって、さと、かなり疲れるんだぞ」

「里子に疲れてんのはサジでしょうが」

「だから! サジ今日もご苦労さんって、肩叩いてあげんのに疲れるんだよ。サジくよくよすんなよって慰めたりさ」

「そりゃご苦労さん」


 二人は、それきり口を閉ざして黙々と歩き続けた。


 五分ほどして、今度は晶から口を開いた。


「一年って難しいよなあ。上級生になってみて分かるけど。関サルも近いってのに。……去年の方が、もっとチームになってたよな」

「あたしのせいかよ」

「そうはいってない。一年生たちの性格のことだよ」

「消極的なのと反乱軍みたいなのと、完全二極化してるからね」


 前者は誰かというと、まあ、後者以外のすべてである。


 後者、問題児認定を受けているのは、いくやまさとなしもとさきだ。


「二人が扱いづらいのは事実だけど、負けん気の強いところは頼もしいけどね」


 なんだかんだとこの二人の扱いに慣れてしまった最近は、むしろ残りの者の消極性が目につくようになってきたくらいである。


 みんな、献身的なプレーをしてくれる。チームプレーに徹してくれている。

 それは素晴らしいことだが、しかしそれは、自信のなさをごまかすためではないのか。

 実際見ていると、強気にいってもいいところでパスを選択することが多いのだ。

 だから、怖さが出ないのだ。

 はなも、りんも、づきも。


 今年の一年生はフットサル未経験者ばかりなので、あれこれ求めるのは酷かも知れないが。


 ただ、現在気になる点は経験より性格だ。と、裕子は思っている。


「みんな、優し過ぎるんだよな。悪くいえば、気弱」

「まあね。王子の百分の一でも、傲慢なところがあればいいのにね」

「そうそう。って、それちょっといい過ぎじゃないか」

「確かにいい過ぎた。千分の一に訂正する」

「ならいいけど。……あれ、なんか変だな」


 さて、二人はいつしか山を降り終えて、佐原を佐原ならしめている江戸情緒の町並みの中に入っていた。佐原駅近辺はなどと呼ばれる、一応の観光地なのである。


 小さな川にかかる赤い木の橋を渡っているところ、裕子は川沿いの道のベンチによく知った女の子が腰かけているのを発見した。

 なにやら下を向いている。

 学校の制服姿で、すぐ横には大きなスポーツバッグが置いてある。


「ねえ、あれサジじゃんよ。とっくに帰ったと思ったのに。おーい、サジ! なにしてんの!」


 裕子が遠めから大きな声を出すが、佐治ケ江優は無反応。

 二人は橋を渡りきると川沿いの道へと折れ曲がり、佐治ケ江のいるベンチへと近寄っていった。

 裕子は腰をかがめ、佐治ケ江の顔を覗き込んだ。


「すっかり眠っちゃってるよ」


 その可愛らしい寝顔に、裕子は笑みを浮かべた。


「最近、練習の時もフラフラしてたからなぁ、寝不足なんじゃないの? 名前の通りの優等生だからな、勉強疲れで」


 と、晶がいう。


「里子疲れだろ。起こしちゃっていいのかな」

「そりゃ、夜にこんなとこで眠ってちゃダメでしょ」

「うん、そうだよな。サジは我々と違って女の子だからな」


 と裕子は、一人で頷いている。


「我々って、王子だけだろ、男の子は」

「お前だけだ!」

「やり返されて怒るなら、最初からそういうこというなよ! 我々とか複数形でいうなよ!」

「ムキになっちゃって、晶ちゃん可愛い」

「アホか。……ともかく、起こそうよ。でも、普通に起こすのも面白くないな。なんたって眠ってるサジなんて滅多に見られるもんじゃない。授業中の王子が眠ってんのはいつものことだけど」

「お前だって居眠りでバケツ持って立たされてたくせに。……スカートめくりあげてやれば飛び起きるんじゃない?」

「変態エロ親父か」


 晶は裕子の下品さに呆れ顔だ。


「あ、そうだ」


 裕子はさも名案といった表情を浮かべると、小さな寝息を立てている佐治ケ江の耳元に自分の口を持っていった。


「犬だ!」


 唐突に叫んだ 

 脊髄反射であるかのような一瞬の間もない時差で、佐治ケ江は「うわ!」と声の裏返った悲鳴をあげて立ち上がった。


 夢の中で、大嫌いな犬に脅えているのか、両手を振り回して、あわてふためいている。


 その様子を見て、裕子は腹を抱えて大笑いだ。

 だが……


「殴らないで。ごめんなさい。ごめんなさい!」


 佐治ケ江は、犬に脅えているのではなかったのである。きっかけは、裕子の発したその言葉にあるのかも知れないが。


「おい、ちょっとサジ、様子が変じゃない?」


 ほとんど表情を変化させることのない晶だが、予期せぬ突然の事態に、さすがにあわててしまっている。


 佐治ケ江は狂乱したように、なおもなにかから逃れようと腕を盲滅法に振り回し続けている。


 裕子はその背後に回り込むと、羽交い締めにした。


「サジ、しっかりしろ。どうしたんだよ。寝ぼけてんのか、おい!」


 もとの筋力が、裕子の方が桁違いに強いため、佐治ケ江を抑え込むこと自体は容易である。しかし、普段の様子からはとても考えられないような力で暴れる佐治ケ江に、裕子はただ驚くばかりだった。


「なんだよ、もう犬ネタOKじゃなかったんかよ!」


 誰にともなく叫ぶ裕子。


「知らないよ、そんなこと。サジ、なにもいないから。誰も、殴ったりしないから。大丈夫、大丈夫だから!」


 裕子に羽交い絞めにされている佐治ケ江の腕を掴んで、晶は必死に呼びかけた。


「サジ! サジ!」


 何度、その名を叫んだだろう。

 唐突に、佐治ケ江の動きが止まった。


 乱れておでこにかかった前髪の奥で、なにかに脅えているような、なにかを悲しんでいるような、怒っているような、そんな、なんともいえない眼をしていたが、しばらくすると、催眠術からとけたかのように、はっと目を見開いた。


 裕子は佐治ケ江を解放すると、彼女の前に立った。


 佐治ケ江は、首をゆっくり左右に振って、周囲を見回している。


「王子、晶……。なに、してるの? ……ここ、どこ?」

「なにしてんのじゃないよ。こんなとこで寝ぼけやがってさあ」


 裕子はようやくその顔に安堵の色を浮かべた。


「え、え、あたし、なんか変なこといっちゃった? ごめんなさい」

「ごめんって、それあたしらのいう台詞だよ。すっかり眠ってたからさ、ついからかっちゃって、ごめん。つうか、だいたいこんなとこで眠ってたら危ないだろが」

「ごめん。色々と考えごとをしていたら、つい」

「なんか知らんけどさ、疲れてんだよ。疲れるのは肉が足りてないからだ。よし、セカンドキッチンのミート百パーセントスパイシートリプルスタック照り焼きバーガー、おごってあげる。晶が。よし、いこっ」


 裕子は強引な持論を展開すると、有無をいわさず佐治ケ江の腕を掴んで歩き始めた。


 晶は軽く頭をかいてため息をつくと、二人の後を追った。


     15

 もうすぐ夜の八時になるというのに、セカンドキッチンの主役は相も変わらず中高生たち。

 大学生やOLの姿もあるにはあるが、少し肩身が狭そうだ。


 セカンドキッチンとは、わら駅のすぐ近くにある雑居ビル一階にあるファーストフード店だ。


 夕方と比べるとやや客も減って、狂ったような喧騒もだいぶおさまって幾分か落ち着いた感じになっている。


 店内奥隅の四人席にやまゆうたけあきらゆうの三人はついている。

 注文したものをそれぞれ運んできたばかりだ。


「よし! 肉だ! サジ、食え! おごりだ!」


 裕子は単語ぶつ切りで叫びながら、佐治ケ江の前に置かれたトレイをぐいぐいと押した。

 そのトレイに乗っているのは、スパイシートリプルスタック照り焼きバーガー二つ、ポテトグラタンパイ、烏龍茶。

 少食の佐治ケ江に食べ切れるはずのないボリュームだ。裕子が勝手に注文したのである。


 裕子は佐治ケ江と同じものに、さらに加えて、ピリ辛チキンライスバーガーと、セカンドキッチンスペシャルストロベリーシェーキ。


 晶はやはり佐治ケ江と同じものに、焼きおにぎり大サイズを二つ。


 もう時間も遅く、しかも帰って家でも夕ご飯を食べるであろうというのに、色気より食い気の勝る裕子と晶、十七歳であった。


「肉ってもジャンクフードじゃないかよ。おごるけど、王子も出せよな」


 晶がバーガーの紙袋を剥きながら、ぶつぶつ呟いている。


「せこっ。もとはといえば、ただ起こすのも面白くないなんて晶がいうからじゃんかよ。晶ミート百パーセントお」

「あんなこといえなんて誰もいってないだろ。それと、最後の部分、意味が分かんないんだけど」

「あの、やっぱり自分の分は出すよ。いくらだっけ」


 二人の醜い争いを見てというわけではないだろうが、佐治ケ江はそういうとカバンから財布を取り出した。


「いいのいいの! ほら、晶がみみっちいこといってっから!」

「どっちがだよ!」


 また始まった。


「あ、あの、じゃあ、せっかくだし悪いから、ご馳走になるね。いただきます。かわりに今度、なんかおごるから」


 佐治ケ江は遠慮がちにハンバーガーの包みを開ける。


「悪いからと思ってんなら、今度おごるなんていってないで、おとなしくご馳走になってりゃいいんだよ」

「バカ王子、悪いと思わなきゃならないのはあたしたちの方だろ。バーカ」

「確かにあたしはバカだけど、お前にいわれっと頭に来んな!」

「だってバカじゃん。救いようのないほどのバカじゃん」

「うっせえな、このジャガイモ顔! でかい声で恥ずかしい言葉叫ぶぞ!」

「叫べるもんなら叫んでみろよ!」

「おっぱい! おっぱい! キ○○マ! おっぱい!」


 店内がざわついた。

 周囲の客たちが、びっくりしたような視線を裕子たちの方へと向けていた。

 まあ当然である。


「うわ、ホントに叫んだよ。信じらんない。こいつ、赤の他人。ていうか誰、この人? 短髪のくせに女子服着てて、男か女か分かんないんですけど。気持ち悪い。サジ、他の空いてる席にいこう」


 晶に振られた佐治ケ江であるが、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にして、まるで氷漬けにでもされたかのようにガチガチに硬直してしまっていた。


「そんな酷いこといわないで、晶ちゃん、あたしたち親友じゃないのよ~」


 裕子は、女の子みたいな声で晶の制服の袖をくいくいと引っ張った。


「気色悪い声出すな。お前なんか知らん」

「そうだ、関サルの対策練ろう。さっきの続き。サジもいることだし。部長命令! 試合、来週なんだから。ね、生涯大親友の晶ちゃんに優ちゃん」

「まったくもう。誰が親友だよ」


 晶は座り直すと、前髪をかきあげ、ため息をついた。


 武田晶を少しでも知る者は、誰しも、彼女の性格をクールだと評価する。

 物事への感心が薄く、会話にしても振られて返す程度で自ら乗ってくることはほとんどないし、単なる軽口に対しても現実的な意見を返すことが多いためである。

 本人にはクールを気取っているつもりはまったくなく、単に感情の向くまま楽にしていたいだけなのかも知れないが。


 しかし、そんな彼女も、山野裕子の前では常に調子を狂わされっぱなしだ。

 嫌だと拒絶しようとも、お構いなしで自分の領域にズカズカと踏み込んで来るのだから。

 顔を真っ赤にして激怒して、裕子を追い掛けお尻を蹴飛ばすことにも、最近慣れつつあるようだが。本人は気付いてか気付かずか。


 さて、関サルの話である。


 関サルとは、関東高校生フットサル大会の略である。

 毎年秋冬に開催される、関東地方の高校フットサル部を対象にした大会だ。


 フットサル部のある高校はそれほど多くないため、最初の数年はろくに参加校が集まらない実に知名度の低い大会だった。

 だがここ数年、年々注目度が増してきており、この大会に出場したいがために生徒がフットサル同好会を発足させたという高校もあるほどである。


 今年は、都県地区予選を一日で行う。

 地域にもよるが、三、四試合を行って、一位突破した高校のみが、各都県内の決勝大会へと進める。


 そして、各決勝大会で一位になった高校のみが、都県の代表としてで行われる関東大会に出場し、関東ナンバーワンの座を争うのだ。


 五日後、今度の日曜日に関サル千葉県地区予選が行われる。


 裕子部長としては、どうせなら大きく関東制覇を目指したいところであるが、そのためには、まずは地区予選の対策だ。

 千里の道もなんとやら。


「では」


 と、裕子は自分のバッグから、大学ノートを取り出して、テーブルの上に広げた。


「まずはさ、これを見てよ」


 裕子は真剣な表情になった。

 部長の顔だ。


「見てっていわれても、読めないよ。字、下手過ぎ」

「レベルの低いケチつけてんじゃねえよ!」


 部長の顔は五秒ともたなかった。


「ホントに読めないんだって! じゃ、王子、自分で読んでみろよ」

いん西ざいおろし高校の、この二年間の戦績、個人データについて」

「凄いな、王子。考古学者になれるんじゃない?」

「意味分かんねえし。で、要するに印西木下っつーのはさ」


 ようやく作戦会議を開始することが出来た裕子と晶であるが、始まってしまえばフットサルが好きな者同士、あれやこれやと熱く議論して、着々と戦術、対策を打ちたてていく。


 しかしながら、というべきか、ときおり佐治ケ江に意見を求めてみるものの、どうにも参考にならなかった。

 佐治ケ江は個人技術も試合時の戦術理解度も非常に高いのだが、机上で戦術を云々するのは大の苦手なのだ。

 自分の考えもまとめられないし、相手が色々語ってきても、なにをいわれているのかさっぱり理解出来ない。コミニュケーション能力がなく、それがためにろくに他人とも会話をせず、脳のそうした領域をまるで鍛えてこなかったからだ。

 なので部長と副部長だけで淡々と話が進んでいく。

 いや、淡々と、ではないか。


「いや、晶さあ、だからそれはさっきの攻め方でいいんだって。きっと先輩でもそうするぜ」


 意見の衝突。

 裕子は折れずに、ノートをバンバンと叩いた。


 梨乃先輩は佐原南の三年生で二ヶ月前にフットサル部を引退したばかり、前部長である。

 個人技が優れているばかりでなく、統率力もあり、なんといっても戦術眼が卓越していた。


「いや、あたしの梨乃先輩なら、そうはしないだろうなあ」


 と晶も譲らない。


「悪いけど、わたしはあなたの梨乃先輩じゃありませ~ん。わたしはあなたの裕子先輩で~す」

「いつあたしの先輩になったんだよ。あ、そういえばサジさ、梨乃先輩が遊びに来たんだって? とりに来たとき」


 晶の問いに、佐治ケ江は小さく頷いた。


「え、なんだよ、香取来たならうちにも遊びに来ればよかったのに」


 裕子はぼやく。


「部屋が汚すぎて嫌だってさ。そもそもあんたんの場所知らんでしょうよ」

「お前こそ、あたしの部屋がどんだけ凄まじく汚いか知らんでしょうが。そもそも、なんで知ってんだよ汚いって」

「想像つくってば。で、梨乃先輩とどんな話したの?」


 晶の問いかけに、佐治ケ江はしばらく考え込んで、


「とりたててなにが、という話はしなかったけど。王子のこととか、お味噌汁のこととか。あと、フットサル部のこと色々と気になっているみたい。受験勉強でまったく見られなくてごめんっていってた」

「そういや受験生だもんな。ね、ね、彼氏との話なんか出なかった?」


 と、裕子は興味深々に身を乗り出した。


「全然、そういう話は出なかった」

「うまくいってないんじゃないの? なんかそんな雰囲気におわせてなかった?」

「ワイドショーのレポーターかよ」


 晶が突っ込みをいれる。


「さぁ。勉強が忙しそうだし、それで会う回数減らしてるだけじゃと思うけど」

「そっか。希望の大学に受かるといいねえ。よし、それじゃ作戦会議再開。あたしらには勉強よりも恋愛よりもフットサルだもんねえ~~」


 裕子は「ね~~」のところで可愛らしく首を大きく真横に傾げた。


「あたし最近、彼氏欲しいな」


 と、晶の予期せぬ言葉に、裕子はガンとテーブルにおでこぶつけた。


「和を乱すこというんじゃねえよ」

「もとから和なんかないだろ」

「だもんね~、っていわれたら、サジと二人で声合わせて、ね~って返しときゃいいんだよ」

「昭和末期の女子高生かよ」

「それでも上等だろ。このジャガイモ顔が。明治時代の白黒写真みたいな顔してるくせに」

「いいからはやく作戦会議再開しろよ! バカ王子!」


 晶に促されて、また作戦会議に戻る彼女たち。

 しかし今度は、アイドルの話で脱線してしまうのだった。


     16

 その名は屁こき刑事!


 腸にガスある限り、おれは平和のラッパを奏で続ける


 ぶぱーーーーお


 ♪♪♪

 お! お! ならなら~ デ・カ!

 お! お! ならなら~ デ・カ!


 ダダッダッダッダッダッダダ~


 愛する人を守るため

 肉食ってメタボ

 全開ターボ

 屁はくさい


 ファイトオン ダダー


 立ち上がれ


 ファイトオン ダダー


 君もこけ

 平和を奏でるこのメロディ


 ブッ ブッ ブッ ブッ ブブッ ブー

 ♪♪♪


「チェインジ!」


 はなまがりはやは、おならパワー全開ハイパーブリーフに履き替えた。

 わずか三秒の早業だ。


 テンガロンのつばを指で軽く上げると、彼は不敵な笑みを浮かべた。


「平和の音色、奏でるために、地獄から戻った男。屁っこーき デカ!(デカ デカ デカ とエコー)」


 さあ、戦いだ。


 覚悟しろ、地獄軍団の戦闘兵どもよ!


     17

 やまゆうは、ぬおーうと叫びながら飛び起きた。


 朝の五時。窓の外は、淡い陽光の気配はあるものの、まだ暗い。


 裕子は、両手で頭を抱えた。


「関サル予選の大事な日だってのに。なんつー夢を見ちまったんだ。なにがおならパワー全開ハイパーブリーフだよ畜生。……悪夢だ」

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