第七章 予想外の結末

――三月三日――

 少しの間、冷一はぽかんと立ち尽くしていた。

「――パラレルワールド?」

「そうだよ。そんなに驚いた?」

「いや……だってそれ、おかしいだろ」

「何が?」

「お前、魔法なんかない世界へ行きたいと思ったんだろう?」

「うん」

「ここはお前の望んだ世界じゃない――この世界には魔法がある」

 矛盾を指摘すると、林崎はあっさり言った。

「ああ。それは僕が変えたんだ」

「……は?」

「僕がやったんだよ。この世界の人間に魔力を与え、記憶を操作して、魔法が当たり前に存在する世界だと思い込ませた」

 冷一は再びぽかんとした。

「と言っても、ほんの一部だけどね。実際に魔法が使えるのは、この学校の周辺で暮らしている人たちだけなんだよ。僕の魔法が及ぶ範囲を一歩出れば魔法は使えなくなるし、使えたってことさえ忘れてしまう」

「冗談だろ……」

 すぐには理解し難いことだった。どうにか理解しようと、林崎の言ったことを反芻してみる。

「この学校の周辺でだけ、俺たちは魔法が使える――?」

「外から入って来た人間も、ここにいる間はそうなる」

「電話は? 誰かと電話で話したら、お互い変だと気付くんじゃないか?」

「外と連絡は取れないようになってる。不審を抱くことがあっても、適当な記憶で補われる。電話はちゃんと繋がって、相手とこういうやり取りをした、とか」

 冷一は理解しようとした。が――。

「……無理だ。あり得ない。そんな長いことごまかし続けられるわけがない」

 林崎は肩をすくめた。

「よくわからないけど、適当にどうにかなってるんだと思うよ。僕も自分の魔法が生み出す効果を、細かいところまで全部把握してはいないんだ」

 冷一は思わず後ずさった。

「お前、それ……」

「犯罪だよね。わかってる」

「いや、犯罪なんていうレベルの話じゃない気が……」

 平静を保とうと努力しながら、冷一は次の言葉を探した。

「……せっかく魔法のない世界に来たのに、何でわざわざそんなことを?」

「怖くなったんだ」

 林崎は率直に打ち明けた。

「誰もが普通に魔法を使う世界でさえ、僕の力は脅威だった。全く魔力を持たない人間が見たら、どんな反応を示すか。それが怖かった」

「見せなければいいだろ。魔法なんか使わなくたって生活は出来るんだ」

「自分だけが異質な世界で、いつ正体を知られるかとびくびくしながら?」

「……お前だけってことはないと思うな。この世界にも、結構いるんじゃないか? 特殊な能力を隠して生きてる奴」

 林崎は力なく笑った。

「そうかもしれないね。でも、僕には隠し通す自信がなかった。せめて自分が暮らす周辺の人間だけでも、同じにしなければと思った」

「で、俺たちに魔力を与えたってわけ?」

「難しくはなかったよ。魔力の元を注ぎ込めば、あとはそれぞれ勝手に能力を育ててくれた。自在に使いこなす者もいれば、不器用な者もいた。彼らの中に、僕は紛れた。なるべく魔法は使わずに、目立たないように――最初のうちはうまく行っていた。狂い始めたのは、あのテストからだ」

 ――魔法の能力テストか。あれさえなければと、紫杏も言っていたっけ……。

「まあ、今更ぼやいても仕方がないな」

 諦めきったような口調で、林崎は続けた。

「とにかく、僕は失敗したんだ。結局この世界でも、僕は居場所を失った。それならそれでいいと思った。元々、だめになった時はリセットするつもりでいた。桔流が言ったように、こんな状態を長く続けるのは無理がある。だから、この世界を元に戻して、また別の世界へ飛んでしまおう――そう考えた。僕がこの世界に来てからのことは、全部なかったことになるはずだった」

 ――あの、二月十五日の朝。あれは世界が変えられてしまったのではなく、元に戻った状態だったのだ。けれど――なぜ? 紫杏の魔力は消えていなかった。紫杏の記憶は消えていなかった。紫杏は、林崎を忘れていなかった。

「なぜだろう」

 冷一の心中を読んだかのように、林崎が言った。

「僕は飛べなかったし、世界も完全に元通りには出来なかった。何かが――あるいは誰かが、僕の邪魔をしたんだ。明堂先輩かと思ってたけど、違うみたいだね。桔流でもない。とすると、一体誰なんだろう」

 ――それが、紫杏だった? 落ちこぼれのあいつが、まさか……。

「他に原因は考えられないのか。お前の魔法が効かなかった理由は」

「色々考えて、色々試したよ。でも、何をやっても無駄だった。僕はこの世界に閉じ込められてしまった。もう、どうしたらいいかわからない」

 林崎は本気で困り果てているようだった。

「――悪いけど俺には、哀れだな、としか言えない」

「同情してくれてありがとう」

「同情じゃなくて。お前は考えてみなかったのか? お前を必要としている人間が、お前を失いたくないと思っている人間が、この世界にいるってこと」

「いないよ」

「いるよ。お前のそばにいたいと、強く願っている奴がいる。もしかしたら、その思いが、お前を引き止めているのかもしれない……」

 言い返そうとして息を吸い込んだ林崎が、急に動きを止めた。

 彼の視線は冷一を通り越し、その後方に向けられていた。冷一が振り返ると、屋上のドアの前に、ぼんやりと浮かぶ人影があった。

「……紫杏……?」

 紫杏だった。けれど、どこか違う、と冷一は思った。どこか、いつもと違う。

 ふわふわと漂うように、紫杏は二人に近付いた。

「日野原さん」

 林崎が歩み寄り、紫杏の体を受け止めた。

「どうして、こんな……」

「こうするしかなかったの」

 紫杏の声は細く、弱々しかった。

「ドアが開かなくて……生身のままじゃ、通り抜けることも出来なかったから」

 冷一はそこでようやく、彼女が透けていることに気が付いた。

「えーと……それって、幽体離脱……?」

「ばかなことを」

 林崎は叱り付けるように言った。

「すぐに戻るんだ。あまり長く離れていると、あなたの体が……」

「体の方は大丈夫だよ。空っぽなわけじゃないし。それにね、私、この姿だと魔力が高くなるみたいで、普段出来ないことが出来るの」

 冷一には紫杏が何を言っているのかわからなかった。林崎も同様だったのだろう。心配そうな顔で、紫杏の手を握っていた。

「どうしてこんな無茶をするんだ。来ちゃいけなかったのに。危険を冒してまで、どうして……」

「ごめんなさい。どうしてもこのままにしたくなかったの。だって私、まだ林崎くんに伝えてないんだもん。本当のことを――本当の、私の気持ちを」

 紫杏は胸に抱えていた赤い紙バッグを、そっと差し出した。

「受け取って。私、ずっとこれを渡したかったの。林崎くんに、私の気持ちを伝えたかったの」

「それは嘘だって言っただろう」

「嘘なんかじゃないよ。私はこの気持ちが真実だって、ちゃんと知ってる」

 紫杏の声には迷いがなかった。

「ずっとずっと、林崎くんを見て来たんだから。ずっとずっと、林崎くんを思って来たんだから。どこの世界に行っても、どんな姿をしていても、私にはわかる。魔法が上手か下手かなんて関係ない。あなたはあなただよ」

 戸惑いと怒りが入り交じった目で、林崎は紫杏を見つめた。

「あなたはさっきもそう言った。どうしてそれを……その言葉は……」

「林崎くんが、私に言ってくれた言葉だよ」

「言ってない」

 林崎は顔を背けた。

「あなたには言ってない。その言葉は……前にいた世界で、彼女に言ったんだ」

「うん……私が魔法で失敗して、泣いていた時だよね。林崎くんの言葉が、私を救ってくれた……」

 一瞬、辺りに強い風が吹いた。

 林崎の目がゆっくりと、再び紫杏に向けられる。

「……まさか、そんな……」

「私はこの世界の紫杏じゃないの。林崎くんの世界から、林崎くんを追い掛けて、ここまで来たんだよ」

 林崎は首を振った。

「そんなはずはない。だって、彼女は……彼女は言ったんだ。この世界がいいと。ここにいたいと。だから、一緒に連れて来たかったけど、出来なかったんだ」

 紫杏は悲しそうに俯いた。

「ごめんね。林崎くんがどうしてそんなことを聞くのかわからなかったから……。私がここにいたいって言ったのは、林崎くんがいるからだったのに。林崎くんがいるなら、どんな世界でも良かったのに」

 ――本当の気持ちを伝えられないまま、林崎くんは消えてしまった。私を置いて、一人で行ってしまった。

 ――もう、戻って来ないの? 嫌だよ、そんなの。このまま会えなくなるなんて、嫌だ――。

「何がどうなったのか、最初はわからなかった。気が付いたら私はこの世界にいて、別の人間として生活していた。記憶が二重になってるみたいで、どれが正しい記憶なのかもはっきりしなかった。でも、林崎くんがいるからいいと思った。あんなに会いたかった林崎くんが、私の隣にいる。それだけで、何でも良かった」

 冷一は身動きさえ出来ずに、二人のやり取りを見守っていた。驚いたが、同時に納得してもいた。林崎がこの世界を元に戻した時、紫杏だけ変わらなかったのは、それが本来の状態だったからなのだ。つまり、彼女は――。

 紫杏がちらっと冷一を見やった。

「冷くん、私にパラレルワールドの話をしたよね。『お前は魔法が当たり前に存在する世界から、魔法が存在しないこの世界へやって来た、別の紫杏なんだ』って。それがきっかけだった。ここがどこで、自分が誰なのか、少しずつ、思い出したの」

 ――元の世界で、いなくなってしまった林崎くんを、私はずっと探していたんだ。探して、探して……ようやく、林崎くんの通った道を見つけた。

「でも、私には通れなくて……何度試してもだめで、体を置いて来るしかなくて……」

 林崎が手を伸ばし、紫杏を抱き締めた。そうしないと、消えてしまうとでも思っているかのように。

「林崎くん……」

 彼のぬくもりの中で、紫杏は泣きそうになるのを必死で堪えた。

「ごめんなさい……私、林崎くんが苦しんでること、気付かなくて……何も出来なくて、ごめんなさい……」

「違う。悪いのは僕だ。全部、僕が……」

 冷一にはただ、見守ることしか出来なかった。

 彼女は元の世界に体を置いて来たと言った。つまり、ここにいる彼女は霊魂で、この世界の紫杏に乗り移っていたということだ。それから一年経っているなら、彼女の本当の体は、もう……。

「――ごめん」

 震える声で、林崎は言った。

「僕のせいだ……ごめん……」

「林崎くんのせいじゃないよ。私が、林崎くんのそばにいたかったから。林崎くんに思いを伝えたかったから」

 その一心だった。他には何も考えなかった。

「だから、お願い……ちゃんと言わせて」

 林崎は魔法の力で紫杏に触れているのだろう。紫杏が彼を押し戻そうとした手は、すっと通り抜けてしまった。

 気配を感じて、林崎が腕を緩めた。

 紫杏は僅かに体を離し、林崎を正面から見つめた。

「林崎くんは私の恩人なの。誰より魔法が上手なのに、誰より魔法が下手な私のことを、林崎くんは理解してくれた。ひとりぼっちだと思っていた私に、人を好きになる気持ちを教えてくれた。私はずっと、あなたが好きだった。ずっと、あなたのそばにいたかったの」

「僕もだよ」

 林崎はもう一度、紫杏を引き寄せた。

「ずっと一緒にいて欲しい。一緒に――元の世界へ帰ろう」

「ありがとう。嬉しいけど……元の世界に戻っても、私の体は……」

「あなたがこの世界へ来る前に、戻ればいい。時間を遡って、一年前まで」

 紫杏は顔を上げた。

「そんなこと、出来るの?」

「やってみるよ」

「でも林崎くん、魔法がうまく行かないって……」

「大丈夫だよ。もう迷わないから」

 林崎はきっぱりと言った。

「僕はあなたを見つけたんだ。王子様が靴の持ち主を見つけたように、僕もあなたを見つけた。だから、大丈夫」

「もし、また見失ってしまったら?」

「その時は、また見つけるよ。何度でも……必ず見つける」

 林崎の顔に、微笑みが広がった。いつもの彼の、優しく穏やかな微笑み。

「うん……」

 紫杏は頷いた。涙が堪えきれずに溢れ出す。

「私も……私もまた、林崎くんを見つけるよ」

 林崎は紫杏の手を取り、冷一に向き直った。

「時間を戻せば、この世界も、僕が来る前の状態に戻るはずだ」

 冷一は林崎を見返した。

「……本当に、元通りになるんだろうな」

「ひょっとしたら、多少は影響が残るかもしれないけど……出来る限りのことはしてみるよ」

「そうか。なら、俺も協力する」

「え?」

「お前から与えられた魔力とは言え、今は俺のものになってるんだ。少しくらい役に立つだろ」

「冷くん……」

 驚いている紫杏を、冷一は軽く睨んだ。

「お前、ひとりぼっちだなんて、勝手に決め付けるなよ。事情を話してくれれば力になったのに。俺だけじゃない。深紅だって、明堂先輩だって」

 潤んだ瞳が冷一を見つめた。

「どうして? 私、みんなを騙してたのに……いっぱい迷惑掛けたのに……どうして……」

「言わせたいのか?」

 冷一は拗ねるように横を向いた。

「言わないと、わからないのか?」

「……」

 いつの間にか、屋上に光が満ちていた。だんだん強く、だんだん明るくなる。

「冷くん……ごめんね」

「謝るな」

 無表情のまま、冷一は言った。

「みんなを騙して、いっぱい迷惑掛けたんだ。そうまでして叶えたかった願い……ちゃんと叶えろよ」

 紫杏は泣きながら微笑んだ。

「……ありがとう、冷くん……」

 光が更に増し、眩しくなって冷一は目を閉じた。

 そして――。

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