――二月十六日――

 朝が来ても、元通りにはなっていなかった。

「おはよう、紫杏」

 ダイニングで、カフェオレを手に深紅が振り返る。

「おはよう、深紅」

 全く魔法を使わない深紅は、やっぱり変な感じがするけれど、慣れてしまえばこれはこれでいいかもしれない。

「ねえ深紅、今日学校一緒に行かない?」

「いいけど、私自転車だよ」

「大丈夫」

 ――深紅が魔法を使わないなら、ちゃんと付いて行けるから。

 もう何年も乗っていなかった自転車を漕いで、紫杏は深紅と一緒に出発した。

 学校に近付くと、生徒の姿がちらほら見え始めた。紫杏たちと同じように自転車に乗っている子や、徒歩の子。空を飛んでいる子は一人もいない。

 紫杏は身を乗り出した。

「あ……みんな赤信号で止まってる」

「当ったり前じゃない」

「う、うん。そうだよね」

 二日前まで赤信号は、飛んで渡るのが当たり前だったのだ。

「あんた、ちょっとおかしいよ」

 深紅が自転車に跨がったまま、紫杏の顔を覗き込んだ。

「私、どんな風に違う?」

 ヒントになるかもしれないと思って聞くと、深紅は即答した。

「違いはない。いつもと変わらずおかしい」

 言われ慣れていることとはいえそれなりにダメージを受けながら、紫杏は校門をくぐった。

「紫杏ー、おはよう!」

 教室に入るなり、貴美恵が元気良く声を掛けて来た。

「おはよう」

 答えて席に着くと、左隣は今日も空いていた。

 ――どうしたんだろう、林崎くん。

 ぼんやりしているうちに、栗田が入って来て教壇に立った。

「出席取るぞー、阿部」

「はい」

「五十嵐」

「はーい」

「井上」

 紫杏はぼんやりしたまま栗田の声を聞いていた。

「根岸」

「はい」

「日野原」

「はい……」

 返事をしてから、ふと違和感を覚えた。

 ――あれ? 今……。

 根岸と日野原の間……林崎の名前が呼ばれなかった。

 ――え……何で? 来てないってわかってるから、飛ばしたのかな。でも……。

 紫杏はちらっと左の席に目をやった。

 ――空っぽの机――。

 ホームルームが終わったあと、紫杏は貴美恵に尋ねてみた。

「ねえ、林崎くんって、どうして休んでるの? 病気か何か?」

 貴美恵は首を傾げて紫杏を見た。

「林崎? どこのクラスの子?」

「え?」

「二年にそんな子いたっけ。下級生?」

「何言って……林崎くんだよ。私の隣の席の」

「そっちこそ何? 怖いこと言わないでよ。そこは余った席じゃない」

 紫杏は突然、周囲の風景から色がなくなったような感覚を味わった。

 ――やっぱり、パラレルワールドなの?



 昼休みになると、紫杏は手早く食事を済ませて屋上に行った。

 寒い季節なので、誰も屋上に出たがらない。休み時間のほとんどを屋上で過ごす物好きは冷一くらいだ。

 彼はいつものように、本を読みながらお弁当を食べていた。お弁当を食べながら本を読んでいると言った方が正しいかもしれない。

 ――冷くんだけは、全くいつも通りの冷くんだな……。

「今日も変か?」

 いつものように、紫杏が来たことに気付いた様子も見せなかった冷一が、いつものように本から目を離さずに言った。

 紫杏は黙ったまま、冷一の読んでいるページを魔法でめくってやった。

 冷一は本の内容と同じくらい興味深そうに、ひらひら揺れているそのページを見つめた。

「少なくとも、ここが私の知ってる世界じゃないってことだけは確かだと思う」

「俺がおかしいんじゃないんだな」

「うん」

「じゃあ忠告するけど、あんまり軽々しく魔法使うなよ」

「え?」

「この世界では特殊な能力なんだ。もしばれたら、気味悪がられたり、好奇の目に晒されたり、挙げ句の果てに利用されたり、いいことないぞ」

「本の読み過ぎだよ」

 紫杏は冷一の横に腰を下ろした。

「まあ、わかる気はするけど。向こうの世界でも、ちょっと高い能力を持った人はそんな感じにされてたから」

「お前は?」

「私は全然だめ。ほとんどまともに使えないの。落ちこぼれの出来損ない」

「……まあ、わかる気はするけど」

 冷一がお弁当の残りを片付ける間、二人はしばし沈黙した。

「……冷くん」

「うん」

「私、元の世界に戻りたい」

「うん」

「協力してくれる?」

「ああ」

 紫杏はほっとした。頼るなと言われても、紫杏に頼れる相手は冷一しかいないのだ。

「もう昼休みが終わるな。家に帰ってから相談しよう」

「うん」

 頷いて立ち上がろうとすると、冷一が呼び止めた。

「それと」

「え?」

「このことは、他の誰にも言うなよ」



 放課後、紫杏と冷一は一緒に下校した。

「お前が別の世界の紫杏なら、こっちの紫杏はどうなったのかな」

 マンションの外階段を上がりながら、冷一が不意に言った。

「そうか。こっちの世界にも私はいたんだよね。どこへ行っちゃったんだろう。私のいた世界に、入れ替わって飛ばされた?」

「それじゃあ、今のお前以上にパニックになってるだろうな。魔法のない世界から魔法だらけの世界にいきなり飛ばされたりしたら……考えただけでぞっとするよ」

 自宅の玄関前まで来ると、冷一は鞄を探ってため息をついた。

「ああ……鍵忘れた」

「また?」

「またって、そっちじゃどうか知らないけど、俺はそんなにしょっちゅう忘れたりなんか……」

「私、開けようか? 魔法で」

「開けられるの? ……って、さっき使うなって言ったばかりだろ」

「誰も見てないし」

「いいよ。お前んち行こう」

 二人は方向転換し、一階上の紫杏の家へ向かった。

「そういえば今、家に深紅いるかな」

 冷一が尋ねる。

「いないと思うよ。深紅は今日、デートだって言ってた」

明堂みょうどう先輩と?」

「やっぱりここでも、深紅の彼氏は明堂先輩なんだ」

「公認だよ。二年も前から。で、何時頃帰るって?」

「食事済ませて来るって言ってたから、夜になるんじゃないかな」

「なら大丈夫だな。うちもお前んちも、両親は共働きでいつも帰りが遅いんだ」

 冷一が予想した通り、家には誰もいなかったので、紫杏は鍵を開けて中に入った。

「お茶、飲む?」

「お構い無く。……座れよ」

 紫杏と冷一はリビングのソファーに、向かい合って腰掛けた。

 見慣れたソファーにテーブル。だがこれは、紫杏が使っていたものとは違うのだ。全く同じに見えるのに……。

「……何で私、突然別の世界に来ちゃったのかな」

「それを今から考えるんだろ」

「何もしてないのに、知らないうちに移動しちゃうなんてこと、ある?」

「本当に何もしてないのか? 前日じゃなくても、最近で特別なことしなかった?」

「してない……と思う」

 ここ数日はバレンタインのことでいっぱいだった。何かしたとすれば、チョコレートを用意したくらいだ。

 冷一は顎に手を当てて考え込んだ。

「だったら、こんなとこ嫌だ、とか、どこか違う世界へ逃げたい、とか思ってたんじゃないのか」

 ――確かに……思ったことはある。魔法なんかない世界へ行きたいって。

「でも、いくら思ったって、落ちこぼれの私にそんなこと出来るわけないよ」

「じゃあ他の誰かがお前を飛ばしたんだ」

「何のために?」

「……。心当たりないの? 昨日、チョコレート盗みそうな奴がどうとか言ってただろ」

「それは……」

 紫杏は唇を噛んだ。無闇に人を疑うのは良くない。

「わざとじゃなくて、事故だったのかもしれない。誰かが間違えて、私に魔法を掛けてしまったのかも」

「どっちにしても問題は、その『誰か』が誰なのかってことだよ」

 それから一時間ほど話し合ったものの、結局答えは出なかった。

「今の段階じゃ何とも言えないな」

 冷一が長い息を吐き出す。

「ひとまずこのまま生活して、様子を見るしかないか」

「そうだね……」

「……なあ、そっちの世界には魔法使いがたくさんいるんだろ? お前がいなくなった――あるいは別人に変わってるってことに気付いたら、そっちの奴らが何とかしてくれるんじゃないか?」

「だといいけど」

 しばらくだらだらしていると、冷一の携帯電話が鳴った。

「着信?」

「母親からメールだ。あと二十分くらいでうちに着くって」

 携帯を閉じてから、冷一はふと紫杏を見やった。

「魔法が存在する世界でも、通信手段に携帯電話を使うのか?」

「うん。みんな持ってるよ」

「ふーん。魔法使いなら、遠く離れてても心と心で会話出来るのかと思った」

「そういう能力は聞いたことないな……。ある人もいたのかもしれないけど。あ、でも、高い魔力を持った人だと電話に向かって名前を呼ぶだけで、相手の電話と繋げられるみたい」

「圏外でも?」

「多分」

「お前は――」

「無理」

「だよな」

 冷一は天井を仰いだ。目の端で時計を確認すると、おもむろに立ち上がる。

「帰るの?」

「ああ」

「もっとゆっくりして行けばいいのに」

「いや、深紅が帰って来た時俺がいたら、何か色々怪しまれそうだし」

 紫杏は冷一を追い掛けて廊下に出た。

「そんな神経質にならなくても、私たちがどんな話をしてたかなんて深紅にはわからないよ」

「……そういう意味じゃない。でも、深紅にだって言うんじゃないぞ。くどいようだけど、このことは誰にも知られないようにしろ」

「うん……くどいね」

 冷一は紫杏に顔を向けた。

「もう忘れたのか? ――お前をこの世界へ飛ばした『誰か』がいたとして、その人物についてまだ何もわからないんだ。故意だったのか手違いだったのか、お前がここにいることを知ってるのか知らないのか。そいつがこの世界へ来ている可能性だってある。なるべく情報は漏れないようにした方がいい――そう言っただろ?」

「覚えてるよ。気を付ける」

 紫杏はぼんやり相槌を打った。

 ――私をこの世界へ飛ばした『誰か』。それは、もしかしたら……。

 確証はない、ただの憶測だ。だから紫杏はその考えを、冷一には話さなかった。

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