迷走

 目が覚めた時、酷く体が痛かった。

 痛い所だらけで、逆に痛くない所を探した方が良かったのかもしれない。

 痛みに打ち震えようにも、何かに縛り付けられているみたいで、身動きどころか身じろぎもかなわなかった。

 見覚えのない部屋で寝かされている上に、どんな理由かも分からず体の自由が奪われていた。

 痛みを凌駕する恐怖が沸き起こった。


 怖い……。


 痛い……。


 怖い……。


 死ぬ?


 ……嫌だ。

 死にたくない!

 ……どうすればいい?


 ――逃げたい!!――


 不安と恐怖が逃避と掛け合わさって、頭の中で爆発した時には、智明はベッドの拘束を引きちぎっていた。

 手足を振り回し、身体の自由が保証されるまで荒れ狂った。

 立ち上がって目についたのは、自分が寝かされていたであろうベッドとそれに繋がっている大掛かりな機械。それと部屋にはドアが一つと窓が一つだけあった。

 初めて見るこの部屋から出るには、たった一つだけあるドアからしか出られないだろう。

 駆け寄ってドアノブに手をかけるが、押しても引いても開かない。

 ――閉じ込められている!?――

 なぜ見知らぬ部屋に閉じ込められるような状況にいるのか理解できず、『分からない』という困惑は『納得できない』という怒りに変わる。

 力任せにドアを蹴った。

 思っていたよりも容易くドアが吹き飛び、勢いで隣の部屋に転がり込む形になる。

 態勢を立て直し顔を上げると、見覚えのない大人達が何人も集まっていて、自分に注目している。

 見知らぬ場所から脱出したい気持ちと、見知らぬ人々に見られている恐怖が重なり、脱出経路を探す。

 幸いにも自分の真横に別のドアがあったので、さっきと同様にぶち破ってその部屋を出た。

 ――!?――

 さすがに大きな衝撃が体に走ったので慌てたが、すぐに壁にぶつかったからだと気付く。

 勢いが強すぎたのだろう。

 だがまたしても知らない場所に出てしまった。

 今度は学校か病院のような大きな建物の廊下のようだ。

 慌てて態勢を立て直し、出口を探すが、真っ直ぐ伸びた廊下の片方はすぐに右へと折れていて先が見えず、もう片方は屋外の明かりが差し込んで見えるがその前に人影がいくつか見える。

 迷ったり考える前に本能が外界の明かりを選び、勢いよく一歩を踏み出した、が、意識が追いついていないのか、勢いがあり過ぎてまた壁に激突してしまった。

 ――!!――

 こんなところでコケてられない!

 一瞬の焦りは無駄に手足をもたつかせ、触れる物すべてを押して蹴って支えにしてどうにかバランスを保ち、なるべく全力で出口らしきドアを目指して駆けた。

 ドアを開くのも煩わしくて体当たりで飛び込み、地面に体を転がらせて停止した。

「よし!」

 ざっと周囲を見回して、自分の体が建物から出ていることを確信し、とにもかくにもその場を離れて自分がどこにいるのかを知るために、智明は大通りまで走ることを決めた。

 もしかすると何者かが追いかけてくるかもしれないという恐怖も手伝って、とにかく真っ直ぐ真っ直ぐ走って、距離と時間を稼ごうと思った。

「!? リニアの高架、かな?」

 少し広い通りに出て立ち止まった智明の視界には、建設中のマンションやビルや戸建ての向こうに、神戸淡路鳴門自動車道とは違う高架橋が見えた。

 真新しいコンクリートの表面は、建設中の防護ネットや足場などがないことから、見えている部分の工事は終わっていると判断し、ならば工事関係者とも出くわさないだろうと楽観視する。

 再び智明は走り始め、立入禁止のフェンスを乗り越えて太くて頑丈な高架橋の柱の一つに身を隠した。

「なん……なんだよ、これ……」

 柱にもたれながら智明は意識が戻ってからのことを思い返し、頭を抱えた。

 来月で十五歳になるが、これまで人と殴り合うこともなかったし、手術を受けるような怪我や病気をしたことはない。

だからこそ見知らぬ建物で目的不明の検査室のような場所に拘束されていたことが怖くて仕方がない。

 逃げたくなって当然だと自己正当化しつつ、なんとか逃げ出せたことに安心もする。ただ、逃げてしまってよかったのだろうかという不安も生まれる。

 もしも無意識のうちに自分が罪を犯して囚われていたのなら?

 もしも自分が重大な病いや怪我であの建物に運び込まれていたのなら?

 そう思うと智明の心には不安だけが大きくなってくる。

「そうだ! 真は? どこいった? うええ!? なんだ? なんで?」

 意識を無くす前は、確か真とバイクを走らせていたはずだった。

 だが建物から逃亡する際、真らしき人影は目にしなかった。

 智明は慌てて真と連絡を取ろうとスマートフォンを探したが、自身が一糸まとわぬ裸であることに驚いた。

 ただ裸なのではなく、皮膚を剥ぎ取られたり剝かれたように筋肉や骨がむき出しになり、全身がしっとりと血に濡れていてもう一度驚いた。

 頭を抱えていた両手を見直して見ても、スーパーで見る家畜の肉のように、薄赤い筋肉と白けた脂とプラスチックの様なピンクの筋が血にまみれていた。

「なんだこれ? なんだこれ? なんだこれ?」

 動揺して早くなっていく鼓動にますます不安を大きくしながら、智明は周囲を見渡し、溜池になっている高架下まで這いずっていく。

「……ウソ、だろ……」

 薄明かりの中で溜池の水鏡に写ったのは、ゲームで見る怪物かゾンビのような、到底人間とは思えない肉と骨の塊だった。

「うわああああああ!!」

 拡大しすぎた不安と目にした絶望で、叫び声を上げて智明は意識を無くした。


   ※


 中島病院に新しく設けられた新館は二棟あり、一棟は国生大学の研究室と講堂で、もう一棟は脳外科や神経科の診察室と待ち合いロビーとリハビリ施設に加え、入院患者の病室となっている。

 だがまだ新設されたばかりで入院患者は少なく、今は空いているベッドに今朝の騒動の怪我人が寝かされている。

「……ん、んん? ……んお?」

「気が付きましたか?」

「起きてすぐ播磨ちゃんの顔が見れて良かったのか、悪かったのか」

 鯨井は体を起こそうとしたが、じんわりと痛みがあることと思い通りに体が動かないことでそれを諦めた。まだ麻酔が効いていると分かったからだ。

 対してベッド脇で小さく微笑む播磨医師は、鯨井の減らず口に少し困った顔をする。

「そんなことばかり言っていると、また私みたいに女を不幸にしちゃいますよ」

「それを言われると辛いなぁ」

「……冗談ですよ」

 播磨医師は鯨井の左肩にそっと手を置く。

「未練はあっても恨みはありませんから」

「勘弁してよ……」

 今度こそ満面の笑みで言い切った播磨医師に、鯨井は笑顔を引きつらせる。

 旦那との不仲が原因で消沈していた播磨医師と関係を持ってしまったのは、もう何年も前の話だ。

「……それより今何時かな?」

「もうすぐお昼よ」

「そうか」

 播磨医師の返事に答えて鯨井は一度深呼吸をする。どうにも昔の逢瀬が頭をよぎって思考の邪魔をしてくる。

「クジラさん!」

 病院には似つかわしくない女の声に、また鯨井の思考はキャンセルされた。

「お、よお!」

 顔だけを入り口に向けた鯨井の視線の先には、少し早い夏っぽい服装の野々村美保の姿があった。

「よ、と。……ああ、すまない」

 播磨医師に体を起こしてもらった鯨井に、美保は文字通り飛びつくように抱きついた。

「どうしたの? なんで怪我してるの?」

「野々村さん。術後だから落ち着いて」

「あ、播磨先生。でも……。はい、失礼しました」

「美保ちゃん、ごめんよ。播磨先生。こういうことだから。そのう……」

「ええ、私は大丈夫です」

 美保には分からなかったが、鯨井の意思表示を察して播磨医師はベッド脇の椅子から立ち上がった。

 恐らく世界最短の決別の言葉だったろう。

 そして笑顔で美保に椅子をすすめる。

「もうニュースになってるかもだけど、今朝、病院内で騒動があったの。鯨井先生はそれに巻き込まれて左足を骨折されたわ。さっきその手術が終わったところだから、数日は安静にしていなければいけないのと、あと二回点滴をしなければならないから、介抱をお願いしますね?」

「はい」

 美保と入れ替わりながら播磨医師は必要なことをスラスラと説いていく。

 美保は真剣に聞き、キチンとした返事を返す。

「それじゃあ、私は他の先生方と話してきますから」

「ああ、播磨先生!」

 そのまま立ち去ろうとする播磨医師を鯨井が呼び止める。

「例の検体は、あとで見に行くからよろしく頼んます」

「え? ああ、はいはい。……安置だけでよろしいのかしら? 培養は?」

「いや、結構。まずは観察してから培養の方が危険はないと思う」

「そうね、分かりました」

 いつもどおりの笑顔を見せて播磨医師は病室から去っていった。

「ふう。……心配かけたみたいやな」

「あ、うん」

 鯨井が話しかけるまで出入り口を凝視していた美保は、少し落ち着いたのか、場所をわきまえたのか、いつも研究室で見せる表情で答えた。

「ビックリしたよ。朝からパトカーや消防車が走り回ってて、ニュース見たら中島病院で強盗騒ぎみたいな見出しなんだもん。来てみたらニュースより物々しいし、本館の玄関壊れてるし、クジラさんが巻き込まれたかと思って心配だったよ」

「ありがとよ。そうか、強盗騒ぎとなってたか」

 誰のどの判断かは分からないが、真実をそのまま伝えることは難しいし、伝えるにしても正確な言葉は見つからないだろう。

もし、本当に鯨井が経験したままを世間に公表するとなると、世間は混乱と動揺と嘲りの言葉で溢れかえるだろう。

 妙な納得をして鯨井は腕を組んでうなずいた。

「え、違うの?」

「いや、違うというよりも、他に言いようがないって感じだな。例えば、銀行強盗の犯人が宇宙人でしたなんてニュースは信じられないし、報道しようにもしにくいだろ?」

「本当であっても信じないわね。都市伝説系ユーチューバーなら見ちゃうかもだけど」

「そういうレベルってことだわな。……まだ何が本当か分からないから尚更な」

 鯨井の話がとりとめなくて、美保はやや困惑した表情になる。

「ふうん……。とりあえず怪我もしてるんだし、私がそばに居るからゆっくり休んでていいよ」

「そうだな。点滴の交換だけ見といてちょうだい」

「はいはい」

 軽口を言いながら体を寝かせていく鯨井を支えてやり、シーツをかけてから美保はそっと鯨井の手を握った。

「美保ちゃん、指のサイズいくつだっけ?」

「服も指も七号だよ」

「ん。分かりやすいな」

 一度キュッと美保の手を握ってから、鯨井は目を閉じた。


 鯨井のように骨折したり頭部や内蔵を損傷した疑いのある者は、処置を受けて新館の病室に移されたが、比較的軽傷の関係者は新館の一階ロビーに集められていた。

 本館の一階は破壊され、現場検証などで警察が立入禁止にしてしまったし、関係者への聞き取りは新館の一階で診察室を簡易の取調室として使い、誘導や指示をやりやすくしているからだ。

 騒動が起こった時刻は、夜間の救急外来から日中の通常受診へ切り替わる時刻だったため、怪我を負ったのはほとんどが病院関係者なのだが、その他は入院患者の一部と出入り業者と外来の受診者とその家族も巻き込まれてい、状況が落ち着けば解散させるのにも手がかからない。

「うっす」

「終わったか? 真は?」

「トイレ行ってくるとさ」

「そうか」

 待ち合いロビーの奥の方のベンチで、先に警察の聞き取りを終わらせて座っていた田尻を見つけ、紀夫は隣に腰掛けた。

「なんか情報あったか?」

「何もない。なんの目的でここに来て、どこに居て、なにをしたか聞かれただけだな」

「ま、そんなもんか」

 紀夫の答えが予想通りだったので、田尻はつまらなそうに足を組み替えて天を仰ぐ。

「しょせん、俺らは付き添ってきただけだからな」

が何か、聞かれたか?」

「聞かれても知るかよ? 向こうも聞きようがないだろ」

 見て分からなかった生物を、聞いた情報をもとにどう聞き出すのか、そもそもの会話に無理がある。

「だよな……。タバコ吸いてぇ……」

「だな。真が戻ってきたらフケるか」

「未成年者の喫煙は違法のはずよ」

 聞き覚えのある女の声に、紀夫は素早く体を起こす。

「恭子ちゃん! 警察の話終わったの? それ私服?」

 紀夫の反応の速さにおののきながら、田尻は紀夫にはもったいない小柄で可愛らしいスレンダーな女を見る。

 上半身に血をかぶったままだった看護服から着替え、ゴシックなスカートに黒白ボーダーのタイツにベルトブーツと私服まで可愛らしい。

「さっき終わって、上司からも着替えていいって言ってもらったから。さっきはノリクンのお陰で怪我を避けられたから、お礼しなくちゃと思って」

 顔や首元の血も洗い落とされ、メイクも直された顔で律儀にお辞儀をする赤坂恭子に、紀夫は隣の席に座るように誘う。

「お礼なんかいいってば。たまたま目の前にいたから引っ張っただけだし。それでも膝ぶつけてたろ? 大丈夫か?」

 当たり前のように恭子の手を握る紀夫に、またも田尻は唖然となる。

「いつの間にノリクン・恭子ちゃんの仲になった?」

「今はタイツでごまかしてるの。でももっとヒドイ怪我の人もいるから、こんなの怪我って言えないから平気」

 田尻の疑問は爽やかにスルーされ、紀夫と恭子のトークは進む。

 と、またベンチに近付いてくる人影があった。

「おつかれっす」

「おお、真か。だいぶ顔色良くなったな」

 田尻はしっかりと立っている真を見て、素直にそう言った。

 智明のバイクを回収して帰って来た時は、真は今にも倒れてしまいそうなくらい顔面蒼白で、意識も朦朧としていたように思う。

「こんなことになってスンマセン」

「お前がなんかしたわけじゃないだろ。謝ることじゃねーよ」

「でも……」

「それより、コレ行かないか」

 申し訳なさそうな顔をする真に、田尻に代わって紀夫が手をチョキにして口元に当てて誘う。

「今、行けるんスカ?」

 警察の目を気にして挙動不審に辺りを見回す真。

 思わずその尻を叩く田尻。

「キョドんなよ」

「恭子ちゃん、喫煙所ってある?」

「……あるけど」

 さすがに未成年者三人を連れて喫煙所に向かうことに抵抗を感じる恭子だが、紀夫の手を離して立ち上がる。

「ちょっと待っててね」

 紀夫に可愛らしい笑顔を向けて恭子は歩み出て、取調室代わりに使われている診察室の前に立つ警官に話しかける。

「おい、いいのか?」

「たぶん、平気だよ」

「あの人、口説いたんスカ? すげぇッスネ」

「バカ、そんなんじゃねーよ」

「なぜだ……」

 真と田尻の揶揄に、照れたり誇ったりせず紀夫は平然としているのが、田尻には尚更解せない。

「お! 良いみたいだぞ」

「お、おう」

 警官との話を終えて手招きする恭子に気付き、紀夫は席を立つ。

 田尻も紀夫について立ち上がり真を伴って二人を追いかける。

 恭子は紀夫と並んで歩きながら正面玄関から外に出て、病棟を回り込んで関係者用駐車場の奥まで三人を誘導していく。

「私も吸うけど、あんまり長いと捕まっちゃうよ?」

「そうなんだ? ありがと」

「あざっす」

「看護師さん、ありがと。愛してるよ」

「ああ、うん、あ、はい」

 田尻としては紀夫っぽく愛想よくしたつもりだが、恭子からは微妙な返事が帰ってきただけで、紀夫と真は呆れた顔でタバコに火を着けている。

「……さっき聞いたら、このまま帰ってもいいんだって。でも後々何かあったら電話連絡するって言ってたよ」

 何口か吸ったあと、恭子は話題を変えるために先程の警官との会話を伝えてきた。

「まあ、俺らは容疑者でもなんでもないからなぁ」

「…………」

「てことは、恭子ちゃんも家帰るのか?」

「そのつもりだよ?」

「送って行こうか?」

 また始まったよ、と田尻はそっぽを向く。

「え? でも西淡の方だよ」

「ああ、俺津井だもん。通り道だよ。田尻は伊加利だし。真は……どこだっけ?」

「……え? ああ、湊っす」

「近いね。私、西路だよ」

「じゃあ決まりだね」

 田尻の呆れ顔も気にせず、紀夫は恭子を送っていくことを決めてしまう。

 しかし真が控えめに手を挙げて会話を遮る。

「一つ思うんスけど、が智明だったとしたら、どこに行くっスかね?」

「何だよ、急に」

「んなもん、分かるかよ。多分だけど走って逃げちまったんだし」

 話の腰を折られた紀夫は冷たく突き放し、田尻も想像の域を外れたことだからぶっきらぼうに答える。

 だが後ろから意外な答えが訪れた。

「まずは安心できる自宅に戻る、かもしれない?」

 乗用車の後部座席を閉じながら、女が姿を現した。

「播磨先生。いらしたんですか?」

「ちょっと書類の整理をしててね。聞くとはなしに聞いてたの」

 短い茶髪のパーマに、白のサマーセーターと紺のストレッチパンツに白衣という出で立ちの女医は、恭子からタバコを一本ねだり取ると、火を着けて細く煙を吐いて言葉を足す。

「さっきの話、可能性は大きいと思うわ。どうするの?」

 母親ほどの年齢の女性に見つめられ、真は少し萎縮する。

「会えるかどうかは分からないけど、会える可能性があるなら、話してみたいと思う」

「そう」

「さすがに話ができるかなぁ」

「さすがにな」

「いえ、話は出来ると思います。あんなのになる前は普通の人だったはずですし」

 消極的な田尻と紀夫に対して、恭子は強い信念を持って応じた。

「恭子ちゃん?」

「赤坂さんの言うとおりね。医療関係者は信念や理念を軽んじたらそれまでだものね」

 タバコを消してから播磨医師は恭子の手を取った。

 残りの者もタバコを消して、成り行きを見守る。

「けれど、危険なのは間違いないし、先に警察が調べているかもしれない。無理や無茶はしてはいけない。分かるわね?」

「もちろんです」

 なぜか自宅まで送ってもらうだけのはずの恭子が一番最初に腹をくくってしまったので、仕方なく紀夫も覚悟を決める。

「しゃーねーな! おい、やるぞ」

「んあ? ああ、うん。やるか」

「あざっす!」

 紀夫のテンションに押され、田尻も付き合うことに同意し、真は深々と頭を垂れる。

「私はここでやるべきことがあるから、あとで結果を教えてちょうだい。一応だものね」

 歳を感じさせない可愛らしいウインクをしながら灰皿をつつく播磨医師に、少年三人はバツの悪い苦笑いを浮かべるしかなかった。


「ご苦労さん。どない?」

 中島病院本館の規制線をくぐって声をかけたのは、国生警察仮設署の捜査一課の刑事黒田幸喜くろだこうき巡査長だ。

 現在、淡路島の警察・消防は、旧洲本市と旧南あわじ市が合併して淡路新都国生市と成ったことで、大きな改変を迎えており、指揮系統は複雑になっている。

 旧東京都が東京府へと住所が置き換わってもその人口は膨大で、企業や政府が移転を進めていても未だ大都市であることに変わりはなく、そのために警察組織も消防組織も簡単に本部と総指揮所を移転できずにいる。

 とはいえ、新都と成った国生市に人口は集まり始めており、東京に警視庁を置きつつ国生市に新しい統括本部を持たなければならなくなった。

 辛うじて政府の移転前に仮設の本部を国道28号線沿い神代じんだい地区に置き、兵庫県警から洲本署と南あわじ署を移管し対応した形だ。

 黒田は、元は南あわじ署の捜査一課に所属していたが、昨年の国生警察仮設署の設立とともに異動させられたクチで、仮設から本部にそのまま配属されるかどうかも分からない宙ぶらりんな状況にある。

「ああ、黒田さん。なんじゃ、仮設署も出張ってきたんじょ?」

 答えたのは中島病院正面玄関で鑑識班の指揮を執っていた坂口謙三さかぐちけんぞうだ。

 坂口は南あわじ署配属の鑑識官なので黒田とは親しく、黒田より十歳は上だが敬語のない淡路弁で会話できる唯一の戦友だ。

「仮設やいうても広域やったぁ俺らも顔くらい出さんとな、あかんやろ。ほのまま本部になったりしよったぁ、ほれこそお飾り言われてまわれ」

 濃紺のスーツに濃紺のネクタイでオールバックにキメたダンディなマスクも台無しにするほどの淡路弁で黒田は嘆く。

「ははは。ほじゃの」

「ああ、黒田さん。ご苦労さまです。初動はだいたい終わってますよ」

 朗らかに笑う坂口の脇から、真面目くさったグレイのスーツの男が黒田に捜査状況を伝えに来た。

 彼は南あわじ署で黒田の後輩だった長尾勇ながおいさむ。黒田が異動したことで現場を仕切る班長に繰り上がったそうだ。

「おお、ご苦労さん。ほんで、どういう状況なんだ?」

「なんとも言い難いですね。マスコミには規制をかけて強盗なんて言ってますが、人間業じゃないですよ」

 手帳も開かずに長尾はお手上げのポーズをとった。

「何があったかは分かる。ほやけど、何者がどうやったかは分からん」

 どうやら坂口も長尾と同意見のようだ。

「やあやあやあ、黒田君。今頃のお着きですかな?」

「チッ」

 わざとらしい言い回しに思わず黒田は舌打ちをしてしまったが、無視はできない。

 白手袋を外しながらパトカーの影から現れた黒スーツの男は、洲本署に配属されている黒田の同期で、何かにつけて黒田と張り合おうとする浜田行雄はまだいくおだ。

 実際のところはエリートコースに乗りそびれた一刑事に過ぎないが、四十前にしてまだまだ出世は諦めていないようだ。

「これはこれは、洲本署の重鎮が出張っておられるとは恐れ多い。もう手掛かりを見つけなさったので?」

 明らかな黒田の嫌味に浜田は顔をしかめたが、ズボンのポケットに両手を突っ込んで尊大な態度は崩さない。

「見て分かるように、そんな簡単な事件じゃないぞ。マル疑は逃走中だ。気を抜けんよ」

「まあ、広域やよってん、連携だけはよろしゅうに。一応、仮設署が本部になると思うし」

 子供じみた威張り合いに意味はないと思いつつも、黒田は再び浜田に嫌味を送っておく。

「分かってる」

 一所轄と仮設ながらも本部という序列に浜田は機嫌を悪くしながら、鼻を鳴らして洲本署の警察車両の方へ去っていった。

「相変わらずですね」

「アイツだきゃあ、死んでもあのままやろ」

「おまはんもやろが」

 長尾と坂口にたしなめられて黒田もムッときたが、浜田を追っ払えたので少しだけ気分はいい。

「さて、本領や。坂口さん、中見て回ってんええんけ?」

「もうええで。後で報告書は回っさかい。気になったぁ南あわじに来てくれたぁええわ」

「サンキュウ。ほな、行こうか」

 坂口に確認をしてから、馴染みの後輩と部下を連れて黒田は中島病院の本館へと入っていく。

「増井、俺と長尾の会話、撮っとけよ。必要なとこはズームな」

「了解です」

 自分と長尾に続いて入って来る増井茂ますいしげる巡査に、眼球を通して移した映像をH・Bに記録するよう指示を出しつつ、黒田はひしゃげた玄関ドアを通り過ぎる。

「なんやこれ?」

 入ってすぐに黒田は異常な光景に声を上げる。

 壁も床も天井もひっかき傷だらけで、細かな血痕があちらこちらに残っている。床に関しては踏み砕かれた足跡とおぼしきくぼみが点々と奥まで続いている。

「そりゃ、規制するわな」

「はい」

 返事一つで済ませた後輩を訝しく思って振り向いたが、一つ一つを確かめながら黒田は奥へ進む。

「…………ん? やたら歩幅が広いな? 短距離の世界記録保持者が犯人か?」

「それは坂口さんも不思議がってましたね」

 百メートルを十秒以下で駆け抜ける短距離走の世界記録保持者の一歩の間隔は、何歩で駆けるかにもよるが平均でニメートルを超えている。

 正面玄関から廊下の突き当りまで三十メートルもない所を、足跡は三メートル以上の間隔で穿たれている。

「ふうむ……。増井、坂口さんがやってくれてるとは思うが、後で歩幅と足跡のサイズ計ったのも撮っといて」

「了解です」

 部下の明瞭な返事を聞きながら黒田は奥へ進む。

「この壁のへこみは?」

 待ち合いロビーを通り過ぎて少し進むと、左右の壁がビルの解体作業用の鉄球を当てたようにへこんでいるのを見咎めて、黒田は長尾に問うた。

「目撃者の話では、左手側のMRIのモニター室から出てきた生物が、突進して激突したそうです」

「はあ!? 本気で言うとんか?」

「僕も目撃者も真剣ですよ」

 目撃者はともかく、長尾の真面目な性格は黒田が一番知っているので、それ以上の追求はしなかったが、人間の体当たりで鉄筋コンクリートの壁がこうも変形してくぼむことはない。

 ましてや、足元にひしゃげた金属製のドアが吹き飛んで転がっていることも、人間業ではない。

「こっから出てきたんか?」

「そうです」

 MRIのモニター室と説明された室内を覗くと、入ってすぐの右の壁がまた破壊されていて、左側に取り付けられていたであろうドアがひん曲がった状態で、右の壁に立てかけられていた。

「これは?」

「恐らくですが、左側に設置されていたドアがぶち破られた際に、近くにいた男性医師二人共々ドアが壁にめり込んだ跡です」

「んな!」

「おいおい……」

 珍しく増井が声を上げるほど、壁に残された被害者の血や肉片が生々しく壁の亀裂にこびりついている。

「他に被害者は?」

「ドアに挟まれて圧死した男性二名の他は、腹部を強打した男性がニ名と、腕を骨折した女性看護師が一名、足を骨折した男性医師が一名、破片などで顔や腕を切った者が五名、打撲などの軽傷が数名です。待ち合いロビーでも軽傷者が十数名出ています」

 長尾の報告を聞きながら、黒田は合掌し、視線を隣室へと向ける。

「……こっちは?」

「MRIの検査機器がある部屋です」

 この部屋もまた、壁や天井に無数のひっかき傷があり、床もところどころ足跡状にえぐられていた。

「検査台か? ここの壊れ方がヒドイな」

 黒田は部屋の中央にある筒状の機器と、その中に滑り込むベッド状の検査台に近付いて観察を始める。

「モニター室に居た目撃者の証言では、MRIの撮影を行った際に、その対象をベルトで拘束していたそうです。そのベルトです」

 黒田の見ていたベルトを指して長尾が説明を加えた。

「ここに寝かされていた者が自力で引きちぎったと、いう話なんですがね……」

 さすがの長尾も現実味がなくて口籠ったが、黒田にも非現実的なことが理解できたので追求はしなかった。

 こういった検査を行う際、薬物や疾病・疾患によって暴れたり体をコントロールできないために静止させることが出来ない患者がいる。そのために拘束せざるを得ないケースがあり得るのだが、人間に害があるほどの拘束力はないにしてもベルトを引き千切るというのは考えられないパワーだと思える。

「……濡れているな」

「は?」

 ベルトを観察していた黒田は、長尾を振り返って厳しい目で問いかけた。

「ここには肉片なり血が付いていなかったか?」

「僕が見た時はその状態で……。待ってください。確か……。脳外科の医師が肉片と血液の採取を同僚に頼んでいますね」

「やるな。そいつのとこに行くぞ」

 黒田はすぐさま立ち上がり、長尾を押しのけるようにして部屋を出たが、ふと立ち止まる。

「どうしました?」

 不思議がる増井に、しばらく黙考してから黒田は尋ね返す。

「検査をやろうとしてたってことは、患者か何かだよな?」

「恐らく……」

「んじゃ、そいつはどこ行った? 入院患者ならカルテがあるはずだし、外来でも問診してるはずだよな? 付き添いは? 保険証は? 事情聴取した目撃者との照らし合わせは?」

 矢継ぎ早にまくしたてる黒田に、長尾は警察手帳をめくって黒田の問いに合致するものを探す。

「……検査を受けていたのは、高橋智明、十五歳。住所は松帆志知川。付き添いは同年代の少年三人。……保険証は、無しですね。事情聴取の名簿には…………載ってません」

「充分だ。所轄に志知川の高橋智明の住所を調べさせて、在宅を確認させろ。俺らはベルトの肉片を採取させた医者んとこだ!」

「うっす!」

「了解です!」

 意外に早く片付きそうな事案に、黒田の刑事魂に火がついた。


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