〈2〉次鋒戦――ムエタイ

 コートを出た咲が真澄と抱き合うのを、彩羅は指を咥えて見ていた。



「ちぇ、いいなあ。私も混ざりたいなあ」



 彼女は時間計測とスコア記入係を仰せつかっていた。紅葉曰く『目障りだからあっち行ってろ』とのことらしい。



「ぶうぶう。せっかくマー君が選んでくれた勝負服なのに! 酷いよねえ?」



 胸元に語りかけながら、桜色のトレンチコートをぱたぱたと仰ぐ。



「何をやっているんだ貴様は!」



 不意に近場から飛んできた罵声に、げんなりと肩を落とす。見なくても判る。内村が栄花を怒鳴りつけているのだ。



「貴様が集めた情報とやらには、敵がどんな技を持っているかが載ってなかったのか!? それなら現場で集めればいいだろうが、それが駆け引きだろう。画面の見すぎで目が霞んだか!?」


「……申し訳、ありません」


「そうやってコントロールした『つもり』で満足してるから、いつまでたっても人工知能は暴走するなんて言われるんだろうが! この役立たずのエンジニアかぶれが!」



 相変わらず容赦のない内村に、彩羅は「おお、こっわ」と腕を擦った。心まで抉ってくる内村と、徹底的に体をいたぶる紅葉のダブルパンチには、自分たちもよく泣かされたものである。



「……よく耐えたなあ、私」



 わざとらしく泣き真似をしていると、内村が麗緒奈を呼び付けていた。

 仲間が怒鳴りつけられたというのに、堂々とした立ち姿の次鋒に、彩羅は目を細める。他人事のように自我を保っているのか、あるいは、あの当時の自分たちのように乗り越えたか。


 自分の教え子を、そして教えた自分の力を疑うわけではない。だが――



「これは翡翠ちゃん、厳しいかもねえ」



 面白いものが見れそうだと、彩羅は膝元のストップウォッチを拾い上げた。






 * * * * * *






 開始線に蹲踞して向かい合う。翡翠は一心に睨めつけているのだが、一方の麗緒奈は相変わらず飄々と、からかうような笑みを向けてくる。



「わぁ、怖い目。ほらほら、麗緒奈くらい笑ってみせなさいよ」


「いやー……さすがにそこまでいくと、キモいかなー」



 翡翠は頬を引きつらせた。大江実業へ偵察に行ったときの彼女の様子を見た上で今の笑顔を見れば、得体の知れない気味の悪さがざわざわと胸に込み上げる。アイドルやアーティストの舞台裏で展開される、生々しい血と汗を見た時のそれだった。


 しかし、麗緒奈はふうん、と意味ありげに目を細くするだけで、特別取り合わない。

 試合の開始宣言直後、先に動いたのは相手の方だった。



「さぁて。麗緒奈、魅っせまーす☆」



 およそ剣先同士が触れるくらいの間合いが一足一刀――つまり、その場から一足たりとて間合いを詰めることなく打ち込むことができるとされている。しかし彼女は、試合開始直後の、互いの剣先もだいぶ離れている状態から飛び込んできた。


 立ち上がる時の身体の伸びを利用して、真っ直ぐに突き刺さるような面打ち。



「わわっ!? よっ、ほっ、おっとと」



 翡翠は辛うじて受け止めることに成功したが、足を引きつけた麗緒奈はそのまま小手を狙ってくる。攻撃を受けるためにはどうしても竹刀を斜めにする必要があるため、小手ががら空きとなってしまうのだ。一般的には面へのフェイントをかけて小手を打つ選手は多いが、面を確かに打ってから小手に移行するには、スピードの面でも間合いの面でも難しい。


 それを麗緒奈はやってのけた。初太刀の捨て身で飛び込んだ体勢から、今度は真上のやや後方へと跳ね上がるように勢いを向けることで、小手打ちのための余裕を強引に生み出した。


 開始早々、翡翠は防戦を強いられていた。間合いを切ろうとしても、逆に間合いを詰めても、腕を振るスペースさえあれば――否、なくても強引に作り出す攻撃の雨が止むことはない。



「ちぃっ!」



 ならば、強引に突き崩して仕切り直そうと、体当たりをしかける。

 さすがに耐え切れず転倒した麗緒奈は、しかし。転がりながらも跳ねるように立ち上がった。



「あまいあま~い☆ そんなんじゃ、麗緒奈には通用しないわよ?」



 舌を出して見せた彼女に、翡翠はあの光景を思い出す。



――ところで麗緒奈、貴様は何をやっていた? どうして倒れたままだったんだ。



 何もせずに殺されるか。あの暴力とも言える指導法でも、確かに言っていることには一理があった。そしてそれは、今日の麗緒奈の中に確かに息づいている。

 あれがなければ戦意喪失させられたのにと、現実逃避をしたくなるほどに。



「うっげぇ、今のが平気とか……自信なくしそー」



 思わず一歩後退りした翡翠に、麗緒奈は俯き加減のまま絶叫した。



「平気なワケないでしょうが!」


「……えっ?」


「痛いわよ、苦しいわよ。あんたしぶといし、体当たりも無駄に重いし。必死に掛かり稽古を重ねて身につけた連続技だって、やってらんないくらいキツいわよ……っ」



 彼女は子どものようにいやいやと首を振りながら、肩を震わせている。



「でも、だから麗緒奈は笑うの。笑顔でいるの!」



 顔を上げて、再び打ちかかってきた。



「『笑』って漢字の意味、知ってる? 巫女が神に捧げて舞う姿を現しているんだって。神への舞よ、並みの修練でいいはずがないの。稽古で痛めた足を袴に隠しながら、それでも、顔は笑顔を保たなきゃ駄目なの。そうじゃなきゃ、天照も岩戸から出てくるはずないでしょう!?」



 笑いながら叫ぶという歪な様相の、想いが込められた熾烈な攻め。たちまち竹刀では防ぎきれなくなった翡翠は、一本を取られるわけにもいかず、肘や脇腹を犠牲に攻撃を耐え続ける。



「だから麗緒奈は大江実業に入ったの! みんなの心から冷え固まった本当の笑顔を引き出すためには、麗緒奈自身が地獄を見なきゃなんないの、内村先生の指導が必要だったの!」



 狂気だった。無声映画のように麗緒奈の言葉を聞くことがなければ、さぞ愛らしい笑顔だったろう。しかし、彼女の信念ことばは戦闘狂のような笑顔と同化して、呪詛となっている。

 翡翠は戦慄した。宮崎麗緒奈の笑顔が狂っているのではなく、彼女が笑顔に狂っているのであると気付いた時、吐き気すらもよおしそうだった。


 技は我武者羅のようで、正確さが衰える様子がない。ついに肩を打ち据えらえて場外へと倒れ込んだ翡翠は、審判がかけた「止めっ!」の号令を遠くに聞いていた。






 そういえば、合宿の最中にも似た光景があったか。

「そろそろ、バテてきたかなあ?」

 尻餅をついた自分に、七日間の中で憎らしいまでになった涼しい顔が訊ねてきた。


 彩羅がとっていた構えは『火の構え』――上段である。



『上段は火。しかして逸る火片に非ず。己が内に燃やす不退転の闘志なり。天に昇る黒煙は雲となりて、敵の心に影を差し、必殺の稲妻にてこれを屠る。人、此れを「天の構え」と云う』



 上段初披露の際に、彩羅はそう言っていた。火の構えで稲妻とはこれいかに、と思っていたが、今となっては身を以て思い知った。夜、旅館で見る私服姿の彩羅は華奢な女の子そのものであるというのに、一体どこから、こんなパワーが湧いてくるというのだろう。


 翡翠は笑みを浮かべる。なるほど、これが『心』という構えか。無作法を承知で、竹刀を杖に身体を起こす。めまぐるしく変幻する彩羅の攻めに、節々が悲鳴を上げていた。



「面白いですね、剣道って……」



 素直な感想が口をつく。紛れもない本心だった。


 鶴、蟷螂、虎。構えを芸術のように切り替えて戦う武術は、映画などでも多数見てきた。自分が学んできたムエタイにも、古くから伝わる形式の技には、象や雷神、猿王といった神聖なるものの力を借りる型が存在する。


 しかし、剣の道ほど、それぞれの構えで心の持ちようが変化するものがあるだろうか。



「もう一本、お願い……しますっ!」



 楽しかった。初めてムエタイを見た時のように、心が震えていた。



――まぁ、お前の剣風は、このいずれかに当てはめることはできないからな。


――これは翡翠ちゃんの強みなんですよ、自信を持ってください。



 先を取ることは重要だが、それだけでは十分ではないと、みんなが教えてくれた。



「……剣道も凄いですけど、ウチのムエタイだって負けないくらい凄いんですから!」



 型破り上等。すっと、鉛のようだった全身が、軽くなるのを感じた。


 彩羅は、一度上段の構えを崩し、目を瞬かせ、



「ふうん、まだ笑える力が残ってるんだあ。じゃ、その余裕も消してあげるよん」



 同じように、笑顔を咲かせてくれた。






 開始線に戻り、審判に場外の反則を与えられて頭を下げる。



「やっぱりさ、間違ってるよ」



 相手へと向き直った翡翠は、呟くように語りかけた。



「麗緒奈さんのことは凄いと思うよ? うん、ウチじゃ真似できないと思う。尊敬する」


「ふふん☆ 今更気づいたって遅いのよ」


「でもさ。恐いって気持ちに急かされた笑顔は、笑顔じゃないと思うんだ」



 そう言って、自分の信じる、向日葵のように歯を見せた笑顔を向ける。

 巷では、本当に辛い経験をしてきた人ほど、暖かく笑いかけることができるらしい。しかし、それはその人が「乗り越えたあと」だからこそなのだと、翡翠は考えていた。


 それは姉の背中から学んだ。想い人から愛想をつかされても人々を守り続け、最後に笑ってみせるヒーローを目指す背中だ。現に瑠璃というヒーローから救われたのだ。だから、姉が趣味に走る際の奇行も一切否定してこなかった。


 しかし、麗緒奈の場合は違う。彼女はまだ内村の暴力の中にいる。



「はぁ? あんた、何を言ってるの。意味わかんない」



 たじろぐ彼女に、翡翠はゆっくりと頭を振る。



「なら教えたげる。ウチの笑顔と麗緒奈さんの笑顔には、けってー的な違いがあるってこと!」


「追い詰めてるのは麗緒奈なの! その空元気の方が、よっぽど笑顔じゃないでしょうが!」



 一度仕切り直せば、互いに立った状態から試合が再開される。立ち上がりざまのバネが使えないというのに、麗緒奈は意地で足を蹴り出してきた。しかし。

 だん、と。翡翠も足を交差させるように間合いを詰める。一か八かのチキンレースだ。



「――なっ!?」



 面同士がかち合いそうになる距離で、麗緒奈は顔を仰け反らせた。翡翠の胴胸部分に引っかかった竹刀を強引に引き抜き、間合いを切ると同時に引き面を打ち込んでくる。

 しかしそれにも、翡翠は面を受け止めた後で、離れた分の間合いを一足飛びで追い詰めた。


 なお放たれる苦し紛れの小手は、腕を上げることで、小手を外れた前腕部分へと誘導する。



「なんで、なんでなんでっ!」



 自分から相手の竹刀を防具以外の場所で受けて行く翡翠に、それでも笑顔が一瞬たりとて崩れることのない様子に。麗緒奈の笑顔が、ついに引きつった。


 膝のバネなら翡翠だって負けていない。両の拳だけではなく、頭、肘、膝、足。やろうと思えば肩や背中、首から腰さえ凶器になる。それがムエタイなのだ。


 本来の剣道が真剣によるものだとか、どうでもいい。今は竹刀を耐えればいい。



「麗緒奈は、必死で耐えてきたのに。ぶたれて、叩かれて、殴られて……やっと、それでも笑っていられるようになったのに……っ!」



 半狂乱で、麗緒奈が面へと飛び込んでくる。



「お気楽そうなあんたがっ! どうしてそんなに平気な顔していられるのよぉっ!?」


「――そんなの、剣道が大好きだからに決まってんじゃん」


「……えっ?」



 翡翠は面を受けると、すれ違いざまに、肘を使って胴の横部分を打ちつける。打撃の痛みはないだろうが、衝撃は伝わる。吹き飛んでいく麗緒奈へと、狙いを定めて、



「いっくよー、『鋭牙を剥く虎スーア・プラサーン・ンガー』!」



 面を打ち込んだ。

 起き上がる前どころか、身体が着地すらしていない時点での打突に戸惑いながらも、審判は文句なしと一本を判定してくれる。


 床に倒れた麗緒奈が、肘をつきながら、苦悶に揺れる瞳で見上げてきた。



「なによ、今の……っていうか、何語」


「ムエタイといえばタイ語じゃん? 鋭牙を剥く、笑顔、無垢……へへっ、ウチのこと!」


「……ダジャレ、なのぉ?」



 晴れやかな笑顔に、彼女は、腑に落ちたような困ったような、複雑な表情で崩れ落ちる。

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